金貨は使えないが、金ではある
まったく日の差さない、ビルの谷間にあるソウシの部屋にも朝が来た。
朝になったからといって、六畳一間の室内が目に見えて明るくなるわけではない。
窓の外を塞ぐように建つ周囲の建物のせいで、薄暗さは夜と大して変わらなかった。
ソウシは眠気の残る身体を起こすと、モソモソと布団をたたみ、収納へ押し込んだ。
そのまま、ふと傍らへ目をやる。
昨晩ソウシが貸したスウェットに身を包んだレンが寝袋を畳もうと四苦八苦している。
黒い鎧も、大剣もない。
あの長いマントも、すべてあの収納魔法の中だ。
そうして見ると、昨日池袋中の視線を集めていた人物とは思えないほど、現代の若者と何ら変わらないように見えた。
黒い髪の若い男が、六畳一間の部屋に座っている。
ただそれだけだ。
昨夜、目の前で魔法を使った男だと言われても、何も知らない人間なら信じないだろう。
ソウシ自身ですら、寝起きの頭では一瞬、昨日の出来事すべてが夢だったような気がした。
もっとも、本人がそこにいる以上、夢だったことにはできない。
「朝メシ、食べる?」
ソウシが何気なく尋ねる。
するとレンは、なぜか背筋をぴしりと伸ばした。
そして深々と頭を下げる。
「……いただこう」
「いやいや、そんな改まってもらうようなものは出せないんだけど」
昨日の牛丼一杯で、あれだけ重たい恩義を背負われたのだ。朝食程度でまた何か誓われてはたまらない。
ソウシは立ち上がり、冷蔵庫を開けた。
中からパックの牛乳を取り出す。
次に、出しっ放しの食器の中から適当にコップを二つ引っ張り出した。
色も違えば、大きさも違う。
揃いの食器など、そもそも持っていない。
そこへ牛乳をそれぞれ注いだ。
電子レンジの上には、食パンの袋が無造作に放ってある。
ソウシはそれをつまみ上げると、レンとの間の床へそのまま置いた。
袋を開け、食パンを一枚取り出してレンへ差し出す。
「はい」
レンは受け取ったパンを、少し不思議そうに眺めた。
「これは……パンか?」
「そうだけど」
レンは指先で表面を軽く押した。
白い生地が柔らかく沈み、すぐに元へ戻る。
「随分柔らかいな」
「そこ褒めるとこ?」
ソウシには当たり前すぎて、感心する意味が分からない。
だがレンは本気らしく、もう一度パンの食感を確かめてから口に運んだ。
昨日の牛丼のときと同じだった。
質素な食事だからと雑に扱うこともなく、一口ずつきちんと噛み、味わっている。
対するソウシは、パンを片手に持ったまま、もう片方の手でスマートフォンを操作していた。
画面を開き、いつものようにSNSを眺める。
指先で次々と投稿を流していく。
レンはそんなソウシを一度だけ見たが、何も言わず食事へ戻った。
しばらくして。
ソウシの指が止まった。
「うっわ……昨日の騒ぎ。ショート動画の方まで流れてきてるよ」
「ショート……?」
レンも顔を上げる。
「短く動く画像がなんだ?」
「短く動く画像って……」
ソウシはスマートフォンをレンへ向けた。
「レンさん、アンタが昨日、鎧姿で池袋歩いてるところが色んな人に撮影されて、拡散されまくってるってこと」
画面には、雨の池袋を歩く黒い鎧姿のレンが映っていた。
指を動かせば、別の動画が現れる。
駅前。
信号の近くで騒ぎになっているレン。
さらに流せば、また別の角度から撮られた鎧姿。
同じ一人の男を、まったく別の人間たちが、それぞれの場所から記録している。
レンは画面を覗き込み、わずかに眉を寄せた。
「確かに、あの記録用道具を多くの人間に向けられた覚えがある……」
そして少し考え込む。
「して、これは敵に俺の居場所が知られたということになるのだろうか……」
「敵ってなんだよ」
ソウシは思わず笑った。
「魔王はこっちまで追って来れないでしょ」
それだけ言って、また画面へ視線を戻す。
自分が昨日まで存在すら信じていなかった魔王について、当たり前のように会話している。
その変化に、ソウシ自身はまるで気づいていなかった。
画面の数字へ目をやる。
再生数。
コメント。
共有。
どれもかなりの勢いで伸びていた。
――逆に、これってチャンスなんじゃないのか?
ふと思う。
昨日これだけ話題になった本人が、今この部屋にいる。
今のうちに本人のアカウントを作れば、何もない状態から始めるより、ずっと人を集めやすい。
この整った見た目。
しかも、本当に魔法まで使える。
もし配信者として活動でもすれば――。
上手くいけば、収入につながる可能性だってある。
「…………」
そこまで考えて、ソウシは小さく首を振った。
――いやいや。
そこまで誰が教えるんだよ。
スマートフォンすら持っていない男だ。
アカウントの作り方。
SNSの使い方。
投稿の方法。
配信。
その一つ一つを誰かが説明しなければならない。
そして、どう考えても、その誰かは自分になる。
あーにゃんのモデレーターだってある。
勉強もしなければならない。
ただでさえ自分の生活すらギリギリなのに、これ以上面倒を見る余裕などない。
ソウシはスマートフォンを伏せた。
「今日はこれから、昨日言ってた買取店にもう一回行ってみるから」
「ああ」
ソウシは立ち上がると、収納を開けた。
ただでさえ少ない衣類を掻き分け、レンでも着られそうなものを探す。
濃いグレーのTシャツ。
黒いパーカー。
黒のジーンズ。
目立たず、変でもなく、それなりに今の街へ馴染める。
まとめてレンへ差し出した。
「これ着て」
レンは受け取った服を広げた。
そして、生地を指先でつまむ。
「これが、この国の軽装備か……」
掌で厚みを確かめ、少し不安そうに眉を寄せた。「なんとも心許ないな」
「魔物が出たり、剣振り回したりするわけじゃないんだから、いいんだよ。これで」
レンは、まだ納得しきれない様子で服を見つめている。これまで鎧を身につけて街道や戦場を歩いてきた人間からすれば、布一枚で外へ出るようなものなのだろう。
「これも、返せるときに返してくれたらいいから」
ソウシが言うと、レンはまた真面目な顔になった。
「重ね重ね、恩に着る」
「これ以上、恩を積み上げられてもな……」
レンにとっては、一つ一つが大真面目なのだ。
だが、いつ返ってくるかも分からない恩より、ソウシには自分の平穏な生活の方が大事だった。
今日はまず、金貨を金に換える。
話はそれからだ。
◇
朝食と着替えを済ませた二人は、東池袋のアパートを出た。
レンはソウシから借りた濃いグレーのTシャツに黒いパーカー、黒のジーンズという姿になっている。
鎧も剣も収納魔法の中だ。
歩いている姿だけを見れば、昨日あれほど池袋で注目を集めた人物だとは分かりにくい。
一方のソウシは、外へ出てからもスマートフォンからほとんど目を離していなかった。
画面をスクロールする。
文字を読む。
時折、小さく何かを呟く。
その間も忙しなく指を動かしている。
レンは隣を歩きながら、何度かその様子を横目で見た。
――ソウシは、起きてからあの記録用道具から一切目を離していない。
――一体、あの道具は何なのだ……。
「レンさん、昨日断られた買取店ってどこ?」
画面を見たまま、ソウシが尋ねた。
「?」
レンは周囲を見回す。
昨日歩いた道を思い返しながら、視線を巡らせた。
「そうだな……確か、この地の英雄だというドン……何某の看板を見たあとに、店へ入った覚えがある」
「英雄って(笑)」
ソウシは吹き出した。
「ドンキね」
「ドンキ?」
「そこはもういいから」
ソウシは再びスマートフォンへ目を落とした。
レンの記憶をもとに周辺の店舗を探し、画面を何度か切り替える。
「……うーん。そこの店、口コミがあんまり良くないな」
「口コミ?」
レンが聞き返す。
「だから、昨日の店じゃなくて、こっち行こう」
ソウシは別の店舗情報を開き、画面をレンへ見せた。
「刻印がよく分からない海外の貴金属でも、比重とかX線とかでちゃんと調べてくれるみたいだから」
言われた専門用語そのものは、レンにもよく分からないが「きちんと素材を調べる店」という意味は伝わったらしい。
「口コミ……批評、ということか?」
「まあ、近いかな」
「ソウシは、この街の買取店の評判に詳しいのか?」
「そうじゃないよ」
ソウシはスマートフォンを持った手をひらひらと振った。
「そういうのは、これでみんな分かるようになってんの」
「これで?」
レンの視線が、小さな端末へ落ちる。
「店に行った人が評価とか感想残してるんだよ」
ソウシは歩きながら、画面に並んだ文章を軽く見せた。
「変な店に当たって損したり、嫌な思いしたりしないように、先に調べてから行くの」
「ほう……」
レンは改めてスマートフォンを見た。
自分が直接訪れたことのない店について、その店を利用した多数の人間の経験を、手の中の小さな道具だけで知ることができる。
それだけでも、レンの知る情報収集とは大きく違っていた。
「ただの記録、通信用の道具ではないわけだな」
「そう」
ソウシは何でもないことのように答える。
「記録とか通信だけじゃなくて、ちょっとした調べ物とか、地図とか、仕事探しとか」
そして何気なく付け加えた。
「これがないと、この国じゃ生活が成り立たないよ」
レンは何も言わなかった。
ただ、ソウシの手の中にあるスマートフォンをじっと見つめる。
その眼差しは、街角で見慣れない道具を眺めていた昨日とは少し違っていた。
現代社会で生きていくための重要な装備。
レンの認識は変わりつつあった。
◇
話しているうちに、二人は目当ての買取店へ到着した。
店内は明るく、前日にレンが訪れた店よりも入りやすい雰囲気だった。
カウンターの向こうから、女性店員が丁寧に頭を下げる。
「いらっしゃいませ」
ソウシが事情を簡単に説明し、必要な書類へ記入を始める。
その隣で、女性店員は白い手袋を着け、持ち込まれた金貨と白金貨を慎重に確認していた。
掌の上へ載せて持ち上げる。
その重量に、店員の目がわずかに見開かれた。
「これは……かなりずっしりしていますね」
角度を変えながら、一枚ずつ丁寧に確認していく。
そこには、店員が見慣れた日本の貨幣とはまるで違う人物や紋章、文字が刻まれている。
「どういったお品物ですか?」
問われたレンは、何の迷いもなく答えた。
「アルディア王国の通貨だが」
「……アル……?」
書類へ向けられていたソウシの顔が、勢いよく上がった。
「か、海外!」
思わず声が裏返る。
「海外の古いコインらしいです! 刻印とか、こっちじゃよく分からないみたいで」
店員は一瞬だけ戸惑った。
「そ、そうですか」
それでもすぐに営業用の穏やかな笑顔へ戻る。
「では、素材や品位も含めて査定させていただきますね」
「お願いします」
女性店員は金貨と白金貨を預かり、店の奥へ下がっていった。
その姿が見えなくなった瞬間。
ソウシはレンへ身を寄せる。
手を口元へ添え、周囲へ聞こえないよう声を落とした。
「あのね」
「なんだ?」
「何とか王国とか、魔王がどうとか、そういう話はあんまり外でしない方がいいよ」
レンの眉が寄る。
「何故だ」
純粋に分からないという表情だった。
「俺は嘘はついていない」
その言葉に、ソウシは一瞬だけ黙った。
――それは、分かってる。
昨晩、目の前で見た魔法。
眠りながら、聞いたこともない言葉でうなされていた姿。
本物としか思えない剣と鎧。
昨日までなら、「そんな設定やめろ」と言えた。
今はもう、そう簡単には言えない。
ソウシ自身、レンの話を完全な嘘だとはほとんど思っていなかった。
だからこそ困るのだ。
「……嘘かどうかって話じゃなくて」
「?」
「ここで暮らしてたら、そのうち分かるから」
自分でも酷く曖昧な説明だと思った。
しかし、人前で「異世界から来た」「魔王と戦った」と真顔で話せばどう見られるのかを、一から説明するのは面倒だった。
それだけではない。
「あ、あと」
ソウシは念を押す。
「人前で魔法使うのもやめた方がいいからね」
「魔法もか?」
レンは納得がいかない様子だった。
何も悪いことをしていないのに、なぜ自分の出身を隠し、魔法まで使ってはいけないのか。
その疑問が表情から伝わってくる。
だがレンはすぐに反論せず、少し考えた。
そして深く息を吐く。
「恩人の忠告とあれば……そのようにすると誓おう」
「何それ、重っ」
◇
しばらくして、奥へ下がっていた女性店員が戻ってきた。
「お待たせいたしました」
カウンターへ査定結果が置かれる。
続けて、買取金額が提示された。
「…………え?」
ソウシは思わず間の抜けた声を出した。
もう一度、表示された金額を見る。
見間違いではない。
予想していたより、ずっと高い。
レンの持ち込んだものが、アルディア王国の貨幣として評価されたわけではない。
当然、この国でそのまま買い物に使えるわけでもない。
それでも。
金は、金だった。
白金もまた、それ自体が価値を持つ。
この世界で通貨として通用しなくとも、貴金属としてなら金になる。
ソウシは、胸の中で張っていたものが少し緩むのを感じた。
これだけあれば、当面の衣類や生活用品には困らない。
靴も買える。身の回りのものも揃えられる。
スマートフォンだって、やり方次第では用意できるかもしれない。
少なくとも、レンが今日明日の食事に困るようなことはなくなる。
良かった。
これなら、自分がずっと面倒を見なくても済むかもしれない。
そう思って、ほっと息を吐いた。
そして。
ほんの一瞬だけ。
昨晩、自分へ差し出された金貨のことを思い出した。
ずしりと重かった、あの一枚。
自分は、それを突き返した。
家賃。
カードの引き落とし。
口座残高。
朝も確認したばかりの、自分自身の厳しい懐事情が脳裏をよぎる。
――……金貨。
ソウシは査定額をもう一度見た。
――もらっとけば良かったかな。




