出産準備と、悪役令嬢の「完璧なるベビー・イノベーション」
精霊の森での「エコ・リゾート」開発から数ヶ月が経過し、辺境領には木枯らしが吹き始める晩秋が訪れていた。
妊娠九ヶ月を迎え、お腹が大きくせり出したリアーナは、安全を考慮して森のリゾートから辺境伯邸のメインルームへと戻り、いよいよ出産への最終準備に入っていた。
しかし、邸内の空気は、かつてないほどの「異様な厳戒態勢」に包まれていた。
「いいか! 邸の門をくぐる者は、必ずリアーナ様特製の『殺菌ハーブ液』で三度のうがいと手洗いを徹底しろ! 服についた外のホコリは、風魔法で一ミリ残らず吹き飛ばすんだ! 少しでも咳が出る者は、絶対に奥様の部屋の半径五十メートル以内に近づけるな!!」
玄関ホールで、目を血走らせたクラウスが騎士たちに怒号を飛ばしている。
大災厄の魔物すら一太刀で切り伏せる「氷の辺境伯」は、愛する妻の出産が近づくにつれ、過保護と心配が完全に限界突破し、もはや「歩く無菌室製造機」と化していた。
「……はぁ。旦那様のあの過保護っぷり、どうにかなりませんこと?」
自室のふかふかな絨毯の上で、ゆったりとしたマタニティウェアを着て「マタニティヨガ(安産のためのストレッチ)」をしていたリアーナは、呆れたようにため息をついた。
「お母様、お父様は毎日あんな感じだよ。昨日は『産室のベッドが硬すぎるかもしれない』って言って、羽毛布団を十枚も重ねようとして、マーサに怒られてたし」
部屋の隅で、ルーズリーフのノートに万年筆を走らせて学園の休学課題をこなしていた十一歳のレオンが、クスクスと笑いながら教えてくれた。
十一歳になったレオンは、声変わりも少しずつ始まり、顔つきもすっかり「頼もしい青年」のそれに近づいている。
「まったく……。でも、出産に向けて準備しなければならないのは、旦那様のメンタルケアだけじゃありませんわ。……ガストン親方! 例の品は完成しまして?」
リアーナが声をかけると、全身を徹底的に殺菌消毒されて少し涙目のガストン親方が、木箱を抱えて部屋に入ってきた。
「お、おうさ、奥様……! 奥様の仰る通り、とんでもねえ『魔法の布』と『魔導具』を仕上げてきやしたぜ!」
ガストンが木箱から最初に取り出したのは、真っ白でフワフワとした、分厚い紙のような素材で作られた奇妙な下着だった。
「これは……『使い捨て紙おむつ』の完成品ね!」
リアーナは目を輝かせた。
異世界の育児において、最も母親やメイドたちの負担になるのが「布おむつの洗濯」である。
特に冬の辺境領では、冷たい水で一日に何十枚もおむつを洗い、乾かない布に悩まされるのが常識だった。
「精霊の森で採取できる『吸水スライムのゼリー』を乾燥させて粉末状(高分子吸収ポリマーの代用)にし、それを辺境の木材パルプで挟み込んだのよ。
これなら、赤ちゃんの大量のおしっこを一瞬でゼリー状に固めて、お尻をサラサラに保てるわ! 汚れたらそのまま丸めて捨てるだけ。メイドたちの冬の洗濯地獄は、これで永遠に終わりますわ!」
「す、すげえ……! 水をかけたら、一瞬で固まりやがった! こりゃあ育児の常識がひっくり返るぜ!」
ガストンが実験として水をかけると、パルプの中の粉末が瞬時に水を吸い込み、逆さにしても一滴も水が落ちない。完璧な「現代の紙おむつ」の再現であった。
「それから、こっちが『ベビーモニター』よ」
次にリアーナが取り出したのは、二つの可愛らしいクマのぬいぐるみだった。
「このクマのぬいぐるみの中には、一対の『共鳴の魔力石(音を伝える石)』が仕込まれているの。
一つを赤ちゃんのベッドに置いておけば、もう一つのクマから赤ちゃんの泣き声や寝息が聞こえる仕組みよ。
これなら、私が少し部屋を離れて執務をしている時でも、すぐに赤ちゃんの異変に気づけるわ」
これまでの「貴族の育児」は、乳母にすべてを任せきりにするのが当たり前だった。
しかし、リアーナは「自分の子供は、自分の手と目の届く範囲で、たっぷりの愛情を注いで育てたい」と強く願っていたのだ。
「お母様! ぼくも、赤ちゃんへのプレゼントを作ったんだ!」
レオンが誇らしげに立ち上がり、自分の机から木彫りのオモチャを持ってきた。
それは、彼の一番の宝物である騎士フィギュア「アーサー」の隣に並べるために作られた、翼の生えた美しい「ペガサス」の可動式フィギュアだった。
「赤ちゃんが産まれたら、ぼくがアーサーと一緒に、このペガサスで遊んであげるんだ。関節もちゃんと動くように、ヤスリがけを頑張ったんだよ!」
「まあ……! レオン君、なんて素晴らしい出来栄えなの。赤ちゃんも、こんなに優しくて手先が器用なお兄ちゃんがいて、絶対に大喜びするわ」
リアーナがレオンの頭を撫でて絶賛していると、部屋の扉がノックされ、メイド長のマーサが困り果てた顔で入ってきた。
「奥様。王都より、国王陛下直属の『筆頭侍医』殿が到着いたしました。奥様のご出産をサポートするため、王家からの贈り物とのことですが……」
* * *
応接室に通された筆頭侍医は、立派な白髭を蓄えた、いかにも権威主義的な老人であった。
彼はリアーナと、付き添いでやってきたクラウスを見るなり、尊大な態度で語り始めた。
「クラウゼヴィッツ辺境伯、ならびに夫人。我が王国の最高峰の医療技術を持つこの私が来たからには、ご安心くだされ。
すでに、王都から選び抜かれた健康な『乳母』を五人連れてきております。
出産後は、直ちに赤子を乳母に預け、夫人は一ヶ月間、暗い部屋で絶対安静にしていただきますぞ」
その言葉に、リアーナはピクリと眉を動かした。
「……乳母に預ける? 私が自分の母乳で育てるつもりですが」
「とんでもない! 高貴な身分の女性が、自ら授乳などという下品な真似をしてはなりません。それに、産室は『穢れ(けがれ)』の場。辺境伯様には、別棟で静かに吉報をお待ちいただきましょう」
貴族社会における、古く間違った出産の常識。
「父親は産室に入らない」「母親は育児をしない」という冷たいルールを押し付けようとする侍医に対し、リアーナはパタン、と静かに扇子を閉じた。
「……お黙りなさい」
「な、なんですと?」
リアーナの瞳に、絶対零度の「悪役令嬢」の冷たさが宿る。
「私の子供をどう産み、どう育てるかは、この私が決めます。乳母など不要ですわ。私自身がたっぷりと抱きしめ、母乳を与え、そしてレオン君という立派な長男と共に、家族全員の手でこの子を育てます」
「ば、馬鹿な! そのような平民のような真似、貴族の……それも辺境伯家の当主が許すはずが……!」
侍医がクラウスに同意を求めようと振り返ったが、クラウスの瞳もまた、リアーナと同じく強い意志の光を放っていた。
「私の妻の言う通りだ。ここは王都ではない。クラウゼヴィッツ家のルールは、私と妻が決める」
クラウスはリアーナの隣に立ち、彼女の肩をそっと抱き寄せた。
「それに、私は妻が命がけで我が子を産むその瞬間に、別棟でふんぞり返って待っているような薄情な男ではない。……私は、産室に入る。妻の手を握り、共に戦うつもりだ」
「た、立ち会い出産だと!? 産室の血と叫び声は、殿方の精神に耐えられるものではありませんぞ!」
侍医が顔を真っ赤にして反論する。
「私を誰だと思っている。大災厄の魔物の海を潜り抜けてきた辺境の猛将だぞ。それに……愛する妻の痛みを少しでも分かち合えるのなら、どんな戦場よりも、私は彼女のそばにいたいのだ」
クラウスの迷いのない、真っ直ぐな言葉。
その圧倒的な「家族の絆」と「妻への愛」の前に、古い常識に縛られた侍医は完全に言葉を失い、へたり込んでしまった。
「……お分かりかしら? 王家の厚意には感謝いたしますが、ここは私の『居場所』です。私の城で、私のルールに口出しすることは許しませんわ。お引き取りを」
リアーナが扇子で出口を示すと、侍医は逃げるように応接室から立ち去っていった。
* * *
その日の夜。
寝室の広いベッドで、リアーナはクラウスの腕枕に包まれながら、静かな時間を過ごしていた。
「……旦那様。先ほどは、きっぱりと追い払ってしまって良かったのですか? 王家からの使いでしたのに」
「構わないさ。君と子供の安全、そして私たちの家族の形を守ること以上に優先すべきことなど、この世にはない」
クラウスは優しく微笑むと、リアーナの大きく膨らんだお腹に、そっと自分の大きな手を当てた。
「それにしても……私は本当に、君に驚かされてばかりだ。
紙のおむつに、離れた場所の音が聞こえるクマのぬいぐるみ。
……君は、母親になる準備まで、こんなにも完璧で、魔法のようだな」
「ふふっ。私は我儘ですから、少しでも自分が楽をして、快適に子育てを楽しみたいだけですわ。それに……旦那様が一緒に育児をしてくださるなら、鬼に金棒ですもの」
リアーナがクラウスの胸板に顔をすり寄せると、クラウスは彼女のおでこに優しくキスを落とした。
『ポコッ』
その時。
クラウスが当てていたお腹の手の下で、内側から小さな、しかしはっきりとした蹴り(胎動)が伝わってきた。
「――っ!?」
クラウスの目が、これ以上ないほど大きく見開かれた。
「り、リアーナ……今……っ、動いたぞ……! 赤ん坊が、私の手を、蹴った……!」
「ええ。旦那様の声を聞いて、お返事をしたのね。最近は、レオン君が本を読んであげている時も、よくこうして動くんですのよ」
リアーナが愛おしそうに微笑むと、最強の辺境騎士であるクラウスの瞳から、ポロリと、一筋の涙がこぼれ落ちた。
「……愛おしい。君も、レオンも、そしてこの新しい命も。すべてが、私にはもったいないほどの奇跡だ。……リアーナ。痛い思いをさせてすまない。だが、ありがとう。私を父親にしてくれて」
震える声で感謝を告げるクラウスは、リアーナのお腹にそっと顔を近づけ、慈しむように、何度も何度もキスの雨を降らせた。
「旦那様ったら……泣き虫ですわね。そんなことで泣いていたら、いざ産まれる時に倒れてしまいますわよ?」
「倒れるものか。私は君の手を、絶対に離さない。君の痛みを、私がすべて肩代わりできればいいのに……」
重すぎるほどの愛と過保護。
しかし、その温かさが、リアーナの心にあった出産へのわずかな不安を、綺麗に溶かして消し去ってくれた。
「……愛しておりますわ、クラウス様。私たちなら、絶対に世界一幸せな家族になれますわね」
「ああ。私が、命に代えてもそうしてみせる」
静かな冬の夜。
辺境伯邸の寝室は、ポカポカとした暖炉の火と、これから生まれてくる新しい命への希望、そして夫婦の極上の愛に満たされていた。
1回目の人生で、誰にも愛されずに炎の中で死んでいった「悪女」。
彼女が自らの手腕で築き上げたこの居場所に、もうすぐ、世界で一番温かくて、希望に満ちた新しい泣き声が響き渡ろうとしていた。




