11 「偽りの婚約者」から「婚約者候補第一位」へ
リリアーナは、ゆっくりと目を覚ました。
(あ〜、よく眠れた。こんなに眠ったのは久しぶりだわ! ここは王宮の客室?)
見慣れない天井を見つめながら、少しずつ意識が現実へと戻ってくる。
いったい、どれほど眠っていたのだろうか。
窓から太陽の光が差し込んでいる。太陽はすでに高い位置にあった。
(お昼近くまで眠っていたのかしら……)
そんなことをぼんやりと考えていると、静かにドアが開き、レオンハルトとルークが部屋に入ってきた。
「目が覚めたか」
ベッドで身じろぐリリアーナを見て、レオンハルトが声をかける。
「殿下。……あれ? 私……」
リリアーナは、昨夜の出来事を思い出した。犯人の男を捕まえた後、力尽きて意識を失ってしまったのだ。
ルークが微笑みながら、リリアーナに説明する。
「殿下がこの客室まで運んでくださいました。リリアーナ嬢は、どうぞお気になさらず」
「えぇ!? それは気にします。レオンハルト殿下……私、重かったですよね? 申し訳ありません。殿下もお疲れだったのに、私を運んでくださり、ありがとうございます!
リリアーナは、ふと思い出す。
(名前を呼んでくれた声。そして、しっかりと抱き止められた、あの温かい腕は……やっぱりレオンハルト殿下だったのね)
少しだけ頬が赤くなる。
リリアーナは照れながらも、改めて感謝を伝えた。
「……レオンハルト殿下、昨日は色々と助けてくださり、本当にありがとうございました」
「ああ」
心地よい沈黙が流れた後、レオンハルトが呟いた。
「本当に……君は、予想外なことをする天才だな」
呆れているのか、怒っているのか。リリアーナには分からなかった。
「約束どおり、私が花文字で戦っている間、隣で待っていてくださり、ありがとうございます」
「君は諦めていなかった。だから、まだ何かを考えていて、戦えると判断した」
リリアーナは嬉しそうに笑った。
「ふふっ、私、ちゃんとレオンハルト殿下に信じてもらえたんですね。偽りの婚約者として、とても嬉しいです!」
レオンハルトも、同じように答えた。
「偽りの婚約者として、信じるのは当然だ」
その後、リリアーナは犯人の男の今後について、レオンハルトから詳しい話を聞いた。
「昨日の方は……?」
「ああ、命に別状はない。やはり、洗脳されていた可能性が高いだろう。石を渡した相手を思い出そうとしても、頭痛がして思い出せないらしい。おそらく、記憶を封印されているのだろう。つい先ほど、監視付きの保護対象として、自然豊かなシルヴェリア共和国へ移送したところだ」
レオンハルトは、事件の後処理をわずか一日で進めていた。本当に優れた王太子だ。
「もしかして、エマが尽力してくれたのですか?」
「そうだ。君のことも、ひどく心配していた。彼女には君が無事であることを伝えてある。ソフィア嬢にもな。エマ嬢も、自分にできることをしたいと申し出てくれた。彼女の国なら、心も身体も休まるだろう」
「そうですか。元気になって、また姿を見せてほしいです」
レオンハルトは、リリアーナを真っ直ぐに見つめた。
「リリアーナ……俺からも一つ、聞いていいか?」
「はい」
「……君の、花文字の師は誰だ?」
レオンハルトは、言葉を選ぶように問いかけた。
リリアーナは、わずかに目を見開いた。
だが、努めて冷静に答える。
「……アイリス先生です。でも、私は非常に特殊で、アイリス先生が気の向いた時にだけ教えてもらっていました。遊びの延長のように、楽しく学ばせてもらったんです。だから、正式な弟子とも言い切れず、中途半端な師弟関係なのです」
レオンハルトは表情を変えなかった。
「そうか」
そう呟いただけだった。
(……『アイリス』。その名を、今になって聞くとは)
レオンハルトがその名前を懐かしく感じていたことなど、リリアーナは知る由もなかった。
それきりレオンハルトが何も話さないので、リリアーナは先に大事な用件を済ませてしまおうと口を開いた。
「レオンハルト殿下、お借りしていたものをお返しいたします。本当にありがとうございました」
リリアーナは、サファイアのブローチを丁重に返した。
レオンハルトは、それをさりげなく受け取る。
「ああ」
すると、横にいたルークが少し笑いながら口を開いた。
「殿下。妹君の形見が無事に戻ってよかったですね」
「……え? そんな大切なものを……」
リリアーナは目を見開き驚嘆する。
「気にするな」
レオンハルトはそう言ったが、リリアーナは気にせずにはいられなかった。
リリアーナは、レオンハルトの手の中にあるブローチを見つめた。
そして、そっと目を閉じ、石に触れる。
すると、石から優しく温かな何かを感じた。
レオンハルトは、自分の手の中にあるブローチに触れるように、リリアーナがそっと手のひらを重ねてきたことに驚いた。
だが、きっと何か意味があるのだろうと察し、そのまま様子を見守った。
「……そういうことだったのですね」
「何か、犯人について分かったのか?」
「いいえ、犯人についてではありません。このサファイア……最初からずっと、レオンハルト殿下、あなたをお守りしようとしていました」
リリアーナは続けた。
「石には想いが宿ります。どんな感情も、どんな記憶も、どんな願いも」
そして、穏やかな声で語りかける。
「妹君は今でも、殿下に笑っていてほしい。幸せでいてほしい。そう願っていらっしゃいます。実際にお会いしたことはありませんが、石に宿っている想いやエネルギーが、そう伝えてくれるんです。サファイアには真実を見抜く力もありますが、慈愛という石言葉もあります。このサファイアは、妹君の形見だからこそ、兄君である殿下の幸せを、ただただ願っているように感じます」
レオンハルトは、沈黙したままだが、何かを思い出したようだった。
妹。
幼い笑顔。
真っ直ぐ自分を見つめる、愛らしい目。
手を繋いだ日。
『おにいさま!』
初めて、そう呼ばれた時のこと。
その記憶が、たった今、鮮やかによみがえった。
(俺は……。妹のことを、いつから思い出せなくなっていたのか。これでは、洗脳されたあの男と一緒ではないか)
レオンハルトは、改めてリリアーナを見つめた。
心の奥が、ほんの少しだけじんわりと温かくなった気がした。
(リリアーナに対するこの感情は、何だ?)
レオンハルトがその感情の正体を知るのは、まだしばらく先のことである。
◇◇◇
犯人の男を捕まえた数日後――。
リリアーナの体調が回復した頃、王宮から突然、呼び出しがあった。
どうやら、レオンハルトも同時に国王から呼び出されているらしい。
リリアーナは考えた。
(何かしら? 事件も一旦解決したけれど、私、何かやらかしてしまったかしら……)
レオンハルトも詳しい内容は聞いておらず、国王からリリアーナと一緒に来るようにとだけ伝えられているそうだ。
玉座には国王が座り、その隣には重臣たちが揃っていた。
先日の囮作戦『偽りの婚約者』作戦に参加した者たちだ。
全員が揃うと、式典の開始を告げた。
まずは、事件解決に貢献した近衛騎士団長や重臣たちの功績が称えられた。
(なるほど、今回は事件解決に一役買った方々の表彰式なのね!)
リリアーナにも、きっと何らかの功績が与えられるのだろう。
そして、ついにリリアーナの番が回ってきた。
「今回の功績を称え、リリアーナ・エメリア・ローゼンベルク」
国王はリリアーナに優しく微笑みかけた。
「まずは、本日より王宮直属花文字師に任命する」
「はい! ……えっ?」
さらに、もう一つのサプライズ任命が告げられた。
「そして、我が国の王太子レオンハルトの、正式な婚約者候補第一位とする」
国王はリリアーナに視線を向けた後、息子のレオンハルトにも意味ありげな視線を送る。
その瞬間、全員がしんと静まり返った。
レオンハルトとリリアーナは、同時に顔を見合わせた。
「……っは?」
「……はい?」
直後、リリアーナは慌てて国王に感謝を述べた。
「――国王陛下、もったいなきお言葉に感謝いたします。大変無礼なこととは存じますが、一つだけ質問させていただけますでしょうか?」
「よかろう。何だ?」
「つまり私は……婚約者候補第一位になっても、花文字師の仕事は続けていいんですよね? 王宮直属花文字師として、今後も職務を全うしてもよろしいということでしょうか?」
国王は朗らかに笑いながら答えた。
「リリアーナ、それはもちろんだ。花文字師としての腕は申し分ない。これから花文字師として、そして婚約者として、この国のために貢献してくれると嬉しい」
「陛下、それなら安心いたしました! 喜んでお受けいたします。ありがとうございます」
レオンハルトは、隣にいるリリアーナの様子を横目で見ながら、心の中で思った。
(普通の令嬢なら、婚約者候補第一位に選ばれたことを喜ぶはずだ。だが、彼女は真っ先に花文字師の仕事を続けられるかを確認した。やはり変わった令嬢だ……。だが、その予測できないところが、最近は少しだけ心地いいと感じている自分もいる)
レオンハルトは、自分がリリアーナのことを案外よく思っているのだと気づき始めていた。
(予測不能なリリアーナに、振り回されるのも悪くない)
隣で満面の笑みを浮かべるリリアーナを見て、レオンハルトは眩しそうに瞳を細めた。
◇◇◇
舞台は変わり、ここは隣国、ノクティス帝国。
とある小屋の暗い部屋に、二つの人影があった。
窓際には、黒い石が置かれている。
先日の暗殺未遂計画で使われたブラックスピネルと同じ石だった。
「……失敗したか?」
「どうやら、そのようです」
その人物は、静かに笑った。
「陽の花文字師……。やっと現れたか」
「ルミナリア王国の王宮直属花文字師、リリアーナ・エメリア・ローゼンベルク」
「次は、どんな陽の花文字を使うのだろうか?」
男の不穏なエネルギーに反応するかのように、黒い石がドクンと脈打った。
◇◇◇
『石は、人の想いを記憶する。
時として、持ち主が忘れてしまった想いさえ、静かに守り続ける』
そして、人の運命さえも、ただ静かに見守っている。
この令嬢暗殺未遂事件は、ルミナリア王国とノクティス帝国、二つの国の運命を揺るがす戦いの、ほんの序章にすぎなかった――。




