生きる術を教えてもらった
アルディア王国の検索結果を見たあと、しばらく六畳一間の部屋には沈黙が落ちていた。
レンはスマートフォンを手にしたまま、画面を見つめている。そこに、自分の知る故郷はなかった。
世界中の情報を探せるという、小さな道具。
その便利さに驚き、地図の性能に目を輝かせていたのは、ほんの少し前のことだ。
けれど、その道具で探しても、アルディア王国は、どこにも存在しなかった。
ソウシも何を言えばいいのか分からず、黙っていた。
励ますこともできない。
帰れると言ってやることもできない。
そもそも、自分には何一つ分からないのだ。
だから。
少しだけ時間を置いてから、ソウシはスマートフォンへ視線を戻した。
「……じゃ、続きやるよ」
レンがわずかに顔を上げる。
「ああ」
それ以上、二人ともアルディア王国について触れなかった。
◇
ソウシはレンに必要なアカウントを用意し、SNSを使える状態にした。細かな設定を済ませてから、レンへ画面を見せる。
「次に、肝心な連絡の仕方」
「通信か」
レンは真面目な顔でスマートフォンを構え直した。
「レンさんは身分証明がないから、今の状態じゃ普通の携帯電話みたいには使えないんだ」
「使えない?」
「ネットは使える」
「……?」
早くもレンの眉間に皺が寄った。
ソウシは構わず説明を続ける。
「で、このSNSのメッセージ機能使えば、俺とは文字で連絡取れる」
実際に画面を操作しながら、どこを押せばよいのか示していく。
「それに、ここなら声でも話せるから」
「待て」
「何?」
レンは理解できないものを見るような顔で、画面とソウシを交互に見た。
「普通の電話とやらはできぬ」
「うん」
「しかし、文字による通信はできる」
「そうだね」
「さらに、声でも話せる」
「そう」
しばしの沈黙。
「……意味がまったく分からん」
「まあ、深く考えなくていいよ」
ソウシも、どう説明すれば納得させられるのか分からなくなってきた。
通常の電話と、インターネットを経由した通話の違い。
自分にとっては当たり前でも、そもそも電話というもの自体を知らなかった相手へ一から説明するとなると、途端に難しくなる。
「とにかく、このSNS使えば俺とは連絡取れるって覚えといて」
もう実用上必要なところだけ分かればいい。
レンも少し納得できない顔のままではあったが、やがて頷いた。
「……承知した」
◇
「次、カメラね」
ソウシはレンからスマートフォンを受け取った。
カメラを起動し、何気なくレンへ向ける。
「?」
レンが怪訝そうにこちらを見る。
カシャ。
「……!」
短い音とともに、レンの横顔が画面へ収まった。
ソウシはそのままスマートフォンをレンへ返す。
「ほら」
そこに映っている自分の姿を、レンは不思議そうに見つめた。
そして、ふと何かに気づいたように目を上げる。
「……昨日から聞いていた音は、これか」
「そう」
ソウシは頷いた。
「これでこうやって写真が撮れる」
画面の操作を切り替える。
「こっちにすると動画」
「写真と違うのか?」
「動いてるところを、そのまま記録できる」
「なるほど……」
レンは画面を見つめた。
昨日、池袋を歩いている間、何人もの人間から向けられていた小さな端末。何度も鳴っていた音。
それらが、自分の姿を記録していたのだと、ようやく正確に理解したらしい。
ソウシは先ほど撮影した写真を改めて確認する。
レンの横顔。
背景に映っているのは、部屋の壁がほとんどだ。
現在地が簡単に分かるようなものも、特に見当たらない。
「この写真、そんなに顔とか場所がハッキリ分かる感じでもないし」
ソウシは画面を示した。
「SNSのアイコンにしていい?」
「……よく分からないが、ソウシの好きにしてくれ」
「じゃ、これで」
ソウシはそのままプロフィール画像へ設定した。
◇
「これで最後。SNSね」
スマートフォンをレンへ戻す。
画面を指で動かす。
文章。写真。動画。
知らない人間たちの投稿が、次々と流れていく。
レンも先ほど覚えたばかりの操作で、慎重に画面を送った。
「ここには色んな人が書き込んだ情報が流れてくる」
「先ほどの検索とは違うのか?」
「まあ、ちょっと違う。新しい情報を知りたいなら便利なんだけど」
ソウシはそこで指を止めた。
「ここに書いてあること、全部が本当とは限らないから気をつけて」
「嘘があるのか?」
「ある」
レンの表情が少し険しくなる。
「嘘だけじゃなくて、人を騙そうとしてるやつとかもいる」
「そこまで危険なら、これを見ない方がよいのではないか?」
「いや、そういうわけじゃないんだよ」
もっともな疑問だった。
ソウシは少し考えてから答える。
「ちゃんと使えれば便利なんだ」
SNSそのものが危険なのではない。
問題は、何を信じて、どう使うかだ。
「特技とかあれば、それを見た人が面白がって広めてくれたりする」
「広める?」
「それがいっぱい広がるのが、バズるって感じ」
レンは少し考えた。
「昨日の俺のような状態か」
「そうそう。昨日は、レンさんの服装を面白がってみんながここに広めた」
そこは理解が早かった。
「それでフォロワーが増えたり、配信したりして、そこから金になることもある」
ソウシは画面を指で動かしながら続ける。
「それを見た人から仕事が来たりすることもあるし」
「……つまり」
レンが考え込む。
「己の特技を示すことで名声を得る」
「え?」
「その実績によって依頼者の信頼を得て、仕事につなげるということか」
「……まあ」
言われてみれば。
完全に間違っている、とも言い切れない。
レンは一人で納得したように頷いた。
「やはり、冒険者と似ているな」
「うーん……」
ソウシは首を傾げた。
「……多分違うと思うんだけど」
◇
「で。便利だけど、気をつけることもある」
ソウシがそう言うと、レンは真面目な顔でこちらを見た。このあたりだけは、きちんと伝えておかなければならない。
「そうだな……」
ソウシは頭の中で、最低限必要なことを考える。
「知らない人と連絡取る時は、本名とか、今いる場所とかを簡単に教えない」
「身元を隠すのか」
「隠すっていうか、必要以上に教えない」
「なるほど」
「あと、知らない相手から変なリンク送られても、よく分かんないまま押さない」
「リンク?」
「……そこは追々」
まだ教えることが増えそうになり、ソウシは早々に打ち切った。
指を折りながら続ける。
「知らない人の言うことを簡単に信用しない」
レンは黙って聞いている。
「あと――」
ソウシは一度言葉を切った。
スマートフォンでは、仕事だって探せる。
それはすでに教えた。
だからこそ。
「内容のよくわからない高額の仕事に応募したりもダメ」
「仕事も?」
「仕事も」
ソウシは念を押す。
「何やるのかよく分かんないのに、金だけ妙にいいやつとか」
「……」
「そういうのは、とりあえず避けた方がいい」
レンは少し考え込んだ。
注意そのものを軽く扱っている様子はない。
むしろ、一つ一つ覚えようとしているように見える。
だが、レンの知る世界では、高額の報酬が提示される依頼そのものは珍しくない。
危険な任務ほど報酬は高くなる。
依頼によっては、詳細を不用意に外へ漏らせないこともある。
現地で初めて事情を聞かされる仕事があったとしても、それだけで異常とは限らない。
だから、ソウシのいう〝怪しい〟が、どの程度のことをいうのか、それがレンには分からなかった。
「……よく分からないが、ひとまず心得た」
「ほんとに分かってんのかな……」
ソウシは小さく呟いた。
◇
ソウシはレンの手の中にあるスマートフォンへ目を落とした。
そのまま何気なく画面を流す。
「あ」
「どうした?」
「それにしても、まだバズってる」
レンも画面へ目を向けた。
そして、目を見開く。
「なっ……」
そこには、黒い鎧姿のレンがいた。
雨の池袋。人混みの中を歩く姿。
前日に誰かが撮影した写真だった。
「これは、俺か?」
「うん…」
ソウシは次の投稿を表示する。
「昨日撮られたやつ。まだ色んな人に回されてるんだね」
別の写真。別の角度。さらに動画。
昨日、池袋を歩き回った自分自身が、知らない人間たちの投稿を通じて次々と画面に現れる。
レンは奇妙なものを見るような顔で、それを眺めていた。
「もし配信者にでもなりたいなら」
ソウシは何気なく口にする。
「これをチャンスにフォロワー増やしとくのもありだけど」
「フォロワー……?」
レンが首を傾げた。
少し考える。
「従者か?」
「いや――」
「生憎、今は従者を食べさせるような余裕はない」
「…………」
レンは大真面目だった。冗談を言っている様子は欠片もない。
おそらくレンの世界では、従者を抱えれば、その生活まで面倒を見る責任があるのだろう。
ソウシは訂正しようと口を開いた。
――フォロワーっていうのは、そういう意味じゃなくて。
「……またなんか勘違いしてるけど」
ソウシは小さく息を吐いた。
「まあ良いか」
「?」
ソウシは窓の方へ目をやった。
ほとんど日が差さない部屋でも、外が夕方になったことくらいは分かる。
ほんの少し、使い方を教えるだけのつもりだった。それなのに、気づけば、もう日が傾いていた。
◇
「あぁ、もうバイト行く準備しなきゃ……」
時計を見たソウシは、思わず声を漏らした。
その瞬間、意識が一気に自分自身の現実へ引き戻される。
本当なら今日は…予備校で夕方までみっちり自習して、そのままバイトへ向かう予定だった。
結局、自習は丸々潰れた。
今日やるはずだった分を、どこで取り戻す。
明日か。深夜か。それとも次の休みか。
ただでさえ遅れている。
一日押した勉強内容を埋め合わせるための予定が頭を駆け巡り、またソウシの肩へ重くのしかかった。
レンを助けたことを後悔しているわけではない。
それでも。
ソウシにはソウシの生活がある。
浪人生としての勉強。
生活費を稼ぐためのバイト。
あーにゃんの配信だってある。
誰か一人を抱え込んで、いつまでも面倒を見続けられるような余裕は、どこにもない。
――……そうだ。
ソウシはレンを見る。
――ここで、伝えなきゃ。
「……あのさ、レンさん」
「うむ。なんだろうか」
レンは手にしていたスマートフォンから視線を上げた。そして背筋を伸ばし、真正面からソウシへ向き直る。
その姿を見ながら。
ソウシは頭の中で、この二日間を数えた。
飯も奢った。一泊だけでも泊めた。
金貨を換金するのにも付き合った。
生活に必要な物を揃えるのにも付き合った。
スマートフォンを用意した。使い方も教えた。
最低限、この国で生きるために必要そうなものは、どうにか渡したつもりだった。
まだまだ不安はある。というより。
正直、かなり不安だ。
買い物一つ。誰かと話すこと一つ。
この国の常識を知らないレンが、これから一人でどうするのか。考えれば考えるほど心配になる。
だが、だからといって。
これ以上の時間を割き続けることは、ソウシにはできなかった。
「……この部屋見てもらったら分かると思うけど」
ソウシは視線を少し落とした。
「俺も、人を助けてあげられるほど余裕のある生活してるわけじゃないんだ」
レンは黙って聞いている。
「……浪人中でさ」
口にすると、それだけで胃の辺りが重くなる気がした。
「受験勉強しながらバイトもしてるから、時間も結構カツカツで」
「ああ」
「それで……」
言いにくい。
自分から連れてきたようなものだ。
昨夜は放っておけずに家へ入れた。
今日一日も世話を焼いた。
そこまでしておいて、もう出ていってほしいと伝える。
別に、自分が悪いわけではない。
そう思うのに、妙な後ろめたさが残る。
「申し訳ないんだけど――」
そこで、レンが静かに片手を上げた。
ただ、それ以上は言わなくてよいと伝えるように。
「ソウシ」
「……何?」
「申し訳ないなどと言わないでくれ」
ソウシは目を瞬いた。
レンの表情は真剣だった。
「恩人に、そのようなことを言わせるのは忍びない」
「……」
「分かっている」
レンは部屋を一度だけ見回した。
六畳一間。最低限の家具。質素な暮らし。
この一日、ソウシが自分のために時間を使い続けていたことも。
レンはすべて見ていた。
「感謝してもし足りないほどだ」
「だから、大げさなんだよ」
ソウシは居心地が悪くなり、少し視線を逸らした。
「いらないスマホ渡しただけだろ」
どうせ物入れの奥で眠っていた物だ。
金貨の換金だって、身分証を出して付き添っただけ。
服を選んだのも。使い方を教えたのも。
自分にとっては、そこまで大したことではない。
「それだけではない」
レンの声が返ってきた。
ソウシは再び顔を上げる。
レンは、まっすぐこちらを見ていた。
「生きる術を教えてもらった」
「…………」
二人の間に、短い沈黙が落ちた。
ソウシは何も言えなかった。
ソウシが言葉を探している間に、レンは立ち上がった。
買ったばかりの黒いパーカーを整える。
バッグを手に取る。
必要な物は、もうそれで持ち出せる。
レンはソウシをまっすぐ見た。
「この恩は忘れぬ」
「いや、だから――」
「この地で身を立て、いつか返す」
レンは静かに言った。
一度、言葉を切る。
「必ず」
大仰な仕草はなかった。胸へ手を当てることも。
声を張ることも。
本人にとって、ただ当然の約束なのだろう。
それだけ言うと、レンは玄関へ向かった。
古びたドアノブへ手をかける。
ギィ、と軋んだ音を立ててドアが開いた。
ソウシは止めなかった。
止める理由はない。
これでいい。
最初から、こうするつもりだったのだから。
レンは廊下へ出る前に一度だけ振り返った。
軽く頭を下げる。
それから、そのまま外へ出ていった。
古いドアが閉まる。
部屋が静かになった。
「…………はぁ」
ソウシの口から、深いため息が漏れた。
昨晩からのことを思い返す。
公園で出会った、意味の分からない鎧姿の男。
常識では考えられないようなことばかりだった。
たった一晩と一日。
それなのに、妙に長かった気がする。
ようやく終わった。
これで、自分はいつもの生活へ戻れる。
勉強をして、バイトへ行って。
帰ったら配信を見て、一人で眠る。
昨日までの生活へ。
戻れる。
――はずなのに。
ソウシは、なぜか見慣れた古いドアから目を離すことができなかった。




