夏の到来と、悪役令嬢の「極上スパ・リゾート」計画
王都の夜会で「辺境領の圧倒的な豊かさと美しさ」を見せつけてから、数ヶ月。
季節はめぐり、永久凍土に隣接する極寒の辺境領にも、短くも美しい「夏」が訪れていた。
雪解け水は清らかな川となり、緑豊かな大地には色とりどりの花が咲き乱れている。
しかし、辺境伯邸の執務室だけは、まるで嵐の只中のような大混乱に陥っていた。
「旦那様! 王都の貴族たちから、美容液の追加発注が止まりません! すでに生産ラインの限界の三倍です!」
「隣国からは『キャッスルビルダー(立体パズル)』の独占契約の打診が来ております! どう返信いたしましょうか!」
文官たちが悲鳴のような報告を上げる中、執務机に座る辺境伯クラウスは、目の下に濃いクマを作りながら、猛烈な勢いで書類にサインを続けていた。
「美容液は品質を落とせない。王家の注文を最優先とし、他は三ヶ月待ちと伝えろ。隣国との交渉は……くっ、この関税の計算、どうなっているんだ」
「旦那様、少し休まれては……」
「いや、領地がこれほど活気づいているのだ。領主である私が音を上げるわけにはいかない」
クラウスは生来の真面目さと責任感の強さから、食事の時間すら削って働き詰めていた。
そこへ、バタン!と勢いよく執務室の扉が開かれた。
「そこまでですわ!」
涼しげなミントグリーンのサマードレスに身を包んだリアーナが、腕を組んで仁王立ちしていた。
その背後には、同じく困り顔のメイド長マーサと、心配そうに「アーサー」のフィギュアを抱きしめる息子のレオンが立っている。
「リ、リアーナ。すまない、今この関税の書類を……」
「徹夜明けの霞んだ頭で計算しても、ミスが出るだけですわ。貸しなさい」
リアーナはクラウスの手から羽ペンを奪い取ると、前世の「表計算ソフト的思考回路」をフル回転させ、複雑な関税と為替の計算を一瞬で終わらせ、パーフェクトな契約書を書き上げてしまった。
「……相変わらず、君の頭脳は恐ろしいな」
「旦那様こそ、恐ろしいほどの仕事中毒ですわ。鏡をご覧になって? 私の愛する美丈夫が、すっかりゾンビのような顔になっていますわよ。悪役令嬢たる私の夫がそんな貧相な顔をしているなんて、私のプライドが許しませんの!」
リアーナがビシッと扇子を突きつけると、クラウスは苦笑しながら肩を落とした。
「すまない。君がもたらしてくれたこの豊かな領地を、もっと発展させたいと焦ってしまって……」
その言葉に、リアーナの胸がチクリと痛んだ。
クラウスだけではない。王都からの大量の注文に応えるため、ガストン親方や職人たち、そして騎士団の面々までもが、連日連夜の肉体労働で疲労困憊になっているのをリアーナは知っていた。
(このままじゃダメね。お金や物資が豊かになっても、心と身体がすり減ってしまっては意味がないわ。……トップたるもの、部下に『極上の休息』を与える義務がある!)
リアーナは不敵な笑みを浮かべ、クラウスのネクタイをグイッと引っ張って顔を近づけた。
「旦那様。今から三日間、辺境伯邸および工房、騎士団の業務を『全面ストップ』といたします。強制休暇ですわ」
「きゅ、休暇!? だが、仕事が……」
「領主命令よりも、この『悪女』の命令の方が絶対ですわよ? ……さあ皆様、辺境領に『極上のスパ・リゾート』をオープンさせますわよ!」
* * *
リアーナが向かったのは、春の感謝祭の後にこっそりと建設を進めていた「ある施設」だった。
「ガストン親方! 例の施設の最終点検は終わっているかしら!」
「おうさ、奥様! 奥様の図面通り、あっつい『蒸気の部屋』と、ひんやり冷たい『水風呂』、完璧に仕上がってまさあ!」
そこは、冬の間に活躍した「温室」の地下ボイラーシステムを応用して作られた、巨大な『大公衆浴場(スーパー銭湯)』であった。
「いいこと? まず騎士団のむさ苦しい男たちを、この『サウナ室』に放り込むのよ!」
リアーナの合図で、訳も分からず連れてこられたヴァンス団長と騎士たちが、木造の小部屋に押し込まれた。
「な、なんだこの部屋は! 息が詰まるほど熱いぞ!」
部屋の中央には、赤く焼けた石が山積みになったストーブが置かれている。
リアーナは小窓からニヤリと笑い、ガストンに指示を出した。
「さあ、その焼けた石に、美容液作りで余った『ローズマリーとミントのハーブ水』をたっぷりとかけなさい! 現代サウナの奥義、『ロウリュ(蒸気浴)』よ!」
ジュワァァァッ!!
石に水が触れた瞬間、猛烈な熱気と、ハーブの爽やかな香りが爆発的に広がり、騎士たちを包み込んだ。
「うおおおっ!? 熱い! だが、不思議と苦しくない……むしろ、身体の奥の疲れが汗と一緒にドバドバと噴き出してくるぞ!!」
「ハーブの香りで、頭の中がスッキリする!」
たっぷり汗をかかせた後、リアーナは彼らを外の「水風呂」へと誘導した。
この水風呂は、冬の間に切り出して地下の氷室に保存しておいた氷を利用し、夏でもキンキンに冷やされている。
「熱い部屋の後に、冷たい水に入るだと!? 心臓が止まるぞ!」
「いいから入りなさい! そして、すぐに出るのよ!」
悲鳴を上げながら水風呂に浸かり、すぐに出てきた騎士たちを、リアーナは風通しの良い外気浴スペースの長椅子に寝かせた。
数秒後。
「…………あ」
ヴァンス団長が、トロンとした目で虚空を見つめ、だらしなく口を開けた。
「な、なんだこれは……。身体は羽のように軽いのに、頭の中はどこまでも澄み切っている……。まるで、天に昇っていくような……」
「これが、現代サウナにおける『ととのう』という究極のトランス状態よ。血流が爆発的に促進されて、疲労物質が一気に押し流されるの」
リアーナの解説を聞くまでもなく、騎士たちや職人たちは次々と長椅子に倒れ込み、「奥様……最高です……」「もう一生働きたくない……」と至福の表情でとろけていた。
「一生働きたくないは困るけれど……まあ、今日は特別に許してあげるわ」
* * *
一方、リアーナは疲れ切った夫、クラウスをVIP専用の貸切風呂へと案内していた。
「さあ旦那様、たっぷり汗を流して、日頃の疲れを癒やしてくださいませ。私はレオン君と一緒に、先にお風呂から上がって『特製のひんやりスイーツ』を作って待っておりますわ」
「……ああ。君の言う通り、少し甘えさせてもらうよ」
数十分後。
サウナと水風呂の交代浴(温冷交代浴)を終え、専用の肌触りの良いバスローブ(これもリアーナが氷蚕糸で作らせたものだ)を羽織ったクラウスが、休憩ラウンジに現れた。
その顔からは先ほどの死人のようなクマは完全に消え去り、肌は艶めき、憑き物が落ちたようにスッキリとしている。
「お父様! お風呂、きもちよかった!?」
レオンがパタパタと駆け寄ってきて、クラウスの足に抱きついた。レオンからは微かに甘いバラの石鹸の香りがする。
「ああ、レオン。……驚いたよ。魔法のポーションでも飲んだように、身体中の痛みが消え去っている。リアーナ、君は本当に……」
「ふふっ。私の『スパ・リゾート』の手腕、お気に召して?」
ソファに優雅に腰掛けるリアーナの前に、メイドが銀の器を運んできた。
器の中には、淡いクリーム色をした、雪のように滑らかな「冷たいお菓子」がこんもりと盛られている。
「旦那様、湯上がりにこちらの『アイスクリーム』をどうぞ。レオン君と一緒に作ったのですわ」
「あいす……くりーむ?」
クラウスが不思議そうに銀のスプーンですくい、口に含んだ瞬間。
「――っ!!」
クラウスの青い瞳が、信じられないほど大きく見開かれた。
「冷たい……! いや、冷たいだけじゃない。口の中で雪のように溶けた瞬間、濃厚なミルクと卵のコク、そしてハチミツの甘さが一気に弾けた……! まるで、冷たい宝石を食べているようだ!」
「おいしいね、お父様! ぼく、ぐるぐるかき混ぜるのがんばったんだよ!」
口の周りを白くしたレオンが、満面の笑みでアイスクリームを頬張っている。
リアーナは得意げに扇子で口元を隠した。
「冬の間に氷室に貯蔵しておいた大量の氷。そこに『塩』を混ぜることで、急激に温度を下げる『吸熱反応(氷点降下)』を起こすのですわ。
その氷と塩の入った樽の中に、ミルクと卵黄、お砂糖を入れた金属のボウルを沈めて、空気を含ませるように猛烈にかき混ぜる。
そうすれば、真夏でも極上の冷たいスイーツが作れるというわけです」
前世の科学の知識と、辺境の豊かな酪農の恵みが合わさって生まれた、異世界初のアイスクリーム。
疲れ切った身体に染み渡る極上の甘さと冷たさに、クラウスは「……美味い」と何度も呟きながら、あっという間に器を空にしてしまった。
「……降参だ。君という妻は、どこまで私を驚かせ、そして甘やかして骨抜きにすれば気が済むんだ」
クラウスはスプーンを置くと、ソファに深く寄りかかり、心底幸せそうなため息をついた。
「骨抜きにするのが、悪女たる私の仕事ですもの。旦那様が私に依存して、私なしでは生きていけなくなるように、徹底的に手懐けて差し上げますわ」
わざと意地悪く微笑むリアーナ。
するとクラウスは、レオンがアーサーのフィギュアに夢中になっている隙を突き、スッとリアーナの腰を引き寄せて、自分と同じソファへと座らせた。
「だ、旦那様……っ?」
「もう手遅れだよ、リアーナ。私はとうの昔に、君なしでは息もできないほど、君に手懐けられている」
熱を帯びた、甘く低い声。
湯上がりの色気を纏ったクラウスの青い瞳に見つめられ、リアーナの心臓がドクンと大きく跳ねた。
「だから……私からも、君に極上の癒やし(ヒーリング)をお返しさせてくれ。君も、私のためにずっと無理をしてくれていたのだろう?」
クラウスの大きな手が、リアーナの首筋を優しく撫で、そのまま後頭部を引き寄せる。
バニラのような甘い香りが二人の間で混ざり合い、熱い唇が、静かに、そして深く重なり合った。
「……んっ……」
サウナの熱気よりも熱く、アイスクリームよりも甘い、夫からの極上のキス。
リアーナは抗うこともできず、クラウスの広い胸に身を委ねながら、幸せに頭の中がトロンと溶けていくのを感じていた。
(……ああ、やっぱり。現代のスパリゾートよりも、旦那様の愛情が一番の『ととのう』魔法かもしれないわね)
王都の喧騒を離れ、自然豊かな辺境の地で迎えた、家族三人の初めての夏。
「稀代の悪女」の特技が作り上げた極上のスパ・リゾートは、領民たちの疲れを吹き飛ばし、そして不器用な夫婦の愛を、さらに深く、甘く、永遠のものへと育てていくのだった。




