土鍋の蓋
今となっては絶対に再現できない、昭和の宴会が残した最大の伝説がある。
1985年の冬。当時23歳だった俺・宮本拓海は、忘年会の熱気と酒にすっかり酔いしれていた。
ふと目の前に置かれた、土鍋の蓋。
酔った眼孔には、その丸いフォルムがまるで「巨大な盃」のように映っていたのかもしれない。
土鍋の蓋というやつは、宴会芸のアイテムとしては完璧すぎる構造をしている。
蒸気を抜くための穴が空いているため、一度酒を注がれたら最後、飲み干して置くまでは絶対に指で穴を塞ぎ続けなければならない。
逃げ場のない究極の盃だ。
前々回の「焼きそばの大皿」もなかなかだったが、今回のターゲットは格が違った。
何を思い立ったか、俺はいきなり声を張り上げた。
「新人芸します!」
威勢よく舞台に上がると、土鍋の蓋を両手で掲げてみせる。
「皆さん、ここに酒を注いでください!」
会場の熱気が一気に集まり、次々と徳利から酒が注ぎ込まれていく。
見る見るうちに、土鍋の蓋はなみなみと注がれた日本酒で満たされた。
「よし!」
腹を括った俺は、一気にそれを飲み干してみせた。
拍手喝采、大成功——となるはずだった。
しかし、酔客たちの興奮は俺の予想を遥かに超える事態を引き起こす。
「もう1杯! もう1杯!」
宴会場を揺るがす、怒涛のアンコール。
引くに引けない空気の中、俺は意を決して2杯目の土鍋の蓋を受け入れた。
……その後。
幸いにも完全に潰れて倒れることこそなかったものの、俺の記憶はそこから丸2時間ほど綺麗に吹き飛ぶことになる。
◆
限界突破の一気をかました2時間後。
気がつくと、俺は洋風居酒屋「クローバー」の店内にいた。
周りを見渡せば、職場の仲間たちの顔がある。
だが、何かが決定的におかしかった。
テーブルには、まったく見覚えのない女の子たちも一緒に座っているのだ。
しかも、そのうちの1人は俺のすぐ隣に座っている。
お世辞にも自分のタイプとは言えないような、地味な雰囲気の娘たちだ。
シチュエーションからして忘年会の二次会であることは間違いないのだが、一体どうしてこうなっているのか、状況がまったく飲み込めない。
(俺……土鍋の蓋で酒飲んだあと、何したんだ……?)
混乱する頭を抱えていると、幸運にも俺の隣に座っていた娘がトイレのために席を立った。
千載一遇のチャンスとばかりに、俺はすささっと体を寄せ、隣の隣に座っていた先輩の袖を引っ張ってこっそり耳打ちした。
「先輩……この娘たち、誰ですか?」
すると先輩は、呆れ果てたような、どこか面白がるような顔で俺を見てこう言った。
「お前がこの店の前でナンパした女の子たちだよ」
やっぱり。いやな予感が当たった。
俺は一気に血の気が引いた。意識が飛んでいてもナンパする俺の業の深さよ。
そこへ、トイレに行っていた隣の娘が席に戻ってきた。
そして、もう一人の女の子と話し始めている。
……いや、よく見ると様子がおかしい。
もう一人の女の子(友達)は、あからさまに不機嫌な顔で、どこか遠くを睨みつけているのだ。
(待て待て、あの殺伐とした空気はなんだ……?)
焦った俺は、再び先輩にコソコソと尋ねる。
「先輩、あの……もう一人の女の子、めちゃくちゃ怒ってません?」
「当たり前だろ」と先輩が吹き出した。
「お前、さっき店に入ってきた瞬間、あの怒ってる子に向かって『うわ〜、お姉さん、なんかすごく地味だね!』とか何とか、とんでもねえ暴言吐いたんだぞ。覚えてねえのかよ」
「……っ!?」 あり得る!
冷や汗がドッと吹き出す。
最低だ。記憶がないとはいえ、完全にアウトな暴言酔っ払いじゃないか!
その時だった。
俺たちのテーブルに、一次会から一緒に移動してきた別の先輩が「お待たせしました〜」と飲み物を持って戻ってきた。
すると、俺の暴言にブチギレていた女の子が、助けを求めるような目でその先輩を見上げ、すっと身体を寄せたのだ。
「ねえ、そっちの人怖すぎるんだけど……お兄さん、隣座って話そうよ」
先輩は「えっ、あ、はい!」と戸惑いながらもその子の隣に座り、恐る恐る会話を始め……そこから、信じられない光景が目の前で繰り広げられ始めた。
気まずい空気になるかと思いきや、失礼な俺という「共通の敵」がいたおかげか、先輩とその女の子は一瞬で意気投合。趣味の話から仕事の話まで、まるで昔からの知り合いみたいにめちゃくちゃ楽しそうに盛り上がり始めたのだ。
俺と隣の娘が呆然とそれを見つめている間にも、二人の距離はどんどん縮まっていく。
(……あれ? なんかめちゃくちゃいい雰囲気になってないか……?)
◆
——それから時は流れて。
あの夜、目の前で繰り広げられた奇跡の展開を経て、なんとその時先輩と意気投合した女の子は、そのまま先輩と結婚した。
「見たか! 出会いから付き合うきっかけまで、全部俺が作ったようなもんだろ! 俺のおかげで一組の夫婦が生まれたんだ。俺は完全に二人の『恋のキューピッド』だよ!」
現在、俺は自慢げに胸を張り、ウイスキーのグラスを傾けながら当時の仲間たちに語っている。
「……出会いのきっかけを作ったのは確かだけどさ。それ、拓海がただ失礼な酔っ払いとして嫌われ役に徹したおかげだよね?」
「そうそう! トスを上げたっていうより、お前が自爆した火消しで二人がくっついただけじゃねえか!」
「いやいや! 結果オーライですよ! 俺の犠牲があったからこそのハッピーエンドなんだから!」
「はいはい、お疲れ様。恋のキューピッド(中身はただの最低な酔っ払い)くん」
と言う声が聞こえてきそうだ。
◆
後日、あの宴会場にあったものと同等サイズの土鍋の蓋に水を張り、容量を測ってみたことがある。
……一升(約1.8リットル)。
つまり俺はあの日、あの一瞬で二升(約3.6リットル)の酒を土鍋の蓋で飲み干していたのだ。
土鍋の蓋で二升を飲み干し、記憶を失い、自爆ナンパと暴言で最悪の嫌われ役を買い、結果として先輩に一生の伴侶をプレゼントする——。
23歳の俺・宮本拓海が刻んだ、もう二度と再現できない1985年・冬の、最高にバカで愛おしい豪快伝説である。
ちなみに……あれ以来、社内での俺への「一気!」コールは、なぜか「もったいない!」に変わってしまった。




