氷の町の冬枯れと、悪役令嬢の「ぽかぽか温室」計画
執事補佐トーマスによる横領事件から数週間。
氷に閉ざされていた辺境伯邸は、リアーナの手腕によって劇的な変化を遂げていた。
まず、屋敷の空気が圧倒的に「温かい」。
リアーナが前世の知識を駆使して設計した窓枠の防寒パッキンと、各部屋に行き渡った銅製の「湯たんぽ」のおかげで、使用人たちは寒さに震えることなく笑顔で立ち働くようになった。
さらに、トーマスと結託していた悪徳商会を一掃したことで、正規の価格で質の良い薪や食材が納品されるようになり、屋敷の生活水準は飛躍的に向上したのである。
そして何より変わったのは――「家族」の距離感だった。
「リアーナ殿、その……今朝のスープは、少し熱すぎはしないだろうか? 君の火傷が心配なのだが……フーフーして冷まそうか?」
「だ、旦那様! 私は子供ではありませんわ! それに、使用人たちが見ていますから!」
朝食の席で、辺境伯クラウスが真剣な顔でスプーンを持ったまま身を乗り出してくるのを、リアーナは真っ赤になって制止した。
かつて「氷の辺境伯」と恐れられ、「私に愛を求めるな」と冷酷に言い放ったあの男は、今や見る影もない。
妻の有能さと隠された優しさを知ったクラウスは、生来の不器用さと責任感の強さが「妻への過保護」という方向に全振りしてしまったらしい。
すれ違っていた氷が溶けたのは良いことだが、急激な過保護っぷりには、悪女を自称するリアーナでさえタジタジだった。
「お父様、お母様。アーサーにもスープ、あげるの!」
二人の間で、レオンが自慢の可動式騎士フィギュア「アーサー」を食卓に座らせて無邪気に笑っている。
1回目の人生では絶対にあり得なかった、温かくて幸せな朝食の風景。
リアーナは胸の奥がキュッと温かくなるのを感じながら、ふと、並べられた食事を見て小さく息をついた。
(お肉やパンの質は良くなったけれど……やっぱり、圧倒的に『緑』が足りないわね)
辺境領の冬は長く、雪に閉ざされるため新鮮な野菜が育たない。
貯蔵してある根菜や塩漬けの野菜ばかりでは、ビタミン不足で壊血病などの病気を引き起こす原因にもなる。
前世の現代日本で栄養バランスの取れた食事を知っているリアーナにとって、この冬枯れの食卓は次なる「改善のターゲット」だった。
「旦那様。今日、私はレオン君を連れて、少し領地(街)の視察に行ってまいりますわ。冬の間の領民たちの生活を、この目で確かめておきたいのです」
「街へ? だが、外は冷え込むし、何より君は王都から来たばかりで……」
「ご心配なく。屋敷の女主人として、自分の領地を知らないのは恥ですもの」
リアーナが力強く宣言すると、クラウスは少し心配そうにしながらも、「護衛の騎士を多めにつけよう」と頷いてくれた。
* * *
馬車に揺られ、分厚い城壁を抜けて街の中心部へ出ると、そこは活気があるものの、やはりどこか寒々しい空気が漂っていた。
屋台に並んでいるのは、カチカチの干し肉や、シワシワになった保存用の芋ばかり。すれ違う領民たちの肌も乾燥し、どこか疲れが見える。
何よりリアーナを悩ませたのは、彼女たちに向けられる領民たちの「視線」だった。
「おい、見ろよ。あれが王都から厄介払いされてきたっていう、あの我が儘公爵令嬢だぞ……」
「しっ! 目を合わせるな。難癖をつけられて首を刎ねられるかもしれないぞ!」
ヒソヒソと囁かれる悪評。彼らはリアーナを恐れ、遠巻きに道を空けていく。
レオンが不安そうにリアーナのドレスの裾をギュッと握りしめた。
1回目の人生のリアーナなら、「無礼者!」と怒鳴り散らし、ますます彼らの心を離れさせていただろう。街の汚れや寒さを嫌悪し、二度と屋敷から出なかった。
しかし、今の彼女は違う。
(ふふっ、言わせておけばいいわ。私がただの悪女かどうか……そのうち嫌でも分からせてあげるから)
リアーナは背筋をピンと伸ばし、堂々とした微笑みを浮かべたまま、街の片隅にある「ある場所」へと迷いなく歩を進めた。
向かったのは、街の共同工房。屋敷に出入りしている鍛冶職人のガストン親方たちがいる場所だ。
「おおっ!? 奥様! どうしてこんなむさ苦しい所へ!?」
湯たんぽの設計図以来、すっかりリアーナの「モノづくりの腕」に惚れ込んでいるガストンは、目を丸くして出迎えた。
「ガストン親方、お願いがあるの。また私の『特技』に付き合ってくれないかしら」
リアーナはそう言うと、持参した巨大な羊皮紙の束を広げた。
「これは……? 家の図面、ですか? いや、屋根の形が妙だな……なんだこの骨組みは?」
図面を見た途端、ガストンの職人としての顔つきが変わった。
「これは『温室』の設計図よ。真冬の雪の中でも、新鮮な野菜を育てるための特別な建物」
「ば、馬鹿な! この極寒の辺境で、冬に野菜を育てるなんて魔法でも使わねえ限り……」
「魔法じゃなくて、技術(設計)で解決するのよ」
リアーナの目が、前世のプロダクトデザイナーとしての熱を帯びて輝き出した。
「まず、屋根と壁には、この領地で採れる透明度の高い雲母を薄く削ってガラスの代わりにはめ込むの。これで太陽の光を取り入れるわ。そして、屋根に積もる雪の重みに耐えられるように、骨組みは『トラス構造』にするのよ」
「と、とらす……?」
「三角形を組み合わせた骨組みのこと。四角形は横からの力でひし形に潰れちゃうけれど、三角形は絶対に形が変わらないから、重さを分散して圧倒的な強度を生み出せるの」
リアーナが図面を指差しながら、木工の知識と現代建築の構造力学を掛け合わせた理論を説明すると、ガストンや集まってきた職人たちは「なるほど!」「なんて合理的なんだ!」と感嘆の声を上げた。
「さらに、一番の秘密は地面の下よ。温室の地下に、ガストン親方たちに作ってもらう銅のパイプ(ダクト)を張り巡らせるの。隣接したボイラー室で薪を燃やし、その熱い空気をパイプに流し込んで、下から土そのものを温める『床暖房』システムよ。これで、真冬でも温室内は春のような温度を保てるわ」
現代のハウス栽培と、古代ローマの床下暖房の概念を融合させた、前代未聞の大規模プロジェクト。
ただの貴族の令嬢からは絶対に出てこない圧倒的な発想と緻密な三面図に、職人たちは完全に圧倒されていた。
「奥様……アンタ、本物の天才か……? これが完成すりゃ、冬の間の野菜不足が解消されて、領民の生活は劇的に変わるぞ……!」
ガストンの声が震えていた。領民たちを苦しめる冬の飢えを、目の前の「悪女」と噂される令嬢が本気で救おうとしているのだ。
「天才なんかじゃないわ。ただの、モノづくりが好きな我儘娘よ。……さあ、予算は私が全額出すわ。領民たちに、私が美味しい野菜を食べるためだと伝えて、資材集めと建築を手伝わせてちょうだい!」
* * *
それからのリアーナの行動は迅速だった。
数日後、街の広場に巨大な建設予定地が確保されると、リアーナは自ら現場に立ち、工事の指揮を執り始めた。
高価なドレスを動きやすい乗馬服に着替え、髪を一つに束ね、泥にまみれながら職人たちに「そこの三角形の接合部、ミリ単位で隙間をなくして!」
「ダクトの角度が浅いわ、熱空気が滞留しちゃう!」と的確な指示を飛ばす。
「お母様、ぼくも手伝う!」
レオンも小さなシャベルを持ち、楽しそうに土を掘っている。
そんな彼女の姿を、領民たちは遠巻きに、しかし驚きの目で見つめていた。
「おい……あの公爵令嬢が、泥だらけになって俺たちの街で働いてるぞ……」
「俺たちの冬の食料のために、あんな巨大な建物を……? 悪女だなんて、誰が言ったんだ?」
彼らの間にあった警戒心は、リアーナのひたむきな姿と、ガストン親方からの「奥様は最高の設計士だ!」という熱弁によって、雪解けのように急速に消え去っていった。
次第に「俺も手伝います!」「私も炊き出しを!」と、領民たちが自発的に建設に加わるようになっていった。
「……私の妻は、本当に底知れないな」
建設現場の少し離れた場所で、視察に訪れていたクラウスが、眩しいものでも見るように目を細めていた。
彼は、騎士団の屈強な男たちを総動員して重い資材運びを手伝わせていた。
彼自身も、非番のたびに現場へやってきては、リアーナのサポートをしている。
「旦那様! 騎士団の皆様の筋力、本当に助かりますわ。トラス構造の屋根の組み上げが、予定の半分の日数で終わりましたの!」
図面を片手にパタパタと駆け寄ってきたリアーナの頬には、泥が跳ねていた。
クラウスはクスッと笑うと、懐から清潔なハンカチを取り出し、彼女の頬の泥を優しく拭い取った。
「だ、旦那様……っ!? 人前で、急に何を……!」
リアーナが顔を真っ赤にして後ずさる。
「いや、泥がついていたから。それに、君の手はこんなに冷え切っているじゃないか」
クラウスは拭い取った手をそのまま下ろし、手袋越しのリアーナの小さな両手を、自分の大きな手でキュッと包み込んだ。
「君が領地のためにここまで身を粉にしてくれること、夫として、いや、この地の領主として心から感謝している。……だが、無理をして倒れたら、私が、悲しむ。だから、少しは私に頼って休んでくれ」
真っ直ぐな青い瞳で見つめられ、真面目で不器用な男からのストレートすぎる愛情表現に、リアーナの心臓は警鐘を鳴らすように激しく脈打った。
「だ、旦那様ったら……大げさですわ。私は自分の特技を活かして、自分の過ごしやすい環境を作っているだけですのに……っ」
素直になれずプイッと顔を逸らすリアーナだったが、その手はクラウスの温もりから決して離れようとはしなかった。
「お父様、お母様、ずるい! ぼくも手をつなぐー!」
二人の間にレオンが割り込んでくると、三人は顔を見合わせてクスクスと笑い合った。
その光景を遠くから見ていた領民たちは、「なんてお美しい、理想のご家族だ」と温かい視線を送っていた。もはや、この領地に彼女を悪女と呼ぶ者は一人もいない。
* * *
それから一ヶ月後。
雪が深く降り積もる真冬の真っ只中。
領地の中心に完成した巨大な「床暖房式・温室」の中は、文字通り「春」であった。
ダクトから伝わる熱が土を温め、雲母の窓から降り注ぐ太陽の光が室内を明るく照らす。
リアーナの指示のもと、領民たちが丁寧に育てた種は、見事に青々とした芽を出し、冬の只中にも関わらず、小松菜やカブに似た新鮮な野菜が立派に育っていた。
「さあ皆様、初めての収穫祭よ! 思う存分刈り取って、今夜は温かい野菜スープの宴にしましょう!」
リアーナの号令とともに、領民たちの歓声が温室内に響き渡った。
「奥様、本当にありがとうございます! これで子どもたちにひもじい思いをさせずに済みます!」
「奥様は、辺境の春の女神様だ!」
涙を流して感謝する領民たちに囲まれ、リアーナは「私はただの悪役令嬢ですわよ!」と照れ隠しに笑う。
その夜、辺境伯邸の食卓には、温室内で採れたばかりの新鮮な緑の野菜がふんだんに使われた、鮮やかな料理が並んだ。
レオンは「お野菜、あまくておいしい!」と目を輝かせ、アーサーのフィギュアにも野菜を食べさせる真似をしている。
「君の手腕には、本当に驚かされるばかりだ。帳簿の整理に、見事な工芸品、そして今回は建築と農業まで……君の頭の中はどうなっているんだ?」
クラウスがワイングラスを傾けながら、心底感心したように微笑んだ。
「お妃教育の賜物と、あとは……私のちょっとした『前世からの趣味』のおかげですわ。ふふっ、言ったでしょう? 氷の辺境領を、私の特技で勝手に世界一豊かな領地に作り変えるって」
リアーナは得意げに胸を張った。
1回目の人生で、誰からも愛されず、冷たい炎の中で孤独に死んでいった悪女リアーナ。
しかし、回帰して前世の知識と特技をフル活用した彼女は今、不器用だけど優しい夫と、可愛くて仕方ない息子、そして自分を慕ってくれる領民たちに囲まれている。
(……悪くないわね。ここが、私の新しい「居場所」)
ポカポカと温かい暖炉の火のそばで、リアーナの顔には、今までで一番穏やかで、美しい微笑みが浮かんでいた。
彼女の「領地経営」と「家族との絆作り」は、確かな春の足音とともに、さらなる大輪の花を咲かせようとしていた。




