5 君は、一体何を見た?
先ほどまでの華やかな音楽が嘘のように、別室へと続く廊下は、しんと静まり返っていた。
窓の外では衛兵たちが慌ただしく走り回り、王宮内にも緊張が広がっている。
ルミナリア王国の王太子、レオンハルトは歩みを止めることなく思考を巡らせていた。
(矢は確実に、婚約者候補第一位の令嬢を狙っていた)
おそらく偶然ではない。会場の配置、射線、無駄のない逃走経路……すべてが計算されている。
(だが……あちら側の計算を狂わせた人物が一人いる。それがリリアーナ・エメリア・ローゼンベルク。あの令嬢だけが、矢が放たれるより先に危険を察知していた。いや……正確には、何かを見ていた)
レオンハルトは、別室の扉の前で足を止めた。静かに扉を開く。
部屋には避難した令嬢たちが集まっていた。恐怖で震える者や涙を浮かべる者、小声で先ほどの出来事を話し合う者。
だが、その中で一人だけ――
壁に掛けられた大きな世界地図を、じっと見つめている令嬢がいた。
それは……リリアーナだった。
恐怖に震えるわけでもなく、誰かと話すでもなく、ただ静かに世界地図を見つめている。
(こんな時に、地図を見ている?)
レオンハルトは思わず足を止めた。
その瞬間だった。
リリアーナがふと後ろを振り返る。
「えっ? レオンハルト殿下?」
二人の視線が静かに重なった。
レオンハルトはリリアーナに声をかけた。
「リリアーナ嬢、先ほどのことで少し聞きたいことがある。時間をもらえるだろうか?」
すると、部屋の空気が少し変わる。
「あれ?」
「まさかレオンハルト殿下が?」
「レオンハルト殿下自ら令嬢に声を掛けるなんて……」
小さな囁きが令嬢たちの間を駆け抜ける。
ルークも少しだけ目を丸くした。
(殿下から女性へ話しかけるなんて……初めてでは? 今夜は初めてのことばかりだ)
そんな周囲のざわめきなど、レオンハルトとリリアーナの二人にはまるで届いていなかった。
レオンハルトは静かに問いかける。
「リリアーナ嬢」
「先ほど君は……何を見た?」
リリアーナも、その質問の意図は理解していた。
だが、今日初めて会ったレオンハルトに、全てを話しても大丈夫なのかという懸念もある。
だから、本題に入る前に世間話をして、レオンハルトが信頼できる人物かどうかを判断しようと考えた。
リリアーナは、レオンハルトに思い切って聞いてみる。
「……その前に、殿下。一つだけお聞きしてもよろしいでしょうか?」
「何だ?」
レオンハルトはリリアーナの隣に立ち、二人で世界地図に目を向けた。
「君は、地図に興味があるのか?」
世界地図には、我が国ルミナリア王国の他に三つの国が描かれている。
「はい、とても興味があります。この四つの国は、現在は均衡を保つように外交や戦力が調整されているのですね?」
レオンハルトは内心驚く。
「……知っているのか」
「いいえ、推測です。我が国ルミナリア王国と、百年前に停戦合意を結んだノクティス帝国。そして、我が国の友好国である自然豊かなシルヴェリア共和国。海洋貿易で栄え、『海の国』とも呼ばれるアクエリア公国。この四つが、現在大きな力を持つ国々なのかなと」
「……百二十年前のノクティス帝国の独立戦争は知っているか?」
どうやらレオンハルトは、真摯に答えてくれるようだ。
「はい。百二十年前、ルミナリア王国から独立するために一部の人が暴徒化し、戦争が起こりました。それは、花文字の力を軍事利用するかどうかで意見が割れ、それぞれに正義があり、色々な思惑があったと聞いています。ただ……その権力闘争に、国家が巻き込まれたという方が正しいのかもしれないと、私は思います」
リリアーナは自身の見解を告げる。
(王族のレオンハルト殿下に対して、自分の見解など話してはいけなかったかしら?)
リリアーナは少しハラハラしたが、レオンハルトはさほど気にしていないようだ。
「確かに、そのような見解を記した書籍もある。どれが本当の真実かは分からないが……百年前までは、ルミナリア王国と現ノクティス帝国は一つの国だった。しかし、現在は花文字を武力行使に使わない陽派のルミナリアと、武力行使に積極的に使う陰派のノクティス帝国に分かれた。今でも、両国には同じ王家の血が流れている。隣国のシルヴェリア共和国や、港が栄えて情報も多く入るアクエリア公国とは、我が国ルミナリア王国は良好な関係を築いてきた。ノクティス帝国とも、停戦から現在まではパワーバランスが取れている状態だ」
(ノクティスとはパワーバランスは取れているけれど……シルヴェリアやアクエリアとは違って、関係が良好とまでは言えないのね)
リリアーナは内心でそう思う。
「今日、お友達になったエマからもシルヴェリア共和国のお話を聞きました! 自然豊かで精霊もいるとか。青い花が咲く地方もあるみたいですよ。いつか私も行ってみたいなと、そんな話をソフィアも交えてしていたんです」
レオンハルトはリリアーナがなぜ、四つの国の話を持ち出してきたのか、何となく予想ができていた。だからこそ、レオンハルトも話を続けた。
「四つの国が均衡を保っているから……今の平和がある」
リリアーナが呟くように言う。
「もしその均衡が崩れたら……?」
レオンハルトはふうっとため息をつく。
「それは……考えたくもない話だな」
リリアーナとの会話のやり取りの中で、レオンハルトは事態が想像以上に深刻かもしれないと推察した。
(もしかして……国家間の緊急事態なのか? リリアーナはそれを暗に伝えようとしている?)
レオンハルトが一人思案していると、リリアーナは今度は、地図の隣にある英雄画に意識を向けている。
百二十年前の英雄画だ。
騎士と花文字師たちが共に戦っている様子が描かれている。
リリアーナも、自分のような花文字師たちが戦場で戦ったことを、本で読んだり、父から教わったことがある。
その絵に描かれた一人の男性に、リリアーナはなぜか親近感を覚えた。思わず足を止め、じっとその顔を見つめる。
(私の知っている誰かに似ている気がする……でも、誰なのかは分からないわ)
頃合いを見て、レオンハルトがリリアーナに声をかける。
「……リリアーナ嬢、本題に戻る」
レオンハルトはリリアーナをまっすぐ見つめる。
「君は……どうして危険に気付いたんだ?」
リリアーナは少し迷う。
だが……今までの会話で、レオンハルトはリリアーナが伝えたいことを上手く汲み取ってくれているようにも感じた。
だから、リリアーナは、レオンハルトを少しだけ信用し、今話せることだけを伝えることにした。
「信じて頂けないとは思いますが……レオンハルト殿下の胸元にあるサファイアのブローチが、襲撃前に危険を教えてくれたんです。一瞬、サファイアが揺らめいた気がして……」
レオンハルトは一瞬、目を見開く。
「……サファイアが反応したから、予見できたと?」
「……はい。サファイアの力をレオンハルト殿下はご存知でしょうか? サファイアには『真実を見抜く力』があると言われています。だから、今回も何か不穏な出来事を察知して、私に知らせてくれたのではないかと思っています」
「そういえば、リリアーナ嬢は花文字師だったな。花文字師は、紙に書いた花文字のエネルギーを石や物に転写できると聞いたことがある。君は、石の効果や役割にも詳しいのだろう? それに、気に入った石がどこの鉱山で採れたものなのか、知りたがるほど興味があるようだな。……君が、目の前の王太子よりも、胸元のサファイアに興味を持った理由が、今よく分かった」
「ーーっ!」
リリアーナは恥ずかしくなって言葉に詰まる。
だが、正直にレオンハルトに話す。
「……お恥ずかしいですが、その通りです。花文字の研鑽に加え、石の効果や、その効果を最大限に発揮できる花文字の研究などもしているので、石についてもついつい熱くなってしまうのです。私がどうして石の話ばかりしてしまうのか、お分かりいただけましたか?」
リリアーナは、はにかむように少しユーモアを交えて素直に告白した。王太子であるレオンハルトに興味があるのではなく、あくまで石に興味があるのだということを。
しかし、サファイアが反応したのは、この国では使うことが禁じられている陰の花文字であったこと。そして、サファイアに残された花文字のエネルギーから、リリアーナは犯人の痕跡を掴もうとしていることを、レオンハルトにはまだ伝えずにいた。
誰かが陰の花文字を使い、未来の王太子妃となる可能性のある令嬢を暗殺しようとしたという事実。
レオンハルトにそれを伝えれば、ノクティス帝国と戦争になる可能性だって大いにある。
(陰の花文字については、レオンハルト殿下に折を見て話そう)
リリアーナは一人、頭の中で考える。
レオンハルトは冷静沈着で、頭も切れるようだ。リリアーナの話を信じてはいるものの、完全には納得していない。きっと、まだ何かを隠していることにも気づいているだろう。
「まずは、リリアーナ嬢の話を信じよう。本日は皆一旦解散とする。リリアーナ嬢には、明日の朝、再度王宮に来てもらおう」
「かしこまりました。それでは、明日改めて王宮へ伺わせていただきます」
(この令嬢にはまだ何かある……。その秘密が、我が国にとって助けとなるものなのか、それとも脅威になるものなのか……今はまだ分からない。だからこそ、もっと知る必要がある)
今日もかなり慌ただしい一日だったが、レオンハルトはまだ知らない。
これから、自分が偽りの恋人を演じることになり、今日よりもさらに慌ただしい日々が待っていることを。




