牛丼一杯で重いんだよ
「それで……今日は撮影ですか?」
コンビニの軒下で、ソウシは紙コップを両手に抱えるレンへ尋ねた。
店内から漏れる白い明かりが、霧雨の降り続く夜道をぼんやりと照らしている。冷たい外気の中、二人の持つコーヒーからは細い湯気が立ち上っていた。
「撮影?」
聞き慣れない言葉を確かめるように繰り返したあと、レンは真顔で答えた。
「俺は魔王を討つため、その居城で戦っていた」
少しの間を置いて、ソウシは聞き返した。
「はい? ……魔王?」
「ああ。奴は、追い詰めたところで魔力核を暴走させて自爆した。その衝撃で空間に裂け目が生じ、気づけばこの地にいた」
滔々と語るレンの顔は、真剣そのものだった。
冗談を言っている様子も、ソウシの反応を楽しんでいる様子もない。
コーヒーを口にする合間にも、その鋭い目は遠くを見るように夜の雨へ向けられていた。
ソウシは返答に困り、曖昧な笑みを浮かべた。
「えーっと……つまり、異世界から来た勇者って設定ですか?」
「設定とはどういう意味だ?」
レンが眉を寄せる。
「俺は冒険者のレン。アルディア王国へ戻る方法を探している」
「……な、なるほど……」
ソウシは、どう返せばよいのか分からなくなった。
ここまで役へ入り込んだコスプレイヤーもいるのかもしれない。
撮影中でなくとも、キャラクターを崩さないことを信条としているのだろう。そう考えれば、一応は説明できる。だが、レンの話し方には芝居がかった誇張がなかった。本当に、自分が体験した出来事を説明しているようにしか見えない。
ふと、紙コップを持つレンの手が目に入った。
節の目立つ、ごつごつとした指。
皮膚には、古いものから新しいものまで、無数の傷が刻まれている。
スマートフォンや参考書を触ってきたソウシの白く細い手とは、まったく違う手だった。
「仲間たちも、向こうに残してきた」
レンの声がわずかに低くなる。
「俺には戻らなければならない理由がある」
その言葉とともに、紙コップを包む指へ静かに力が込められた。
鎧についた無数の傷も、黒ずんだ血の跡も、近くで見るほど生々しい。
特殊な加工や血糊だと思っていた。
だが、ここまで徹底して作り込むものだろうか。
雨で濡れているせいだけではない。鎧の隙間から見える衣服も裂け、古い血がこびりついている。
――ひょっとして、この人、マジでヤバいんじゃないの?
話を信じたから、ではない。
何か事件に巻き込まれた人物か、現実と空想の区別がつかなくなっている人物ではないのか。
ソウシの心臓が、誰かの手に握られたように強く脈打った。
「えっと、レンさん……でいいんですよね?」
「ああ」
「スタッフさんとか、仲間の人に連絡できないんですか?」
「通信魔法は試した。しかし、この世界からは誰にも届かなかった」
「通信魔法……? スマホは?」
「スマホ?」
レンは怪訝そうな顔をした。
「あの通信用道具のことか? 俺は持っていない」
その反応も、演技には見えなかった。
ソウシがスマートフォンをわずかに持ち上げて見せても、レンの目には、見慣れた道具を見る者の気配がない。
「それに、俺はこの国の貨幣も身分証明も持っていない。先ほど換金所へ行ったが、冒険者ギルドへの加入を断られた」
「……換金所? 冒険者ギルド?」
「金と白金を扱う店だ。あそこは冒険者ギルドと通じているのではないのか?」
「それ、普通の買取屋じゃないですか?」
「……普通の買取屋?」
レンは、初めて聞かされた事実のように目を見開いた。どうやら、相手は本気で分かっていなかったらしい。
ソウシはますます頭が痛くなってきた。
スマートフォンもない。
金もない。
身分証明書もない。
今夜泊まる場所すらない。
目の前の男の話が真実かどうかは別として、このまま放っておいてよい状態ではないことだけは確かだった。
「も、もし困ってるなら、交番とか……」
そこまで口にして、ソウシは止まった。
交番まで案内すれば、おそらく自分も事情を聞かれる。
この鎧姿の男をどこで見つけたのか。
なぜ連れてきたのか。
本人は何者なのか。
そんな説明に付き合っていたら、あーにゃんの配信に間に合わなくなる。
ソウシはポケットからスマートフォンを取り出し、時刻を確認した。
配信開始まで、もうほとんど余裕がない。
配信に遅れること、それだけは絶対に避けたい。
ソウシはそこで初めて、自分が想像以上に面倒なことへ巻き込まれつつあると気づいた。
◇
「と、とりあえず」
ソウシは、声が上ずらないよう慎重に話し始めた。
「外にいるよりは、雨風がしのげる駅の中にいた方がいいんじゃないですか? 野宿してる人も駅の中が多いですよ」
「そうか……」
レンは顎へ手を当て、真剣に考え込む。
「あの巨大な運搬拠点の中には野営基地があると……。有力な情報、感謝する」
――ホームレスと同じような扱いをされているのに、怒らないのか?
それどころか、レンは心から礼を言っているようだった。
ソウシは、先ほど出会ったばかりの不審な男に対して、なぜか良心の呵責を覚え始めていた。
俺には関係ない。
俺が助けなければならない理由もない。
そもそも俺はしがない浪人生で、誰かを助けている余裕なんてない。
自分の家賃と生活費にさえ困っているのだ。
ソウシは、その良心とやらをぐっと飲み下そうとした。
俺には、俺の生活がある。
「……よ、良かったら駅まで送っていきますよ」
「すまない」
迷いのない感謝を返され、ソウシはますます居心地が悪くなった。
「それと、これ」
ソウシは、自分が差していたヨレヨレのビニール傘を差し出した。
錆びた骨組みを見て、一瞬だけ手を止める。
捨てても惜しくないような古い傘だったが、今夜も自分を雨から守ってくれていた物だ。
「ボロいんですけど、良かったら使ってください。俺、折りたたみがもう一つあるんで」
そう言って、リュックから黒い折りたたみ傘を取り出してみせる。
レンは傘の古さなど気にした様子もなく、両手で丁寧に受け取った。
「重ね重ね、感謝する」
「いや、もういいですから」
それは、どうしても飲み下せなかったソウシの良心を保つための、唯一の贈り物だった。
◇
二人は、それぞれの傘を差して池袋駅東口へ向かった。
レンは譲り受けた傘を、見慣れない武具でも確かめるように一度眺めたあと、慎重に頭上へ広げた。
並んで歩いてはいるが、別々の傘によって二人の距離は自然に開いた。
雨音と足音ばかりが続き、会話が減ったことは、ソウシにとって幸いだった。
明治通り沿いへ着くと、ソウシは横断歩道の向こう側を指さした。
「じゃあ、あそこが駅の入り口なんで」
「道案内、感謝する」
レンは深々と頭を下げた。
ソウシは内心、ほっとしていた。
レンと名乗る男が狂人なのか、本当に異世界から来たのかは分からない。
だが、そういうことは、もっと余裕のある人間と一緒にやればいい。
少なくとも、俺みたいなモブのところじゃない。
ここまで連れてきたのだ。
傘も渡した。
これ以上は自分の責任ではない。
そのときだった。
キキーーーッ!
プーッ、プーッ!
突然、目の前の通りに急ブレーキとクラクションの音が響いた。
ソウシは音の方へ顔を向ける。
レンが、赤信号の横断歩道を外れ、堂々と車道を斜めに渡り始めていた。
「ちょっ、何やってんだよ、アンタ!」
思わず叫ぶと、レンは車道の途中で振り返った。
「?」
「『?』じゃないよ! 赤信号!」
「赤い灯りなら見えていた」
レンは何を責められているのか分からないように答える。
「だが、あれは鉄の馬車へ停止を命じるものではないのか?」
「歩行者も止まるんだよ!」
「徒歩の者にまで命令するのか?」
「するよ! みんな従ってるよ!」
横断歩道の手前には、信号が変わるのを待つ人々が並んでいる。だがレンは、それを見てもなお納得しきれない様子だった。
「それにしても無礼な馬車だ。接触する距離ではなかったというのに、あれほど警告を鳴らすとは」
「おかしいのはアンタだよ!」
ソウシの怒鳴り声に、周囲の人々が二人の方を振り返った。
急停止した車の運転手も、窓越しに何かを叫んでいる。
さらに、SNSでレンの勇者姿を見ていた者もいるのか、スマートフォンを向けながら人が集まり始めた。
「あれ、さっきバズってた人じゃない?」
「やっぱ本物いた!」
撮影音が鳴る。
ざわめきが広がっていく。
ソウシは近くの交番が視界へ入り、顔を青くした。
「ここは交番も近いし、騒ぎを起こすとまずい……」
このままレンを一人にしたら、駅へ入る前に事故を起こすかもしれない。それどころか、別の騒ぎへ発展する可能性もある。
ソウシは自分の傘を持ち直すと、レンの腕をつかんだ。
「一旦、こっちに隠れて人混みを避けよう」
ソウシは逃げることを諦め、レンを連れてその場を離れた。
◇
ソウシはレンの腕を引き、人通りのない裏路地を進んだ。
駅前の喧騒が少しずつ遠ざかっていく。
濡れた路地には二人の足音と、傘を打つ雨音だけが響いた。
ソウシの胸はまだ早鐘のように鳴っている。
もう少しで本当に事故になるところだった。
レン本人は避けられたと言っていたが、そんなことは問題ではない。
運転手や周囲の人間には、鎧姿の男が突然車道へ飛び出したようにしか見えないのだ。
そのときだった。
「ぐううぅぅ……」
張り詰めていた空気を壊すような、ひどく緊張感のない音が響いた。
ソウシは足を止め、レンを振り返った。
レンも自分の腹へ視線を落としている。
「……腹、減ってんの?」
「……そういえば、魔王城へ突入する前に食べたきりだ」
「…………」
ソウシは何も言えなかった。
魔王城が本当に存在するかはともかく、少なくとも相当長い時間、何も食べていないらしい。
そのまま駅へ放り出すのは、さすがに後味が悪すぎる。
かといって、悠長な食事に付き合う時間はない。
安くて、早くて、すぐに食べられるもの。
数分後。
二人は、裏路地を抜けた先にある牛丼屋へ入っていた。
明るく暖かい店内へ黒い鎧姿のレンが入ると、食事中の客たちが一斉に視線を向けた。
ソウシはそれに気づかないふりをし、レンをカウンター席へ座らせる。
「牛丼、二つ」
急いで注文を済ませる。
ほどなくして、湯気を立てる牛丼が二人の前へ置かれた。
甘辛い香りが立ち上り、レンの視線が丼へ吸い寄せられる。
ソウシが箸を手に取ると、レンは怪訝そうな顔でそれを見つめた。
二本の細い棒と、牛丼と、ソウシの手元を順番に見比べている。
用途を分析しているようだったが、答えにはたどり着けないらしい。
「……はいはい。使えないのね」
ソウシは箸の持ち方を一から説明する気力を失い、店員を呼んでスプーンを一つ頼んだ。
レンは渡されたスプーンを見て、ようやく食器だと理解したように頷く。
二人はしばらく、無言のまま牛丼を食べた。
ソウシは時刻が気になり、急いで箸を動かした。
対してレンは空腹だからといって、がつがつとかき込むことはなかった。
まるで戦場で差し出された貴重な食事を受け取ったかのように、一口ずつ静かに、ゆっくりと味わっている。
温かい肉。
甘辛い汁を吸った米。
湯気とともに立ち上る香り。
最初の一口を含んだ瞬間、レンの目がわずかに見開かれた。
それでも何も言わず、噛みしめるように食べ続ける。
鎧姿の男が、スプーンで牛丼を一粒ずつ大切に口へ運んでいる。
その異様な光景を、近くの客たちがちらちらと見ていた。
ソウシは呆れながら横目でレンを見た。
これほど空腹なら、もっと勢いよく食べてもよさそうなものだ。
だが、その丁寧な食べ方を見ていると、不思議と急かす気にはなれなかった。
レンは米粒一つ残さず食べ終えると、スプーンを置いた。
それから姿勢を正し、ソウシへ深々と頭を下げる。
「名も知らぬ親切な方、すまぬ。恩に着る」
レンは顔を上げ、改めてソウシを見た。
「そういえば、まだ名を聞いていなかった」
「……秋山ソウシ」
大げさに名乗るのが気恥ずかしく、ソウシはぶっきらぼうに答えた。
「ソウシか。覚えた」
レンは一度その名を口にし、正面からソウシを見据える。
「この恩は必ず返すと約束する。困ったことがあれば言ってくれ」
「牛丼一杯で重いんだよ……」
ソウシは視線をそらし、小さく漏らした。
レンにとっては大真面目な誓いらしい。
冗談を言っている様子は、まるでなかった。
だがレンが感じている恩は、牛丼だけではないのだろう。
コーヒー。
傘。
道案内。
信号の意味。
ソウシにとっては、その場の成り行きで行ったことばかりだった。
それを一つ残らず大切に受け取られると、かえって居心地が悪い。
ソウシはスマートフォンの時刻を確認し、慌てて立ち上がった。
「それより、俺、急いで帰らないといけないから」
「ああ」
「これから本当に別行動ね。危ないことしないでくださいよ。近所で事件起こされたら困るから」
「承知した」
レンが素直に頷く。
ソウシは今度こそ終わりだと、自分へ言い聞かせた。
◇
牛丼屋を出ると、霧雨はまだ降り続いていた。
レンは店先で、ソウシから譲り受けたヨレヨレのビニール傘を開く。
ソウシも黒い折りたたみ傘を差し、改めて駅の方角を指さした。
「……じゃあ俺、急ぐんでもう行くけど、本当に気をつけてくださいよ。それでなくても、この辺り危ないんだから」
「承知した」
「この道を渡って、まっすぐ行くと、突き当たりが駅だから」
「ソウシ、感謝する」
「分かったから。じゃあ」
これ以上礼を言われる前に、ソウシは足早にその場を離れた。
今度こそ、本当に終わりだ。
傘も渡した。
コーヒーも牛丼も奢った。
駅までの道も教えた。
これ以上は、自分の責任ではない。
スマートフォンを確認すれば、あーにゃんの配信開始時刻が目前まで迫っている。
急げば、まだ間に合うかもしれない。
ソウシが歩調を速めた、そのときだった。
少し離れた背後から、小さな人々のどよめきが聞こえた。
足を止める音。
戸惑う声。
そして、またしてもスマートフォンの撮影音。
嫌な予感がして、ソウシは振り返った。
レンは、ヨレヨレのビニール傘を差したまま、剣を抜いていた。
片手に傘。
もう片方の手には、雨に濡れて鈍く光る長剣。
抜き身の剣を低く構え、周囲を警戒しながら堂々と歩みを進めている。
通行人たちは顔を引きつらせ、レンを避けるように道の端へ寄っていた。
「ちょ、ちょちょちょ!! 何してんの!?」
ソウシは慌ててレンのもとへ駆け戻った。
レンは声に気づき、落ち着いた様子で振り返る。
「ソウシか。また会ったな」
「また会ったなじゃないよ! なんで物騒なモン出してんの!?」
「すでに夜更けだ」
レンは当然の判断を説明するように答えた。
「何があるか分からぬ危険な土地だという、貴殿の助言に従った」
「は?」
「最大限の警戒をしながら、運搬拠点へ向かおうとしていた」
「一番危ないのはアンタなんだよ!!」
ソウシの叫びが夜道へ響いた。
しかしレンには、なぜ責められているのか分からないらしい。
「抜剣することで、周囲の敵への牽制にもなるだろう。危険地帯を歩く際の心得だ」
「ダメなんだって! 日本じゃ、そんな刃物を持ち歩いてたら捕まるの!」
「刃物ではない。剣だ」
「そういう問題じゃない!」
ソウシは周囲から剣を隠そうと、反射的に刀身の腹へ手を添えた。
「とにかく下げて! しまって!」
触れた瞬間、ソウシの顔から血の気が引いた。
ずしりとした重量。
雨に冷えた金属の硬さ。
指先から腕へ伝わる、作り物にはない感触。
刃へ直接触れていないにもかかわらず、肌が粟立つような鋭さを感じた。
鉄の匂いすらする。
――やっぱり、これ、偽物じゃない。
コスプレ用の薄い金属や樹脂とは明らかに違う。
これは実際に物を斬るために作られた、本物の武器だ。
わけの分からない状況。
異世界から来たと言い張る、変なコスプレ姿の男。
どう見ても本物らしい、抜き身の剣。
そして、刻一刻と迫るあーにゃんの配信時間。
周囲では、レンに気づいた人々が再び足を止め始めている。
スマートフォンを向ける者もいれば、距離を取りながら誰かへ連絡しようとする者もいた。
このままでは、本当に警察を呼ばれる。
ソウシの頭は、もうわやくちゃだった。
ここで剣をしまえと説明し続けるよりも、警察が来る前に人目のない場所へ移動した方が早い。
少なくとも家へ入れてしまえば、レンが外で剣を抜くことはない。
それに、外で何度も別れようとするたび、余計に時間を失っている。
「あー、もう………」
ソウシは頭を抱え、すべてを諦めたように息を吐いた。
「とりあえず一回、ウチに来て!」
レンは少し驚いたように目を見開いた。
食事だけでなく、今度は宿まで提供されるとは思っていなかったのだろう。
その顔が感謝へ変わりかける。
「ソウシ、そこまでの恩を――」
「いいから! 剣しまって、早く!」
ソウシは礼の言葉を遮り、周囲の視線から逃げるように歩き始めた。
こうしてソウシは、今夜だけでも何度目になるか分からない別れに、またしても失敗した。




