ソウシの平凡な日常
ソウシは、歩きながらひとつため息をついた。
じとじとした霧雨に曇る眼鏡。
錆びた骨組みの、ヨレヨレのビニール傘。
傘越しに見える池袋の街は、雨に濡れた看板の明かりを滲ませながら、いつも以上に彼を憂鬱にさせていた。
予備校で自習をした帰り道、今日はいつもより少し遅くなった。
肩に食い込むリュックの重さと、歩くたび靴の中で鳴る湿った音が、疲労を余計に意識させる。
もっとも、遅くなったからといって、その時間のすべてを勉強に使っていたわけではない。
気がつけば、推しの配信者であるあーにゃんのSNSを確認し、新作ゲームの情報を眺め、勉強とは関係のないことばかりに時間を使っている。
机に向かっていた時間だけなら長い。
だが、実際にどれほど頭へ入ったのかと問われれば、ソウシ自身にも答えられなかった。
先月の模試の結果が、頭の中をぐるぐると回る。
勉強しなければならない。
今度こそ結果を出さなければならない。
その焦りが、脳を弱火でじわじわ煮込むように、絶えずソウシを苦しめていた。
現実から目をそらすように、ソウシは手元のスマートフォンへ視線を落とした。
「えーと、今、口座の残金が……」
画面を操作し、残高を確認する。
「家賃が月末で……カードの引き落としが二十六日……」
数字を頭の中で引いていくたび、表情が険しくなった。
「……やばい。もう投げ銭してる場合じゃなくなってきた」
自分で口にすると、いよいよ逃げ場がなくなる。
それでも、あーにゃんの配信で名前を呼ばれる瞬間や、コメントを拾ってもらえたときの高揚感を思い出すと、きっぱりやめる決心はつかなかった。
「……せっかく、モデまでやらせてもらえるようになったのになぁ」
あーにゃんの配信で、コメント欄を管理するモデレーター。
荒らしや不適切な書き込みを見つけ、配信の空気が壊れないように処理する役目だ。
大勢いる視聴者の中から、自分が選ばれた。
その事実は、受験でも生活でも結果を出せずにいるソウシにとって、小さくとも確かな誇りだった。
実家からでも、予備校には十分通える距離だった。
それでもソウシは、
志望校の近くで集中したい。
バイトをして自活する。
そう親へ言い張り、最後には土下座までして、一人暮らしの浪人生という立場を手に入れた。
だが、自由になれば集中できるという考えは、今になって思えば少し甘かったのかもしれない。
口うるさく注意する家族がいなくなったぶん、SNSもゲームも、好きなだけ見られるようになった。
家賃も生活費も、放っておけば勝手に消えていく。
もう、母親の深いため息も、苦々しい顔も見たくない。
だからといって、自分から望んだ一人暮らしを投げ出して、実家へ戻りたいとも言えなかった。
考えが煮詰まると、ソウシの指は夢遊病のようにSNSを開いてしまう。
現実逃避だと分かってはいる。
それでも、やめられない。
いつもなら、あーにゃんの情報や雑多な書き込みが流れていくだけのタイムラインが、今日は妙に騒がしかった。
同じような写真や文章が、立て続けに表示されている。
「……『池袋に超クオリティ高い勇者コスがいた』? へぇー」
画面には、雨の繁華街に立つ黒い鎧姿の男が映っていた。
顔立ちも装備も、確かにかなり完成度が高い。
池袋でコスプレイヤーを見かけること自体は、珍しくもない。
イベント会場から移動してきたのか、何かの撮影なのか。
それにしても、どうしてこれほど話題になっているのだろう。
少しだけ興味を引かれたものの、今のソウシに他人の事情を気にしている余裕はなかった。
「まぁいいや。俺には関係ないし」
投稿を流し、スマートフォンを持つ手を下げる。
それよりも、今日はミキちゃんがバイト先のコンビニへ入っている日だった。
ミキちゃん――三木まりなは、ソウシと同じコンビニで働く女子高生だ。
見た目は強めのギャルだが、曲がったことが嫌いで、理不尽な客に対しても物怖じしない。
店員へ無理難題を押しつける客がいれば、店長より先にはっきり言い返すことすらある。
ソウシは、そんな自分にはない強さを、少し眩しく感じていた。
そこには、ほんのりとした好意も混ざっている。
ただし、それを認めるのは気恥ずかしい。
「ちょっと遠回りだけど、買い物がてらミキちゃんの顔でも見て帰ろうかなぁ……」
自分で自分へ言い訳しながら、バイト先のコンビニへ向かう道へ曲がった。
ミキちゃんの顔を思い浮かべたせいか、ほんの少しだけ足取りが軽くなる。
◇
南池袋公園の前へ差しかかった頃には、駅周辺の喧騒もいくらか遠ざかっていた。
雨音が傘を細かく叩き、濡れた路面へ街灯がぼんやりと映っている。
そのとき、雨で曇ったソウシの眼鏡に、見慣れない人影が映った。
公園脇の街灯と木々を背に、誰かが立っている。
黒い鎧。
腰から下げた鞘。
雨を吸って重く垂れた、長いマント。
ソウシの脳裏に、つい先ほど見た投稿が浮かんだ。
『池袋に超クオリティ高い勇者コスがいた』
画面の中で「自分には関係ない」と切り捨てた人物が、今は現実の目の前にいた。
◇
南池袋公園の脇に佇む人影を見ながら、ソウシは足を止めた。
投稿の写真と見比べるまでもない。
黒い鎧も、剣も、長いマントも、同じものだった。
男は周囲を警戒するように視線を巡らせている。
霧雨に濡れた全身からは、撮影を楽しんでいるような軽さが感じられない。
それでもソウシの中では、まだ「完成度の高いコスプレイヤー」という認識が勝っていた。
「あのー、すみません」
「!?」
ソウシは、思わず声をかけていた。
男――レンが鋭く振り向く。
反射的に剣の近くへ手が動いたように見え、ソウシの肩がわずかに強張った。
だが、レンはすぐに手を止めた。
敵意がないと判断したのだろうか。
近くで見ると、確かに驚くほど完成度の高いコスプレだった。
鎧の細かな傷。
剣の柄に施された精緻な細工。
泥や煤のような汚れが残るマント。
雨に濡れているせいもあって、どれも作り物とは思えないほど質感が生々しい。
そして何より、その装備にまったく見劣りしない本人の容姿。
濡れた黒髪。
整った顔立ち。
真っ直ぐこちらを見据える、鋭い眼差し。
なかなか見ない完成度に、ソウシのオタク心が躍った。
もしかすると、新手の二・五次元俳優かアイドルなのかもしれない。
写真を撮らせてもらい、サインの一つでももらっておけば、後々価値がつく可能性もある。
そんな小さな下心もあった。
「突然すみません……すごい衣装だなと思って……」
ところが、レンは意味が分からないように眉を寄せた。
ソウシの顔を見つめたまま、少しの間を置く。
「少し待ってくれ」
レンは真剣な顔のまま、片手を耳へ当てた。
その手のそばに、小さな魔法陣のような光が一瞬だけ浮かんだ。
青白い光が薄い輪を描き、瞬く間に消える。
――ん? 何だ、今の。
ソウシは眼鏡の位置を直した。
レンズには雨粒が細かくついている。
街灯の光が、濡れた眼鏡へ反射したのかもしれない。
そう考えながら眼鏡を外し、服の端で水滴を拭う。
もう一度見たときには、光などどこにもなかった。
……目の錯覚だよな。
「すまない。もう一度いいか」
先ほどとは違い、レンの言葉ははっきりと通じた。
「あ、いやいや。大した話じゃないんですけど。すごい衣装だなと思って。自作ですか?」
「衣装……?」
レンは自分の鎧へ視線を落とし、怪訝そうに聞き返した。
「これは俺の戦装束だ。鍛冶職人の名を知りたいのか?」
――うわあ。なりきってるなぁ。
ソウシは思わず感心した。
口調も設定も徹底している。
撮影中でもないのに役を崩さないとは、よほど世界観を大切にしているらしい。
だがそのとき、ソウシはレンが傘を持っていないことに気づいた。
黒い髪も、鎧も、マントも、雨を吸ってじっとりと濡れている。マントの裾からは、ときおり水滴が落ちていた。
「あの……傘とか持ってない感じですか?」
「傘……?」
レンは一度その言葉を確かめるように繰り返した。
「生憎、予備の装備は仲間に預けてしまった」
撮影スタッフか、コスプレ仲間とでもはぐれたのだろうか。
夜も更け、雨に濡れた空気は少しずつ冷えてきている。いくら衣装にこだわっているとはいえ、このままでは風邪を引きかねない。
ソウシは少し先に見える、明るいコンビニの看板を指さした。
「あの、良かったらコンビニ入りません? コーヒーでも……」
レンは示された建物をじっと見た。
「あの軍事拠点か」
「……軍事拠点?」
ソウシが聞き返すと、レンは真顔のまま頷いた。
「コーヒー……眠気を覚ます薬湯だな。恩に着る。行こう」
「薬湯……?」
いちいち言葉の選び方がおかしい。
徹底した役作りなのか、それとも本当に話が通じていないのか。
ソウシは首を傾げながらも、レンとともにコンビニへ向かった。
◇
自動ドアが軽い音を立てて左右へ開く。
雨の冷たい空気から一転し、明るく暖かな店内へ足を踏み入れた瞬間、正面のレジカウンターから元気な声が飛んできた。
「らしゃせーー」
レジに立っていたミキちゃんが、ソウシへ気づく。
「あ! 秋山パイセン! ちっす!」
「あ、ミキ……三木さん、こんばんは」
普段、頭の中では当たり前のようにミキちゃんと呼んでいる。
だが本人を前にすると、その呼び方を口に出す勇気はなく、ソウシは慌てて三木さんと言い直した。
ミキちゃんはそんなソウシの動揺など気にも留めず、隣のレンへ視線を移した。
レジカウンターから身を乗り出し、遠慮なく顔を眺める。
「パイセン! 何そのイケメン! どこで拾ったんすか?」
「拾ったって……公園にいたんだよ」
「それ拾ったっていうんすよ! すご! 顔面つよつよじゃん!」
ミキちゃんは見知らぬ鎧姿の男を恐れるどころか、真っ先に顔面の評価を始めた。
一方、レンも目の前の少女をじっと観察していた。
日に焼けた髪と肌。
目元に施された特徴的な化粧。
程よく筋肉のついた、健康的な身体。
そして何より、鋭く尖った長い爪。
以前、南方の地で見た戦士たちに、どこか似ている。
派手な装飾と日焼けした肌を誇りとし、近接戦闘を得意とする者たち。
ミキちゃんの物怖じしない態度からも、戦士特有の自信に満ちた気配が迸っているように感じられた。
この少女は、名うての戦士に違いない。
軍事拠点の受付を任されるのも納得だ。
レンは一人、深く頷いた。
ミキちゃんもまた、真正面からレンの顔を見ている。
二人が黙って見つめ合っているように見え、ソウシの中で一瞬だけムカッと何かが頭をもたげた。
しかし、当のミキちゃんはそんな空気を微塵もも感じていない。
「それよか、体拭いてくださーい。床濡れたら掃除ダルいんで」
カウンターの内側からタオルを取り出すと、レンへ向かって無造作に放り投げた。
片手を伸ばし、難なく受け止める。
レンは、投げられたそれを戦士から渡された実用的な配慮として素直に受け取り、軽く頭を下げた。
――ミキちゃん。
そのタオル、窓とか拭いてるやつだよね……。
清潔にはしてあるのだろうが、少なくとも客用ではない。
先ほど一瞬だけ面白くない気持ちになっていたソウシは、レンがまったく特別扱いされていないと分かり、勝手に溜飲を下げた。
レンが濡れた髪や鎧、マントを拭いている間に、ソウシは二人分のコーヒーの会計を済ませた。
カップを持ってコーヒーマシンへ向かう。
機械が低い作動音を立てると、レンの視線がそちらへ向いた。
どうやら、コーヒーを入れる機械まで警戒しているらしい。
「あの、ミルクと砂糖入れます?」
「牛乳と砂糖か?」
レンは少し考えたあと、首を横へ振った。
「生憎、甘いものはあまり好まない」
「じゃあ、ブラックで」
ソウシは特に疑問を持たず、二人分のブラックコーヒーを用意した。
コーヒーを手にした二人は、雨の当たらないコンビニの軒下へ移動した。
店内の明かりが届く場所には立ち上る湯気が白く浮かび、その向こうでは霧雨が夜道を薄く覆っている。
「どうぞ。熱いんで気をつけて」
「すまない。恩に着る」
レンは紙カップを両手で受け取った。
立ち上る香りを慎重に確かめる。
毒や異物が混じっていないかを確認するように一度匂いを嗅ぎ、カップの温度を確かめてから、ゆっくりと口をつけた。
「…………!?!?!?」
レンの目が、大きく見開かれた。
薬湯だと聞いて、多少の覚悟はしていた。
しかし、苦い。
あまりにも苦い。
舌の上へ広がった強烈な苦味に、思わずカップを離す。
吐き出すことこそしなかったが、あまりの衝撃に声が出なかった。
ソウシはレンの反応を見て、少し慌てた。
「熱かったですか?」
「い、いや……大丈夫だ」
レンはどうにか平静を装った。
好意で差し出されたものを、飲めないとは言えない。
ソウシは貴重な貨幣を使い、自分のためにこの薬湯を用意してくれたのだ。
苦味には閉口したものの、温かい液体が腹へ落ちると、冷えていた身体が少しずつ温まっていく。
張り詰めていた身体から、わずかに力が抜けた。
雨をしのげる場所で温かいものを飲み、短い休息を取ったことで、ごくわずかではあるが魔力も戻り始めたように感じられる。
レンは紙カップの中身を見つめた。
これも、この世界で生きるために必要な経験なのだろう。
意を決し、再びブラックコーヒーへ口をつける。
今度は表情を崩さぬよう、慎重に喉へ流し込んだ。
その横顔を見ながら、ソウシはようやく本来聞こうとしていたことを思い出した。
撮影関係者とはぐれたのなら、連絡を取る必要がある。
これほどの格好で雨の街に一人きりというのも、やはり妙だった。
「それで……今日は撮影ですか?」




