21 遠い記憶と新たな事件の始まり
二人で治療室に入る。
すると、治療室付きの侍女から、専門の医師がまもなく到着すると告げられた。
リリアーナは、レオンハルトの肩の傷口を改めてまじまじと見つめる。
それほど深い傷ではなさそうだ。
すでに固まり始めていた血を水で洗い流し、簡単な応急処置を施してから、医師が来るのを待つことにした。
ガーゼを当て、包帯を軽く巻いたあと、リリアーナは花文字を描き、静かに唱える。
左手には、レオンハルトから贈られたサファイアのペンダントがあった。
「陽花文字――『癒』」
石にエネルギーを転写し、ペンダントごとレオンハルトの肩の傷口にそっと当てる。
「痛みはどうですか?」
「大丈夫だ」
「殿下の『大丈夫』は信用できません」
リリアーナは、心配そうに彼の顔を見上げた。
(負傷したときでさえ、大丈夫だとおっしゃっていたもの。サファイアの癒しの力が効いているのかどうかも、これでは分からないけれど……)
それでも、少しでも痛みを和らげたい。
リリアーナは石に想いを託し、傷口にそっと手を当て続けた。
「レオンハルト殿下……」
「なんだ?」
「今日は、殿下がとても怖かったです」
「……」
「私は敵よりも、殿下の戦い方のほうが、とても怖かったです」
レオンハルトは、何も答えなかった。
「殿下。これからは、生きることを前提に戦ってください。殿下がいなくなったら、私は悲しいです。殿下は国を守るお方です。ですが……殿下のことを大切に思う人がたくさんいることも、どうか忘れないでください」
リリアーナは、レオンハルトの心に届くように、ゆっくりと言葉を紡いだ。
その言葉に、レオンハルトは一瞬、目を見開く。
幼い日の記憶が、脳裏をかすめた。
泣いていた幼い自分。
そして、その隣には、自分よりも小さな、金髪を短く切りそろえた子どもがいた。
その子どもが、かつて自分に言ってくれた言葉がよみがえる。
『泣いてもいいよ。でも、生きていてね。君が死んだら悲しい。君のことが大切だよって言ってくれる人は、これからいっぱい出てくるよ』
金髪の子どもの顔は、思い出せない。
名前も分からない。
それでも、その言葉だけは、今も心の奥に残っていた。
そして今、リリアーナもまた、同じようなことを言ってくれた。
「昔、幼い頃にも、同じことを誰かに言われたような……」
「えっ?」
「いや、なんでもない」
(俺は、あのときの子どもの言葉を、どこかで信じていたのか……)
同じような言葉を、もう一度聞けるとは思っていなかった。
(俺はまだ、生きていていいと言われている気がするな)
レオンハルトは、ようやく生きることの意味が少し分かったような気がした。
◇◇◇
治療を終えたレオンハルトとともに、リリアーナも捕らえた敵二人のもとへ向かった。
ルークやエリオットによる尋問は、すでに終わっていた。
「やはり、二人とも『覚えていない』の一点張りです。先日の王宮侍女、ミリアと同じ状態だと思われます」
尋問場所にいたエリオットが、二人のもとへ歩み寄る。
彼の話によると、二人にまとわりついていた黒い花文字は、エリオットが近づいた途端、ふっと消えたという。
二人の洗脳状態のようなものは解けたものの、なぜこのようなことをしたのか、まったく覚えていない様子だった。
「……また、記憶を封じられているな」
レオンハルトが低く呟いた。
そして、周囲の者たちに告げる。
「敵の襲撃は、まだ終わっていない。さらに気を引き締めるように」
その場にいた誰もが、危機感を感じていた。
◇◇◇
一方その頃――。
誰もいない暗い部屋で、黒い石を撫でる男が呟いた。
「予定通りだ」
男の指先が、石の表面をゆっくりとなぞる。
「次は……あの花文字師を迎えに行こう」
◇◇◇
夜から明け方まで続いた戦い。その後の治療や尋問に追われ、気づけば、あっという間に日が沈む時間になっていた。
休む間もなく、レオンハルトはその日の夕方も、盗まれた書類に関する資料を広げていた。
何か敵につながるものはないか。
いったい、何を目的としてこれらの書類を盗んだのか。
レオンハルトは、記載された情報を一つずつ頭の中で整理していく。
(王宮の一般見取り図があれば、おおよその場所が分かる。職員の名簿と勤務表があれば、この時間帯に誰がどこにいるのかも分かる……)
さらに、使用人通路の地図があれば、どの通路を誰が使うのかも推測できる。勤務表と照らし合わせれば、行動する時間帯まで把握できるだろう。
レオンハルトは、嫌な胸騒ぎを覚えた。
(王宮地下書庫の出入り記録まで盗んだということは、ここに出入りする者の行動を知りたかったのか?)
王宮地下書庫に出入りできるのは、国王とレオンハルト、そして王宮直属花文字師の三人。
国王が訪れることは滅多にない。
レオンハルトと、花文字師のエリオットとセシルも出入りするが、今は他の仕事で手いっぱいで、訪れる回数は少ない。
(そうなると……)
嫌な予感が、最悪の確信へと変わっていく。
(犯人の目的は、国家機密でも王宮でもない……。目的は、リリアーナだ!)
「ルーク! 敵の目的はリリアーナだ! 今すぐ、リリアーナの所在を調べろ!」
「はい、殿下!」
すぐに事の重大さを察したルークは、走り出し、騎士団へ指示を出した。
◇◇◇
一方、その頃のリリアーナは――。
戦いがひと段落し、ようやく自由に動けるようになっていた。
少しでも事件解決に役立つ情報を得ようと、リリアーナは黄昏時の王宮の廊下を歩いていた。
向かう先は、王宮地下書庫。
その背後に、黒い影がひっそりとついてきていることにも気づかずに。
「……見つけた。陽の花文字師、リリアーナ」
黒い花文字が、まるで影そのもののように床を這い、リリアーナへと静かに迫っていく。
「――っ!」
突然、背後から殺気を感じたリリアーナは、ハッと振り返った。
そして、すぐに花文字を唱えようとする。
「陽花文字――んっ……!」
何者かに口元を塞がれ、最後まで唱えることができない。
陽花文字を発動できず、リリアーナは必死に手足をばたつかせて抵抗する。
しかし……
その抵抗もむなしく、彼女の視界はゆっくりと闇に閉ざされていった。
意識を手放す直前――。
胸元で揺れていたサファイアのペンダントが、まるで持ち主の危機を察したかのように、かすかな光を放っていた。




