世界最弱の保護者
東池袋駅からほど近い場所に建つ、古びたアパート。
家賃一万九千円。
六畳一間。
風呂なし。
トイレは共同。
それが、秋山ソウシの住居だった。
周囲の建物と比べても、明らかに年季が入っている。雨に濡れた外壁は黒ずみ、入口の照明も頼りなく明滅していた。
ソウシはレンを連れて建物へ入ると、狭い階段を足早に上った。
後ろから、鎧の擦れ合う硬い音が響いてくる。
夜の静かなアパートには、その音がやけに大きく聞こえた。
「ちょっと、もう少し静かに歩けない?」
「善処しよう」
レンが足運びを慎重にしたところで、身につけているのは重厚な鎧である。金属音が完全に消えることはなかった。
ソウシは住人に見つからないことを祈りながら、何度も廊下の奥を確認した。
階段を上がった先には、薄暗い内廊下が延びている。左右には同じような扉が並び、ソウシの部屋も簡易的な南京錠によって施錠されていた。
鍵を開ける手が、気持ちばかり急く。
あーにゃんの配信は、すでに始まっているはずだった。
ようやく南京錠を外し、ソウシは扉を開けた。
「入って」
レンを先に通し、廊下を振り返ってから素早く扉を閉める。これで少なくとも、外で剣を抜かれる心配はなくなった。
ソウシはようやく小さく息を吐いた。
室内には、余計な家具も装飾もほとんどない。
小さな冷蔵庫。
電子レンジ。
簡素な収納。
流し台。
机の上に置かれたパソコン。
生活用品は必要最低限しかなかった。
一方で、机の周辺にはゲーム機器や少し上等なヘッドホン、あーにゃんの小さなアクリルスタンドなどが置かれている。
限られた金を、ソウシが何へ優先的に使っているのかは一目瞭然だった。
「……何にもないけど」
貧しい部屋を見られる気まずさから、ソウシは先回りするように言った。
しかし、レンは返事をしなかった。
部屋へ入った場所で立ち止まり、室内を静かに見回している。
入口。
窓。
侵入経路。
退路。
室内から死角になる場所。
家具を見るというより、戦場の陣地でも調べるような目つきだった。
一通り確認したあと、レンは深く頷いた。
「……いや。狭いが、侵入経路が限られていて守りやすい。良い隠れ家だ」
「……別に隠れてるつもりはないんだけどね」
褒められたのか、遠回しに狭いと言われたのか分からない。
だがレンの表情を見る限り、本気で高く評価しているようだった。
ソウシはそれ以上考えるのをやめ、収納を開けた。
中から着替えとタオルを取り出し、レンへ差し出す。
「風呂ないから、身体拭くならそこの流し使って」
鎧姿のレンと自分の服を見比べる。
背丈は大きく違わないが、戦い慣れた身体つきのレンには、多少窮屈かもしれない。
「まあ…返せるときに返してくれればいいから」
レンは差し出された衣服とタオルを受け取った。
「すまない。何から何まで、恩に着る」
「もう、それはいいから」
ソウシは落ち着かない様子でスマートフォンの時刻を確認した。
これ以上遅れれば、モデレーターとしての仕事にも支障が出る。
「ちょっと俺、これからやることあるから。勝手にやってて」
短く告げると、ソウシは机の前へ座った。
ヘッドホンを装着し、急いでパソコンを立ち上げる。
起動を待つ数秒すら、今はもどかしい。
配信画面を開くと、そこには猫耳をつけた女性の姿が映し出されていた。
「あーっ! ソウくん♡」
タイミングよく、あーにゃんの甘い声がヘッドホンへ流れ込んでくる。
「おかえり♡ 待ってたにゃん♡」
「あぁ~、間に合ったよ、あーにゃん……」
先ほどまでの疲れと苛立ちは、どこへ消えたのか。
ソウシの表情は露骨に緩み、間髪を入れずキーボードを叩き始めた。
コメント欄を流れる文字へ目を走らせる。
荒らしや不適切な書き込みがないかを確認し、見つければ処理する。
ソウシは、あーにゃんの配信でモデレーターを任されていた。
大勢の視聴者の中から自分が選ばれ、あーにゃん本人から頼られている。その事実は、ソウシにとってささやかな誇りだった。
家賃や模試の結果や、部屋の中にいる正体不明の鎧男。そうした現実を一時的に忘れ、ソウシは画面へ集中していく。
一方、レンは着替えることも忘れたように、パソコン画面を見つめていた。
薄い板の中で、人間が動き、こちらへ語りかけている。先ほど街で見た通信用道具とは形が違うが、同じ系統の技術なのだろう。
「不思議な道具だな……」
レンの声に、ソウシは画面を見たまま答えた。
「パソコンのこと?」
レンは画面に映るあーにゃんを指す。
「それは獣人の女か? この国にもいるのか?」
「何言ってんの?」
ソウシはようやく画面から目を離し、呆れた顔でレンを見た。
「レイヤーなら、あーにゃん知ってるでしょ?」
「知らん」
あまりにも即答だった。
「えぇ……」
これだけコスプレへ力を入れているのに、人気配信者であるあーにゃんを知らないとは思えない。
やはり設定を崩したくないだけなのだろう。
そう結論づけ、ソウシは再びコメント欄へ視線を戻した。
「とにかく、俺、モデレーターで忙しいから。身体拭くとか、着替えるとか、好きにしてて」
レンは、手渡されたタオルと衣服へ視線を落とした。
それから平然と言った。
「その必要はない」
「……は?」
ソウシが振り返る。
レンはタオルと衣服を脇へ置き、短い詠唱を口にした。次の瞬間、足元と身体の周囲へ、淡い光の魔法式が展開される。
水らしきものが見えた瞬間、ソウシは反射的に机へ覆いかぶさった。
「ちょっ、パソコン――!」
次の瞬間、水しぶきと風がレンの全身を包み込む。
しかし、水滴は一粒も床へ落ちなかった。
魔法式の内側を巡る水が、レンの髪や肌、衣服、鎧、マントへ付着した血や泥、雨水を浮かせ、洗い流していく。水は外へ飛び散ることなく、レンの周囲だけを正確に循環していた。
続いて吹き抜けた風が、残った水分を瞬時に乾燥させる。役目を終えた水と汚れは、淡い光へ溶けるように消えた。
先ほどまでじっとりと濡れていたレンの髪も、衣服も、マントも、すっかり乾いている。
血や泥の汚れも取り除かれ、鎧は本来の鈍い輝きを取り戻していた。
部屋には、雨や泥の匂いに代わって、草木を思わせる爽やかな香りが広がった。
「…………は?」
ソウシは机へ覆いかぶさったまま、顔だけをレンへ向けていた。
床は濡れていない。
パソコンも無事だ。
隠された装置も、仕掛けも見当たらない。
目の前で、水と風が明らかにレンの周囲を動いた。
そして、光となって消えた。
ソウシは、あまりの光景に卒倒しそうになるのをどうにか堪えた。
南池袋公園で見た、耳元の光。
まったく噛み合わなかった会話。
嘘をついているとは思えない、レンの表情。
作り物とは思えない装備品と傷。
信号もスマートフォンも知らない、あり得ないほど非常識な行動。
これまで薄ぼんやりと感じていた違和感が、じわじわと結びつき、一つの形を作っていく。
――やっぱり、そうなのか?
――こいつは、本物の異世界人なのか?
ヘッドホンから聞こえてくる、あーにゃんの楽しそうな笑い声が、急に遠くなったように感じられた。
◇
それでもソウシは、混乱した頭のまま、残っていた配信とモデレーターの仕事をどうにか終えた。
コメント欄へ目を走らせ、必要な操作をしながらも、意識は何度も部屋の後ろへ引かれた。
先ほど目の前で起きた現象が、頭から離れない。
配信が終了すると、ソウシはパソコンを閉じ、ヘッドホンを外した。
部屋の中に、パソコンのファン音と外の雨音だけが残る。
振り返ると、レンはソウシが用意したスウェットへ着替えていた。
借り物の服は多少窮屈そうだったが、黒い鎧姿よりは、ずっと現代の若者らしく見える。
髪も乾き、清潔になった姿だけを見れば、街にいても大きく浮くことはないだろう。
ただし、その脇に置かれた重厚な剣と防具一式が、日常からかけ離れた存在感を放っていた。
六畳一間の狭い部屋では、装備が床の大半を占領しているようにすら見える。
ソウシはしばらく言葉を探し、ようやく口を開いた。
「アンタ……さっき何してた?」
「清浄魔法だが」
レンは当然のことを聞かれたように答えた。
「身体や装備についた汚れを落とした」
「あれが、魔法……」
「ああ」
ソウシは頭を押さえた。
聞けば聞くほど、否定する材料がなくなっていく。
「あの……もう一度聞くけど」
レンと向き合いながら、慎重に言葉を選ぶ。
「その、何とか王国から来たとか、魔王を倒してる途中だったとか……マジなの?」
「アルディア王国だ」
レンは王国の名を訂正したあと、静かにソウシを見た。
「はじめから、俺は嘘などついていない」
怒っているわけではなかった。
責めるでも、呆れるでもない。
ただ、事実を告げているだけの声音だった。
ソウシは頭を抱えた。
先ほどの魔法を見たあとでは、もう笑い飛ばすことも、設定だと決めつけることもできなかった。
レンは最初から同じ話をしていた。
魔王と戦った。
空間の裂け目へ呑み込まれた。
気づけば池袋にいた。
仲間を元の世界へ残してきた。
それをソウシが、勝手にコスプレの設定や危険人物の妄想だと解釈していただけだった。
「今、貴殿と話しているのも翻訳魔法によるものだ」
「……これも?」
「ああ。この国の言葉を、俺は元から知っているわけではない」
そう言われ、ソウシは公園でレンが耳元へ手を当てた瞬間を思い出した。
あの小さな光も、目の錯覚ではなかったのだろう。
「この国には、魔法の使い手はいないのか?」
「……いないよ……」
ソウシは疲れ切った声で答えた。
「一人もか?」
「少なくとも、俺が知ってる限りはいない。魔法なんて、ゲームとかアニメとか、そういう中の話だから」
レンはわずかに眉を寄せた。
魔法使いが一人もいない世界など、想像もしていなかったらしい。
その反応を見て、ソウシは改めて尋ねる。
「それで、これから一体どうするつもりなの?」
「分からぬが……」
レンは少し考えた。
「ひとまずは冒険者ギルドへ加入し、依頼をこなし、日銭を稼ぎながら生活を安定させるよりなかろう」
「……だから、ないんだよ」
「何がだ?」
「冒険者ギルドとか、この国にはないの」
レンの表情がわずかに固まった。
「この規模の都市にも存在しないのか?」
「都市の規模の問題じゃないんだよ……」
ソウシは再び頭を抱えた。
魔法使いもいない。
冒険者ギルドもない。
身分証明書も、現代の金も、通信手段もない。
本当に異世界から来たのだとすれば、レンはこの世界で生活する方法を何ひとつ持っていないことになる。
ソウシが考え込んでいると、レンが片手を差し出した。
その掌には、一枚の重厚な金貨が載せられている。
「窮状に手を差し伸べてくれたことには、本当に感謝している」
レンは真っ直ぐにソウシを見た。
「残念ながら、俺では身分を証明できず、換金できないようだ」
「代わりにしかならんが、受け取ってほしい」
「いやいやいやいや!? 何これ!? え?」
ソウシは目の前へ差し出された金貨をまじまじと見つめた。
恐る恐る手に取る。
小さな見た目に反して、ずしりと重い。
冷たい金属の感触が掌へ沈み込む。
表面には、見たことのない人物と紋章が精緻に刻まれていた。記念メダルや玩具には見えない。
脳裏に、レンが断られたという買取店がよぎった。
これほどの重量があるなら、本当に金でできている可能性がある。
自分が身分証明書を持って代わりに行けば、最低限の衣類や生活用品を揃えられる程度の金額にはなるかもしれない。
あるいは、もっと高くなる可能性すらある。
金欠のソウシにとって、その価値は決して無視できるものではなかった。
家賃。
カードの引き落とし。
口座の残金。
今日確認した数字が、頭をよぎる。
この一枚を受け取れば、当面の生活はかなり楽になるかもしれない。
それでも。
「……これは受け取れないよ」
ソウシは金貨をレンへ返した。
「なぜだ?」
「なんでって……アンタ、今それしか金になる物ないんでしょ?」
レンは答えなかった。
図星なのだろう。
「俺が牛丼奢ったり、傘渡したりしたくらいで、こんなの貰えないって」
「しかし、受けた恩には――」
「明日さ」
ソウシはレンの言葉を遮った。
「もう一度、その買取店に行ってみようよ」
「俺が一緒に行って身分証出せば、買い取ってくれるかもしれないから」
レンの目が見開かれた。
「本当か!?」
この世界へ来てから初めて、生活の見通しが立った。その希望が、表情にはっきりと表れている。
「たぶんね。絶対とは言えないけど、今日よりは話が進むと思う」
ソウシは念を押すように指を立てた。
「でも、冒険者ギルドはないからね!?」
「ああ。そこは理解した」
本当に理解したのか不安だったが、今はそれ以上説明する気力がなかった。
レンは金貨を受け取り直し、大切そうにしまった。
ソウシは部屋の脇を占領している装備一式へ目を向けた。
「それにしても、明日の昼間に着る服は貸すとして……」
重厚な鎧。
防具。
長いマント。
そして本物の剣。
「この鎧とか武器、どうするつもり?」
「これか?」
レンは立ち上がり、装備の前へ移動した。
短い詠唱を口にする。
床の上へ、淡い光の魔法式が展開された。
「ちょっ、また――」
ソウシが止める間もなく、レンは剣を魔法式の中へ入れた。
剣は淡い光へ包まれ、そのまま床の下へ沈むように消えていく。続けて鎧、防具、マントも、次々と魔法陣へ放り込まれた。重厚な装備品が光の中へ沈み、跡形もなく消えていく。
先ほどまで部屋を圧迫していた一式が、ほんの短い時間ですべてなくなった。
「収納魔法だ」
「べ、便利なもんだね……」
もはや、それ以上の感想は出てこなかった。
水と風の魔法を見て。
翻訳魔法の存在を知り。
今度は鎧と剣が床へ吸い込まれるように消えた。
驚くための気力すら残っていない。
「……もう無理。今日は寝よう」
ソウシはふらつくように収納へ向かった。
中から布団一式と、キャンプ用の寝袋を引っ張り出す。寝袋はまだ新品に近く、折り畳まれていた形がしっかり残っている。
配信者がキャンプを楽しむ動画に影響され、いつか自分も使うつもりで買ったものだった。
結局、外へ持ち出すことは一度もなかった。
「野宿用だから、ちょっと狭いけど我慢して」
ソウシが床へ寝袋を広げる。
レンはそれを見て、深く頭を下げた。
「充分だ。恩に着る」
「もう恩はいいから……」
ソウシは布団を敷き、レンが寝袋へ入る。
六畳一間の部屋へ、二人分の寝床を並べると、それだけで空間の大半が埋まった。
こうしてソウシは、異世界から来たという男と、家賃一万九千円の六畳一間で眠ることになった。
◇
夜明け前。
雨音はいつの間にか弱まり、窓の外がかすかに白み始めていた。
苦しげな声が聞こえ、ソウシは薄く目を開けた。
最初は、外から聞こえてきた音だと思った。
だが、声はすぐ近くからしている。
寝返りを打ち、薄暗い部屋の中へ目を向ける。
寝袋の中で、レンがうなされていた。
眉間に深くしわを寄せ、苦しげに何かを呟いている。
口から漏れているのは、聞いたことのない言葉だった。
起きているときの会話とは違い、意味を理解することができない。
翻訳魔法が働いていないのだろう。
眠っている間は、魔法を維持できないのかもしれない。
レンは何かをつかもうとするように、寝袋の中から片手を伸ばしていた。
けれど、その手は何もない空中を探るばかりだった。
知らない言葉の中に、同じ音が何度か混じっている。
誰かの名前を呼んでいるのかもしれない。
――仲間を残してきた。
――アルディア王国へ戻る方法を探している。
コンビニの軒下で聞いた言葉を思い出す。
魔法も、異世界転移も本当だった。
ならば、故郷や仲間について語ったことも、本当なのだろう。
魔王との戦いの最中に、一人だけこの世界へ飛ばされた。
仲間たちが無事かどうかも分からない。
戻る方法もない。
そんな状況で、レンは見知らぬ池袋の街を歩いていたのだ。
ソウシは、宙へ伸ばされたレンの手をしばらく見つめた。
だとしても、自分には何もできない。
異世界へ帰る方法など、知るはずもない。
金貨を換金することならできるかもしれない。
服や生活用品を揃える手伝いくらいなら、できるかもしれない。
だが、レンが本当に望んでいることを叶える力は、ソウシにはなかった。
ソウシはその手へ触れることなく、寝返りを打った。
レンへ背を向け、目を閉じる。
それでも、朝になれば彼と一緒に、もう一度あの買取店へ行くことになる。
今夜何度も別れようとしていた相手と、明日も行動する約束をしている。
そんな自分の変化には気づかないまま、ソウシは再び眠りへ落ちた。




