1年生の7月・第2週
ようやく午前の授業が終わった。チャイムと共に教室の空気がほどけ、廊下からざわめきが漏れてくる。たった四十五分間の昼休みを無駄にしまいと、学校じゅうが慌ただしく波打っている。
そんな校舎の喧騒も、遠い世界のように思われた。なぜなら、今日は金曜日だから。金曜日はいつも、時間の進みが遅い。ただ体感が違うだけだと片付けられないほど、明らかに遅い。きっと神か何かが、時間のスピードを調整するツマミを回しているに違いない。
だから、午前の授業もようやく終わったという感想になる。そのうえ、授業の内容すらまともに頭に入っていない。土曜日にノートを見返すと、書いた記憶のない板書が現れたりする。
私の高校生活は、こんな状態で大丈夫だろうか。いや、大丈夫なはずがない。はずがないのに、抗えない。
教室をあとにする葵の後ろ姿を目で追う。ふわふわと揺れる髪がスキップをしているようだった。葵の立ち居振る舞いは、いつでも小さく跳ねているような感じがある。だからだろうか、軽い夏服がよく似合う。
葵の昼食は、いつも購買のパンらしい。昼休みになると真っ先に教室を出て、購買へと向かう。曰く、昼休みは大行列になるから早く行かないといけない、とのこと。パンを買って教室に戻ると、近くの席の人と食べたり、あるいは一人で食べたりする。私と一緒に食べることはない。もちろん、学校ではできるだけ話さないという「約束」があるからだ。
一方の私のお昼はというと、一人寂しくお弁当を食べる。いや、寂しくなんかない。なぜなら、私には本があるから。本を読んでいれば一人だって寂しくはないし、むしろ一人でよかったとさえ思える。
とはいえ、食事中に文庫本を片手に持っているのは、さすがに奇異の目で見られるような気がする。だから、昼食の間はスマホで電子書籍を読むことにしている。なんなら小説ではなくマンガを読んだりもする。
スマホを机に置き、左手でページを捲りながら、右手で箸を持って弁当をつつく。行儀が悪くたって誰にも咎められることはない。
席が窓際なのもちょうどいい。もし教室の真ん中だったら、あまり落ち着かなかっただろう。おまけに、周りの席の人は、みんな昼休みになると出払ってしまう。近くに誰もいないから、小説やマンガを読むのにも集中できた。
「あっ」
右手の箸が奪われた!
箸はそのまま、弁当箱めがけて一直線に降りていく。水中の魚を捕らえる海鳥のように。そのくちばしが玉子焼きを串刺しにして、くるっと上を向くと、何者かの口の中へと吸い込まれていった。
何者か、ではない。葵だ。
「なっ……!」
大きくなりかけた声のボリュームを慌てて絞る。
「なにやってんだよ」
「一個くらいいいでしょ? あ、ダメなら返してあげようか?」
葵の口が開きかけたので、無言で手のひらを突き出す。その手を戻すついでに箸を奪い返す。
教室をぐるりと一瞥した。みんな思い思いの休み時間を過ごしていて、幸い、こちらに関心を向ける人はいない。
「これ、甘くないやつなんだ」
「勝手に取っといて文句か? あと飲み込んでから喋れ」
盗んだ玉子焼きを飲み込んで、葵が続ける。
「それでさー、一緒に食べない?」
「……ちょっと待て」
よく見ると、葵は片方の手にパンの袋を持っていた。丸いジャムパンと、それから、ちくわパン。
「約束しただろ」
さらに声量を落として言った。
「うーん」
「思い出したならさっさと行け」
右手でシッシッとやって見せる。わざと葵から視線を外して、白米を口に運ぶ。冷たくて咀嚼のしがいがあるご飯だ。
「ねーたまにはいいでしょ?」
そらした視線を拾うように、葵が机の前へと回り込んでくる。葵のペースに巻き込まれぬよう、さらにスマホの上へと目を逃がして、マンガのページをめくった。ちょうど最後のページだったようで「次の話を読む」のボタンが出てくる。
「だめ」
「なんでー?」
「なんでも。そう約束しただろ」
今だって、周りの目が気になって仕方がない。あの二人ってあんなに仲良かったんだ、という声が聞こえるような気がする。仲が良くたって構わないけれど、私たちは単なる「友達」じゃない。人前で関係をあけすけにすれば、きっとどこかで綻びが出て、いつか本当のことがバレてしまうに違いない。
「今日だけダメ?」
「だめ」
「教室がアレなら、どっか外に行ってもいいし……」
「だからあっ! 駄目だって……!」
途中で喉にブレーキを掛けたが、もう遅かった。自分の声が、やまびこのように教室を、脳内を、何往復も響く。サッと血の気の引くような感じが全身を走る。
「……………………」
「……青山、」
時間が止まったようだった。何人かのクラスメイトがこちらを見ている、その視線を感じる。あちこちからコソコソと話し声が聞こえて、それがだんだん増えて重なり合って、そのうち、もとのざわめきに戻った。
いつの間にか、葵はいなくなっていた。教室を見回しても、いなかった。
予鈴が鳴るころには戻ってきた。けれども葵は、こちらに一瞥もくれることはなかった。
放課後になると、葵は背中を向けたまま教室から出ていった。
* * *
こうして海を眺めてどれだけの時間が経っただろう。スマホで時間を確認すると、学校を出てから一時間ほどだった。今日は金曜日だけれども、葵の家には行かなかった。
火照った身体はだいぶ冷めたけれど、まだ帰るわけにはいかない。金曜日は夕食が要らないと言ってあるから、あまり早く帰ると面倒になる。
そもそも「文芸部の活動」という嘘をついて確保した放課後の時間だ。嘘に嘘を重ねるのは、バレないとしても苦しい。だったら、どこかで時間を潰して、いつもと同じ時間に帰るのが得策だろうと思った。
そういう考えで、近くのカフェへ入ることにした。よくあるチェーン店のカフェだ。
店内は混んでいるようで、二階の席へと案内される。一人用の席がいくつかあって、お好きな席をどうぞ、とだけ言い残して店員が引き返していった。
いちばん奥の席につこうとしたところ、ちょうど横を通り過ぎたボックス席から、誰かの視線が飛んでくるのを感じた。ちらっと目をくれてやると、クラスメイトだった。名前は確か、茅原と言ったかな。
知らないフリをしようかと迷って、けれども自分が制服を着ていたことに気づいて、なんだか挨拶をしないと済まないような気がした。
「よう」
「あ、やっぱり青山だー」
「……うん」
どう返していいか分からず、かといってそのまま通り過ぎるのも変な気がして、テーブルの横に立ち尽くしてしまった。茅原とは、全く喋らないわけじゃないけれど、頻繁に関わるわけでもない、そんな間柄だ。ごく普通のクラスメイト、という感じ。だからこそ困ってしまう。
「ここ座りなよ、ほら」
「え」
奥へと詰めた茅原が、私に席を勧めてくる。断りたかったけれど、仮に断ったとして、すぐそばの席で落ち着いてコーヒーを飲めるような気がしなかった。
「うーん……じゃあ……」
渋々と席につく。正面には、知らない誰かが座っている。見るからに茅原の姉だろう。あまりにも似ている。
「友だち?」
姉らしき人が茅原に訊く。
「うん。同じクラスの」
「へぇー」
突如として同席の人間が増えたことには頓着していないらしく、にんまりと笑顔を向けながらコーヒーをすすっている。
「なに頼む?」
「アイスコーヒーかな」
「他には?」
「いや、いい」
茅原が呼び出しボタンを押すと、しばらくして店員がやってきた。私がコーヒーを頼んで注文を終わらせようとしたら、茅原が「ソフトクリームも」と注文を追加した。テーブルの上を見る限り、すでに何かを食べたあとだった。
「そういえば、今日の昼休み、あれどうしたの?」
「……え?」
「ほら、なんか宇美と言い合ってたじゃん?」
「ええっと……」
宇美、それが葵の名字だと思い出すのに少し時間が掛かった。
昼休みのことを訊かれるのではないかと、内心で恐怖していたのが現実となった。あのとき感じた視線の中に、茅原のものもあったのだろう。
「うーん……何と言えばいいか……」
頭の中で言い訳をこねる。そんな私の様子をどう解釈したのだろうか、茅原がフォローを投げてくれた。
「いやっ、言いづらかったらいいんだけどー……そのー……青山ってあんまり誰かと話してるとこ見ないから、宇美と仲良いんだーって思っただけ」
「なんか、遠回しに友達いないって言ってないか?」
「違うちがう、そういうんじゃなくて、ただ意外だったってだけ」
葵と仲が良いと思われるのは、まさに避けようとしていた事態だったはずなのに、正直なところ、悪い気はしなかった。
「そもそも、言い争ってたのに、なんで仲が良いってことになるんだよ」
「えー? だって、もともと仲が良くない人とは喧嘩なんかしないっしょ?」
「んん、そうかもしれないけど」
「喧嘩するほど仲が良い、ってやつね」
今まで黙っていた姉が、陳腐な言い回しを置いていった。反応に困っていたところに、ちょうど良くコーヒーが運ばれてくる。あとソフトクリームも。
コーヒーにミルクを注いで、一口飲むうちに、隣のソフトクリームは半分も消えていた。二口目を飲むころには、サクサクとコーンを噛む音がした。
「理由はまあ置いといて、とにかく、喧嘩したってこと?」
「そういう感じ……かもな」
「じゃあ仲直りしないと。せっかくの少ない……じゃなくて、ほら、大事な友達なんだからさ」
「…………」
それは分かっている。分かっているのに、素直に頷くことができなかった。
自分は悪くないという思いが、どこかにあるせいだ。約束を破ったのは葵だから。向こうが謝りにくるべき。そうやって強情を張って、仮にも関係が消え去ってしまうことがあったら、きっと耐えられないと分かっているのに。
「雨降って地固まる、ってやつね」
姉が再び、月並みな文句を口にする。今度は素直に、そうですね、と返事しておいた。




