三年生の十月・第四週
人生には、辛いから遭遇したくないのに、どうしても遭ってしまうものがある。例えば、腹痛。例えば、労働。あるいは、身近な人の死。そういうものが、波のごとく繰り返し打ち寄せてくる。まるで人生というものが、辛い思いをするためにあるかのように。
私はただ物語の世界に入り浸っていたい。それ以外のことは何も求めないから、ただ苦しみだけを取り去ってくれたらいい。たとえそれが死後の世界なのだとしたら、死んだって構わない。
そんなことを考えつつ、布団の中は汗だくだった。起きていると苦しいし、かといって眠ると悪夢にうなされる。スポーツドリンクの甘酸っぱい感じが、ずっと口の中にまとわりついて気持ち悪い。
これは人生で遭遇する中でも、かなり重い方の風邪だった。火曜日の夜に高い熱が出て倒れるように寝込むと、それから三日、学校を休んだ。その間は、本も読めないほどに朦朧として、永遠に感じるような時間を過ごした。
このところ寒い日が続いていた。木々の葉は一気に枯れ、北風に乗って冬の匂いが漂っていた。そのせいで身体が弱っていたのだろう。
それから週末を挟んで月曜日となり、ようやく登校できるほどに回復した。今の気がかりはソラのことだ。というのも、先週の金曜日は休んでしまったから、ソラに会っていない。春から毎週続いてきた習慣に、ぽっかりと穴を開けてしまった。
さらに悪いことに、ソラと連絡する手段を持ち合わせていなかった。ソラがスマホを持っていないからだ。
私が来なかったとき、ソラは心配しただろうか、あるいは怒っただろうか。どちらにせよ悪いことをした。今日は金曜日ではないが、会いに行っておくべきだろう。
放課後、二年生の教室がある二階へ上がった。しかし、ソラのクラスは知らない。知らないことだらけだ。もう半年も一緒に過ごしているというのに。
ひとまず、ない度胸を振り絞って、廊下ですれ違った二年生に訊いてみることにした。
「茜谷宙って知らない?」
「なんですか?」
「いやあの、茜谷宙って子、どこのクラスか知らない?」
「えーっと、知らないです」
闇雲に訊くというのは早々にやめて、すべてのクラスを見て回ることにした。一つひとつの教室で適当な人を捕まえては、そのクラスに茜谷宙がいるかどうか訊く、ということを繰り返す。
そうして四つ目の教室でのこと。
「ここに茜谷宙って子いない?」
「いますけど、今日は来てないです」
「そうなんだ」
「ていうかいっつも来てないですけど。茜谷がどうかしました?」
「いや……ありがとう」
やはり私はソラのことを何も知らない。あまりにも、知らないことが多すぎる。そのくせに、どこか親しくなったような気がしていた。二人の関係が、本当はいびつで不安定なものだと、ようやく気付くことになった。
階段を下って一階に降りて、迷わず階段下へと回り込んだ。ここは校舎裏のベンチに代わる、新しい秘密基地だった。外で過ごすには寒い季節になったころ、場所を移すことになって、この場所に流れ着いた。
決して暖かくはないものの、人の往来がなく、薄暗くて落ち着く空間だった。体育館の倉庫から溢れたマットやら体操器械やらが打ち捨てられている中で、黄ばんだマットが数枚重なって、ちょうど良い高さの腰掛けになっている。ちょっとかび臭いのが惜しい。
マットに腰を下ろすと、その冷たさが病み上がりの身体を伝っていった。少し身震いをして、そのままうなだれる。本も読まずに待った。一時間、二時間、下校時間まで。もちろんソラは来なかった。金曜日ではないのだから当然だった。
ソラがもう来なくなったらどうしよう。そんな不安がふとよぎる。そうなればきっと、街中をさまよって「茜谷」の表札を探し回るだろう。
火曜日、水曜日、木曜日、同じことを放課後に繰り返して、金曜日になった。ホームルームが終わってすぐ、階段下に駆けつけると、ソラがいた。昨日までの私を鏡写しにしたような姿勢だった。
「なんで来なかったの」
私が隣に腰掛けるやいなや、ソラは俯いたまま訊いてきた。
「ごめん、風邪ひいちゃってさ。結構ひどかったんだぜ?」
「そ」
ソラは顔を上げなかった。長い髪のせいで横顔が見えない。
「もう来ないかと思ったんだからね」
「ごめんって。でも……私も、もうソラが来なくなったらどうしようって考えてた」
「なんで……ソラはちゃんと来てたのに、レイナが来なかったくせに、なんでレイナがそんなこと言うの」
「…………」
「ね、約束してよ。これからはちゃんと来るって」
ようやく持ち上がった顔、キラリと光る瞳が私を縛り付けた。
「うん……約束」
全く保証のない約束だった。この約束が果たせなくなったとき、きっとこの関係は破綻するのだろうと予感した。けれどもソラのわずかな笑顔がすぐに心に満ち満ちて、そんな予感をすべて吹き飛ばしてしまった。




