私のフィアンセ
もう一つ、年上女性にまつわる苦くて忘れられない思い出がある。
スナック「オーキッド」の蘭ママの友人、良美さん。
彼女はピンク・レディーのケイちゃんにそっくりの、息をのむような超美人だった。
以前は高級クラブに勤めていたらしいが、客で賑わうゴールデンタイムにオーキッドで一人静かに飲んでいる姿を見れば、夜の世界からは足を洗ったのだろうと推測がついた。
野暮に今の仕事を探るような真似はしない。
大事なのは、「芸能人級の美人が目の前に座っている」という紛れもない事実と、幸運なことにその夜は噂好きの常連客が誰もいないということだけだった。
絶好のチャンスに、俺は勇気を振り絞って声をかけた。
「良美さん、今度ふたりで食事でもどうですか?」
すると良美さんは、くすりと笑って俺を見た。
「拓海さん、今いくつ?」
「23歳です」
「23歳じゃねえ……」
完全に子ども扱いだった。年の差という高い壁をさらりと突きつけられた格好だ。
だが、当時の俺も簡単に諦める男ではない。何度も愚直に誘い続け、ついに根負けした彼女から「OK」の返事を取り付けたのだった。
◇
待ちに待ったデート当日。馴染みの寿司屋へ向かった。
ガラガラと引き戸を開けると、仕込みの手を止めた大将がこちらを見て目を見張った。
「おいおい拓海、今日はえらく高嶺の花を連れてきたな! どこでそんな芸能人みたいな美人と知り合ったんだよ」
カウンターの奥へ良美さんを通しながら、俺はニヤリと笑ってみせる。
「大将、めったにない機会なんだから、あんまりからかわないでくれよ」
「いやあ、驚いたね。だけど良美さん、うちの拓海は若いのに大したもんだよ。客としてのマナーが完璧に分かってんだ」
大将が良美さんに向かって俺をベタ褒めし始めた。良美さんはクスリと笑い、グラスに注がれたビールに手を伸ばす。
「ふーん、拓海さんってそんなに出来たお客様なの?」
「よしてくださいよ大将。全部、大将が俺に叩き込んでくれたことじゃないですか。大将との会話を楽しまなきゃ、わざわざ寿司屋に来てる意味がないでしょ」
俺がそう言って胸を張ると、大将は「言ったねえ!」と嬉しそうに目を細め、手際よく白身を握り始めた。
「寿司ってのはさ、ただの切り身乗せご飯じゃないんだよ」
出された握りを口に運びながら、俺は以前大将から教えてもらったウンチクを良美さんに披露した。
「大将に教わったんだが、『寿司を十貫食べるってことは、職人が趣向を凝らした十皿の料理をコースで食べるのと同じこと』なんだってさ」
「あら、十皿のフルコースねぇ。素敵な表現。じっくり味わっていただくわ」
良美さんは目元を緩め、いたずらっぽく俺をからかう。その余裕のある返しがまた、たまらなく魅力的だった。
「そういえば拓海さん、最近できた回転寿司にはもう行ったの?」
「まさか。あんなの寿司屋じゃないよ。俺はまだ一度も行ったことないし、行く気もしないな。やっぱり職人の顔を見て、会話しながら食べるのが寿司ですよ」
俺がちょっとしたこだわりを口にすると、良美さんはくすくす笑いながら言った。
「大人ぶっちゃって。食べたこともないのにバカにしてるでしょ?」
「うん、でも絶対に行かない」
(※実際に50代半ばまで行かなかった)
そんな軽口を叩きながら、寿司と酒、そして大将を交えた会話を心から楽しんだ。
◇
それから場所を変え、この街で一番有名なバーへ。
「あら、関根ちゃん。久しぶり」
「あれ? 良美さん、いらっしゃい」
なんとその店のオーナーマスターは、良美さんが以前クラブで働いていた頃の元ウエーター、関根だったのだ。
席に着くと、良美さんはこの店名物の花火が刺さった華やかなカクテルを頼み、俺はスナック「オーキッド」の常連・修さんに教わったマンハッタンを注文した。
グラスを傾けながら、他愛もない会話に花を咲かせる。
今思えば俺たちはオーキッドでの会話以外、互いのことを何も知らなかった。この時も、お互いのプライベートに関する話なんて一切していない。
しばらくして手が空いたのか、関根さんが再びカウンター越しに挨拶にやってきた。
その瞬間、良美さんは俺の肩をぐっと抱き寄せ、とんでもない嘘を口にしたのだ。
「関根ちゃん、こちら私のフィアンセなの。私、やっと結婚できそう!」
(おいおい、冗談がすぎるだろ!)
心の中で激しく焦った。だが、付き合いの長い関根なら「また良美さんの冗談か」と笑って受け流してくれるだろう……そう高を括っていたのだ。
しかし、事態は思わぬ方向へ転がる。
マスターの関根が恭しく運んできたのは――「ご結婚おめでとうございます」と書かれた、華やかなお祝いのケーキだった。
店の完璧な気遣いと、良美さんの悪戯っぽい微笑み。
状況を否定することもできず、ただ引きつった笑顔でケーキを見つめる23歳の俺。その頬に、彼女はそっと唇を寄せた。
「ふふ、おめでとう」
◇
店を出た後、俺たちは吸い寄せられるようにホテルへ向かった。
気取った大人のデートは、甘いケーキの味と気まずさ、そして熱い一夜の記憶を交ぜ合わせたまま幕を閉じた。
事が終わった後、ベッドの中で彼女は俺の耳元に唇を寄せ、吐息混じりに囁いた。
「これ、ご褒美よ」
――23歳の青二才だった俺には、その言葉の本当の意味を理解することはできなかった。
ただ、大人の女性が魅せた一瞬の悪戯と優しさに、完全に骨抜きにされていたことだけは確かだ。
もちろん、あのバーには二度と足を踏み入れられなくなったのだが。




