秋の収穫と、悪役令嬢の「飛び出す魔法の絵本」
極上のスパ・リゾートで英気を養った夏が過ぎ、辺境領は実りの秋を迎えていた。
温室だけでなく、屋外の畑でもリアーナが導入した「輪作(数年ごとに違う作物を育てて土地の栄養を保つ農法)」が見事に成功し、例年の倍以上の小麦と豊かな野菜が収穫されたのだ。
街の広場は豊穣の喜びに包まれていたが、リアーナはある日の午後、バルコニーから中庭を見下ろして少しだけ眉をひそめていた。
「昔々、勇敢な騎士アーサーは、悪いドラゴンを退治するために旅に出ました――」
中庭の芝生の上では、レオンが自作の「アーサー」のフィギュアを動かしながら、領民の子供たちに向かって一生懸命に自作の紙芝居(絵本)を読み聞かせている。
子供たちは目を輝かせて聞いているが、リアーナが気になったのはその後の光景だった。
「はい、次はこの本、貸してあげる!」
レオンが本を差し出すと、子供たちは困ったように顔を見合わせた。
「ごめんね、レオン様。俺たち、字が読めないんだ。絵を見るのは好きだけど……」
(……識字率の低さ。やはり、この問題にぶつかるわね)
この世界では、平民の識字率は絶望的に低い。
文字を読み書きできるのは貴族や一部の裕福な商人だけであり、領民たちは簡単な数字の計算しかできないのが現状だった。
これまでの「食と住」の環境改善により、領民の生活は劇的に向上した。
しかし、領地が真に豊かになるためには、物理的な豊かさだけでなく「知識」の共有が不可欠だ。
「よし、決まりね」
リアーナはパチンと扇子を鳴らすと、執務室で書類仕事をしている夫、クラウスのもとへ向かった。
* * *
「――領立の『学校』を設立するだと?」
クラウスは羽ペンを置き、目を丸くしてリアーナを見つめた。
「ええ。身分に関係なく、領民の子供たち全員が文字と計算、そして基本的な道徳を学べる学校を作ります。場所は、冬の間に使っていない古い兵舎を改装すれば十分ですわ」
「それは素晴らしい考えだが……教材はどうするんだ? 本というものは、王都の書写職人が一文字ずつ手書きで書き写すため、平民には到底手の届かない高価なものだぞ。領内の子供全員に配るとなれば、莫大な予算と数年の時間がかかる」
クラウスの指摘はもっともだった。この世界にはまだ「活版印刷」の技術が存在しないのだ。
しかし、リアーナの顔には、前世のクリエイターとしての不敵な笑みが浮かんでいた。
「ご心配なく、旦那様。本が手書きで高価なものだなんて、誰が決めたのかしら? 私が『印刷技術』という魔法を使って、安価で大量の教科書を生み出して差し上げますわ!」
* * *
リアーナが向かったのは、すっかり彼女の「専属研究所」と化しているガストン親方の工房だった。
「ガストン親方! ドレスの生地を作った『氷蚕糸』の余りはあるかしら? それを、木枠にピンと張ってちょうだい!」
「お、奥様! 今度は一体何を作る気で!? またとんでもねえモンが生まれる予感がしやすぜ!」
リアーナの頭の中にあったのは、現代の同人誌制作やアート作品などで使われる「シルクスクリーン(孔版印刷)」の技術だった。
「木枠に張った氷蚕糸の細かい網目に、蜜蝋でコーティングして『文字の形だけ穴を空けた型(版)』を貼り付けるの。その上にインクを乗せて、ヘラ(スキージ)で一気にこすり落とせば……」
リアーナの指示通りにガストンがヘラを引くと、紙の上に、全く同じ文字と挿絵が一瞬にして、しかも鮮明に転写された。
「うおおおっ!? なんだこりゃあ! 一瞬で本が書き写されちまったぞ!!」
「これが『印刷』よ。この型(版)さえ作ってしまえば、一日に何百枚、何千枚でも同じページを量産できるわ。さあ、どんどん刷るわよ!」
さらに、リアーナの「立体造形デザイナー」としての本領はここからだった。
ただの文字の羅列では、子供たちは飽きてしまう。学ぶことの楽しさを教えるために、リアーナは「ペーパークラフト」の技術を教科書に組み込んだのだ。
「ここのページには、切り込みを入れて折り筋をつけてちょうだい。本を開いた時に、紙の張力で中の絵が『飛び出す』ように設計してあるから」
それは、前世で高度な計算に基づいて作られていた「ポップアップ(飛び出す)絵本」の構造だった。
ページを開くと、立体的なお城が立ち上がり、騎士の剣が動き、ドラゴンが口を大きく開ける。
「魔法……いや、これは奥様の計算し尽くされた技術の結晶だ……!」
ガストンは震える手で飛び出す絵本を開き、職人たちとともに感涙を流した。
こうして、辺境領初の「シルクスクリーン印刷」によって、子供たちのための『飛び出す魔法の教科書』が大量に生産されたのである。
* * *
領立学校が開校して数週間後。
辺境伯邸の応接室には、王都寄りの近隣領地からやってきた保守的な貴族、カルマン伯爵夫人が訪れていた。
彼女はお茶会と称して、何かと辺境領のあら探しに来る厄介な客だった。
「……リアーナ夫人。わたくし、耳を疑いましたわ。平民の子供たちに文字を教える『学校』を作ったですって?」
カルマン伯爵夫人は、扇子で口元を隠しながら見下すような鼻で笑った。
「平民を賢くしてどうなさるおつもり? 知恵をつけさせれば、貴族の支配に疑問を持ち、反乱を起こすのが関の山。
領主たるもの、愚かな民にはただ畑を耕させていればいいのです。
辺境伯様も、奥様のこのようなお遊びを許すなんて、どうにかしていらっしゃいますわ」
1回目の人生なら、こんな嫌味を言われれば紅茶を相手の顔にぶちまけていたかもしれない。
しかし今のリアーナは、優雅に紅茶を一口飲み、最高に美しい「悪役令嬢」の冷笑を浮かべた。
「愚かな民を無知なまま力で押さえつける? あら、それは『三流の統治』ですわね」
「なっ……! さ、三流ですって!?」
「ええ。言われたことしかできない領民しかいない土地は、永遠に発展しません。
自ら文字を読み、考え、領地のために新しい技術や富を生み出せる『人財』を育てること。
これこそが、国を豊かにする最高の投資(帝王学)ですわ」
その時、応接室の扉がノックされ、レオンが数人の領民の子供たちを連れて入ってきた。子供たちの手には、何やら紙の束が握られている。
「お母様! 見て見て! みんなで学校で新しい遊具の図面を描いたんだ!」
「失礼します、奥様! この前作ってくれた『飛び出す絵本』の構造を使って、本を開くと自動で水車の仕組みがわかる模型を考えてみました!」
子供たちが目を輝かせて差し出した紙には、たどたどしいながらもしっかりとした文字と、驚くほど論理的な図解が描かれていた。
リアーナが与えた教育の種は、彼らの創造力を見事に開花させていたのだ。
「ご、ごきげんよう、伯爵夫人様! 本日はお日柄もよく……ええと、領地の収穫率は前年比で二百パーセントを達成し……!」
平民の子供が、貴族顔負けの完璧な礼儀作法と、正確な数字(パーセンテージの概念)を用いた挨拶をしてのけた。
「ひっ……!? な、なんなのこの平民の子供たちは!?」
カルマン伯爵夫人は、幽霊でも見たかのように目を見開いて後ずさった。
自領の大人たちよりも、辺境の子供たちの方がよほど賢く、礼儀正しいではないか。
リアーナは扇子を閉じ、伯爵夫人にトドメを刺すように言い放った。
「いかがかしら? これが私たちが育てている『辺境領の未来』ですわ。もし伯爵夫人も、自領の時代遅れな統治を見直したいとお思いなら、私たちの『教科書』を少し高めの値段でお譲りしてもよろしくてよ?」
「……っ!! し、失礼いたしますわっ!」
完全に格の違いを見せつけられ、顔を真っ赤にしたカルマン伯爵夫人は、逃げるように馬車に乗って自領へと帰っていった。
「稀代の悪女」の圧倒的な知性と手腕の前に、旧態依然とした貴族のプライドなど、紙切れ同然だったのである。
* * *
その日の夜。
執務室で一日の仕事を終えたリアーナが、完成したばかりの「飛び出す絵本」のページをパラパラとめくっていると、背後からスッと大きな腕が伸びてきて、彼女の身体を包み込んだ。
「……本当に、君はどこまでこの領地を、いや、この世界を進化させれば気が済むんだい?」
耳元で囁く、クラウスの甘く低い声。
カルマン伯爵夫人を追い払った一部始終を騎士から報告で聞いていた彼は、妻のあまりの有能さと頼もしさに、すっかり惚れ直してしまったらしい。
「ふふっ。私は我儘ですから、自分の居場所を世界で一番賢くて、最高に暮らしやすい場所にしたいだけですわ」
リアーナが背中のクラウスに寄りかかると、彼はリアーナの首筋にそっと顔を埋め、くぐもった声で言った。
「平民の子供たちだけでなく……私も、君からもっといろいろなことを学びたい」
「あら、旦那様。辺境領の統治は完璧ですのに、これ以上私から何を学ぶというのです?」
「そうだな……」
クラウスはリアーナを抱き上げたまま、執務室のソファへと優しく押し倒した。
上から覆い被さるようにして、青い瞳が熱を帯びた視線でリアーナを見つめる。
「『愛する妻を、もっと気持ちよく蕩けさせる方法』とか……どうだろうか。リアーナ先生、私に特別授業をしてくれないか?」
「だ、旦那様っ……!? こんな執務室で、何をおっしゃって……んっ!」
抗議の言葉は、クラウスの甘く深いキスによって塞がれてしまった。
普段は真面目でストイックな「氷の辺境伯」が、今やすっかり愛妻家の「甘えん坊の狼」に変貌している。
シルクのドレスの肩紐がそっと指先で外され、触れるだけの焦らすような愛撫に、リアーナの口から甘い吐息が漏れた。
(もう……本当に、この過保護な生徒は、手がかりすぎるわ……っ)
夜の執務室には、完成したばかりの「飛び出す絵本」が机の上に開かれたまま置かれていた。
そのページの中で見つめ合う騎士とお姫様の人形のように、二人のシルエットは甘く、どこまでも熱く重なり合っていくのだった。




