4 不穏な気配
レオンハルトと令嬢の一人一人の形式的な会話が終わり、自由歓談が始まると、先ほどまで張り詰めていた空気は少しずつ和らいでいった。
笑い声が重なり、グラスの触れ合う軽やかな音が心地よく響く。
令嬢たちの色鮮やかなドレスが揺れ、音楽隊が奏でる優しい旋律が会場を包み込んでいた。
婚約者候補の令嬢たちは思い思いに会話を楽しみ、この場が未来へ続く穏やかな一日になると、誰もが信じていた。
……ある人物を除いては。
会場の隅から、静かに七人の令嬢を観察している者がいる。
誰とも目を合わせない。誰にも存在を覚えられない。まるで影のように動く人物。
その人物の視線は、一人の令嬢を静かに捉えていた。
「……あれが、婚約者候補第一位のご令嬢か」
そう小さく呟く。
何かを握った指先に力を込め、微かに笑ったように見えた。
「絶好の機会だ」
その人物は、獲物を狙うかのように、婚約者候補第一位の令嬢を見据えていた。
◇◇◇
一方、その頃――
リリアーナは、相変わらずエマの話に夢中だった。
「……それでね、シルヴェリア共和国では森の奥に青い花だけが咲く場所があるの」
「青い花!?」
「もう、リリアーナ。食いつくところがそこなのね」
ソフィアが苦笑する。
「もちろんよ!」
リリアーナの綺麗なエメラルドグリーンの瞳がきらりと輝く。
「どんな土壌なのかしら。鉱石との関係もあるのかな」
「……やっぱりリリアーナは変わってるわ。そこが魅力なんだけれど」
「だって私は、レオンハルト殿下の婚約者になるよりも、花文字と石の研究に没頭したいの!」
「この場で、そんなことを言ってのけるあなたはすごいわ。私も本当は……婚約者なんて望んでいないのだけれどね」
「エマだって言ってるじゃない! もう私のことばかり笑わないで」
エマも、婚約者に本気でなりたいと思っているわけではないらしい。ソフィアも、もし選ばれたら覚悟はしているものの、自分から望んでいるわけではないと聞いていた。
三人とも事情はそれぞれ違うが、婚約者になることを積極的には望んでいない点では同じだった。そんな共通点もあって、三人は短い時間のうちに打ち解けていった。三人の笑い声が音楽に溶けていき、あれほど憂鬱だったひとときが、いつの間にか楽しいものへと変わっていた。
だからリリアーナも、こんな素敵な日が、この後すぐに不穏な一日に一変するとは想像していなかった。
リリアーナは、エマとソフィアと楽しく話しすぎて、喉がカラカラになる。
左手に持っているグラスをゴクリと飲み干そうとした瞬間――
ふと、リリアーナの視線がレオンハルトの胸元にあるサファイアのブローチへ向いた。
その石が、ほんの一瞬だけ青白く不気味に揺らめいたように見えた。
リリアーナはその場にそぐわない険しい表情を浮かべ、眉をひそめた。
(――えっ? 今、光った?)
一瞬、リリアーナの錯覚かと思った。
けれど、胸の奥が何かざわつく。
まるで、石が何かを知らせようとしているようだ。
直後、二階のカーテン裏に黒い影。そして、ギラリと光る何かを見た気がした。
リリアーナが咄嗟に叫ぶ。
「みなさん、伏せてください!!」
叫びながら、リリアーナはレオンハルトの方を一瞬見やった。
レオンハルトもリリアーナの声に反応し、反射的に近くにいた婚約者候補第一位の令嬢を、庇うように引き寄せた。
次の瞬間――
ヒュッ!!
一本の鋭い矢が飛んでくる。
「――きゃああああっ!!」
甲高い悲鳴が会場中へ響き渡る。
――ガシャンッ!
グラスが割れる音が響く。
矢が飛んできたことに気づいた人々が、遅れて一斉に身を伏せていく。
ほんの数分前まで、穏やかな時間が流れていた会場が、今は大きな混乱の渦に巻き込まれている。
幸い、レオンハルトの咄嗟の行動のおかげで、矢は誰にも当たらず、柱に突き刺さっていた。
矢が刺さっていた場所――
そこは、レオンハルトの婚約者候補第一位の令嬢がいた場所だったのだ。
レオンハルトは矢が放たれた方向を見定めるように、周囲を見渡した。
「ルーク、二階の突き当たりに衛兵を! 敵がいたと思われる場所だ」
「かしこまりました」
ルークはすぐさま衛兵たちへ指示を飛ばした。
レオンハルトは令嬢たちを別室に避難させるよう指示を出し、自身は柱に突き刺さった矢を観察した。
(……何か細工がしてある。矢に毒を塗っているのか?)
犯人の正体は分からない。それでもレオンハルトは、これから何かが起こるという胸騒ぎを覚えていた。
しばらくすると、ルークがレオンハルトの元に戻ってきた。
「殿下、大変申し訳ありません。犯人と思しき人物を取り逃がしました。一人の衛兵が姿を見たと話していましたが、黒い外套に身を包んでいて、顔なども分からなかったと」
「分かった。今回の件は、用意周到な計画の可能性が高い。犯人がいた場所に痕跡がないか、再度確認してくれ。落ちているものや何か手がかりがないか……何でもいい、情報が欲しい」
「かしこまりました」
ルークも努めて平静に返事をした。
ルークが再び去った後、レオンハルトは考えを巡らせた。
(令嬢たちに怪我がなかったのは幸いだ。だが、犯人はなぜ俺ではなく、婚約者候補を狙った?)
(それに、リリアーナ嬢の声がなければ、俺は矢の存在に気づけなかった。彼女は標的となった令嬢だけでなく、床や窓、人の流れ、そして俺のサファイアのブローチを見ていたようだった。……彼女は、この場の異変をいち早く察知していたのか? それとも――もっと先を予見していたのか?)
(いち早く異変に気づいたリリアーナ嬢。俺と関わる気はあまりないようだが、話を聞かないわけにはいかない。直接、彼女に真相を確かめる)
そう決めると、レオンハルトはリリアーナのいる別室へと足を速めた。




