氷の辺境伯の帰還と、完璧すぎる帳簿の粛清
「……私が留守にしていたたった数日の間に、一体何が起きたというんだ?」
玄関ホールで呆然と立ち尽くす辺境伯クラウスの呟きは、ポカポカと暖かい空気の中に吸い込まれていった。
彼を出迎えたのは、血色が良く笑顔で働く使用人たちと、今まで見たこともない木製の防寒具(窓枠パッキン)、そして何より――床に座り込んで自作のオモチャで無邪気に遊ぶ、妻リアーナと息子レオンの姿だった。
クラウスの声にハッと気づいたリアーナは、サッと立ち上がると、ドレスの裾を優雅に払い、何事もなかったかのように完璧なカーテシー(淑女の礼)をしてみせた。
「おかえりなさいませ、旦那様。国境の巡回、お疲れ様でございました。随分とお早いお戻りでしたのね」
「あ、ああ……。予想より魔物の群れが小さかったため、予定を切り上げて帰還したのだが……」
クラウスは、リアーナと、その背後に隠れるようにしてこちらを見ているレオンを交互に見つめた。
数日前、「領地運営と息子には干渉するな」と冷たく言い放った自分に対し、この妻は「お邸の隅で静かに過ごす」と答えたはずだった。
それがどうだ。静かに過ごすどころか、屋敷の環境を根本から変え、心を閉ざしていた息子を大声で笑わせているではないか。
「リアーナ殿。これは、一体どういう状況か説明してもらえるだろうか」
クラウスが低い声で尋ねると、リアーナはふわりと蠱惑的な微笑みを浮かべた。
1回目の人生で「稀代の悪女」と恐れられた彼女特有の、相手を呑んでかかるような堂々たる笑みだ。
「立ち話もなんですから、応接室へ参りましょう。ちょうど、旦那様にご報告しなければならない『お屋敷のゴミ掃除』の件もございましたし」
「……ゴミ掃除、だと?」
* * *
暖炉に火が入り、すっかり快適な温度に保たれた応接室。
上座に座るクラウスの前に、リアーナはうず高く積まれた羊皮紙の束をドンッと置いた。屋敷の帳簿と決算書である。
「結論から申し上げますわ。執事補佐のトーマスが、マルトン商会と結託して屋敷の運営資金を横領しています。直近3年間の記録だけでも、被害額は金貨で数百枚にのぼるかと」
「なっ……トーマスが!? 馬鹿な、彼は先代からこの屋敷に仕える古株だぞ!」
「古株だからこそ、旦那様が前線での戦いにかり出されている隙を突いて、やりたい放題できたのでしょうね」
リアーナの言葉と同時に、メイド長のマーサに連行されて、執事補佐のトーマスが青ざめた顔で部屋に入ってきた。その後ろには、武装した騎士たちも控えている。
「だ、旦那様! 誤解でございます! このような王都から来たばかりの小娘――いや、奥様の戯言を信じないでくださいませ! 私は辺境伯家のために粉骨砕身……!」
必死に弁明しようとするトーマスに対し、リアーナは冷ややかな視線を向け、手元の帳簿をペラリと捲った。
「戯言? では聞きますが、先月納品された小麦の単価が市場価格の3倍になっているのはなぜ? しかも納品されたのは、カビの生えかけた最低ランクの黒麦でしたわ。それに、この『修繕費』の項目。冬の備えとして毎年莫大な予算が計上されているのに、屋敷の窓枠は隙間だらけ、暖炉の薪は湿気た粗悪品ばかり。お金はどこへ消えたのかしら?」
「そ、それは……! 辺境の冬は厳しく、物価が変動しやすいからで……!」
「言い訳は不要ですわ」
リアーナは、自らが前世の知識(複式簿記の概念と表計算ソフトの論理的思考)を用いて再構築した「新しい決算書」をトーマスの目の前に突きつけた。
「私が全ての支出と収入、在庫の数を『原因と結果』に分けて再計算した完全な帳簿です。あなたがマルトン商会に支払った架空の請求書の日付と、あなた個人の隠し口座(王都の銀行)に謎の入金があった日付が、1日の狂いもなく一致していますわよ」
「あ…………」
トーマスは、その完璧すぎる数字の羅列を見て、言葉を失った。
異世界の旧態依然とした単式簿記の隙を突いて誤魔化していたつもりだったが、リアーナが作成した現代の経理知識に基づく緻密な帳簿の前では、どんな言い逃れも不可能だった。
おまけに、お妃教育で叩き込まれた「犯罪の証拠を逃さない徹底的な裏取り」まで済ませてある。
「これでもまだ、私の戯言だと言い張るかしら?」
リアーナが扇子で口元を隠し、絶対零度の冷たさで見下ろすと、トーマスはついに膝から崩れ落ちた。
「……連行しろ。後ほど私が直々に尋問し、マルトン商会も一網打尽にする」
クラウスの怒りに満ちた声が響き、トーマスは騎士たちに引きずられていった。
部屋に静寂が戻ると、クラウスは大きなため息をつき、頭を抱えた。
「……私の失態だ。領地を守る魔物討伐にばかり気を取られ、足元の腐敗に全く気づいていなかった。屋敷の者たちには、酷い生活を強いていたのだな……」
肩を落とす「氷の辺境伯」の姿に、リアーナは少しだけ目を丸くした。
1回目の人生では、彼とまともに会話をしたことすらなかった。
彼は冷徹で血も涙もない男だと思っていたが、こうして見ると、ただ「不器用で、責任感が強すぎるだけ」の青年なのだと気づく。
彼自身もまた、粗末な食事と寒さに耐えながら、必死に領地を守っていたのだ。
「旦那様が謝る必要はありませんわ。戦場に立つ将が、後方の台所事情まで把握するのは不可能ですもの。適材適所という言葉がありますでしょう? ……旦那様は外の敵を、私は内の敵を排除した。ただそれだけのことですわ」
「リアーナ殿……」
「それに、私が勝手にやったことです。寒くて不味いご飯なんて、私の肌と精神に悪影響ですからね。自分の居場所を快適にするために、ちょっと『手腕』を振るっただけですわ」
わざと悪びれたように言うリアーナを見て、クラウスはふっと口元を綻ばせた。
彼が初めて見せた、柔らかな微笑みだった。
「噂とは、当てにならないものだな。王都で『稀代の悪女』と呼ばれていた君が、これほど鮮やかに屋敷の危機を救い、誰よりも領主の妻にふさわしい才覚を持っているとは」
「あら、私は悪女ですわよ? 自分に逆らう者は容赦なく切り捨てますもの」
二人の間にあった分厚い氷の壁が、音を立てて溶け始めた、その時だった。
「お父様……」
部屋の扉の影から、レオンが小さな顔を出した。
クラウスはハッとして、すぐに真面目な父親の顔に戻ろうとしたが、以前のような威圧感は消えていた。
「レオン。どうしたんだい? 私に何か用かな」
クラウスがぎこちなく、しかし優しい声で尋ねると、レオンはトテトテと歩み寄り、両手で持っていた「可動式の木製騎士フィギュア」をクラウスの膝の上に置いた。
「これ、お母様が作ってくれたの。アーサーって言うんだ。お父様みたいに、剣を振ってかっこよく戦うんだよ!」
「……リアーナ殿が? これを作ったのか?」
クラウスは、アーサーと呼ばれた木製の人形を手に取り、驚愕に目を見開いた。
武人である彼にはわかる。この人形の関節の構造、剣を構えたときの重心のバランス、鎧の装飾の緻密さ。
王都の一流の職人ですら、これほど精巧で躍動感のあるものを木で削り出すことはできないだろう。
「……信じられない。君は、帳簿の管理だけでなく、このような素晴らしい工芸品の技術まで持っているというのか?」
「ええ、まあ……趣味のようなものですわ。モノづくりは好きなので。他にも、ベッドを温める『湯たんぽ』の設計図なんかも工房に渡してありますわよ」
リアーナは前世の特技を褒められ、少し照れくさそうに視線を逸らした。
クラウスは人形をそっとレオンに返すと、立ち上がり、リアーナの前に深く頭を下げた。
「リアーナ殿。結婚初日の非礼を、心から詫びさせてほしい。私は君という人間を全く理解しようとせず、勝手な偏見で遠ざけていた。本当にすまなかった」
「だ、旦那様! 顔を上げてくださいませ! 貴族の当主が軽々しく頭を下げるものでは……」
「いや、これは私のけじめだ。……君がこの屋敷に来てから、まだ数日。だが、屋敷の空気は変わり、何よりレオンが、あんなに明るく笑うようになった」
クラウスは、大切そうにアーサーを抱きしめるレオンを愛おしそうに見つめた。
「私の前妻が亡くなってから、私はレオンとどう接していいか分からず、彼から逃げていた。彼を寂しい目に遭わせていたのは、私自身だ。君が、私ができなかったことを……この家族の凍った時間を溶かしてくれたんだ」
その言葉に、リアーナの胸の奥がじんわりと熱くなった。
1回目の人生では、お互いに歩み寄ろうとせず、すれ違ったまま破滅を迎えた二人。でも今は違う。彼女の手で作り上げた温もりが、確実に夫の心に届いている。
「リアーナ殿。もし君が許してくれるなら……どうか、この屋敷の『女主人』として、正式に私と領地を支えてくれないだろうか。私には、君の力が必要だ」
真っ直ぐな青い瞳で見つめられ、リアーナは一瞬言葉を詰まらせた。
厄介払いとして嫁いできたこの極寒の地。味方など誰もいないと思っていた。
けれど、自分が前世の特技とお妃教育の知識をフル活用して築き上げたこの場所は、今、かけがえのない彼女の「居場所」になろうとしている。
「……ふふっ。仕方がありませんわね。氷の辺境伯様からの直々のお頼みとあれば、お受けするしかありませんわ」
リアーナは、今度は「悪女」としてではなく、心からの優しい笑顔を浮かべて頷いた。
「ただし、私の手腕は少々荒削りですわよ。この極寒の辺境領を、私の特技で勝手に、世界一豊かで温かい領地に作り変えさせていただきますから。覚悟しておいてくださいませ!」
「ああ、望むところだ。君の好きにしてくれ。全幅の信頼を寄せるよ」
クラウスが微笑み返し、レオンが嬉しそうに二人の足元に抱きついてくる。
外ではまだ吹雪が荒れ狂っているが、領主の館の中は、三人の家族を包み込むような、この上なく温かな春の陽気に満ちていた。




