16 うたた寝
王宮直属花文字師として働き始めて、二ヶ月が過ぎた。
リリアーナはすっかり王宮での生活にも慣れ、エリオットやセシルと協力しながら、日々の仕事に励んでいた。
今は、シルヴェリア共和国から主賓を迎える夜会に向けて、セシルとともに会場を飾る花文字を準備している。宝石の管理など、任された仕事にも少しずつ慣れてきたところだった。
そんなリリアーナには、仕事の合間に楽しみにしていることがある。
王族と王宮直属花文字師しか入ることのできない、王宮地下書庫での読書だ。
今日も昼休憩になると、リリアーナはお気に入りの場所へと足を運んだ。
書架から一冊の本を取り出し、机に向かう。
読み始めた頃は夢中になっていたものの、昼食を食べたばかりの満腹感と、書庫の静かな空気が心地よい。
(この本も面白いわ……。もう少しだけ読んでいこう)
そう思ってページをめくっていたリリアーナだったが、次第にまぶたが重くなっていく。
そして、とうとう――。
こくり、と頭が揺れたかと思うと、リリアーナは机に突っ伏したまま眠ってしまった。
◇◇◇
レオンハルトは、花文字の仕事について話をするため、花文字師の部屋を訪れていた。
しかし、そこにリリアーナの姿はない。
(……どこへ行った?)
少し考えたレオンハルトは、彼女のお気に入りの場所を思い出した。
王宮地下書庫。
足を運んでみると、やはり予想は当たっていた。
机に突っ伏し、すやすやと眠っているリリアーナの姿があったのだ。
(……寝ているのか)
レオンハルトは静かに近づき、彼女の様子をうかがった。
(毎日、楽しそうに仕事をしているが……慣れないことも多く、疲れが溜まっていたのだろう。しばらく、このまま寝かせておくか)
起こすのも気が引けて、レオンハルトはリリアーナの隣に腰を下ろした。
机の上には、彼女が読んでいたらしい本が開かれている。
タイトルは『花文字の効果と詠唱法』。
レオンハルトは興味を引かれ、そっと本を手に取った。
ページをめくりながら、ふと、以前の出来事を思い出す。
(花文字を使った本格的な戦闘を目の当たりにしたのは、あのときが初めてだった。リリアーナの、あれほどなめらかな筆運びには正直驚かされた)
さらにページをめくると、詠唱法についての説明が目に入る。
(詠唱法についても、こうして学んでいるのか……。幼い頃から、ずっと努力を重ねてきたのだろうな)
隣で静かに本を読んでいると、やがてリリアーナが身じろぎした。
「ん……。あれ、寝てた? ……って、えっ、殿下!?」
目を覚ましたリリアーナは、隣に座るレオンハルトを見て、慌てて背筋を伸ばした。
「よく眠っていたな。……額に跡がついているぞ」
「えっ!」
リリアーナは慌てて額に手を当てた。
指先に、本の凹凸がはっきりと伝わってくる。
(うそ……! こんなにはっきり跡がついているの!?)
「ぎゃー! 殿下、見ないでください!」
リリアーナは両手で必死に額を隠した。
「別に……もう見てしまったのだから、仕方がないだろう」
レオンハルトは、いつもと変わらない涼しい顔で答える。
「殿下……。王宮地下書庫でうたた寝していたことは、内緒にしていただけますか?」
「……どうして?」
「エリオット様に知られたら、怒られます……」
リリアーナは困ったように眉を下げた。
レオンハルトは小さく息をつき、やがて頷いた。
「……分かった。君が毎日頑張っているのは知っているからな。今回だけだ」
「殿下、ありがとうございます!」
リリアーナはほっとしたように、にっこりと微笑んだ。
その表情を見て、レオンハルトは一瞬、目を細める。
口には出さなかったが、その笑顔が妙に心に残った。
◇◇◇
だが、そんな充実した穏やかな日々は、突然終わりを迎えることになる。
翌朝。
いつも通り王宮へ出勤したリリアーナは、王宮内の様子がどこか慌ただしいことに気づいた。
廊下を行き交う騎士たちの表情は険しく、普段とは違う緊張感が漂っている。
(……何かあったのかしら?)
不安を覚えながら王宮直属花文字師の部屋へ向かうと、そこには、すでに仕事を始めているはずのエリオットもセシルもいなかった。
リリアーナが戸惑っていると――。
コン、コン――。
「失礼します!」
勢いよく扉が開き、レオンハルトの護衛騎士が焦った様子で駆け込んできた。
「何者かが、王宮内に侵入しました!」
「……っ!」
リリアーナの表情が一変する。
護衛騎士は、息を整える間もなく続けた。
「エリオット様とセシル様は、すでにレオンハルト殿下のもとへ向かわれています。リリアーナ様も、至急、殿下のもとへお越しください!」
あたたかな春だというのに、背筋をすうっと冷たいものが走った。
穏やかな日常を切り裂くように、新たな事件の気配が王宮を包み始めていた。




