雪解けの魔物討伐と、悪役令嬢の「ぽかぽか野営セット」
辺境領を長く閉ざしていた分厚い雪が、少しずつ形を崩し始めた頃。
屋根から落ちる雪解け水の音が、もうすぐそこまで来ている春の訪れを告げていた。
辺境伯邸の私室では、リアーナが設計したオルゴールの優しい音色が流れる中、当主であるクラウスが深いため息をついていた。
「……行きたくない。いっそ、君とレオンを私のマントの中に隠して連れて行きたい気分だ」
鍛え上げられた長身をソファに沈め、肩を落とす「氷の辺境伯」。
かつては領地防衛の鬼として、屋敷になど全く寄り付かなかった男が、今や妻であるリアーナの膝にすり寄り、大型犬のように甘えた声を出すようになっている。
「まあ、旦那様ったら。辺境軍の総大将がそのような弱音を吐いてどうしますの。レオン君が見たら笑ってしまいますわよ」
リアーナは苦笑しながら、自分の膝に頭を乗せているクラウスの銀色の髪を優しく撫でた。
春の雪解けは、領民にとっては農作業が始まる喜びの季節だが、辺境伯軍にとっては最も過酷な時期の始まりを意味する。
冬の間、冬眠していた北方の魔物たちが一斉に目を覚まし、南下してくる
「春の暴走」が起こるのだ。クラウス率いる騎士団は、領地を守るため、約一ヶ月にわたって山岳地帯に野営拠点を張り、過酷な討伐遠征を行わなければならない。
「これまでは、魔物を斬ることしか頭になかった。だが今は……温かいこの家と、愛する家族がいる。一ヶ月も君の顔を見られないなんて、私にとっては拷問に等しい……」
「大げさですわ。私たちなら大丈夫ですから、どうかお怪我だけはないように、しっかりと軍を指揮してきてくださいませ」
リアーナが宥めると、クラウスは名残惜しそうに身を起こし、「必ず無事で帰る」と誓って執務室へと向かった。
(……一ヶ月の雪山での野営。確か1回目の人生の記憶では、この春の討伐で騎士団から多数の凍傷患者や病人が出て、甚大な被害が出たはずだわ)
一人になった私室で、リアーナは少しだけ眉をひそめた。
いくらクラウスが最強の騎士であっても、彼に従う兵士たちが疲弊してしまえば、軍の力は半減する。
大切な夫を無事に帰還させるためにも、妻として、そしてこの領地の女主人として、できる限りのサポートをしなければならない。
リアーナはすぐに立ち上がり、ドレスの裾を翻して屋敷の裏手にある騎士団の兵舎へと向かった。
* * *
「なっ……奥様!? このようなむさ苦しい兵舎に、どのようなご用件で!?」
突然現れたリアーナに、騎士団長であるヴァンスが慌てて膝をついた。他の騎士たちも、訓練の手を止めて目を見張っている。
「討伐遠征の準備状況を視察に来ましたの。ヴァンス団長、遠征中の野営の装備と、兵站(食料)について説明しなさい」
「は、はい。装備は各自の剣と鎧、それに防寒用の毛布が二枚。食料は、日持ちのする塩漬け肉と、乾燥させた硬パンを持てるだけ配備しております」
その報告を聞いて、リアーナは頭痛を堪えるようにこめかみを押さえた。
「……ヴァンス団長。あなたたちは馬鹿なの?」
「ば、馬鹿、とは……!?」
リアーナの冷たい声に、騎士たちが息を呑む。
「稀代の悪女」と恐れられていた彼女の威圧感が、一瞬にして兵舎の空気を支配した。
「雪解けの山岳地帯は、昼夜の寒暖差が激しく、地面は泥だらけで冷え切っていますわ。
そこに毛布だけで寝れば、体温を奪われて当然。おまけに、そんな石のように硬いパンと塩辛い肉では、疲労した身体の消化器官に負担をかけるだけで、即効性のあるエネルギーになりません。
……あえて厳しいことを言いますけれど、あなたたちの装備は『死にに行っている』のと同じですわ」
リアーナの容赦ない指摘に、ヴァンスは悔しそうに顔を歪めた。
「奥様のおっしゃることはごもっともです。しかし、我々は気高い辺境伯軍! 多少の寒さや飢えは、精神力で乗り切ってみせます!」
「精神論で魔物が倒せるなら、誰も苦労はしませんわ」
リアーナはヴァンスの言葉をバッサリと切り捨てた。
「無駄に苦しむことを『美徳』とするような古い軍の常識は、私が叩き直して差し上げます。私の大切な旦那様と、この領地を守る騎士たちが、惨めな装備で凍えるなんて、私のプライドが許しませんの。……明日までに、私の『特製野営セット』を全軍に配備させますわ!」
* * *
リアーナの行動は、文字通り嵐のようだった。
屋敷のメイドたち、街の裁縫職人、そして工房のガストン親方を総動員し、前世の「現代アウトドアの知識」を全開にした生産ラインを一瞬で構築したのである。
「いいこと!? まずは『マミー型シュラフ(寝袋)』の製作よ! 厚手の帆布の表面に、ガストン親方が精製した蜜蝋を塗って、徹底的に防水加工を施しなさい。雪の上に直接敷いても水が染み込まないようにね!」
リアーナが引いた図面は、現代の登山家が愛用する、身体に密着して体温を逃がさない「マミー(ミイラ)型」の寝袋だった。
「そして中身には、食用にしたガチョウやアヒルの羽毛を限界まで詰め込むのよ! 羽毛が空気の層を作って、驚異的な断熱効果を発揮するわ!」
捨てられるはずだった羽毛の再利用に、職人たちは「なるほど!」と感嘆の声を上げて作業に没頭した。
並行して、リアーナは厨房へと乗り込み、料理長に全く新しい保存食のレシピを突きつけた。
「次は『行動食』よ! 領地で採れたクルミやアーモンドを細かく砕き、温室で育てて乾燥させた甘いベリー、オーツ麦を混ぜ合わせるの。それをたっぷりのハチミツで固めて、持ち運びやすいように四角く焼き上げなさい!」
これも、現代の登山や軍隊で採用されている「高カロリー栄養食」の概念だ。
「ハチミツの糖分は吸収が早く、すぐに脳と筋肉のエネルギー(グリコーゲン)になるわ。それにナッツの脂質は腹持ちが良い。これをかじるだけで、火を起こせない場所でも十分な栄養が補給できる魔法の携帯食よ!」
お妃教育で培った「数千人を動かす指揮能力」と、前世の「プロダクトデザイン・栄養学の知識」が完全に融合し、たった一日で、辺境伯軍の装備は劇的な進化を遂げることとなった。
* * *
翌日の出陣式。
整列した騎士たちの前に、リアーナが指示して作らせた「防水ダウン寝袋」と「特製エナジーバー」が配られた。
「……奥様。大変ありがたいのですが、こんな薄くて軽い袋一つで、雪山の夜を越せるとは思えません。それに、この甘いお菓子のような食べ物……我々のような粗野な男には、少し可愛らしすぎるのでは……」
ヴァンス団長が、恐縮しながらも疑わしげに言った。
「御託はいいから、一度その袋の中に入ってみなさい」
リアーナに促され、ヴァンスは言われるがまま防水ダウン寝袋に潜り込み、首元までジッパー(ガストン親方特製の金具)を引き上げた。
「っ……!? な、なんだこれは……!?」
数秒後、ヴァンスの目が限界まで見開かれた。
「あ、暖かい! 自分の体温が袋の中に閉じ込められ、まるで温かいお湯に浸かっているようだ……! しかも、驚くほど軽くて身動きが取りやすい!」
「次は、それを食べてみて」
袋から顔だけを出したヴァンスの口に、リアーナがエナジーバーを放り込む。
「……美味い! 噛めば噛むほどハチミツの甘さとナッツの香ばしさが広がり……なんだか、身体の底から不思議と力が湧いてくるぞ!!」
ヴァンスの反応を見た他の騎士たちも、次々と寝袋に潜り込み、エナジーバーをかじり始めた。
「うおおおっ! なんて温かさだ! これなら雪の上でも爆睡できるぞ!」
「このお菓子、うめぇ! しかも腹にドシッと溜まる!」
「奥様は天才だ! 辺境軍の女神様だ!!」
兵舎のあちこちから、リアーナを讃える歓声が爆発した。
これまでの「苦労こそ美徳」という常識は、リアーナがもたらした「圧倒的な快適さと合理性」の前に、完全に粉砕されたのである。
「ふふっ。私の特製セットがあれば、寒さで倒れる言い訳は通用しませんわよ。……旦那様のこと、絶対に無傷で連れて帰ってきなさいね」
リアーナが悪女らしくフッと微笑むと、騎士たちは「ははっ! 命に代えましても!!」と、かつてないほどの高い士気で敬礼をした。
「リアーナ……君という人は、本当に……」
その様子を呆然と見ていたクラウスが、愛おしさと誇らしさに満ちた瞳でリアーナを見つめていた。
「さあ、旦那様。これで心置きなく魔物を殲滅してこられますわね」
「ああ。君の愛情が詰まったこの装備があれば、どんな猛吹雪でも負ける気がしない。……行ってくる」
クラウスは周囲の視線も気にせず、リアーナをきつく抱きしめ、その額に深い口づけを落とした。
「お父様、いってらっしゃーい! アーサーと一緒にお留守番してるからね!」
レオンの元気な声に見送られ、辺境伯軍は威風堂々と、春の討伐へと出立していった。
* * *
それから数週間後。
山岳地帯の最前線では、記録的な猛吹雪が吹き荒れていた。
例年であれば、この寒さで数名の兵士が動けなくなり、陣形が崩れて苦戦を強いられる場面だ。
「おい! お前ら、魔物の群れが来るぞ! 準備はいいか!」
ヴァンス団長が大声を張り上げる。
「「「おうっ!!」」」
吹雪の中から立ち上がった騎士たちは、疲弊するどころか、血色良く、エネルギーに満ち溢れた力強い雄叫びを上げた。
彼らは防水ダウン寝袋のおかげで、極寒の夜でも十分な睡眠をとって体力を完全に回復させていた。さらに、特製エナジーバーで常に栄養を補給しているため、集中力も全く途切れていないのだ。
「全軍、突撃!」
クラウスの号令とともに、辺境伯軍はかつてないほどの機動力と圧倒的な力で、魔物の群れを瞬く間に制圧していった。
被害ゼロ。討伐にかかった日数は、例年の半分以下という、辺境軍の歴史に残る驚異的な大勝利であった。
* * *
そして、予定よりずっと早く、雪が完全に溶けて緑が芽吹き始めた辺境伯邸に、クラウス率いる騎士団が凱旋した。
「旦那様!」
「お父様!」
玄関に駆けつけてきたリアーナとレオンの姿を見るなり、クラウスは馬から飛び降り、二人を両腕で力強く抱きとめた。
「ただいま、リアーナ、レオン。……君たちのおかげで、誰一人欠けることなく、無事に帰ってくることができた」
クラウスの顔には、疲労よりも、家族に会えた喜びに満ちた輝かしい笑顔があった。
後ろでは、ヴァンス団長をはじめとする騎士たちが、「奥様、万歳! 特製野営セット、最高!!」と大合唱をしている。
「ふふっ、当然ですわ。私の設計したアイテムに抜かりはありませんもの」
リアーナは得意げに胸を張りながらも、その目には安堵の涙がうっすらと浮かんでいた。
かつて、味方が誰もいなかった氷の邸。
けれど今、彼女の周りには、特技と手腕で築き上げた温かい居場所と、彼女を心から愛し、慕う家族と家臣たちの笑顔が満ち溢れている。
長く厳しかった辺境領の冬が終わり、リアーナの新しい人生に、本物の温かい春が訪れようとしていた。




