新しい命の宿りと、悪役令嬢の「マタニティ革命」
ガルディア帝国の「大災厄」を圧倒的な手腕でねじ伏せ、王都から再び辺境領の屋敷へと戻ってきてから数週間。
辺境領は初夏の瑞々しい緑に包まれ、一年で最も過ごしやすい美しい季節を迎えていた。
しかし、領主の館の中だけは、まるで非常事態宣言が発令されたかのような大騒ぎになっていた。
「マーサ! 廊下の絨毯をすべて二重……いや、三重に敷き詰め直せ! リアーナの足に少しでも衝撃を与えてはならん!」
「階段の手すりには綿を巻き付けろ! 角という角をすべてクッションで覆うんだ!」
「氷の辺境伯」ことクラウゼヴィッツ家当主クラウスが、血走った目で屋敷中の使用人たちに怒号(という名の過保護な指示)を飛ばしている。
彼の手には、王都から呼び寄せた最高位の産科医が書き記した『妊婦の心得』という羊皮紙が握られていた。
「……だーっ! もう、いい加減になさって、旦那様!!」
ついに堪忍袋の緒が切れたリアーナが、寝室から飛び出してきた。
「リ、リアーナ!? 駄目じゃないか、歩いては! さあ、私の腕の中に!」
クラウスが慌てて駆け寄り、リアーナを「お姫様抱っこ」しようと腕を伸ばすが、リアーナはピシャリと扇子でその腕を叩き落とした。
「私は妊娠三ヶ月に入ったばかりで、お医者様からも『順調そのもの、適度な運動を心がけるように』と言われたはずですわ! 絨毯につまずいて転んだらどうするおつもり!? それに、私をガラス細工か何かのように扱うのはやめてくださいませ!」
「だが、もし君の身に、そしてお腹の赤ん坊に何かあったらと思うと、私は心配で心臓が破裂しそうなんだ……!」
大柄な猛将が、本気で涙目になりながらプルプルと震えている。
1回目の人生では考えられなかった、夫の「重すぎる溺愛と過保護」。愛されているのは嬉しいが、このままでは運動不足でかえって体調を崩してしまう。
「はぁ……。旦那様のお気持ちは嬉しいですけれど、私は『悪役令嬢』ですわよ? これくらいのことで大人しくベッドに寝ているなんて、私のプライドが許しませんわ」
リアーナはため息をつきつつも、クラウスの頬を両手で優しく包み込み、チュッと宥めるようにキスをした。
「少し、領地の風に当たってまいります。ガストン親方の工房へ行きたいので、エスコートをお願いできますか?」
「……わかった。だが、絶対に走らないと約束してくれよ」
妻からのキスに一瞬で骨抜きにされたクラウスは、渋々ながらもリアーナの腰をガッチリと支え、まるで壊れ物を運ぶようにしてゆっくりと歩き出した。
* * *
ガストン親方の工房にやってきたリアーナは、早速「現代スキル」を爆発させていた。
「ガストン親方! これが新しい馬車……いえ、『乳母車』の図面よ! 木の車輪じゃガタガタ揺れて赤ちゃんの脳に悪いから、車軸にバネ(サスペンション)を組み込んで、衝撃を完全に吸収するの!」
「ベビーカー……!? また奥様は、見たこともねえ乗り物を……」
「それから、裁縫職人の奥さん! 私のこれからのドレスは、すべてこの『エンパイア・シルエット(胸下で切り替えて、お腹を締め付けないゆったりとしたデザイン)』で作ってちょうだい。コルセットは一切禁止よ! ついでに、寝る時にお腹を支える『U字型の抱き枕』も至急量産しなさい!」
前世の現代日本で培った「マタニティ・ベビー用品」の知識。
この異世界では、貴族の女性は妊娠中も無理をしてコルセットでウエストを締め付けたり、重いドレスを着たりして体調を崩すことが多かった。
リアーナは自分自身の快適なマタニティライフのため、そして領民の妊婦たちを救うため、圧倒的に合理的で身体に優しいマタニティグッズの開発に乗り出したのだ。
「さすが奥様! お腹の赤ん坊の安全と、母親の快適さを両立させた究極の設計だ! 野郎ども、急いでバネの試作に取り掛かるぞ!」
工房が活気づく中、リアーナは満足げに図面を眺めていた。
だが、ふと工房の窓の外に目をやると、中庭の隅にある大きな木の下で、レオンが一人で膝を抱えて座っているのが見えた。
(……レオン君?)
いつもなら、リアーナが工房に来ると「お母様、何作ってるの!?」と目を輝かせて飛んでくるはずだ。
しかし今日のレオンは、手の中にある「アーサー」の木製フィギュアを所在なげに見つめ、どこか寂しそうな、落ち込んだ横顔をしていた。
リアーナの「人事マネジメント」で培った観察眼が、瞬時にレオンの心のサイン(SOS)を読み取った。
(……そうよね。十一歳という、少年から青年へと向かい始める多感な時期。頭では分かっていても、心は追いつかないことがあるわ)
リアーナはクラウスに目で合図を送ると、ゆっくりとした足取りでレオンのもとへ向かった。
* * *
「レオン君。こんな所で、アーサーと内緒話かしら?」
リアーナが優しく声をかけると、レオンはビクッと肩を震わせ、慌てて立ち上がった。
「お、お母様! だ、駄目だよ、お外を歩き回っちゃ! お腹の赤ちゃんに何かあったら……!」
「大丈夫よ。少しお隣に座らせてちょうだい」
リアーナが木陰のベンチに腰を下ろすと、レオンもモジモジしながらその隣に座った。少し遅れてやってきたクラウスも、リアーナの背後に静かに立つ。
「レオン。何か、悩んでいるのか?」
クラウスが低い声で尋ねると、レオンはギュッとアーサーを握りしめ、うつむいてしまった。
「……ううん。悩みなんて、ないよ。ぼく、お兄ちゃんになるんだもん。お父様とお母様の赤ちゃんが産まれるの、すごく、すごく嬉しいよ」
言葉とは裏腹に、レオンの小さな肩が微かに震えている。
リアーナは、レオンの手を自分の両手でそっと包み込んだ。
「レオン君。お母様はね、この領地のどんな不正な帳簿も、学園のどんな難しい問題も見破ってきたわ。だから……あなたの小さな『嘘』なんて、すぐにお見通しなのよ」
「お母様……」
リアーナの温かい手と、優しい声。
それに耐えきれなくなったのか、レオンの大きな青い瞳から、ポロリと涙がこぼれ落ちた。
「……ぼく、お母様の本当の子供じゃないから……」
絞り出すような、震える声だった。
「新しい赤ちゃんが産まれたら、お父様とお母様は、本当の家族になるんでしょ……? そしたら、ぼくは……邪魔になっちゃうのかなって。……ごめんなさい、こんなこと思っちゃ駄目なのに……っ」
前妻の子供である自分は、新しい命が誕生すれば愛されなくなってしまうのではないか。
それは、継子である彼にとって、どれだけ頭で「そんなことはない」と理解していても、拭い去れない本能的な恐怖と不安だったのだ。
「馬鹿を言うな、レオン」
クラウスが、レオンの前にスッと片膝をつき、真っ直ぐに息子の目を見据えた。
「お前は、クラウゼヴィッツ家の長男だ。私が世界で一番誇りに思っている、大切な息子だ。血の繋がりなど関係ない。私が、そしてリアーナが、お前を愛さなくなる日など永遠に来ない」
「お父様……」
「それにね、レオン君」
リアーナはレオンを優しく引き寄せ、自分のふっくらとし始めたお腹に、レオンの小さな手をそっと当てさせた。
「お母様は、血が繋がっていないあなたを『私の意志』で愛したの。誰かに言われたからじゃない。私が、あなたを私の大切な息子だと決めたのよ」
トクトク、と。
まだ微かだが、お腹の中から温かい命の鼓動が伝わってくるような気がした。
「この子はね、世界で一番幸せな赤ちゃんだわ。
だって、優しくて、剣が強くて、こんなにも素敵な『世界一のお兄ちゃん』が待ってくれているんですもの。……レオン君。
私を、お母様にしてくれてありがとう。あなたがいたから、私はこの家を温かい居場所にできたのよ」
「っ……うわぁぁぁんっ……! お母様……っ! お父様……っ!!」
レオンは声を出して泣きじゃくり、リアーナの胸に顔を埋めた。
クラウスの大きな腕が、リアーナとレオンの二人をまとめて力強く抱きしめる。
不安や葛藤をすべて吐き出し、たっぷりの愛情で包み込まれたレオンの心は、本当の意味で「家族」としての揺るぎない絆を手に入れたのだ。
「ぼく……っ、絶対、強いお兄ちゃんになる! アーサーと一緒に、赤ちゃんとお母様を守るんだ……!」
涙と鼻水で顔をグシャグシャにしながら宣言するレオンに、リアーナとクラウスは顔を見合わせて、心底愛おしそうに微笑んだ。
* * *
レオンの心のケア(カウンセリング)を無事に終え、家族の絆をさらに深めたその日の午後。
執務室で休んでいたリアーナとクラウスのもとに、ヴァンス騎士団長がただならぬ様子で駆け込んできた。
「旦那様、奥様! 大至急、ご報告申し上げます!」
「どうした、ヴァンス。またどこかの国が攻めてきたのか?」
「いえ! 敵ではありません。領地の奥深くにある『精霊の森』に異変が起きております!」
「精霊の森……?」
辺境領の北端に位置するその森は、古くから高い魔力を持つ精霊たちが住む不可侵の聖域とされていた。
1回目の人生でリアーナが孤独に死んだ夜、不思議な光に包まれて「回帰」を果たしたのも、あの森の方向から放たれた光だったと記憶している。
「森の奥から、凄まじい熱気と魔力が噴き出しており、森の精霊たちが落ち着きなく騒いでいるとのこと。さらに、森の近くの川の水が、急激に温かくなっているそうです!」
「水が温かくなっている……? まさか、火山活動の兆候か!?」
クラウスが立ち上がり、険しい顔つきになった。
しかし、リアーナの顔は全く違っていた。
彼女の瞳は、前世の「プロデューサー」としてのキラキラとした好奇心に満ち溢れていたのである。
「旦那様! 火山活動ではありませんわ! 凄まじい熱気と、温かい川……それはつまり、『極上の天然温泉』が湧き出たということですわ!」
「お、おんせん……? 温泉とはなんだ?」
「大地のエネルギーで温められた、究極のヒーリング・ウォーターですわ! 妊婦の冷え性改善にも、騎士たちの疲労回復にも最高の特効薬! それに……」
リアーナは扇子を広げ、バシッと窓の外の北の森を指差した。
「精霊たちが騒いでいるなら、ご挨拶に行かなければなりませんわね。……決定ですわ! 次の私たちのプロジェクトは、精霊の森と共存する『究極のエコ・リゾート(温泉&グランピング施設)』の開発よ!」
「リ、リアーナ!? 駄目だ、妊娠中の君を未知の森へ行かせるわけには……!」
「あら、妊婦にはリラックスできる環境が必要だと、お医者様も言っていたでしょう? 最高の温泉宿を作って、私が一番にくつろがせていただきますわ!」
大災厄を乗り越え、新しい命を宿した悪役令嬢。
彼女の次なる舞台は、世界の神秘が眠る「精霊の森」。現代のパーマカルチャー(自然共生)の知識と、マタニティライフを快適にする特技をフル活用し、辺境領はさらなる「癒やしの極致」へと進化を遂げようとしていた。




