この国の鉄道は迷宮か
窓から差し込む朝日が顔に当たり、レンは目を覚ました。
昨夜は結局、池袋人材サービスの若い男にコンビニへ連れていってもらい、夜食と飲み物、それに翌朝の朝食まで用意してもらった。ソウシから借りた寝袋を革張りのソファの上に敷き、久しぶりに十分な休息も取れた。
まだ事務所の中は薄暗い。人の気配はない。
レンは身体を起こし、自分の状態を確かめた。食事も睡眠も足りている。体力も魔力も、かなり戻っていた。
「今のうちに、身体を清めておくか……」
周囲に誰もいないことを確認すると、片手を一振りする。短い詠唱とともに魔法式が浮かび、柔らかな風と水がレンの身体を包み込んだ。
いつもなら自分の身体と衣服を清めるだけで終わる。
だが、レンは部屋を見回した。
昨夜は寝床を借りた。食事まで世話になった。
「世話になった礼だ。ついでに掃除くらいはしておこう」
魔法式の範囲を、応接室全体へ広げる。
この清浄魔法は、かつてレンと旅をしていた仲間が作り上げた特製の魔法だった。身体や衣服だけでなく、術式を広げれば宿屋の一室ほどならまとめて清めることができる。しかも術が終わったあとには、森林を思わせる爽やかな香りまで残った。
風が室内を巡り、水の粒が淡い光を帯びて舞う。
くすんでいた壁や床。ヤニで黄ばんだソファとテーブル。埃のこびりついたブラインド。長年染みついていたタバコの臭い。
それらが次々と洗い流されていく。
やがて風と水が消える頃には、室内は昨日までとは別の部屋のように明るくなっていた。
レン自身もすっかり清潔になっている。
「ふっ、上出来だ」
◇
数時間後。
出社してきた短い金髪の男は、入口で足を止めた。
「あれっ? あれっ?」
きょろきょろと周囲を見る。
「壁の色が違う……」
「おはよう」
「おはようじゃなくて……何!?」
男は鼻をひくつかせた。
「イケメンって朝こんないい匂いすんの!?」
「ああ、早く目が覚めたものでな。少しばかり掃除をしておいた」
「少し!?」
レンとしては、ただ部屋を一つ清めただけである。
男が何にそこまで驚いているのか分からずにいると、その背後から、ぬっと大きな顔が覗いた。
「おー。起きてっか」
「ギルド長殿」
ヒロナリの姿を見るなり、レンは姿勢を正した。
「昨晩は世話になった」
改めて深々と頭を下げる。
「良いって良いって」
ヒロナリは気にした様子もなく手を振った。
「お前、コーヒー飲むか?」
「コーヒー……!?」
レンの身体がわずかに強張った。
その名には覚えがある。
一昨日から何度か遭遇し、そのたびに強烈な苦味で口内を攻撃してきた、あの黒い薬湯だ。
できることなら避けたい。
だが、ギルド長が直々に勧めてくれたものを断るのも失礼に思えた。
「……いただこう」
「ヒロさん! 俺ブラックでいいっす!」
「チッ、なんだてめぇ、気取りやがって」
ヒロナリは舎弟へ吐き捨てるように言うと、インスタントコーヒーを用意し始めた。
そして自分とレンのカップへ、白い小さな容器の中身を二つずつ。さらに角砂糖を三つずつ放り込んでいく。
レンはその手元をじっと見た。
――何を入れているんだ?
やがて目の前へ置かれた液体は、これまで見た黒とは違い、濁った茶色をしていた。
「……色が違う?」
「あ? お前もブラック派か?」
ヒロナリが眉をひそめる。
「チッ、何がうめぇんだよ、あんな苦いの」
「いや、いただこう」
意を決してカップを持つ。
昨日までの苦味を思い出しながら、一口。
「…………!」
レンの目が見開かれた。
苦味はある。
だが、それを包み込む甘みがある。舌触りもまろやかで、香ばしい香りだけが心地よく残った。
「うまい……!」
「だろ?」
ヒロナリは当然のように自分のカップを啜る。
レンは感嘆の眼差しを向けた。
「ギルド長は薬湯の調合にも長けているのか……!」
「あ? なんだ薬湯って?」
またひとつ。
レンの中で、ギルド長・崎本ヒロナリへの評価が上がった。
◇
一息ついたところで、今日の仕事についての準備が始まった。
「まず、このアプリをインストールしてほしいんすよね。スマホ借りれます?」
「ああ……これか」
レンがスマートフォンを差し出すと、舎弟は慣れた手つきで操作を進めた。
やがて画面へ、黒いアイコンが追加される。
「仕事の連絡は今後ここからするんで、ここに通知が来たらすぐ反応してほしいんす」
「SNSではいけないのか?」
「ここに担当から連絡が来ることになってるっす。使い方は一緒なんで」
「なるほど…」
「あと、レンくんが迷子になった時に、これですぐ見つけられるようにもなってるんで」
「ほう……」
レンは感心した。
自分が遠方へ赴いていても、居場所を即座に把握できる。さらに同じ道具を通じて任務の追加指示まで届けられる。
「なるほど……遠隔地にいる冒険者に即座に連絡が取れるとは。このギルドは高度な仕組みを持っているのだな……」
「……なんかよくわかんねーけど、それでいっす」
舎弟はすでに細かな訂正を諦め始めていた。
そこへヒロナリが口を挟む。
「……じゃあ、仕事の説明するぞ」
「頼む」
「今日は初日だから、軽い任務からだ。ある荷物を受け取って、この事務所まで運んでもらう」
「……承知した」
荷物を受け取り、運ぶ。
それだけならば難しい仕事ではない。
新入りへ任せる最初の任務としては妥当なのだろう、とレンは考えた。
「ひとまず、池袋から東武東上線で上福岡駅まで向かってくれ。改札を出たら、追って担当から連絡させる」
「とう……何だと?」
「……おい、メモってやれ」
「うっす」
舎弟が紙へ文字を書き、それをレンへ渡した。
『東武東上線』
『上福岡駅』
文字の意味そのものは、翻訳魔法で読める。
「それをスマホに入れるか、駅員にその紙見せて聞け」
「なるほど……承知した」
目的地まで行き、荷物を受け取り、ここへ戻る。
実に単純な任務である。
レンはそう判断して、事務所をあとにした。
◇
レンが出ていったあと、舎弟が扉を見ながら口を開いた。
「今日は初日だから、テストすよね?」
「ああ」
ヒロナリはソファへ身体を預ける。
「奴は多分、単なる運搬作業には向かねぇだろうから、早めにもっとデカい案件に行ってもらうことになるだろうけどな……」
「そんな使えそうっすか?」
「まあな」
ヒロナリは昨夜見たレンの身体つきと、無駄のない立ち居振る舞いを思い返す。
「それより午後ももう一件あるからな。おい、一応あいつ、ちょくちょく見とけよ」
「うっす」
「それにしても…なんかいい匂いすんな」
「そうなんすよ!今朝からなんかいい匂いなんすよ!」
◇
レンは地図アプリを頼りに、池袋駅へ向かっていた。
事務所から駅までなら、もう一人でも問題なく移動できる。これもソウシに教わった地図のおかげだった。
やがて、巨大な建物と絶え間なく人が出入りする入口が見えてくる。
「この巨大運搬拠点には初めて入るな……しかし、すごい人の数だ。一体ここに何があるというのだ……」
階段を下りる。
籠もった空気の匂い。
その先には、魔王城の大広間にも劣らない広さの空間が広がっていた。
そして、夥しい数の人間が行き交っている。
「……」
人だけではない。
鉄道路線の名称。出口。窓口。店舗。別の店舗。催事案内。巨大な広告。飲み物が並ぶ鉄の箱。派手な絵で覆われた別の機械。売店。無数の小さな玩具が詰め込まれた透明な箱。
「う……」
レンは額を押さえた。
ドン・キホーテのときと同じだった。
視界へ入った文字。
耳へ入ってくる案内放送。
次から次へと翻訳魔法が意味ある情報へ変換し、それらが一斉に頭へ押し寄せてくる。
術を切れば楽になる。
だが、今回は任務中だ。
案内を読めなくなれば、目的地へたどり着くことができない。
「余計なものを見るな……必要な情報だけだ」
自分へ言い聞かせるように呟き、舎弟からもらったメモを見る。
『東武東上線』
「東か。東……東……」
顔を上げる。
少し先に案内板があった。
【東口方面】
「……あれだ」
迷いなく進む。
東武。
東口。
名前に同じ「東」が入っている以上、その方向にあると考えるのが自然だった。
少なくとも、レンにとっては。
しばらく歩くと、青い案内表示が現れた。
【西武池袋線 池袋駅】
「……?」
レンは足を止めた。
東へ来たはずなのに。
なぜ西なのだ。
「…………」
考えても分からない。
レンは係員のいる場所へ向かい、メモを差し出した。
「すまない。この場所へ向かいたい」
「あー、東武東上線ですね」
駅員はメモを見ると、慣れた様子で方向を指す。
「駅の反対側になりますんで、あそこの階段を下ってもらって、まっすぐ進んだところの濃い青の改札です」
「反対だと!?」
「はい」
「…………」
東と書いてあった。
だから東へ来た。
なのに目的地は反対側だという。
この国の鉄道は、いったいどういう仕組みになっているのか。
レンは再び、情報の渦巻く地下通路へ戻った。
「とにかく、ここを早く抜けなければ……」
案内された階段を下りる。
すると、すぐ左手に改札らしきものが見えた。
「ここか」
レンは再び係員へメモを見せる。
「すまない。東武東上線はここだろうか」
「あ、ここは東京メトロの改札なので、東武東上線はあの通路を突き当たりまで歩いて、向こうの階段を上がったところですね」
「下がったのを、また登るのか!?」
「はい」
レンはしばし無言になった。
◇
そこから先は、完全な迷宮攻略となった。
言われた通りに進んだつもりが、違う階段を上がり、気づけば百貨店の中へ出た。
大量の人間に流され、押され、目的とは違う方向へ運ばれる。
ようやく人混みを抜けたと思えば、今度は人気のない寒々しい通路へ迷い込み、その先は行き止まりだった。
戻る。
人に聞く。
案内板を見る。
また迷う。
別の係員に聞く。
また階段を上がる。
敵はいない。
罠もない。
剣を抜く必要もない。
それなのに。
正しい道だけが、どうしても見つからない。
魔王城ですら、ここまで悪意のない構造ではなかった。
何度目かの駅員への質問を経て。
ようやく。
「……ここか」
濃い青の改札。
東武東上線。
間違いない。
レンはしばらくその文字を見つめた。
長い戦いだった。
さらに駅員の助けを借り、上福岡駅までの切符を購入する。
気づけば、すでに昼を回っていた。
「…………」
小さな切符を手にする。
任務そのものは、まだ始まってすらいない。
それなのに、すでに妙な疲労感があった。
レンはゆっくりと背後を振り返る。
人。
案内板。
階段。
通路。
改札。
四方八方へ伸びる、巨大な駅。
「なんだここは……」
深く息を吐く。
「魔王城も比にならない大迷宮か……」
上福岡へ向かう切符だけは、ようやくその手に収まっていた。




