三年生の七月・第四週
昼下がりの静かな図書室に入ったとき、カウンターの図書委員は、ちらっとこちらを見ただけですぐに視線を手元へ戻した。そのほかには誰もいない。
終業式のあとにソラと約束したのは、ちょうど先週のことだった。夏休みの間は図書室で会うという約束だ。その約束があるから、夏休み中だというのに、はるばる学校までやってきた。
昨晩になって、時間を決めておくのを忘れたことに気づき、いつ行くべきかと迷った挙げ句、お昼を食べてすぐに家を出てきた。
そうしてここに着いてから、かれこれ一時間以上は待っている。ひょっとするとソラは朝一番に来て、私が来ないからしびれを切らして帰ってしまったのかもしれない。そんな心配をしつつも、図書室が閉まるまでは待つつもりだった。
冷房の設定温度が高かった。窓からの日差しを受けると、じんわりと汗ばんでくる。せめてカーテンが陽を遮ってくれるといいのだが、図書委員に操作してもらわないと閉めることができない。例の図書委員は、退屈を隠そうともせず、死んだ顔をしてスマホをいじっている。あれに話しかけるくらいなら、少しばかりの暑さに耐えている方がマシだ。
じっと座っているのも辛くなって、本を物色することにした。あまり図書室に出入りするほうではなかったから、色々な本の並ぶ本棚を眺めるのには心が踊った。
フィクションもノンフィクションもある。専門書も新書もある。図鑑も辞書も、絵本も紙芝居もある。
目についた大きな絵本を取り出して眺めてみる。本の中にちょっとした仕掛けが施されたもので、幼稚園児の頃に買ってもらって夢中になった記憶があった。あれは今、どこにしまってあるのだろう。
ソラが来るとき、これを真剣な顔で読んで待っていたら面白いだろうか。なんてことを考えた末、結局、一冊の小説を取って机に戻った。
「あ、来てたんだ」
戻った机にソラがいた。私が置いていった本を見つけたのだろう、その隣の席に座っている。
ソラは制服姿だった。夏休み中は部活で出入りする生徒がほとんどだから、ジャージを着ていても咎められることはないだろうに、それでも、ソラは制服を着ていた。私も制服を着てきて正解だった。休みの日にわざわざセーラー服で外に出るのは妙な背徳感があった。
「ねーこれ」
ソラが一冊の本を頭上に掲げる。いつもどおりの元気な声量が図書室の静寂を破った。けれども、二人以外に利用者はいないし、あの図書委員もきっと注意しに来ることはないだろうから、構わないことにした。
「なに?」
「マンガ、持ってきたの」
「へえ、マンガか」
そう言って受け取ったマンガには、表紙にかわいい二人の少女が描かれていた。ソラの好きそうな絵だと思った。貸していたライトノベルの表紙の絵に、どことなく雰囲気が似ていた。
「これね、レイナに貸してあげる」
「え、うん、ありがとう」
普段、マンガを読むことは殆どない。家の本棚にもない。だから率直なところ、あまり興味をそそられなかった。でも、ソラが私のためにマンガを持ってきてくれた、その事実がただ愛おしかった。両手に載せたその本が、この上なく尊く感じた。
ものは試しで表紙をめくってみる。色鮮やかな巻頭カラー、そこにも二人の少女がいる。さらにページをめくる。美しくも強烈に惹かれる描き出し、それに続く不可解なセリフ、見たこともない世界、冒険の始まり。いつも小説を読むときに感じるのとはまた違う、鮮烈な感覚が脳を衝いた。
久しい感覚だった。小説を読むとき、かつてはあったはずの感覚だった。現実世界から解離して、物語の世界に入り込む感覚。本の最後まで、現実に帰って来られなくなるような感覚を。どうして忘れていたのだろう。
ページをめくると奥付だった。現実に戻ってきた。まるで白昼夢の最中に起こされたような気分だった。
本を閉じる。隣で、腕を枕にしたソラが横向きにこちらを覗いていた。その表情は、にんまりと得意げにしていた。
「どうだった?」
「……面白い……面白かった」
「でしょー?」
いつもソラから聞くような素朴な感想が、つい漏れてしまった。理由なんてない、ただ面白い。どうして面白いのかと言い連ねるのは、物語の価値を貶めるような気さえしてしまう。言葉で語ってはいけない。物語を感じなければいけない。この続きも、もっと。
「なあ、二巻は?」
「家にあるよ」
「家かあ…………」
夢の続きを見たいのに、もう眠れない。打ちひしがれそうだった。今からソラの家に行こう、と提案する、すんでのところで踏みとどまった。
「来週、持ってきてくれる?」
「うん、わかった」
「約束な?」
「うん、やくそく」
小さな小指どうしを絡めて、また約束を交わした。
ソラが自分の本を読み始める。もちろん、先週私が貸した本である。今度はこちらが眺める番だ。物語の世界を旅する、その横顔を。
さっき借りてきた小説を読むのは、ついに忘れてしまった。
それから夏休みが終わるまで、毎週一冊ずつマンガを読んだ。マンガと、ソラと、両方がすぐそばにあった四週間、これがずっと夏の白昼夢だった。今から寝ても、続きを見ることは叶わない夢。決して戻らない遠い日々の物語が、確かにあった。
ソラから借りたマンガは、この四冊だけだった。続きは持っていないという。
夏休みが終わって、私は本屋に赴いた。普段は立ち入ることのない、コミックのコーナーに、あのマンガの五巻を見つけると、それを買って金曜日に持っていった。
ソラと一緒に、物語の続きを楽しんだ。けれどもそれは、夢の続きではなかった。ソラが本を持ってきてくれることに、きっと意味があったのだ。
やがて夏は終わり、秋がやってきて、ソラの夏服姿も見納めとなった。短く儚い夏だった。




