2 私に見覚えがおありですか?
リリアーナは、王宮の豪華な会場にポツリと一人佇んでいる。
指先が少し冷たくなっている。
自分が柄にもなく緊張しているのだと、今更ながら気づく。
会場には、既にリリアーナ以外の婚約者候補の令嬢たちが集まっているのが見えた。
リリアーナは、自分が婚約者候補に選ばれたのは、父の影響が大きいのだろうと思っていた。
リリアーナはローゼンベルク公爵家の令嬢であり、同家は代々王家を支えてきた名門である。
父のアレクシスは王宮の重臣の一人で、現在も主に外交部門で活躍している。
他国へ赴くことも多く、幼い頃から長期間家を空けることもあった。
家柄だけを見ても、リリアーナは婚約者候補として申し分ない。
もちろん、選ばれた理由はそれだけではない。
王立花文字師試験で歴代トップレベルの成績を収めた実力も認められていたのだが、当の本人はそのことを知らずにいた。
緊張感あふれる場の雰囲気に耐えきれず、壁際に移動し様子を観察していると、
顔馴染みの令嬢が、いつもの笑顔でこちらに近づいてくる。
いつもリリアーナを笑顔で迎え、安心を与えてくれる令嬢、ソフィアだ。
リリアーナの幼馴染であり、気兼ねなく話せる唯一の親友である。
ソフィアはアーデン侯爵家の令嬢で、父は王宮で宮廷財務長官を務めている。
家柄もいいが、それだけではない。
ソフィアは教養が高く、リリアーナとは違って礼儀作法は完璧、そして社交界でもおっとりした優しい雰囲気だと評判で、とても人気がある。
だから、『理想の王太子妃』だなんて社交界でも言われているほどだ。
リリアーナを見るなり、ソフィアは笑顔で話しかけてくる。
「リリアーナ! 来ていたのね」
「ソフィア! あなたに会えてよかったわ。こんな場違いな場所にいて、どうしようかと思っていたの」
リリアーナは少し緊張が緩み、ソフィアに笑顔を向ける。
「ふふっ。いつもあなたは石の研究発表会とか、花文字の勉強会とかこの場所とは全く違う雰囲気の、討論を交わす賑やかな場所にいるものね」
「……ねぇソフィア、私もう帰りたいわ」
「リリアーナったら……本当にあなたらしいわね。もう少し時間があるから、私とお話ししながら待っていましょう」
そんな風に二人で過ごしていると、別の婚約者候補の一人が元気よく割って入ってくる。
「あなたがリリアーナ嬢? そして……あなたは、ソフィア嬢?」
初対面のリリアーナにも、令嬢は社交的で人懐っこい印象を与えた。
令嬢は笑顔でリリアーナとの距離を縮めた。初対面とは思えないほど、親しげな態度だ。
「……失礼ですが、あなたは?」
リリアーナの質問にその令嬢が答える。
「あら、ごめんなさい。名前も申し上げずに急に話しかけて。私はシルヴェリア共和国のエマ・シルヴェールと申します。もしよかったら、仲良くして頂けると嬉しいわ」
笑顔で、思ったことを率直に口にする。リリアーナはエマに好感を持った。
(やたら人懐こいのは、シルヴェリア共和国のご令嬢だからなのね)
リリアーナも花文字のことになると、周りが見えず他人に詰め寄ることがある。
そう考えると、人のことはとやかく言えないのだ。
シルヴェリア共和国は、自然と資源が豊富な国であり、我が国ルミナリア王国の友好国である。そして、森と精霊に守られていると言われており、別名「森の国」とも呼ばれている。
外交面ではルミナリア王国の最も信頼できる友好国であり、今回エマが婚約者候補に選ばれたのは、シルヴェリア共和国との強固な地盤を築きたいという思惑もあるのだろう。
嘘と建前を駆使した社交界のやり取りが苦手なリリアーナは、エマの嘘偽りのない言葉に少し安心した。
「エマ嬢。こちらこそ、よろしくお願いします」
「あら、エマと呼んでください。私もリリアーナと呼んでもいいかしら? そしてソフィア嬢もソフィアとお呼びしても?」
二人は笑顔で頷く。
「もちろんよ。エマ。これからよろしく。シルヴェリア共和国の話を聞きたいわ」
リリアーナは、珍しい種類の花や木が生育しているシルヴェリア共和国の話に、興味津々である。
三人が話に花を咲かせている頃、他の婚約者候補たちもそれぞれ話をしている。
今回、レオンハルト王太子殿下の婚約者候補に選ばれた令嬢は、リリアーナを含めて七人。
幼馴染のソフィア、シルヴェリア共和国のエマ、真面目そうな伯爵令嬢、自尊心の高い公爵令嬢、社交界で人気の公爵令嬢、そして政略結婚を目的とする侯爵令嬢だ。
リリアーナは、集められた婚約者候補たちを改めて見つめた。
(皆様、やはり美しいわ。王太子妃になるための教育をしっかり受けてきた雰囲気をまとっている)
そんな風にリリアーナは、どこか他人事のように思っている。
リリアーナは、当然自分が婚約者に選ばれるはずがないだろうとも、この時点で容易に察している。
それと同時に、安堵したのも本音である。
エマとソフィアの三人で話が弾み、リリアーナがエマの語るシルヴェリア共和国の話に聞き入っていると、急に厳かな雰囲気に変わり、場は静まり返った。
(あっ、ついに始まるのね……何事もなく円滑に終わりますように)
リリアーナは祈りに似た願いを唱えながら、今から始まるパーティーに意識を向ける。
扉の向こうから近づいてくる足音がする。規則正しい足音。
衛兵が一斉に姿勢を正す。空気が変わる。
扉が静かに開いた。一人の青年が姿を現した。
漆黒に近い濃い藍色の髪が、さらりと額に流れている。
深い蒼の瞳は湖面のように静かで、その奥だけが、誰にも踏み込ませない冷たさを宿していた。
すらりとした長身でありながら、鍛えられた身体つきがうかがえる。王族として一切の隙を見せない凛とした立ち姿に、会場の空気が一瞬で変わった。
誰もが息を呑む。威圧するような体格ではないのに、近づけば一気に飲み込まれそうな雰囲気があった。
……ただ、一人を除いては。
(この方がレオンハルト王太子殿下。まるで瞳がブルーサファイアのようで、吸い込まれそう。本当に綺麗な瞳の持ち主だわ)
「……想像以上に整ったお顔立ちだわ。数年前のお茶会でお会いした時は遠目に見るだけだったから、お顔まではよく分からなかったわ」
さらに続けて、リリアーナは自然と独り言のように呟く。
「でも、なんだか近寄りづらそう。私は王太子妃になるつもりはないし、今後お近づきになることはないからいいのだけれど」
リリアーナがそう呟いた、その瞬間だった。
ほんの一瞬――
レオンハルトの視線が静かにリリアーナに向く。
深い蒼の瞳は、確かにリリアーナを捉えていた。
リリアーナは、レオンハルトの視界に自分が入っていたことに、全く気付いていなかった。




