新しい命の誕生と、悪役令嬢の「世界一温かい産室」
辺境領に、深く美しい雪が降り積もる真冬の夜。
世界が静寂と冷気に包まれる中、クラウゼヴィッツ辺境伯邸の主寝室では、ついに「その時」が訪れようとしていた。
「……ふぅ、ふぅ……っ」
ベッドの上で、大きく膨らんだお腹を抱え、リアーナが短く息を吐き出している。
規則的な陣痛が始まり、いよいよ新しい命がこの世界へ産声を上げようとしているのだ。
しかし、産婦であるリアーナが極めて冷静に深呼吸を繰り返しているのに対し、彼女の手を握る夫のクラウスは、文字通り「パニック状態」に陥っていた。
「リ、リアーナ! 痛いか!? 大丈夫か! 誰か、軍医を! いや、王都から一番腕の立つ治癒魔導士を引っ張ってこい!! マーサ、お湯だ! お湯を沸かせ!!」
大災厄の魔物の群れを前にしても一歩も引かなかった「氷の辺境伯」が、今や顔面を蒼白にし、ベッドの横でオロオロと取り乱している。
「旦那様……っ、落ち着いてくださいませ。お湯なら、私が作った『エコ・ボイラー』で蛇口からいつでも出ますわよ……」
リアーナは陣痛の波を逃しながら、呆れたようにクスリと笑った。
「そ、そうだった! だが、君がこんなに苦しんでいるのに、私は何もできない……! 代われるものなら、私が代わってやりたい……っ!」
クラウスはリアーナの冷や汗をハンカチで拭いながら、自分の無力さに本気で涙ぐんでいる。
「ふふっ。旦那様は、私の手をこうして握って、ずっとそばにいてくだされば、それで十分ですわ」
異世界の貴族社会において、出産とは「暗く、穢れた部屋で、女性だけでひっそりと行うもの」という古い常識があった。
しかし、リアーナが用意した産室は、その常識を根底から覆す「究極のリラックス空間」であった。
部屋は最新の熱循環システム(ダクト)によって、春の陽だまりのようにポカポカと温かい。
照明は薄暗いロウソクではなく、目に優しい暖色系の魔導ランプに調整されている。
そして部屋中に漂っているのは、リアーナが抽出した「ラベンダーとカモミールの精油」の甘く安らぐ香りだった。
「……ふぅーっ、はぁーっ……。大丈夫よ、赤ちゃん。ゆっくり、自分のペースで出ておいで……」
リアーナが実践しているのは、前世の現代知識である「ソフロロジー法(リラックスを重視した独自の呼吸法とイメージトレーニング)」である。
恐怖や緊張は筋肉を硬直させ、痛みを増幅させてしまう。
だからこそ、リアーナは徹底的にリラックスできる環境を作り、陣痛を「赤ちゃんに会うための大切なエネルギー」として前向きに受け入れる訓練をしてきたのだ。
部屋の隅では、以前レオンと一緒に作った「特製オルゴール」が、ポロロン、ポロロンと、優しい子守唄のメロディを奏でている。
「奥様、素晴らしい呼吸です! 赤ちゃん、もうすぐそこまで降りてきていますよ!」
徹底的な衛生管理と手洗いの訓練を受けたメイド長のマーサが、清潔な白衣を着て力強く励ます。
王家の侍医を追い返して正解だった。
ここには、リアーナを心から慕い、彼女の現代衛生学を熟知した最強のチームしかいないのだから。
「……ああっ……んっ……!!」
陣痛の波が最大に達し、リアーナが強く目を閉じた。
「リアーナ!! 頑張れ、私の女神! 私がついている、ずっと君のそばにいるぞ!!」
クラウスが、リアーナの手を両手で包み込み、祈るように、そして彼女の痛みを少しでも吸い取ろうとするかのように、額をこすり合わせた。
彼の手から伝わる、大きくて、力強くて、何よりも温かい愛情。
1回目の人生。炎に包まれた氷の館で、誰にも看取られず、愛されず、孤独と絶望の中で死んでいった過去。
しかし今、彼女の周りには、最高に快適な部屋と、彼女を命がけで愛し、共に戦ってくれる世界一の夫がいる。
(……ああ。私、本当に、この人の妻になれてよかった……!)
リアーナはクラウスの手を強く握り返し、すべての愛と力を振り絞って、最後の深呼吸をした。
「……はぁぁぁぁぁっ!!」
その直後。
『オギャアアアッ! オギャアアアアッ!!』
部屋の中に、とびきり元気で、力強い、新しい命の産声が響き渡った。
「奥様! 旦那様! おめでとうございます! 可愛らしい、元気な女の子です!!」
マーサが歓喜の涙を流しながら、産湯で綺麗に拭き上げられた小さな小さな赤ん坊を、フワフワの清潔なタオルで包み込んだ。
「女の子……っ。私と、君の、娘……っ」
クラウスは震える手で口元を覆い、ポロポロと大粒の涙をこぼしながら、その奇跡のような光景を見つめていた。
リアーナの胸元に、そっと赤ん坊が乗せられる(現代のカンガルーケア)。
「……よく頑張ったわね、私のかわいい天使」
リアーナが優しく頬を撫でると、赤ん坊はピタリと泣き止み、ゆっくりと小さな目を開けた。
プラチナブロンドの柔らかな産毛に、クラウスと同じ、氷のように透き通った青い瞳。
二人の特徴を完璧に受け継いだ、息を呑むほど愛らしい女の子だった。
「リアーナ……ありがとう。ありがとう……っ! 私に、こんなにも素晴らしい奇跡を与えてくれて……!」
クラウスはリアーナの額に熱いキスを落とし、そのまま声を出して泣き崩れた。
最強の騎士が、妻と産まれたばかりの娘の前で、子供のように涙を流して感謝を告げている。
その姿が愛おしくて、リアーナの目からも幸せの涙が溢れ出した。
* * *
数時間後。
リアーナの体調が落ち着き、綺麗に着替えを済ませた産室の扉が、控えめにノックされた。
「……お母様、お父様。入ってもいい?」
扉の隙間から、十二歳になったレオンが、緊張した面持ちで顔を覗かせていた。
「ええ、レオン君。入っていらっしゃい」
リアーナが微笑んで手招きすると、レオンは抜き足差し足で、ベッドの横に置かれたベビーベッド(リアーナの指示でガストン親方が作った、安全基準を満たした特注品)へと近づいた。
ベビーベッドの中で、真新しい「使い捨て紙おむつ」を着け、スヤスヤと眠る小さな赤ちゃん。
それを見た瞬間、レオンの大きな青い瞳が、キラキラと星のように輝き出した。
「わぁ……。ちっちゃい……! お手てが、もみじみたいだ……」
レオンは息を呑み、魔法の宝物を見るような目で赤ちゃんを見つめている。
「レオン。お前も抱っこしてみるか?」
クラウスが優しく声をかけると、レオンは「えっ!? ぼ、ぼくが抱っこして、壊れちゃわないかな……?」と慌てて後ずさった。
「大丈夫よ。お母様が支えてあげるから、ここに座って」
リアーナに促され、レオンがベッドの縁に座ると、リアーナはそっと赤ちゃんを抱き上げ、レオンの腕の中へと乗せた。
「……っ!!」
レオンの腕の中で、赤ちゃんが「ふにゃあ」と小さく身じろぎをする。
その圧倒的な温かさと、ミルクの甘い匂い。そして、ずっしりとした「命の重さ」。
レオンが震える指先で、赤ちゃんの小さな手にそっと触れると――赤ちゃんは、レオンの人差し指を、小さな手でギュッと力強く握り返したのだ。
「あっ……! 握ってくれた! ぼくの指を、握ってくれたよ、お母様!」
レオンの顔に、これ以上ないほどの喜びと、お兄ちゃんとしての自覚に満ちた、輝かしい笑顔が弾けた。
彼はもう、前妻の子供だからと遠慮して泣いていた、不安な男の子ではない。
「……初めまして、アリア。ぼくはレオン。きみのお兄ちゃんだよ」
赤ん坊の名前は、優しいオルゴールの音色(旋律)にちなんで、「アリア」と名付けられていた。
レオンはポケットから、自分がヤスリがけをして丁寧に作った「木製のペガサス」のフィギュアを取り出し、ベビーベッドの枕元にそっと置いた。
「ぼくのアーサーと、このペガサスで、ずっとずっとアリアを守ってあげるからね。……だから、安心して大きくなってね」
その完璧な「お兄ちゃん」の姿に、リアーナとクラウスは顔を見合わせ、心底愛おしそうに目を細めた。
血の繋がりなど関係ない。
お互いを想い合い、尊重し合い、命をかけて守り抜くと誓い合ったこの四人こそが、正真正銘、世界で一番温かい「家族」なのだ。
* * *
それから数日後の、よく晴れた冬の朝。
辺境伯邸のバルコニーから、リアーナはクラウスに肩を抱かれながら、眼下に広がる領地の景色を見下ろしていた。
部屋の中では、ベビーモニターのクマのぬいぐるみから、アリアの穏やかな寝息が聞こえている。
冬だというのに、領地は活気に満ちていた。
遠くに見える「精霊の森のエコ・リゾート」からは温泉の湯気が立ち上り、街の広場には魔法鉄道が次々と新鮮な物資を運び込んでいる。
領立学校からは、子供たちの楽しそうな笑い声が風に乗って聞こえてきた。
「……見事なものだな。君がこの領地にやってきてから、まだ数年しか経っていないというのに。ここは本当に、大陸で一番豊かで、温かい国になった」
クラウスが、リアーナのプラチナブロンドの髪にそっとキスをしながら囁く。
「ふふっ。言ったでしょう? 私は悪役令嬢ですもの。私の居場所は、私の手で最高のものに作り上げてみせますわって」
リアーナは悪戯っぽく微笑み、クラウスの胸に頭を預けた。
「でも……私一人の力ではありませんわ。旦那様が私を信じ、世界最強の騎士として私を守り抜いてくださったからこそ、私は自由に手腕を振るうことができたのです」
「リアーナ……」
クラウスはリアーナの身体を正面から抱きしめ、真っ直ぐに彼女を見つめた。
その青い瞳には、出会った頃の「氷」の冷たさは微塵もなく、すべてを溶かしてしまうような、深く甘い愛情だけが満ちている。
「君は、私の人生の光だ。君と、レオンと、アリア。私の愛する家族を守るためなら、私は何度でも限界を超えてみせる。……生涯をかけて、君を世界一幸せな女にすると誓おう」
「ええ。存分に甘やかしてくださいませ、私の愛しい旦那様」
真っ白な雪景色の中、二人の影が甘く、そして永遠を誓うように重なり合った。
かつて、冷え切った夫婦関係と、味方不在の孤独の中で絶望していた公爵令嬢。
しかし、彼女が前世の特技と知識、そして持ち前の「悪役令嬢としてのプライド」を武器に戦い抜いた結果、そこには誰にも壊すことのできない、極上の「幸せな居場所」が完成したのである。
(第4部:マタニティ&リゾート開発編・完 ~最終章:次世代編・世界一幸せな辺境国へ続く~)




