中途半端な親切はかえって毒になる
ソウシは、バイト先への道を力なく歩いていた。
特に急いではいない。
元々、急ぐのが嫌いだ。
ぎりぎりまで家にいて、時間がないと慌てて飛び出すくらいなら、少し早めに出てしまった方がいい。
だから今日も、このまま普通に歩いていけば、バイトには十分間に合う。
問題は、それまでの一日だった。
本当なら今日は、予備校で夕方までみっちり自習するはずだった。
それが丸ごと潰れた。
原因は、言うまでもない。
「…………」
先ほど、自分の部屋から出ていった男の顔が浮かぶ。
ソウシは小さく頭を振った。
――もういい。
――考えてもしょうがない。
そう思う。
心配じゃないと言ったら、嘘になる。
服はある。金もある。
スマートフォンも持たせた。
地図の見方も教えた。
連絡の仕方も教えた。
買い物だって、一応一人でできるところまでは見届けた。
最低限、この街で生きるために必要そうなものは揃えたつもりだ。
それでもあの男が、今、一人で池袋を歩いている。
そう考えれば、不安がないわけではない。
何しろ、昨日まで信号すら知らなかった男だ。
フォロワーを従者だと思っている男だ。
普通の服に防御力を求めている男だ。
「……いや、でも」
ソウシには、どうにもできない。
これ以上、ずっと付き添うなんて無理だ。
自分には受験がある。勉強がある。
バイトがある。
生活費だって稼がなければならない。
自分一人のことでさえ、余裕などほとんどないのだ。
――あとは本人が何とかするしかない。
そう言い聞かせるように、ソウシはポケットからスマートフォンを取り出した。
何か別のものを見れば、少しは気も紛れる。
そんなつもりで、いつものようにSNSを開く。
「…………はぁ?」
思わず、声が漏れた。
画面には、昨日から散々見続けてきた鎧姿のレンがいた。
雨の池袋、黒い鎧、人混み。
信号の近くで騒ぎになっている姿。
相変わらず、バズっている。
いや、
「……増えてるじゃん」
昨日より、明らかに勢いが増している。
投稿数も、反応も、引用も。
そして、その騒ぎの中心にいたのは
数時間前に自分が作ったばかりの、レン本人のアカウントだった。
「……何してんの、これ」
嫌な予感がして、画面をスクロールする。
『これは俺だ。
許可した覚えはない。
削除願いたい。』
「…………」
『このような投稿をされては困る。
画像を削除してもらいたい。』
「…………」
『本人来たwww』
『勇者が一件ずつ削除依頼してんの草』
『消してって本人に言われた』
『勇者本人降臨』
『これ本人アカウントだろwww』
「…………」
レンの返信が引用され、転載され。
その転載がさらに引用され。
そこへまた人が集まり。
フォロワーまで、ものすごい勢いで増えている。
本人は、火を消しているつもりなのだろう。
だが、実際には
盛大に油を注いでいた。
「何やってんの…………」
力が抜けた。
本気で、膝から崩れ落ちそうになる。
あれだけSNSには気をつけろと言ったのに。
正確には、こういうことをするなとは言っていない。
――いや、でも普通わかるだろ。
そこまで考えて、すぐに思い直した。
――普通が分からないんだった。
「……はぁ」
ため息を吐きながら、反射的に返信欄を開く。
『それやめろ』
そこまで入力する。
送信――。
「……」
指が止まった。
待て、これを自分のアカウントから送る。
つまり。
自分が、今まさに祭り上げられている「勇者本人」へ直接絡む。
どうなる。
下手をすれば
『勇者の知り合い?』
『この人誰?』
『昨日一緒にいたメガネじゃね?』
そんな流れになりかねない。
「……嫌だ」
何が嫌か。自分まで注目されるのが嫌だ。
それ以上に。
そこから万が一、あーにゃんにまで見つかったら。
「それは絶対嫌だ」
ソウシは公開返信を閉じた。
――じゃあ、DMで。
直接送ればいい、他人には見られない。
レンにだけ。
『それ以上返信するな』
『逆に広がるから』
それだけ送れば済む。
ソウシはDMを開こうとして
また、指を止めた。
「…………」
いや、もう手を出さないと決めたんだ。
これ以上自分が口を出したら、また次も、その次も。何かあるたびにレンは自分を頼るかもしれない。
自分だって気になる。気になれば、また手を出してしまう。
でも、最後まで面倒を見られるわけじゃない。
なら。
「……中途半端な親切は、かえって毒になるって」
誰へ言うでもなく、ソウシは呟いた。
そうだ。放っておけばいい。
レンだって大人だ。
スマートフォンもある。金もある。
自分で仕事を探す方法だって教えた。
もう、自分で何とかするしかない。
ソウシは画面を閉じた。
――これでいい。
そう思う。思っているのに。
歩く速さがいつの間にか、少し落ちていた。
レンへ連絡しない、その判断をしたはずなのに。
本当に放っておいて大丈夫か。
せめてSNSだけ止めた方がいいんじゃないか。
でも、また関わったら。
……いや。でも。
頭の中で同じことを繰り返しているうちに、足取りは少しずつ、少しずつ遅くなっていく。
ほとんど立ち止まりそうになった。
その時だった。
ソウシの横を一人の男が通り過ぎた。
スーツ姿。
かなり大柄な男だった。
ソウシは特に意識せず、そのまま歩こうとする。
だが、数歩先で男の足が止まった。
「あれ……?」
「?」
ソウシも顔を上げる。
「おい」
男が振り返っていた。
ソウシも足を止める。
「……」
誰だ、この人。
まず、そう思った。
スーツを着ているから会社員なのだろう。
たぶん。
だが、どう考えても、普通の会社員には見えなかった。年季の入った怪しい営業マン。あるいは借金取り。
そんな言葉が先に浮かぶ。
体格も大きい。
――いや。
よく見ると、背が高いわけではない。
ただ、横にでかい。
とにかく横幅がある。
熊のぬいぐるみを、そのままスーツへ押し込んだような体格。
そして、何より、顔がでかい。
「…………」
顔。
その特徴に、ソウシの記憶の奥で何かがほんの少しだけ動いた。
「秋山ソウシだろ」
「……え?」
名前を呼ばれた。
知り合いだ。
誰だ。
中学?高校?
予備校――ではない。
年上の知り合いだったか。
しかし、目の前の男を改めて見る。
どう見ても、自分と同年代には見えない。
「…………誰ですか」
結局、ソウシは素直に尋ねた。
「崎本だよ!!」
大声が返ってきた。
一拍。
「同中の!」
「…………崎本?」
名字、そして、顔。
大きな顔。
閉じていた記憶の蓋が、ようやく開く。
「崎本……ヒロナリ?」
「そうだよ!」
男――崎本ヒロナリは、呆れたように笑った。
「顔みりゃわかんだろ」
ソウシは、目の前に立つ熊のぬいぐるみのような体躯の男を、改めてまじまじと見た。
「いや……」
「あ?」
「顔デカい、顔デカいって昔から言われてたのは覚えてるけど」
さらに見る。
「こんなにデカかったかなと思って」
「うるせぇぞ!」
ヒロナリが吹き出した。
ソウシも、つられて少し笑う。
思いがけず、中学卒業以来の再会は
少なくともその瞬間だけは、思っていたよりずっと軽いものだった。
◇
――中学時代。
崎本ヒロナリはいじめられていた。
何がきっかけだったのか、今となってはソウシも、もうよく覚えていない。
当時から太っていた。顔も大きかった。
本人自身が、それを笑いのネタにすることもあった。
最初は本当に、ただの「いじり」だったのかもしれない。
ヒロナリ自身も笑っていた。
声が大きく、テンションも高く
調子に乗れば自分から話を盛って、周りを笑わせるような奴だった。
けれど、いつからだったか少しずつ
それは笑えないものへ変わっていった。
殴られる。
物を隠される。
ノートを破られる。
上履きをごみ箱へ捨てられる。
持ち物を勝手に触られる。
気づけばヒロナリは、毎日のように何かをされる側になっていた。
あれだけ騒がしかった男が、いつの間にか教室の中で陰気な顔をして過ごす時間が増えていた。
そしてソウシは、そういう学校内の面倒事からできるだけ遠くにいたい人間だった。
そこそこ勉強する。目立たない。
妙なグループには入らない。余計なことを言わない。
波風を立てず、卒業まで過ごせればそれでいい。
ヒロナリのことだって、正直特別好きだったわけではない。
声はでかい、うるさい。時々こちらの都合も考えず、妙なテンションで絡んでくる。そういうところは苦手だった。
それに毎日のように殴られたり、物を隠されたり
暗い顔をしているヒロナリを見ること自体が、ソウシにとっては学校という場所に存在する面倒事をいやでも意識させるものだった。
だから、関わりたくなかった。
巻き込まれたくなかった。
自分まで目をつけられたくなかった。
けれど、だからといって傷つけられている人間を完全に何も見なかったことにできるほど嫌いでもなかった。
だから、いじめには加わらなかった。
けれど、表立って庇うこともしなかった。
誰もいない場所でヒロナリから話しかけられれば
普通に返事をした。
ごみ箱へ捨てられた上履きを見つければ、誰にも見られていないことを確認して元の場所へ戻した。
隠されたノートを見つければ。
「これ」
それだけ言って、本人へこっそり返した。
「お。サンキュ、秋山」
「……別に」
その程度だった。
本当に、その程度。
ソウシ自身も、それ以上のことをするつもりはなかった。
自分がヒロナリを助ける。
そんな大げさなことをしているつもりもなかった。
ただ、見つけたから戻した。
困っていたから、少しだけ手を貸した。
そのくらい。
そのくらいのはずだった。
ある日のこと。
「なぁ、秋山」
「……何?」
教室で、いじめの中心にいた男子生徒が、クラスメイトたちの前で笑いながらソウシへ声をかけた。
嫌な予感がした。
「秋山は顔デカと仲良しだもんなぁ!?」
「……」
心臓が。
どくん、と鳴った。
周囲から笑いが起きる。
視線がソウシへ集まった。
教室の後ろの方には、ヒロナリがいた。
いることが分かっていた。
こちらを見ている。
そう思った。
だけど、ソウシは
そちらを見ることができなかった。
「……べ、別に」
声が上手く出なかった。
喉が詰まる。
もし、ここで
仲がいい。
そうだよ、何か悪いか。
そう言ったら。
次は
自分かもしれない。
自分の上履きが
ごみ箱へ捨てられるかもしれない。
ノートを破られるかもしれない。
殴られるかもしれない。
怖かった。
だから
「仲良くないよ」
そう口にした。
笑い声が聞こえた。
それだけでは
足りない気がした。
何か、
自分はヒロナリの側ではないのだと
示さなければいけないような。
そんな気がして。
「たまたま拾ったから……」
一瞬、
言葉が止まる。
「返しただけだよ」
言った。
その瞬間、
胸の奥に
ひどく嫌なものが残った。
ヒロナリが
どんな顔をしていたのか。
ソウシは最後まで
見ることができなかった。
◇
「そっか。今は浪人中かー」
ヒロナリの声で、ソウシの意識が
夕方の南池袋公園へ戻ってきた。
「……うん」
バイト先へ行くには、まだ少し早い。
せっかく数年ぶりに会ったのだから、と。
二人はすぐ近くの南池袋公園で、少しだけ話をすることになっていた。
ヒロナリはベンチの近くに立ち。
紙巻きタバコをくわえている。
「バイトしながらだからさ。もうカツカツ」
ソウシは少し笑ってみせた。
普段より、ほんの少しだけ愛想よく。
自分でも、そうしていることには気づいていた。
さっき、あの頃のことを思い出してしまったせいかもしれない。
「大変だなぁ、お前も」
「まあね」
ヒロナリが煙を吐く。
「……」
ソウシはその煙を見た。
――ここ、禁煙だよ。
喉元まで出かかった。
言えばいい、それだけのことだ。
だが
数年ぶりに会った相手へわざわざそんな注意をして、場の空気を悪くする必要があるだろうか。
そう考えて、結局言わなかった。
中学時代とあまり変わっていないのかもしれない。
余計な波風を立てない。
自分が不快になる程度なら、黙っている。
少なくとも今、目の前で気さくに笑っているヒロナリからは、あの時のことを引きずっている様子など
何も感じられなかった。
昔のことは、ヒロナリにとってはもう、本当に昔のことなのかもしれない。
そう思うと、少しだけ肩の力が抜けた。
「ヒロナリは?」
「あ?」
「この辺で働いてんの?」
そう聞くと、ヒロナリの表情がほんの少し得意げになった。
「まあな」
タバコをくわえたまま、スーツの懐へ手を入れる。
取り出したのは名刺入れだった。
「ほら」
一枚を取り、ソウシへ差し出す。
「……」
そこには
『池袋人材サービス
統括責任者
崎本ヒロナリ』
と印刷されていた。
「人材サービス……」
ソウシは名刺を見直す。
「派遣会社?」
「まあ、そんな感じだな」
「へぇ……」
もう一度、ヒロナリを見る。
スーツ、名刺、責任者。
中学生だった頃のヒロナリからは、正直まるで想像できない。
「すごいな」
素直に言った。
ヒロナリは、一瞬だけ目を丸くしたあと、まんざらでもなさそうに鼻を鳴らした。
「まあ、単なる一拠点の責任者だ」
煙を吐く。
「大したことねぇよ」
「いやいや。十分すごいって」
「そうか?」
ヒロナリが少し笑った。
ソウシも笑う。
思っていたより、普通に話せる。
少し安心した。
あの頃のことを、わざわざ今さら持ち出す必要などないのかもしれない。
もう、お互い大人なのだ。そう思い始めた。
その時。
「それよりさ」
「ん?」
ヒロナリがソウシの顔を見た。
「ソウシ」
「何?」
「お前、ウチで働かねぇか?」
「……え?」
唐突だった。
ソウシは目を瞬く。
ヒロナリは、何でもないことのように続けた。
「今のコンビニバイトの倍は稼がせてやるからよ」
「…………」
ほんの少し、空気が変わった気がした。
夕方の光は、いつの間にかかなり弱くなっていた。
公園の木々が、黒い影になっていく。
風が通り、葉がざわめく。
その音が何故か、先ほどまでより少しだけ嫌なものに聞こえた。




