三年生の七月・第三週
栗の木の幹に止まったミンミンゼミが、うるさく鳴いている。ミンミンと鳴くから、ミンミンゼミという。ひどい名付けだと思う。人間が虫だったら、何と名付けられただろうか。なかなか難しい。私の場合は鳴き声も少ないから、一層難しい。多分、本の虫といったところだろう。
暑さのせいで、思考まで目茶苦茶になっていた。第一、外にいて快適な季節というのは、あまりにも短すぎる。今はもう時期を過ぎてしまった。
それなのに、今日も校舎の裏のベンチで本を読んでいるのはなぜかと言えば、理由は二つある。まず、この場所は不思議と涼しい。おそらく、一日じゅう陽が当たらないからだろう。当然、涼しいとは言ってもやはり、暑いものは暑い。しかし、なんとか堪えられる程度の暑さになっていた。
それと、もう一つの理由とは言わずもがな、ソラが来るからである。
もちろん、場所を変えれば良い話なのだが、適当な場所が見つからなかった。あるいは、この場所への愛着というのもあった。二人だけの秘密基地という感じがあったから。
しかし、いよいよ限界が近い。日増しにきつくなる太陽と、うるさい蝉の声と、羨ましいほど急速に背丈を伸ばす雑草と、たかる羽虫と。落ち着いて本を読めたものではなかった。
さらに付け加えると、この日は終業式があって、つまり明日から夏休みだった。夏休みの間もソラと会うならば、場所を変えるのに丁度いいタイミングだ。
では、どこで落ち合うべきか。学校以外の場所というのも考えはしたけれど、やはり色々のことを思うと学校のほうが都合が良い。となれば、適当な空き教室を使うか。いや、休みの間はきっと冷房が止まっているから快適でない。夏休み中も冷房があって、生徒が自由に立ち入ることのできる場所。ときて思い浮かぶのは、図書室だけだった。
そういうわけで、夏休み中は図書室で会おう、ということをソラに提案したい。今日はそういう日だった。
終業式のせいで時間割がいつもと違うから、ちゃんと来るだろうかと気を揉んでいたところに、ソラが姿を現した。
「よう。暑いな」
「うん」
ベンチに掛けたソラは、半袖のセーラー服を着ていた。
夏服には半袖と長袖があって、どっちを着ても良いことになっている。夏の暑さを考えれば、半袖を買っておいて、寒いときには上着で調整するのがよい。しかし、私はどういうわけか、長袖しか持っていなかった。だから、今日も暑いというのに長袖である。
それに引き換え、衣替えをしてすぐの少し肌寒い頃から、ソラはずっと半袖だった。何かを羽織っているところを見たことがなかった。
最初は寒そうだとしか思わなかったのに、だんだんと夏が進むにつれて目を引かれるようになった。今ではこれ以外の服装が考えられないほど、半袖のセーラー服が似合っている。
「あとどのくらいで読み終わりそう?」
「んー、二十ページくらい?」
とすれば、途中で三回くらいは本を閉じるだろう。その折には蝉を捕まえに行くかもしれない。なにせ先週までは鳴き声を聞かなかった蝉だ。ソラの興味を引かないはずがない。
それでも、ソラはお行儀よく本を読み始めた。
最近では、ソラが本を読むとき、私は自分の本を開かない。その代わりに、頬杖を突きつつ、横からソラの本を盗み見る。盗むと言っても元は私の本である。当然、内容だって知っているからすぐに読んでしまう。そうするとソラの読む速さと差が出てくるから、その分は自然、ソラの指先に目が行く。白く透き通った小さな爪が紙の端をピンと持ち上げるのを何となしに眺めたりする。ページを捲るでもなく指がウロウロと動いて紙を弄ぶのを観察していると、無性に面白い気分になった。
ソラの腕も、初めは爪と同じくらいに透き通るほどの白さだった。それが週を経るにつれて、黒く陽に焼けていった。ちょっと惜しい気もしたが、そもそも活発で幼気な性質だから、日焼けている方が似合っているようだった。
ベンチはずっと日陰なのにどうして日焼けするのかといえば、本を閉じたときにわざわざ日向に出るからである。焼け付くような日差しを意に介さず、木の枝を振り回している。その枝を栗の木に投げつけると、蝉の声がはたと止んだ。
「あー行っちゃった」
「そりゃそうだろ。ま、うるさかったから丁度いいけど」
「うーん」
静かになっていい塩梅だ。お陰で本も読みやすい。
このとき読んでいたのは、冬を舞台にした物語だった。物語に夢中になっていると、時折、今いる場所や季節などを忘れてしまうことがある。けれども今日の場合は、むしろ現実が物語を侵食してきている。雪という漢字が溶けて水になり、紙面からこぼれ落ちそうに思えた。しかし、本当に雫が手についたのには驚いた。ソラの汗だった。
背中が蒸れて暑い。その背中に感じる重さで、身体がくの字に折れ曲がる。ソラの両肘が私の肩の上にあり、顎が頭の上にある、そういう状態だからとにかく暑くて重たい。
後ろから生えてきた腕が本を取り上げ、「なに読んでんのー」と訊いてくる。こうやって訊くときは、単に退屈なだけである。本に興味があって訊いているわけではない。蝉が飛んでいってしまったのが、よほど面白くないらしい。
「あっつい」
「うえー」
「重いから降りろ」
「重くないよ」
首に絡んだ腕をほどいて、本も取り返し、ソラをベンチに座らせる。そうすれば、ソラもまた本を読み始める。移り気なやつだ。毎週、律儀にここへ来るのが、むしろ不思議なくらいだった。
それから下校時間の直前までかけて、ソラは残りを読み切った。一冊を読むのにかかる時間は、最初と比べれば半分になった。
もちろん、次に貸す本は鞄に入れてきている。ただ、今日は色々な本を持ってきてみた。次に読む本を自分で選んでもらおうというわけだ。
「はい、好きなの選んで」
「へぇー、こんなにいっぱい?」
「なんか読みたいの、あるかなって思って」
「んー」
ベンチに並べた本は十冊、すべて小学生の頃に読んだ本だった。ソラは一冊ずつ吟味している。吟味と言っても、中身を読むわけではない。表紙をじっと見つめているだけだ。ベンチに跨って、前かがみに本を見ている。少し長い髪がすらっと垂れて本の上を流れていた。
「じゃーこれ!」
「他のはいらない?」
「うん」
ソラが選んだのは、これまでと同じシリーズの続きだった。あれこれと悩んで本を引っ張ってきたのだけれど、徒労だった。
「そのシリーズ、気に入ってるんだな」
「うん。だって、絵がかわいいから!」
予想どおりの答えだった。そのシリーズはあと五冊しかないから、その後はどうしようかと、今から考える。もっとかわいい絵のついた本を見つけておかないといけない。
「あの……それでさ」
九冊の本をしまいながら、ようやく今日の本題に入る。
「明日から夏休みだろ?」
「うん」
ソラが応える。しかし、その目線は巻頭カラーのイラストに釘付けだった。
「だからさ、来週からどうしようかなって」
「うん」
「ソラはどうする? 学校、来るか?」
ようやく顔を上げてこちらを見た。それから、ちょっと視線を外して、考えるような素振りを見せたあと、再び目を合わせて答える。
「うん、まあ、レイナが来るなら、来る」
「そっか」
目が合っているのも却って喋りづらく感じて、今度は私が目をそらす。蝉の声がいつの間にか帰ってきていた。
「でも、やっぱ外だと暑いだろ? だから、図書室とか、どうかなって思うんだけど」
「いいよ」
「あ、うん……じゃあ来週からそれで……」
考えてみると、金曜日に会うというのを約束したことは、これまで一度もなかった。二人とも、なんとなくそういうものだと思ってこの場所に来ていたに過ぎない。それが来週からは、確かに会う約束をして会うのだ。
「じゃあ帰るね」
「ん、また来週な」
「あーい」
ソラは右手を大きく振りつつ帰っていった。また来週、という言葉を、もう一度口の中で転がした。




