黒い服着た男
十四時。
……の、およそ二十五分前。
ソウシは昨日送られてきた住所を頼りに、サンシャイン60通り裏手の古びた雑居ビルの前へ立っていた。
階段脇には、今にも壊れそうな郵便受けが並んでいる。その一つに『池袋人材サービス』の文字もあった。
「三階……だよな」
スマートフォンを見る。
住所は間違っていない。
だが、マップにも口コミサイトにも、それらしい会社情報はほとんど出てこなかった。
「やっぱり……怪しいよなぁ……」
見上げた階段は狭く、薄暗い。
ここで引き返そうか。
一瞬、本気でそう考えた。
けれど、昨晩のヒロナリのでかい顔が頭へ浮かぶ。
『登録だけなら』
そう答えたとき、ヒロナリは厳つい顔を満面の笑みにしていた。
今さらドタキャンしたら怒るかもしれない。同じ池袋周辺にいる以上、今後どこかでばったり会わないとも限らない。
それで後から恨まれて面倒になる方が嫌だった。
「……案件の連絡来ても、出来なければ受けなきゃいいって言ってたもんな」
自分に言い聞かせる。
登録だけ。
嫌なら、その後に断ればいい。
ソウシは意を決して階段を上った。
◇
事務所のドアを開けた瞬間、どこか覚えのある植物のような爽やかな香りが鼻をくすぐった。
古びた雑居ビルの中とは思えない。
壁も床も妙に綺麗で、煙草臭さもほとんどなかった。
――なんか、ずいぶんいい匂いの事務所だな。
「おー! 来た来た!」
奥からヒロナリが現れた。
「いやー、こいつ俺の中学のタメでよ。よく来てくれたな!」
「どうも……」
その場にいた短い金髪の若い男が、ソウシを見る。
次にヒロナリを見る。
またソウシ。
ヒロナリ。
もう一度ソウシ。
「…………」
ソウシは、その視線の意味を理解した。
今でもたまに高校生と間違われる自分。
一方、どう甘く見積もっても三十代以上にしか見えないヒロナリ。
――……そうだよね。
心の中で、金髪の男へ深く同意した。
◇
促されるままソファへ座り、登録用紙へ必要事項を書き込んでいく。
名前。
住所。
連絡先。
なんとなく間が持たず、出されたコーヒーへ口をつけた。
「…………っ」
あっっっま。
とんでもなく甘い。
缶コーヒーよりさらに甘い。歯が浮きそうなほどだった。
どうやったらコーヒーをここまで甘くできるのか分からない。
「へぇー。東池袋か。すぐ近くじゃん」
登録用紙を眺めながら、ヒロナリが何気なく言った。
「……」
ソウシの背中が、ぞくりと寒くなった。
言われてみれば当然だ。
今、自分はこいつらへ自宅住所まで渡している。
――住所なんて書かなければよかった。
「とりあえず、登録するのにウチのアプリを入れてもらってんだけどさ」
「アプリ?」
ヒロナリが金髪の男へ顎をしゃくる。
「良かったらやりますよ」
男の手がソウシのスマートフォンへ伸びる。
ソウシは反射的に端末を引いた。
「……いや、自分でやります。何て検索したら出てきますか?」
「あー、ウチの専用アプリで、検索しても出てこないんすよ。やるんで」
「…………」
それを聞いて、ますます嫌な予感がした。
検索しても出てこないアプリ。
そんなものを自分のスマートフォンへ入れろという。
ソウシはヒロナリを見る。
目が合った。
いつもの、何を考えているのか分かりにくい細い目だった。
別に睨まれているわけでもない。
脅されたわけでもない。
それなのに、ソウシはそこに妙な圧を感じてしまう。
――まあ。
自分にも多少はスマートフォンやパソコンの知識がある。何かおかしければ、あとで消せばいい。
「……お願いします」
渋々、スマートフォンを差し出した。
金髪の男は慣れた手つきで操作し、黒いアイコンのアプリを入れていく。
「ここに担当から案件の依頼とかが行くんで、なるべくマメにチェックして、早く反応できるようにしといてほしいんすよね」
「わかりました」
――早く反応して、断ればいい。
早めに、断ればいいだけだ。
そう考えたところで、ヒロナリが金髪の男へ何か耳打ちした。
「……」
「あー……」
男は自分のスマートフォンを確認し、少し首を傾げる。
「いや、まだ着いてないすね。なんか変なとこにいるから、電車間違えてんじゃねえかな」
「あー、まあ丁度いいかな」
「…………」
何の話をしているのかは分からない。
ただ、なんとなく。
聞かない方がいい種類の話をしている気がした。
「ソウシ」
「……何?」
ヒロナリがこちらへ向き直る。
「実は急遽、これから頼みたい案件があってよ」
「……え?」
心臓が、ぎゅっと掴まれたように脈打った。
登録だけ。
そういう話だったはずだ。
ヒロナリは煙草を取り出し、火をつける。
「内容は荷運び。この荷物をとある所まで運んで、担当の奴に渡してもらいたい」
「……」
気づけば、金髪の男がテーブルへ何かを置いていた。
厚めの雑誌ほどの大きさの段ボール箱。
そして。
現金。
ヒロナリがその金を指した。
「受けてくれたら、この場で二万払う」
「…………」
二万円。
その数字だけが、妙にはっきりと目に入った。
◇
「…………」
ソウシは、またしても固まった。
どうする。
どう考えても怪しい。
テーブルの上に置かれた段ボール箱を見る。
何の変哲もない箱。
だからこそ、中身が分からない。
「その……中身は何なの」
「言えねぇからこの値段なんだよ。預かりモンだから開けんなよ」
ヒロナリは大きな顔から煙草の煙を吐き出した。
「安心しろよ。お前が思ってるようなモンじゃねーよ」
「…………」
思っているような物。
その言い方が余計に怪しい。
――そうだ。
夕方からまたバイトがある。それを言えば断れる。
「とりあえず、それ持って東上線の上福岡に行ってくれりゃいい」
ソウシが口を開こうとした、その直前だった。
ヒロナリの口元が、少し歪んだように見えた。
「今すぐ出れば、行って帰って来ても二時間かかんねーだろ?」
「…………」
また一つ。
ソウシが用意していた逃げ道が塞がれた。
別に、腕を掴まれているわけではない。
脅されてもいない。断ろうと思えば断れる。
それでも。
昔のこと。
ヒロナリへの負い目。
住所も教えた。
連絡先も交換した。
よく分からないアプリまで入れた。
そして、目の前には二万円。
今の自分にとって、その金額は決して小さくない。
「…………」
結局。
ソウシは、段ボール箱を持って事務所を出た。
◇
その頃。
レンはようやく、上福岡の一つ手前付近まで来ていた。
池袋駅で東武東上線のホームへ辿り着いた時点で、すでにかなりの時間を失っていた。
しかし。
問題は、駅へ辿り着けば終わりではなかった。
ホームの案内へ目を向けた瞬間。
『TJライナー』
『快速急行』
『急行』
『準急』
『普通』
文字が次々と翻訳されて頭へ流れ込んでくる。
「…………」
何が違う。
全部、同じ線路を走る列車ではないのか。
時刻表を見る。
さらに頭が痛くなった。
構内放送も次々と流れる。
扉が開いているのに、すぐには乗り込まない人々。
床の線に沿って並ぶ人間たち。
同じ方向へ向かうはずなのに、違う名を持つ列車。
しばらく右往左往した末、レンはどうにか普通列車へ乗り込んだ。
ところが。
今度は、なかなか目的地へ着かない。
駅へ停まり。また停まり。さらに停まる。
――遅い。
任務中だ。
もう十分すぎるほど時間を失っている。
そのとき。
『お急ぎの方は、向かい側の急行列車へ――』
そんな案内が耳へ入った。
「急ぎならば、そちらを使えということか」
当然だった。
任務中なのだから、速い方を選ぶべきだ。
レンは迷わず急行へ乗り換えた。
そして。
上福岡を通り過ぎた。
「…………」
窓の外へ流れていく駅名。
目的地、通過。
「……何?」
慌てて次の駅で降り、反対方向へ戻る。
今度こそ。より速く。
また速い列車へ乗った。
また上福岡を通り過ぎた。
「…………何故だ」
その後も案内板と放送を睨み、周囲の人間の動きを観察しながら試行錯誤を続けた。
そして、ようやくある結論へ辿り着く。
各駅に停まる列車ならば。
少なくとも、上福岡にも停まる。
それはレンにとって、長い迷宮探索の果てにようやく発見した攻略法だった。
目的地へ確実に停まる列車へ乗り込み、レンは座席へ腰を下ろした。
「…………」
頭を抱える。
なんだ。
なんなのだ、この世界は……。
『発車します。ピポーン、ピポーン』
扉が閉まった。
◇
上福岡。
ホームへ降りたレンは、まず事務所でもらったメモを取り出した。
駅名表示を見る。
メモを見る。
もう一度駅名を見る。
「上福岡……」
間違いない。
今度こそ。
間違いない。
レンはようやく小さく息を吐き、スマートフォンを取り出した。
朝、入れられた黒いアイコンをタップする。
『すまない、遅くなったが指定された土地についた』
送る。
すぐに既読がついた。
『お疲れ様です。改札を出たら右に行って、突き当たり右の階段を下りてください。左には行ったらダメっすよ』
「右……右だな」
今度は慎重だった。
レンは改札へ向かう。
「改札を……この切符をここに入れれば通れるのだな」
切符を機械へ差し込む。
ゲートが開いた。
無事に通過する。
そこで、ふと周囲へ目をやった。
ほとんどの人間は切符など持っていない。
スマートフォンや、小さな板のようなものを機械へ当てるだけで次々と通過していく。
「あれも、なにか特殊なやり方が必要なのだろうな」
ぼんやり眺めていると、手の中のスマートフォンが振動した。
『階段を降りたら、少し歩くと店を何軒か抜けて、右手に白いフェンスのバス停があるんで』
「バス停……?」
聞き覚えのない言葉だった。
「バス……という乗り物が停まるのか?」
続けて通知が入る。
『そこで立って待っててください。担当者が今向かってるんで』
『ちょっと時間かかるんで、バス待ってるふりして立って待っててください』
「……承知した」
何故、バスを待つふりをする必要があるのかはよく分からない。
だが仕事上の指示ならば従う。
レンは言われた通り、右へ進み、階段を下りた。
店をいくつか通り過ぎる。
やがて。
『上福岡駅東口』
そう書かれた表示。
そして、右手に白いフェンスのある場所が見えた。
「……ここか」
長かった。
本当に長かった。
レンは深く安堵の息を吐く。
『今、到着した。承知した』
送信。
そして言われた通り、バスを待つ人間を装い静かにそこへ立った。
◇
それからほどなくして、ソウシも上福岡駅へ到着した。
池袋から三十分と少し。
知らない土地ではあるが、それほど遠い場所ではない。
「着いたら、これで連絡しろって言ってたな……」
ソウシは段ボール箱を片腕に抱えたまま、スマートフォンを取り出した。
先ほど入れられた黒いアイコン。
見るだけで嫌な感じがする。
開く。
送信先にはすでに、
『池袋人材サービス』
の文字が登録されていた。
「…………」
また背筋が寒くなる。
自分のスマートフォンなのに、自分の知らない場所へ繋がっているような感覚がした。
『着きました』
送る。
すぐに既読。
『おお、早かったすね』
『改札出たら右に曲がって、突き当たり右の階段を降りてもらって』
ソウシはメッセージを読みながら、慎重に改札を出た。
段ボール箱を抱える手に汗が滲む。
中身は知らない。
どこへ運ぶのかも、直前まで聞かされていなかった。
この先で何が待っているのか、分からない。
心臓が、自分でも聞こえるほど強く鳴っていた。
再びスマートフォンが震える。
『少し歩くと、右手に白いフェンスのバス停があるんで』
店を何軒か通り過ぎる。
白いフェンスが見えてきた。
そして、最後のメッセージが届いた。
『そこに立ってる、黒い服着た男に荷物渡してもらって終わりです。おつかれさまでした』
「…………」
ソウシはスマートフォンから顔を上げた。
バス停の前。
黒い服を着た若い男が、一人立っている。
見覚えがあった。
ソウシの足が止まる。
ほぼ同時に、
その男もこちらの気配へ気づき、顔を上げた。
「……来たか」
「……レン?」




