1年生の7月・第3週
最悪な週末だった。葵と喧嘩めいたものをして、結局、家に行かなかった金曜日のあとの週末。勉強にも読書にも手がつかない。とにかく、微熱に似た感覚だけが身体にまとわりついていた。
葵に連絡しようと、何度考えたことか。メッセージアプリを開き、適当な文字を打ち込んでは、消す。不甲斐なさに耐えかねて、スマホをクッションへと叩きつけた。その衝撃でスマホが勝手にメッセージを送ってくれればいいのに、と思った。
苦しい週末が終わると、苦しい平日がやってきた。教室に入っても、葵のほうを向くことすらできない。うつむき加減に歩いて、葵を視界に入れないようにと虚しい努力をした。
自分の席についたら、逃げるように本を開いた。授業が始まるまでのたった三分でさえ、何も読まずにはいられなかった。気を抜くと、葵のことばかり考えてしまうから。
授業にも集中できるはずがなかった。黒板の右端の方を見ようとすると、葵の後ろ姿が目に入ってしまうから、頬杖をつくようにして視界を遮った。しかし、右手を塞いでしまってどうしてノートが取れるというのだろう。
それと、寝不足のせいで眠くて仕方がなかった。布団に入って目を瞑っていると、夢か思考か、はたまた妄想か、よくわからないものに苛まれて眠れなくなる。それで何度も目覚めては、頬を引っ張り回したり髪の毛をクシャクシャにしたりしてから再び目を閉じるのだけれど、もちろん効果はなかった。そのくせに授業中は眠たくなるのだから不思議なものだ。
そんな日が続いて金曜日になった。同じような一週間を、また来週も、そして延々と続けるのだと思うと、狂ってしまいそうだった。耐えられない。もう我慢できない。このまま葵を失うなんていやだ。
12時45分のチャイムが鳴る。空腹は感じない。
「青山、いっしょに食べない? いっつも一人っしょー?」
先週カフェで会った茅原だ。そうそう、私と葵の関係を見抜いて(もちろん核心の部分には気づいていないはずだが)仲直りを勧めてきたヤツだ。私がいつも独りでお昼を食べていることも知っている。あまつさえ、それを面前で指摘してくるのだから恐ろしい。
「ごめん、今日は無理」
「そう? じゃまた今度ね」
お弁当の包みを抱えて立ち上がる。茅原も身を反らすほどの勢いで駆け出す。もう何も失わないために。
葵の背中が、ちょうど教室を出ていくところだった。腕を伸ばす。あわや取り逃がしそうなところ、かろうじてセーラー服のカラーを指先で掴んだ。振り返った葵は、まんまるにした目でこちらをまっすぐ見据えていた。
「昼、一緒に食べよう」
「…………」
「……葵?」
「うん。行こ」
「え、どこに?」
葵に引かれるがまま、校舎を出て二人ならんでベンチに座った。はじめは屋上に行こうとしたけれど、錠が閉まっていてあえなく断念した。四月には屋上に出られたはずなのに。あれが夢でなかったのは、いま目の前に葵がいることが証明している。
二本の大木が強烈な日差しをほどよく遮ったうえに、爽やかな風が吹き抜けるいい場所だった。急にお腹が空いてきて、私はさっそくお弁当を広げた。
「あれ、パン買ってこなくていいのか?」
「うん……」
隣に座った葵は、いつもの調子が鳴りをひそめてしおらしくなっている。
「弁当は分けてやらないからな」
「いいよ別に」
今度はふてくされたような様子だった。箸の先でプチトマトをつまむと、葵がぽつぽつと喋り始めた。
「青山がさ……来てくれたから…………もう昼ご飯とか、どうでもよくなっちゃった」
思わず葵の顔を覗き込む。箸からこぼれたプチトマトが元の位置に収まった。
「わたしね、意地はって……学校で話しかけるなって言うから、じゃあもう目も合わせないでやろうって…………でもね、先週、青山が来なかったとき……怖かったの、もうずっと来ないんじゃないかって」
弁当箱の蓋は閉じてしまった。
「私も、そう思ってた」
「え?」
「だから、私も思ってたよ……もう葵と……できないんじゃないかって」
精いっぱいの本音だった。今なら言ってしまっても、照れくさくないんじゃないかと思った。口に出してみると、やっぱり駄目だった。耳が燃えるように熱くて、このまま灰になって、風に乗って飛んでいってしまいそうだった。
「つまり青山は……」
熱を帯びた耳に吹き付ける、そよ風のようなささやき声。心臓がひゅっと縮み上がる。
「……ずっとそういうこと考えてたんだ」
耳たぶに唇が触れて、離れていった。チッ、とわずかな音を残して。まるでシャボン玉が割れるように。七色のシャボンに包まれていた空気が耳から入って私の脳みそを侵す。目から幸せがこぼれる。
こんな幸せを、金曜日だけではなく、いつでも、学校でも、味わえるならどんなに素晴らしいだろう。それを妨げるものは、いったいどこにあるのだろう? 全部、私の内にあるのではないか? つまり、変わるべきは私ただ一人だけで、そうすれば素晴らしい日々が待っているのではないか。すべて吹っ切れたような思いがした。
「葵、ごめん」
「な、なに?」
「私が悪かった。私が間違ってた。周りにどう思われるとか、もうどうでもいい。だから……二人で、もっと、たくさん一緒に過ごしたい」
「…………うん。ありがとう」
「ほら、ハンカチ」
「青山だって……」
渡したハンカチで、葵が私の目頭を拭う。私が泣いているはずないのに。
「弁当食べようぜ。一緒に」
「いいの?」
「うん。何がいい?」
「じゃあー……このよくわかんないやつ」
「そら豆な」
葵が口を広げて待っている。葵の家でさえ、こんなこと、したことないのに。
そら豆を噛みしめた葵は「ソボクな味だ」と感想を漏らした。私も一粒、口に放り込んだ。幸せの味がした。最高な金曜日だった。




