年上の女
今回は類と力の話。これは、現場にいたわけでないので脚色して話していただろうけど、聞いたまま話していこう。
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話は今から四十一年も昔、俺達がまだ社会の右も左も分からぬ新入社員だった1985年(昭和60年)に遡る。小林明子の『恋に落ちて』が街中に流れていた頃だ。
当時の俺は、居酒屋のカウンターで三十代の艶やかな女性を見つけては、鼻の下を限界まで伸ばして声をかけていた。
同期の類や力からは「また始まったよ……」「懲りない奴だなあ」と呆れ返られていたものだ。
俺の頭の中はいつだって、大人の女性とどうにかして甘い夜を過ごしたいというスケベ心でいっぱいだった。
だが、そんな冷ややかな視線を送っていた類だって、実は年上女性とかなり甘い思いをしたことがあるらしい。
あれは類がバーのカウンターで一人、静かにグラスを傾けていた夜のことらしい。
類ほどのイケメンともなれば、俺のように必死で声を張り上げる必要すらない。黙ってグラスを傾けているだけで、向こうから勝手に綺麗な女性が吸い寄せられてくる。
その夜の相手も、しっとりと落ち着いた雰囲気を纏う人妻だったそうだ。旦那は夜勤だという。
夜が更けるにつれ、グラスの数とともに二人の距離も縮まっていく。そして、女性はおもむろに尋ねてきたそうだ。
「ねえ、この後の予定は?」
「あ、いや……明日の仕事があるんで、そろそろ……」
類が照れくさそうに濁すと、女性はクスリと笑ってこう返したという。
「まあ。明日の朝まで空いているのね」
男なら誰もが耳を疑い、そして歓喜する魔法のフレーズ。そのまま二人は、大人の一夜を過ごしたのだそうだ。
◆
そんな奇跡のような話を聞かされて、黙っていられる俺達ではない。
「二匹目のドジョウは、必ず同じ穴に潜んでいるはずだ」
膨らみきるだけ膨らんだ下心と期待を胸に、力は類がその女性と出会ったというバーの扉を叩いた。
店内に入ると、ジャズが低く流れる薄暗いカウンターの客は疎らだった。そして――いたのだ。
まるで当時大ヒットしていたドラマ『金曜日の妻たちへ』に出てくる女優さんのような、品のある綺麗な女性が一人、ぽつんと座っていた。
洗練された髪型に、どこか影のある美しさ。力のスケベ心は一気に最高潮へ達した。
当然、力には類のような顔面偏差値はない。こちらから果敢に攻めるしかないのだ。
力は彼女の隣の隣の席に自然を装って腰掛け、意を決して声をかけた。
「お姉さん、綺麗なカクテルですね。一人で飲んでるんですか?」
露骨に鼻の下を伸ばしながら、なんとか下心を隠そうと必死に話しかける力。
最初は警戒していた彼女だったが、力のあまりに分かりやすいアタックに毒気を抜かれたのか、次第にふっと笑みをこぼすようになった。
仕事のこと、街の流行りのこと。酒が進み会話も弾んだ頃、力の頭の中でファンファーレが鳴り響いた。
ついに、あの憧れのセリフがやってきたのだ。
「ねえ、この後の予定は……?」
心臓が高鳴る。脳内で「勝った!」と叫びながら、力はあらかじめ予習していたフレーズを口にした。
「あ、明日の仕事があるんで、そろそろ……」
「まあ。明日の朝まで空いているのね」
キタ! まったく同じだ! 類から聞いていた「合言葉」が、今、力の目の前で完璧に再現されたのだ!
そのままホテルへ直行……としてもよかったのだが、力はもう少しムードを作ってからカッコよく決めたいという妙な色気を出してしまった。
「よし、じゃあ精力をつけるために、まずは焼肉屋に行こう!」
「え……焼肉?」
彼女は驚いた顔をしたが、力は鼻息荒く彼女の手を取り、店を後にした。
◆
煙の煙る焼肉屋で、お酒と美味しい肉、そして力の軽い冗談に緊張がほぐれたのか、彼女はぽつりぽつりと自分のことを話し始めた。
夜勤が多くてすれ違いばかりの夫のこと。広い家で一人、静かに酒を飲む夜の寂しさのこと。本当は誰かに優しく話を聞いてほしかったこと。
「私ね、今夜はなんだか寂しくて……誰でもいいから、一緒にいてほしかったの」
彼女の瞳に少しだけ涙が滲んだのを見た瞬間、力の頭を満たしていたギラギラした下心は、潮が引くようにスッと消えていった。
あんなに鼻の下を伸ばして「朝まで楽しんでやるぞ」と意気込んでいたはずなのに、目の前の彼女の切ない表情を見たら、急に「この人を傷つけちゃいけない」「大切にしてあげたい」という気持ちが勝ってしまったのだ。
力は肉を焼く手を止め、静かに彼女の話に耳を傾けた。
下心満々のスケベ男から、一転して「聞き上手な優しい弟分」になってしまった力。彼女はたくさん話し、たくさん肉を食べ、最後にはとても晴れやかな笑顔を見せてくれた。
夜が明ける少し前、店を出ると涼しい風が吹き抜けた。
「力くん、今日は本当にありがとう。すごく楽しかったし、お腹も心もいっぱいになっちゃった」
彼女はそう言うと、力にフレンチキスをして、迎えのタクシーへと乗り込んだ。
「じゃあね、優しい力くん」
去っていくタクシーのリアランプを見送りながら、力は一人、夜の街に取り残された。
「……あれ? 俺、合言葉まで聞いて焼肉屋まで行ったのに、結局キスだけか……?」
下心満々で挑んだはずなのに、根にある「お人好しさ」のせいで、ただの最高の紳士として彼女を送り出してしまったのだ。
翌日、類と俺にこの話をすると、類が笑いながら突っ込んだ。
「嘘つけ! 本当は最後まで行ったんだろ! この、間男」
「お前には言われたくないよ!」
力が必死に反論し、俺たちは全員で腹を抱えて爆笑した。
◆◆◆
あれから四十一年。
六十四歳になった今でも、俺は相変わらず街の綺麗な女性を見ては鼻の下を伸ばしている。
周囲からは「いくつになってもスケベなオヤジだ」と呆れられているが、俺自身は知っているのだ。
今では分かる。力があの時とった行動は、いざとなれば女性を傷つけることもできず、大切にもてなしてしまう不器用な優しさの裏返しなのだということを。
「まあ、俺だったら……焼肉のあとも、もう少しスマートに大人のエスコートができていただろうけど」
そんな淡い妄想を胸に抱きつつ、俺は今日も静かにグラスを傾け、あの頃出会った美しい女性達と、青春のほろ苦い「魔法の合言葉」に思いを馳せている。
……あ、ちなみに。
あの時「熟した大人の女性」だと思っていた彼女も、64歳になった今の俺からすれば、2回り以上年下なんだけどね!




