氷の館の帳簿と、お湯の魔法と設計図
翌朝。極寒の地にある辺境伯邸の朝は、容赦なく冷え込んでいた。
分厚い石造りの壁をもってしても、北の山脈から吹き下ろす凍てつく風は僅かな隙間から忍び込み、部屋の空気を芯から冷やしきっている。
暖炉の火も、湿気た薪のせいでパチパチと弱々しい音を立てるばかりだ。
豪華な天蓋付きベッドの中で、リアーナは毛布にくるまりながら小さく身震いをした。
(……いくらなんでも、寒すぎるわ。1回目の人生でもこの寒さに毎日文句を言っていたけれど、今世は文句を言う前に自分でなんとかしなきゃね)
そう決意してベッドから起き上がろうとした時だ。
コンコン、と。小鳥がつつくような、とても控えめなノックの音が扉から聞こえた。
「はい、どうぞ」
リアーナが声をかけると、重い木扉がギイッと少しだけ開き、そこから銀色の柔らかい髪がひょっこりと覗いた。
クラウスの息子、レオンである。
彼は昨日リアーナが作り直した「可動式の騎士フィギュア」を両手で大切そうに胸に抱きしめていた。大きな青い瞳が、期待と少しの緊張を滲ませてリアーナを見つめている。
「あ、新しいお母様……。おはよう、ございます」
「おはよう、レオン君。どうしたの? そんなに朝早くから」
「あの、えっと……アーサーが、お母様に挨拶したいって、言ってて……」
レオンはモジモジしながら、手にした騎士フィギュア――どうやら「アーサー」と名付けたらしい――の腕を動かし、ペコリとお辞儀をさせてみせた。
(か、可愛い……!!)
リアーナは心の中で大きくガッツポーズをした。
前世の立体造形デザイナーだった頃、自分が精魂込めてデザインしたフィギュアを愛でてくれるファンを見た時と同じ、いや、それ以上の喜びと胸のトキメキが押し寄せてくる。
自分が作ったものを大切にしてくれる小さな男の子の姿は、破壊力抜群の癒し(ヒーリング)だった。
「まあ、アーサー騎士団長。ご丁寧な挨拶をありがとう。レオン君も、よく眠れたかしら? よかったら、朝食を一緒にいただきましょうか」
リアーナが優しく微笑みかけると、レオンの顔がパァッと明るくなり、力強くコクコクと頷いた。
しばらくして、私室に朝食が運ばれてきた。
配膳にやってきた若いメイドは、あの「気難しくて恐ろしい」と噂の公爵令嬢が、前妻の息子であるレオンと並んで和やかに食卓についている姿を見て、目を丸くして固まっていた。
しかし、リアーナはそんなメイドの反応よりも、テーブルの上に並べられた食事の内容に目を奪われていた。
(……これは、一体どういうこと?)
銀のトレイに乗せられていたのは、カチカチに乾燥した黒パンがふた切れと、具がほとんど入っていない水っぽいスープ、そして少しばかりの塩漬け肉だけだった。
誤解のないように言えば、平民の食事としては十分に腹を満たせるものかもしれない。
しかし、ここは国境を守る大貴族、辺境伯の屋敷である。しかも、育ち盛りの5歳の子供に食べさせるには、あまりにも栄養が偏りすぎているし、何より温かみがなかった。
「レオン君。いつもこういう朝食を食べているの?」
「うん。でも、お肉がある日はごちそうなんだよ」
レオンは疑うこともなく、硬いパンを小さな歯で一生懸命に噛みちぎっている。
リアーナは静かにフォークを置き、部屋の隅で待機していたメイド長・マーサを呼んだ。
マーサは初老の厳しい顔つきをした女性で、リアーナに対して明確な警戒心を抱いている人物だ。
「マーサ。辺境伯邸の台所事情について、少しお聞きしてもよろしくて?」
「……何かお気に召しませんでしたか、奥様。ここは王都とは違い、物資の乏しい最果ての地でございます。公爵家のような豪奢なお食事はご用意できかねます」
マーサの言葉には、「我儘な令嬢め、やはり文句を言い始めたか」という棘が含まれていた。1回目の人生のリアーナなら、ここで激昂して皿を壁に投げつけていたところだ。
しかし、今の彼女は完璧な淑女の笑みを崩さない。
「ええ、辺境の冬が厳しいことは理解していますわ。私が聞きたいのは『なぜ物資が乏しいのか』ということです。
旦那様は領地防衛のために多大な予算を王家から受け取っているはず。
それに、この領地は夏の間、豊かな小麦と毛皮が取れる豊かな土地ですわよね? 冬を越すための備蓄が、この程度の粗末なものになるはずがありません」
リアーナの的確な指摘に、マーサは僅かに目を見張った。
ただの我儘娘だと思っていた女の口から、領地の特産品や予算の話が出るとは思っていなかったのだ。
「それは……その、備蓄の管理や物資の調達は、執事補佐のトーマスが取り仕切っておりまして……」
「そう。では、マーサ。今すぐ直近3年分の『領地運営の帳簿』と『物資調達の決算書』をここへ持ってきなさい」
「ちょ、帳簿でございますか? しかし、奥様にそのようなものをお見せする権限は……」
「私は、クラウス・フォン・クラウゼヴィッツ辺境伯の『正妻』です。この邸の管理状況を把握するのは、妻として当然の義務ではありませんか? それとも、私には見せられないような“やましいこと”でも記載されているのかしら?」
リアーナがスッと目を細めて冷ややかな視線を向けると、その圧倒的な威厳(お妃教育で王太后から直接叩き込まれた、国を束ねる者の覇気だ)に押され、マーサは「は、はい! 直ちにお持ちいたします!」と足早に部屋を退出していった。
数十分後。リアーナの目の前には、分厚い羊皮紙の束が山のように積まれていた。
レオンがベッドの上でアーサーと遊んでいる横で、リアーナは猛烈な勢いで帳簿の数字を追い始めた。
(なるほどね……見事なまでの二重帳簿と、中間搾取のオンパレードじゃないの)
リアーナの頭の中には、前世で培った「現代日本の表計算ソフト的思考回路」が備わっている。
それに加えて、王太后から「国家予算の矛盾を1時間で見抜け」と鞭で叩かれながら仕込まれた超一流の経理知識だ。
手計算すら必要ない。数字の羅列を見るだけで、不自然なお金の流れが赤く光って見えるようだった。
「小麦の仕入れ価格が市場価格の3倍? あり得ないわね。この『マルトン商会』という業者が、執事補佐のトーマスと結託しているのは明白だわ。粗悪な薪や古い食材を法外な値段で屋敷に押し付け、浮いた予算を二人で山分けしているのね」
1回目の人生では、リアーナは領地運営に一切興味を持たず、自分のドレスや宝石にばかりお金を使っていたため、この腐敗に気づくのが遅すぎた。
その結果、領民の不満が爆発してしまったのだ。
(トーマスと悪徳商人は、後で旦那様に証拠を突きつけて一網打尽にしてもらうとして……問題は『今』よ。この寒さと質の悪い生活環境を、一刻も早くどうにかしないと、レオン君が風邪を引いてしまうわ)
リアーナは帳簿をパタンと閉じ、立ち上がった。
「レオン君、少しお部屋でお留守番していてね。お母様は、お屋敷を暖かくする魔法の準備をしてくるわ」
「ほんと? いってらっしゃい、お母様!」
リアーナが向かったのは、屋敷の敷地内にある工房だった。
武器の修繕や馬車の整備を行うための場所で、むさ苦しい職人たちが鉄を打ち、木を削っている。
豪華なドレスを引きずった公爵令嬢が足を踏み入れるような場所ではない。
「おいおい、奥様がこんな埃っぽい所に何の用でさ? 俺たちは旦那様の武器の修繕で忙しいんだ」
筋骨隆々の鍛冶屋の親方、ガストンが訝しげに顔をしかめた。
他の職人たちも、冷ややかな視線を向けている。彼らもまた、リアーナの悪評を聞いているのだ。
しかし、リアーナは全く怯まなかった。むしろ、工具や素材の匂いに前世のクリエイター魂が刺激され、目がキラキラと輝いていた。
「ガストン親方ね。忙しいところ悪いけれど、私の個人的な『依頼』を受けてほしいの。もちろん、手間賃は私の個人的な資産から十分に支払うわ」
そう言って、リアーナは持参した羊皮紙をガストンの目の前に広げた。
「なんだこりゃ……?」
ガストンは、その紙を見て息を呑んだ。
そこに描かれていたのは、見たこともない奇妙な金属製の容器の図面だった。
だが、ただのスケッチではない。正面、側面、上面からの視点が正確な縮尺で描かれた「三面図」であり、ご丁寧に内部の構造や、蓋のネジ山のピッチ(間隔)までが緻密に指定されている。
「これは『湯たんぽ』という防寒具よ。中に熱湯を入れて、布で包んでベッドに入れるの。安全で、朝までずっと温かい魔法のアイテムよ。熱伝導率を考えて素材は銅を使いたいわ。お湯が漏れないように、蓋のスクリュー構造は図面の通りに1ミリの狂いもなく削り出してちょうだい。熱膨張で開かなくなるのを防ぐために、あえてパッキン用の溝も設計してあるから」
立て続けに飛び出す専門用語と、完璧に理にかなった設計図面。
異世界の鍛冶職人であるガストンには「熱伝導率」や「熱膨張」という言葉の正確な意味はわからなくても、長年の経験から「この図面がとんでもなく合理的で、機能美に溢れている」ことだけは一瞬で理解できた。
「お、奥様……アンタ、ただの貴族のお嬢様じゃねえな……? この図面、アンタが自分で引いたのか!?」
「ええ、そうよ。私、モノづくりには少々うるさいの。それから、こっちの図面は木工職人にお願い。窓枠にはめ込むためのパッキンよ。獣の脂を染み込ませたフェルトを木枠で挟み込んで、窓の隙間風を完全にシャットアウトするの。ミリ単位の調整が必要だから、腕のいい職人に頼みたいわ」
ガストンの目が、みるみるうちに職人としての熱を帯びていく。優れた設計図は、職人の腕を鳴らす最高のスパイスだ。
「へへっ、面白え! まさか奥様からこんなどデカい仕事が舞い込むとはな。野郎ども、聞いたか! 奥様のご要望だ、気合い入れて最高のモンを打ち上げろ!!」
「「「おおおおっ!!」」」
工房に、職人たちの雄叫びが響き渡った。
たった数枚の設計図で、リアーナは気難しい職人たちのハートを完全に掌握してしまったのである。
その日の夕方。
出来上がったばかりの銅製の「湯たんぽ」は、柔らかいウールのカバーに包まれ、レオンの小さなベッドの中に忍ばせられた。
「わぁ……! ベッドの中が、お日様みたいにポカポカしてる!」
寝巻き姿のレオンが、湯たんぽを抱きしめて満面の笑みを浮かべた。
その頬はほんのりとピンク色に染まり、朝の寒そうな様子は微塵もない。
さらに、リアーナの指示で取り付けられた窓枠の隙間埋めパッキンのおかげで、部屋の中にヒューヒューと吹き込んでいた冷たい隙間風は完全に消え去っていた。
「よかった。これで今夜からはゆっくり眠れるわね、レオン君」
リアーナがレオンの頭を撫でていると、後ろで控えていたメイド長マーサが、信じられないものを見るような目で立ち尽くしていた。
マーサの足元にも、リアーナが職人に作らせた「使用人用」の湯たんぽが置かれている。
「奥様……この貴重な品を、我々使用人にも与えてくださるとは……それに、お部屋の寒さがこれほど劇的に改善するなんて……」
「勘違いしないでちょうだい、マーサ。私が寒がりだから、自分が快適に過ごすために屋敷全体を工事させただけよ。使用人が風邪を引いて倒れたら、私の世話をする人間がいなくなって困るでしょう?」
リアーナはわざとツンと澄ました顔で言ったが、マーサの目にはうっすらと涙が浮かんでいた。
(悪女だなんて、誰が言ったのか。この方は、こんなにも賢く、そしてお優しい……!)
氷のように冷え切っていた邸の使用人たちの心が、リアーナの持ち込んだ小さな温もりによって、確実に溶け始めていた。
* * *
それから三日後。
国境付近の魔物討伐と見回りの任務を終え、数日ぶりに屋敷へと帰還したクラウス・フォン・クラウゼヴィッツ辺境伯は、玄関の扉を開けた瞬間に異変を感じ取った。
「……なんだ、この暖かさは」
いつもなら、分厚い外套を着たまま震え上がるほど冷え切っているはずの玄関ホールが、ふんわりとした暖気に包まれていた。
見れば、古く隙間だらけだった扉や窓のサッシに、見たこともない木とフェルトの細工が施されており、外の冷気を完全に遮断している。
出迎えた使用人たちの様子も違った。
いつも寒さと疲労で暗い顔をしていた彼らの血色がすこぶる良く、テキパキと笑顔で働いているではないか。
彼らの懐には、何やら金属製の筒のようなもの(湯たんぽである)が大事そうに抱えられている。
さらにクラウスを驚愕させたのは、大広間の奥から聞こえてきた声だった。
「きゃははっ! 新しいお母様、見て見て! アーサーがドラゴンをやっつけたよ!」
「ふふふ、さすがアーサーね。じゃあ次は、私が作ったこの『投石機』で反撃よ! そーれ!」
そこには、今まで自分に対しても怯えて近寄ろうとしなかった息子・レオンが、床に這いつくばって腹の底から笑い声を上げている姿があった。
そしてその横には、豪華なドレスの裾が乱れるのも構わず、レオンと一緒に手作りのオモチャで本気になって遊んでいる妻・リアーナの姿。
「…………は?」
北方の守護者であり、「氷の辺境伯」と恐れられる男の口から、間の抜けた声が漏れた。
「私が留守にしていたたった数日の間に……この屋敷で、そして私の家族に、一体何が起きたというんだ……?」
クラウスは唖然としたまま、妻の信じられない姿をただただ見つめることしかできなかった。
「関わるな」と突き放したはずの妻が、己の手腕ひとつで、瞬く間にこの氷の館を温かな「家」へと変えようとしていることに、彼はまだ気づき始めたばかりだった。




