13 王宮直属花文字師、リリアーナの初出勤
王宮直属花文字師となって、初めて迎える朝。
「ふぅ……」
王宮の廊下を歩きながら、リリアーナは何度も深呼吸をしていた。
「緊張しているのか?」
隣を歩くレオンハルトが、静かに尋ねる。
「……はい。今日が王宮直属花文字師としての初仕事ですから」
リリアーナは少し緊張した面持ちで答えた。
王宮直属花文字師――
それは、王立花文字師の中でも、卓越した実力と人格を認められた者だけが任命される、王国最高位の花文字師である。
現在、その称号を持つ者は、リリアーナを含めて三人しかいない。
その肩書きの重みを、リリアーナはひしひしと感じていた。
王宮直属花文字師には、代々受け継がれてきた専用の徽章がある。
それは、自分の名前の花文字が刻まれた水晶のペンダント。
任命式で国王から授けられたものだ。
今日からリリアーナも、その徽章を胸につけている。
水晶は、まるで彼女を応援しているかのように、きらきらと輝いていた。
◇◇◇
「着いたぞ」
レオンハルトは、王宮地下へと続く廊下の一角で足を止め、一つの扉を示した。
扉の向こうには、二つの人影が見える。
人が近づいてきたことに気づいたのだろう。二人はゆっくりとこちらへ歩み寄ってきた。
「おはようございます、レオンハルト殿下」
「ああ。今日からリリアーナが配属される。よろしく頼む」
レオンハルトは二人にそう告げると、リリアーナに視線を向けた。
「リリアーナ、午後からは王宮地下書庫に案内する。それまでは二人から仕事について教わるといい。また迎えに来る」
「はい、殿下。ありがとうございます」
レオンハルトはそれだけ告げると、その場を後にした。
残されたリリアーナは、目の前の二人に向き直り、丁寧に頭を下げた。
「本日から王宮直属花文字師となりました、リリアーナ・エメリア・ローゼンベルクと申します。どうぞよろしくお願いいたします」
(貴族の社交界での挨拶とは違うし、これでいいのかしら……?)
内心では少し戸惑いながらも、リリアーナは顔を上げた。
「私はエリオット・レイヴン。王宮直属花文字師を統括している。よろしく頼む」
エリオットは軽く頭を下げたあと、少しだけ真面目な表情になった。
「最初に一つだけ伝えておこう。君がレオンハルト殿下の婚約者候補第一位であることは承知している。だが、ここは王宮であると同時に、花文字師として働く職場でもある。だからといって、殿下の婚約者候補を呼び捨てにするのも違うだろう。そこで、ここではリリアーナ嬢と呼ばせてもらいたい。それで構わないか?」
「もちろんです! むしろ、その方が安心します」
リリアーナは笑顔で答えた。
(本音を言えば、仕事仲間が増えて、名前を呼んでもらえるだけでも幸せなんです!)
「そうか。では、遠慮なくそう呼ばせてもらう」
「はい!」
続いて、もう一人の男性が穏やかな笑みを浮かべた。
「私はセシル・アルノー。リリアーナ嬢、これからよろしく」
「はい! よろしくお願いします」
昨日、リリアーナは二人について、あらかじめ話を聞いていた。
エリオットは王家からの信頼が厚く、結界や儀式に関する花文字を得意としている。几帳面で、規則を重んじる人物だという。
一方、セシルは穏やかで人当たりがよく、治癒や祝福の花文字を得意としている。子どもたちにも人気があると聞いていた。
二人ともリリアーナより年上で、頼もしい存在だ。
そんな二人が、若い令嬢である自分にも分け隔てなく接してくれる。そのことが、リリアーナにはとてもありがたかった。
「では、今日は王宮直属花文字師の仕事について、簡単に説明しよう」
エリオットはそう切り出した。
「まず、主な業務は王宮結界の管理だ。王宮全体には巨大な陽花文字の結界が張られている。外敵の侵入や呪術、陰花文字の力などを感知した場合は、必要に応じて結界を強化し、侵入者を防ぐための対処を行う。これは私たちが交代で毎日担当している仕事だ」
「結界の管理ですね。分かりました!」
リリアーナは真剣に耳を傾けた。
「ほかにも、王族専用の花文字を作ったり、王宮行事に使う花文字を描いたりする仕事がある。王宮行事の花文字については、セシルが得意としている。詳しいことは彼に教わるといい」
「王族専用の花文字とは、例えばどのようなものなのでしょうか? ぜひ教えていただきたいです」
リリアーナが尋ねると、エリオットは頷いた。
「例えば、国王陛下には『安』や『統』、レオンハルト殿下には『護』や『健』といった具合に、それぞれの立場や願いに合った花文字を描く。その人専用の花文字護符を定期的に作るのが、王宮直属花文字師の仕事だ。必然的に、王族と接する機会も多くなるだろう」
「なるほど! ありがとうございます」
リリアーナは、教えてもらったことを忘れないよう、心に留めた。
「王宮行事は、意外とたくさんある。戴冠式や建国祭、収穫祭、外交式典など、挙げればきりがない。それぞれの式典では、花文字が飾られる」
エリオットは、王宮での仕事を一つずつ説明していく。
「ルミナリア王国にとって、花文字は芸術であり、国の象徴でもある。外交の一環として、他国の王族へ花文字を贈ることもある。最近では、友好国のシルヴェリア共和国へ『和』の花文字を贈ったところだ。ほかにも、古文書の研究や、後輩の花文字師の育成などを担っている」
「王宮行事がそんなにたくさんあるとは知りませんでした。それに、外交や調査など、さまざまなお仕事をされているのですね!」
リリアーナは驚きながらも、目を輝かせた。
「そうだな。王宮には、王立花文字師の資格を持つ者が三十人所属している。それぞれが役割を分担し、王宮を支えているんだ」
エリオットはそこで一度言葉を切り、リリアーナとセシルを見た。
「その中でも、私たち三人が配属されている王宮直属花文字師は、王族に関わる機密事項を扱うことも多い」
「例えば、国家機密に関わる依頼だ。王族の護衛結界や、外交で使う花文字、宝物庫にある石や宝石のエネルギー管理、王宮地下の結界維持、事件現場の調査、陰花文字犯罪の解析。それに……」
「それに?」
リリアーナは、思わず聞き返した。
エリオットの表情が、わずかに引き締まる。
「……王宮直属花文字師の最大の任務は、隣国ノクティス帝国が操る『陰花文字』から、この国を守ることだ」
その言葉に、リリアーナは息をのんだ。
「王宮直属花文字師とは、ノクティス帝国の陰花文字に対抗するための、王国最後の切り札でもある」
リリアーナは、ふと先日起こった暗殺未遂事件のことを思い出した。
レオンハルトから、エリオットもセシルも、リリアーナが暗殺未遂事件を阻止したことを知っていると聞いていた。
二人が自分の活躍を認めてくれていることに、リリアーナは心強さを感じた。
「とても大切な任務を、これまでお二人で担われていたのですね」
「以前は三人で担っていたのだが、八年ほど前から、一人分の席が空いたままだった」
エリオットは静かに答えた。
「だからこそ、リリアーナ嬢の活躍には、私もセシルも期待している」
そう言ってから、彼は話題を変えた。
「まずは王宮に保管されている石の管理をお願いしたい。王宮にはサファイア、オニキス、ラピスラズリ、エメラルドなど、数多くの宝石が保管されている。その中でも、国王陛下やレオンハルト殿下が頻繁に使う石を担当してもらう。定期的に力が弱まっていないかを確認し、必要に応じてエネルギー調整を行う仕事だ」
「初めてで不安もあるだろうが、分からないことがあれば遠慮なく質問してくれ」
「はい! ご期待に添えるよう、精一杯務めさせていただきます!」
リリアーナは、力強く返事をした。
その後、実際の仕事の流れを見学することになった。
石の状態を確認し、記録をつけ、石の力が弱まっているものはエネルギー調整する。
一つひとつの作業を覚えながら、リリアーナは胸の奥が熱くなるのを感じていた。
花文字師として、王宮や国民の役に立てる。
その喜びを、リリアーナは全身で噛み締めていた。
◇◇◇
そして、午後――
約束どおり、レオンハルトが迎えに来た。
エリオットとセシルも同行し、四人は王宮地下書庫へと向かった。
「ここは王族と王宮直属花文字師しか入れない」
レオンハルトが説明する。
扉の向こうには、天井まで届く巨大な本棚がいくつも並んでいた。
(やはり王宮には、さまざまな資料があるのね! すごいわ……)
リリアーナは、目の前に並ぶ本棚を見回しながら胸を弾ませた。
中央には、ひときわ存在感のある一冊の本が置かれている。
その本は王宮花文字事典だった。
エリオットはその事典を手に取り、慎重にページをめくる。
「この事典には、陽花文字だけではなく、陰花文字も記録されている」
そこには、陽と陰、両方の花文字が記されていた。
陽は守る力。陰は攻撃する力。
けれど、文字そのものに善悪があるわけではない。
使う人の心と意志が、その力の向かう先を決めるのだ。
「昔は、陽も陰も同じように研究されていた。しかし、戦争が始まってから、陰花文字は兵器として使われるようになった」
エリオットの言葉を受け、セシルが続けた。
「それで、王宮は陰花文字に関する資料を封印しているんだ」
「陰花文字そのものが、悪というわけではないのですね」
リリアーナが呟くと、セシルは彼女の心を察したかのように頷いた。
「そうだ。刃物は料理にも人を傷つけることにも使えるだろう? 火薬だって、兵器に使われる一方で、花火にも使われる。陰花文字もそれと同じだ。要は、使う人次第ということだよ」
リリアーナは、セシルの言葉を胸に刻んだ。
陰花文字そのものが悪なのではない。
その力を何のために使うのか――大切なのは、そこにあるのだ。
セシルの言葉は、リリアーナの心を温かくしてくれた。
彼女は、陽と陰の花文字について、もっと深く知りたいと思った。
レオンハルトは、そんな三人のやり取りを少し離れたところから見守っていた。
◇◇◇
リリアーナが王宮直属花文字師として、新たな一歩を踏み出したその夜――
王宮の片隅で、黒い花文字がかすかに揺らめいた。
その傍らで、影がゆらりと動く。
「さあ、そろそろ計画を始めようか」
静かな声が、暗闇に溶けていった。
王宮には、少しずつ不穏な気配が忍び寄っていた。




