絶望の帝国要塞と、悪役令嬢の「ナイチンゲール」宣言
ガルディア帝国の最前線に位置する「バルバロッサ要塞」。
かつて難攻不落と謳われたその巨大な城塞は今、絶望のどん底にあった。
「バルデス将軍! 東の防衛線が突破されました! 魔物の大群が第2層まで迫っています!」
「くそっ……! 兵を回せ! 何としても食い止めるんだ!」
指揮所で怒号を飛ばす白髪の老将、バルデス将軍の顔には深い疲労が刻まれていた。
城塞のあちこちから、兵士たちのうめき声と、魔物たちの恐ろしい咆哮が聞こえてくる。
さらに悪いことに、城塞内では原因不明の「黒死病(疫病)」が蔓延し、戦う前に高熱で倒れる兵士が後を絶たない。
「将軍、もう限界です……。辺境伯領に送った救援要請も、通常なら到着まで三週間はかかります。それまで、この砦が持つはずがありません……!」
かつて辺境領でリアーナに叩きのめされた特命大使、ルキウス伯爵が、頭を抱えて泣き言を漏らした。
(もはや、これまでか……。我が誇り高き帝国も、ここで魔物の餌食となるのか……!)
バルデス将軍が剣を杖代わりにして、無念に目を閉じた――その時だった。
『ボーーーーーーーッ!!!』
空を切り裂くような、聞いたこともないけたたましい「警笛」の音が、砦の西側の山脈から響き渡った。
「な、なんだ!? 新たな魔物の雄叫びか!?」
バルデス将軍たちが慌てて城壁から下を見下ろすと、そこには信じられない光景が広がっていた。
黒い煙をモクモクと吐き出しながら、見たこともない「巨大な漆黒の鉄の竜(蒸気機関車)」が、山肌を滑るように爆走してくるではないか。
キィィィィンッ! と凄まじい金属音を立てて、鉄の竜は要塞の門前に急停車した。
そこから、辺境軍の紋章を掲げた完全武装の騎士たちが、次々と、しかも疲労の欠片もない血色満点の笑顔で飛び出してくる。
「バルデス将軍! お待たせいたしました! 辺境伯軍、これより帝国の救援に加勢いたします!」
先陣を切って現れたのは、漆黒の甲冑に身を包み、圧倒的な覇気を放つ「氷の辺境伯」クラウス・フォン・クラウゼヴィッツだった。
「ク、クラウゼヴィッツ辺境伯!? なぜだ、辺境領を『出立した』という知らせを受け取ってから、まだ三日しか経っていないぞ!? 通常の行軍なら三週間はかかるはず……しかもその鉄の化け物は一体……!」
バルデス将軍が腰を抜かさんばかりに驚愕していると、クラウスの背後から、凛とした足音とともに一人の女性が姿を現した。
「それは『魔法鉄道(魔導列車)』ですわ。帝国の時代遅れな馬車とはスピードも積載量も違いますのよ」
深紅のドレスの上に、清潔な白いエプロンドレス(現代のナース服をアレンジしたもの)を羽織り、髪をキリッと一つに束ねたリアーナである。
「ルキウス大使。条約通り、圧倒的な物資と『最強の軍』をお持ちいたしましたわ」
リアーナが悪女の微笑みを浮かべると、ルキウス大使は「ああっ、クラウゼヴィッツ夫人! 女神様!」と涙を流して地面に平伏した。
しかし、古い軍人気質であるバルデス将軍は、露骨に眉をひそめた。
「……辺境伯殿。援軍は感謝するが、なぜ戦場に『女』を連れてきた? 女の出る幕などない、足手まといになるだけだ。奥方はすぐに安全な後方へ下がらせたまえ!」
その言葉に、クラウスの青い瞳がスッと氷のように冷たくなり、剣の柄に手をかけた。
「……私の妻を愚弄することは許さん。彼女は――」
「旦那様、結構ですわ」
リアーナは扇子でクラウスを制止すると、バルデス将軍を冷ややかに見据えた。
「足手まといかどうかは、これから私が証明して差し上げますわ。……将軍、怪我人と病人を収容している野戦病院へ案内しなさい」
* * *
案内された城塞内の野戦病院――大広間を見た瞬間、リアーナは思わず扇子で口元を覆った。
(……なんてこと。これでは『病院』ではなく、ただの『死体置き場』じゃない!)
床には血や泥がこびりつき、酷い悪臭が充満している。換気は全くされておらず、負傷して血を流している兵士のすぐ隣に、高熱を出して咳き込んでいる疫病患者が雑魚寝させられていた。
「どういうことですの!? 傷を負った兵士と、疫病の患者を同じ部屋に入れるなんて、感染を広げているようなものですわ!」
リアーナが怒鳴ると、帝国の軍医が鼻で笑った。
「何を仰るかと思えば。奥方、戦場ではこれが普通です。病は『邪気』がもたらすもの。神に祈るしか助かる術はありません」
「……この、ヤブ医者が!!」
リアーナの怒りが頂点に達した。
前世で学んだ、クリミアの天使「フローレンス・ナイチンゲール」の教え。
野戦病院における兵士の死亡原因の多くは、傷そのものではなく「不衛生な環境による感染症」である。
「いいこと!? 病は邪気ではなく、目に見えない『菌(病原体)』が原因よ! 今すぐ、患者を種類別に『隔離』します! ガストン親方! 例の資材を出して!!」
リアーナの号令とともに、列車からおびただしい数の「木の板」と「鉄の枠」が運び込まれた。
「プレハブ建築」の資材である。
「バルデス将軍。中庭のスペースを少しお借りしますわね」
「な、何を馬鹿な! そんな板切れで、家など建つわけが……」
将軍の言葉は、またしても裏切られることとなった。
リアーナが設計したプレハブ資材は、現代の建築技術を応用し、パーツの凹凸を合わせてボルトで固定するだけで、あっという間に壁と屋根が組み上がっていく規格化されたものだった。
ガストン親方率いる職人たちの手によって、たった半日のうちに、中庭に巨大で風通しの良い「隔離病棟(仮設病院)」が何棟も完成してしまったのだ。
「さあ! 疫病の患者は新しい病棟へ移しなさい! 負傷兵は元の広間に残すけれど、床の泥を全て洗い流し、私が持ってきた『ハーブ石鹸(殺菌用)』で磨き上げるのよ!」
リアーナは自らドレスの袖をまくり上げ、兵士たちに指示を飛ばした。
「それから、軍医! あなたたち、患者に触る前に必ず手と腕を石鹸で洗いなさい! 包帯は全て鍋で『煮沸消毒(お湯でグツグツ煮ること)』してから使うこと! 患者には温かい白湯を飲ませて、部屋の窓を開けて空気を循環(換気)させなさい!」
次々と飛び出す「現代の衛生管理」の専門用語と、リアーナの圧倒的な威圧感(お妃教育で培った統率力)の前に、帝国の軍医たちは逆らうことすらできず、言われるがままに動き始めた。
* * *
リアーナの「ナイチンゲール式・野戦病院リノベーション」の効果は、わずか数日で劇的に現れた。
隔離と手洗いの徹底により、院内での疫病の感染拡大はピタリと止まった。
煮沸消毒した清潔な包帯と、辺境領から持ってきた特効ハーブ薬、そして栄養満点のエナジーバーを与えられた患者たちは、次々と熱を下げ、血色を取り戻し始めたのである。
「……信じられん。三日前まで死にかけていた兵士たちが、自分の足で歩いているだと……?」
バルデス将軍は、清潔なシーツが敷き詰められ、爽やかな風が吹き抜ける病棟を見て、幽霊でも見るように震えていた。
そこへ、最前線の戦闘から帰還したクラウスが現れた。
彼の漆黒の甲冑には魔物の返り血が浴びせられていたが、その表情には全く疲労が見えない。
リアーナの「魔法鉄道」によって、兵站(武器や食料の補給)が完璧に行われているため、辺境軍は圧倒的な力で魔物の群れを押し返し、前線を完全に押し上げていたのだ。
「バルデス将軍。我が妻の『戦いぶり』は、足手まといだっただろうか?」
クラウスが静かに問いかけると、バルデス将軍は膝から崩れ落ち、リアーナの前に深く頭を下げた。
「……クラウゼヴィッツ夫人。私の無知と非礼を、どうかお許しいただきたい! あなたの仰る通りだ。女だからと見下していた私の古い常識こそが、兵士たちを殺していたのです……! あなたは、帝国軍を救ってくださった戦場の女神だ!」
「戦場の女神ですって? よしてちょうだい」
リアーナは扇子で顔を仰ぎながら、フッと悪役令嬢らしい冷笑を浮かべた。
「私はただ、非効率で不潔な環境が許せなかっただけですわ。それに、私の大切な旦那様が怪我をした時に、あんな不衛生なベッドに寝かせるなんて、私のプライドが許しませんもの」
圧倒的な手腕と、決して相手に媚びない強気な態度。
バルデス将軍も、ルキウス大使も、帝国のすべての兵士たちが、この「稀代の悪女」の前に完全に平伏した瞬間であった。
* * *
その日の夜。
中庭に建てられたリアーナ専用のプレハブの執務室(清潔で暖房も完備されている)に、水浴びをして泥と血を洗い流したクラウスがやってきた。
「……リアーナ。起きているか」
「旦那様! おかえりなさいませ。お怪我はありませんでしたか?」
机の上でカルテ(患者の記録)を整理していたリアーナが立ち上がると、クラウスはそのまま彼女を強く、そして壊れ物を扱うように優しく抱きしめた。
「怪我などするものか。君がこうして、私の後ろを完璧に守ってくれているのだからな。……それにしても、驚いたよ。君は建築技術や医療の知識まで持っているのか。一体、君の頭の中はどうなっているんだ?」
クラウスが感心したように囁きながら、リアーナの首筋に顔を埋め、すりすりと甘えるように鼻先を擦り寄せる。
戦場での冷酷な「氷の辺境伯」の顔から、完全に「妻を溺愛する大型犬」の顔に戻っていた。
「くすぐったいですわ、旦那様……。私はただの、モノづくりが好きな我儘令嬢です。それに……」
リアーナは少しだけ目を伏せ、クラウスの広い胸に顔を預けた。
「私は、怖かったのです。……もし、この戦いで、旦那様を失ってしまったらどうしようかと」
1回目の人生の記憶――炎の中で死んでいったクラウスの姿が、ふと脳裏を過る。
それを誤魔化すように、リアーナはクラウスの服の裾をギュッと握りしめた。
その微かな震えに気づいたクラウスは、リアーナの顎をそっと持ち上げ、真っ直ぐに青い瞳で見つめ返した。
「リアーナ。私が死ぬことなど、絶対にないと言っただろう? なぜなら……」
クラウスの顔が近づき、熱を帯びた吐息がリアーナの唇に触れる。
「私の命は、とうの昔に君のものだ。君のいる温かい『家』に帰るまで、どんな大災厄の魔物だろうと、私の歩みを止めることはできない。……だから、安心しろ」
深く、甘い、誓いの口づけ。
戦場であるはずの仮設のプレハブ室が、二人だけの甘く温かい空間へと変わっていく。
「んっ……だ、旦那様……っ。ここは、戦場の真ん中ですわよ……」
「プレハブの壁は防音がしっかりしていると、ガストン親方が言っていた。……それに、君が可愛すぎるのがいけない。少しだけ、私の『癒やし(ヒーリング)』に付き合ってくれ」
「~~っ! もう、旦那様は本当に……っ!」
顔を真っ赤にして抗議しながらも、リアーナの腕はしっかりとクラウスの背中に回されていた。
かつて自分たちを滅ぼした「大災厄」。
しかし今、彼女には圧倒的な「現代スキル」と、世界で一番強くて過保護な夫がついている。
絶望に包まれていたガルディア帝国は、「稀代の悪女」の持ち込んだ魔法のようなインフラと医療革命によって、確かな希望の光を取り戻し始めていた。




