王都学園のプレッシャーと、悪役令嬢の「1on1(秘密のカウンセリング)」
文房具革命とカフェテリア(学食)のビュッフェ化によって、王立魔法・科学学園の学習環境は劇的に改善された。
生徒たちの顔色は良くなり、授業中の居眠りも激減。リアーナが放った「現代の合理性」という名の魔法は、瞬く間に学園中を虜にしていた。
しかし、初夏を迎え、学園で初めての「定期試験」が近づくにつれて、リアーナは生徒たちの様子に違和感を覚え始めていた。
「……ため息ばかりね。せっかく栄養バランスの良い食事を提供しているのに、胃腸の働きが落ちている生徒が多いわ」
放課後の廊下を歩きながら、リアーナは扇子で口元を隠して小さく呟いた。
「お母様。みんな、来週の試験のことで頭がいっぱいなんだよ。貴族の家では、成績の順位がそのままお家のメンツになっちゃうから……」
隣を歩くレオンが、少し悲しそうに目を伏せた。
その時だった。
廊下の角から、ヒステリックな女性の怒鳴り声が聞こえてきた。
「ジュリアン! あなた、前回の小テストでクラウゼヴィッツ家の息子に負けたそうですわね!? ヴェイン侯爵家の跡取りとして、辺境の成金などに負けるなんて許されません! 次の試験で一位を取れなければ、夕食抜きですからね!」
「は、はい……お母様。申し訳ありません……」
声の主は、入学式でリアーナたちを嘲笑っていたヴェイン侯爵夫人だった。
彼女に激しく叱責され、うつむいて震えているのは、息子のジュリアンだ。
いつもは取り巻きを引き連れて威張っている彼だが、母親の前では小さく萎縮し、その顔は睡眠不足と極度のプレッシャーで土気色になっていた。
(なるほどね。これが貴族学園の『闇』というわけね)
リアーナは静かに目を細めた。
前世の現代日本において、過度なプレッシャーは人間のパフォーマンス(生産性)を著しく低下させる最大の要因だと証明されている。
いくら良い文房具や食事を与えても、心が壊れてしまえば何の意味もない。
「レオン君。お母様は少し、学園に『新しいお部屋』を用意してくるわ。
あなたは先にタウンハウスへ帰って、お父様とおやつを食べていなさいな」
「うん、わかった! お母様、また何かすごい魔法を使うんだね!」
レオンがパタパタと帰っていくのを見送り、リアーナは歩き出した。
(悪女たるもの、敵対派閥の息子だろうと容赦はしないわ。徹底的に『手懐けて』差し上げますわよ)
* * *
翌日の放課後。
ジュリアンは重い足取りで、学園の旧校舎にある空き教室の前を通りかかった。
(……胃が痛い。歴史の年号も、魔法陣の公式も、いくら見つめても頭に入ってこない……。お母様は一位を取れと言うけれど、あんな辺境のバケモノ(レオン)に勝てるわけが……)
絶望に押しつぶされそうになっていたその時、ふわりと、空き教室の隙間から、これまで嗅いだことのないような甘くて心が安らぐ香りが漂ってきた。
「……なんだ、この香りは。リンゴのような……いや、もっと優しい……」
吸い寄せられるように扉を開けると、そこはジュリアンの知る「ホコリっぽい空き教室」ではなかった。
温かみのある間接照明(魔導ランプに布を被せたもの)。床には柔らかな絨毯が敷かれ、中央のテーブルには、湯気を立てるティーポットと、見たこともない花のお茶が用意されていた。
「あら、いらっしゃい。迷える子羊さん」
奥のソファに優雅に腰掛けていたのは、洗練されたドレス姿のリアーナだった。
「ひっ!? ク、クラウゼヴィッツ夫人!? ど、どうしてあなたがこんな所に!?」
「私が学園長に掛け合って、今日からここを『学生相談室』にしたの。さあ、そこに座りなさい」
ジュリアンは逃げ出そうとしたが、リアーナの「悪女の微笑み」と圧倒的なオーラに逆らうことができず、ガタガタと震えながら対面のソファに腰を下ろした。
(お、終わりだ! お母様が夫人を馬鹿にしていたから、ここで僕を毒殺して、クラウゼヴィッツ家への復讐を果たす気なんだ……!)
ジュリアンが目をギュッと瞑っていると、コトリ、と目の前に美しいティーカップが置かれた。
「毒なんて入っていないわよ。これは『カモミール』と『ラベンダー』をブレンドしたハーブティー。昂ぶった神経を鎮めて、胃腸の働きを助ける効果があるの」
恐る恐る一口飲んでみると、その温かさと、青リンゴのような優しい香りがジュリアンの身体に染み渡り、ガチガチに強張っていた肩の力がフゥッと抜けていった。
「……美味しい」
「でしょう? さて、ジュリアン卿。今日はあなたの悩みを聞かせてもらうわ」
「な、悩みなんてありません! 僕は由緒正しき侯爵家の跡取りで……!」
「嘘ね」
リアーナはピシャリと言い放った。
「あなたの顔色は最悪。睡眠不足で、脳が極度のストレス状態に陥っているわ。お母様の期待が重すぎて、何から手をつければいいか分からなくなっているのでしょう?」
図星を突かれ、ジュリアンはハッと息を呑んだ。
ここからが、リアーナの前世のスキル「人事マネジメント(1on1面談)」の真骨頂だった。
相手を否定せず、ただ傾聴し、頭の中の情報を整理してあげる「心理的安全性」の確保である。
「いいこと? 人間の脳は、不安やプレッシャーを感じていると、記憶力が半分以下に落ちるの。まずは、頭の中のゴチャゴチャを紙に書き出して『見える化』しなさい」
リアーナはルーズリーフの真ん中に『試験』と書き、そこから木の枝のように線を引いて、科目や課題を細かく分解して書き出していった。
「全体を見ると巨大な壁に見えるけれど、こうして一つ一つの小さな課題に分解すれば、今日やるべきことはたったこれだけよ。……お母様の言葉は一旦忘れなさい。あなたは、あなたができるペースで、一つずつクリアしていけばいいの」
「僕が……できるペースで……」
「そう。それに、あなたはプライドが高いけれど、本当は素直で努力家な子よ。だって、あのビュッフェで残さず野菜を食べたのも、あなたが一番最初だったじゃない?」
リアーナが優しく、しかし確かな承認の言葉をかけると、ジュリアンの大きな瞳から、ポロポロと大粒の涙がこぼれ落ちた。
ずっと「完璧であれ」と鞭打たれ続けてきた十歳の少年にとって、ありのままの努力を認められ、「無理をしなくていい」と寄り添ってもらえたのは、生まれて初めてのことだったのだ。
「うっ……うわぁぁぁんっ……! 夫人、僕、どうしたらいいか分からなくて……っ、苦しくて……っ!」
ジュリアンは顔を覆って大声で泣きじゃくった。
リアーナは席を立ち、彼の隣に座って、その背中を優しくポンポンと撫で続けた。
一時間後。
ハーブティーを飲み干し、すっかり泣き止んだジュリアンの顔からは、憑き物が落ちたようにプレッシャーが消え去り、スッキリとした少年の顔に戻っていた。
「ありがとうございます、クラウゼヴィッツ夫人……! 夫人のおかげで、頭の中がすごくクリアになりました。僕、帰ってルーズリーフで『マインドマップ』を作ってみます!」
「ええ、頑張りなさい。ただし、夜更かしは厳禁よ。脳の記憶は、寝ている間に定着するのだから」
ジュリアンは深々と頭を下げた後、ハッとして頬を赤らめた。
「あ、あのっ……夫人。僕、今までレオンに意地悪ばかり言って、ごめんなさい! レオンにも、ちゃんと謝ります。それから……夫人は、僕のお母様より、ずっとずっと綺麗で、優しいです……!」
顔を真っ赤にして告白のような台詞を叫ぶと、ジュリアンは脱兎のごとくカウンセリングルームから駆け出していった。
「ふふっ。ちょろいわね」
リアーナは優雅にハーブティーの残りを飲み干した。
これで、ヴェイン侯爵家の跡取りは完全にリアーナの手駒(大ファン)になったというわけだ。
敵対派閥の母親は、自分の息子が「悪役令嬢」の信者になっているとは夢にも思わないだろう。
「……ほう。随分と楽しそうだな、リアーナ」
その時。
開けっ放しになっていた扉の入り口に、長身の影が落ちた。
漆黒の騎士服に身を包んだ、夫のクラウスである。
「旦那様!? どうしてここに……」
「王宮での政務が終わったから、君を迎えにきた。……だが、少し早く来すぎたようだな。まさか私の妻が、十歳の少年を籠絡して、頬を赤らめさせている場面に出くわすとは」
クラウスの青い瞳は、明らかに「嫉妬」の炎でギラギラと燃えていた。
彼はゆっくりと部屋に入ると、パタンと背手で扉を閉め、鍵をかけた。
「だ、旦那様? 鍵なんてかけて、何を……」
リアーナが後ずさろうとしたが、クラウスの長い腕が素早く彼女の腰を捉え、そのままソファへと押し倒すようにして覆い被さった。
「きゃっ……!」
至近距離で見つめ合う形になり、クラウスの整った顔がすぐ目の前に迫る。
彼の体から漂う、微かな冷気と大人の男の香りに、リアーナの心臓が警鐘を鳴らすようにドクンと跳ねた。
「だ、旦那様、ここは学園の教室ですわよ! 誰か来たら……っ」
「来ないよ。ここは君が作った『秘密の相談室』だろう? ……あの少年には、随分と優しく寄り添って、頭を撫でてやっていたじゃないか」
「あれは! ああいう心理療法のテクニックで……それに、彼はレオン君と同じ十歳の子供ですわ!」
「子供でも、男は男だ」
クラウスは低い声で唸ると、リアーナの首筋に顔を埋め、独占欲を刻みつけるように少し強めに唇を這わせた。
「んっ……あ……っ」
「……私以外の男に、そんな甘い声で『迷える子羊さん』などと微笑みかけないでくれ。私の理性が、王都の学園を一つ消し飛ばしてしまいそうになる」
重度の過保護と、溢れんばかりの独占欲。
冷徹な「氷の辺境伯」だった男が、今や妻のちょっとした行動に本気で嫉妬し、こんなにも熱い感情を剥き出しにしている。
その事実が、リアーナの胸の奥を甘く、ジンジンと痺れさせた。
「……もう。旦那様は、本当に困った大きな子羊さんですわね」
リアーナは観念したように息を吐くと、自分からクラウスの銀色の髪に手を伸ばし、彼を抱きしめ返した。
「私は旦那様だけのものですわ。だから……そんなに妬かないでくださいませ、私の愛しい騎士様」
リアーナが囁きながら、クラウスの耳元にチュッと可愛らしいキスを落とすと、クラウスは一瞬ビクッと肩を震わせ、さらに強い力で彼女を抱きしめた。
「……ああっ、もう駄目だ。君をこのままタウンハウスの寝室に連れ去ってしまいたい」
「ふふっ、それはまた夜のお楽しみにしてくださいませ。私はPTA会長として、まだまだこの学園の子供たちの『メンタルケア』をして差し上げなければなりませんから」
王都学園での悪役令嬢の快進撃は止まらない。
敵対派閥の息子すらも魅了し、圧倒的な心理テクニックで学園の裏ボス(相談役)に君臨しつつある妻と、そんな彼女を誰よりも愛し、猛烈に嫉妬する不器用な夫。
夕暮れの空き教室で、二人の甘い甘い「秘密の1on1面談」は、いつまでも続くのだった。




