1年生の4月・第3週
どういうわけか、初対面だった葵と「恋人」になった、あの日から一週間。あの屋上での出来事は、もう遠い過去のように感じられる。あの日までの自分は、まるで自分でないかのようだった。
あのときに自分というものを取り戻した私は、存在しなかったはずの一週間を無事に過ごした。草木や地縛霊としてではなく、生身の人間として。
しかし、葵との関係はというと、ほとんど進展していなかった。やはりあの告白は嘘だったのだろうか。嘘であってほしいと願う。
月曜日の朝、葵は私より遅く登校してくると、わざわざ私の席まで挨拶にやってきた。ホームルームが始まる寸前だったから、本当にごく短い挨拶だけだ。それから毎朝、葵は真っ先に私の席に来て、短い挨拶をしていくようになった。
月曜日の昼には、食堂に行こうと誘われた。私には弁当があるので断ると、葵は一人で教室を出ていった。それから昼食に誘われることはなくなった。
月曜日の放課後、私が荷物をまとめ終えたときには、もう教室に葵の姿はなかった。それからも、放課後に葵の姿を見かけることはなかった。水曜日の部活動見学でさえも、一緒に見て回るということはなかった。
そういうわけだから、今日も荷物をまとめて帰ろうと立ち上がると、不意に後ろから両肩をつかまれた。
「おわあっ」
私の情けない声が教室に響くと同時に、驚いたはずみで椅子を後ろに蹴り飛ばしてしまった。後ろから「うっ」という声が聞こえて振り向く。そこには、苦悶の混じった笑顔を見せる葵がいた。私の蹴った椅子と後ろの机との間に身体を挟まれた格好になっている。一瞬、申し訳ないと思ってしまったが、よく考えれば私は悪くない。
「何してんだ」
「ごめんごめん」
葵は椅子と机の隙間から抜け出すと、今度は席の横に回り込んで、私の頭の上に手を置いた。なでるわけでもなく、ぽんぽんと頭のてっぺんを叩いている。
「なんだよ」
「ちっちゃいなーと思って」
「悪かったな」
小さいと言われることには慣れている。なにせ小学生の頃から背の順の先頭を守ってきたのだから。とはいえ、こう改めて言われると多少はムカつく。だから葵を見上げて睨みつけてやると、
「いや、ちっちゃくてかわいいってこと」
と、まったくフォローになっていない補足が返ってきた。
「うるせぇな」
葵は油断ならない奴だ。かわいいなんてことを平気で言ってくる。
お世辞に取り合うつもりはないので、鞄を手に持って帰ろうとしたが、葵は立ちはだかったまま動こうとしない。
「帰るんだけど」
「いっしょに帰ろ」
「え? いいけど……」
唐突なお誘いだった。昨日までは誘ってこなかったくせに。
やっぱり、あの告白は私の気をそらすための方便だったんじゃないか。本当は付き合いたくなんかなくて、でも付き合うと言ってしまったから、恋人としての体裁を取り繕おうとしているだけなのではないか。この一週間に抱き続けてきた不審感が、このとき最高潮に達した。
校舎を出て校門のほうへと歩いた。葵は、家がさほど遠くないらしく、自転車を引いている。一方、家が遠い私はバスで通っているから、自転車はない。
そういえば、葵と一緒に帰るのは今日が初めてではなかった。ちょうど一週間前のあの日も、二人ならんでここを歩いた。しかし、葵の家とバス停とは別の方向だから、校門を出るとすぐに解散したのだった。だから、今日もそうなると思っていたのだが。
「ね、今日はうちに来ない?」
「うちって、葵の家か?」
「そう」
「それは……なんで?」
「なんでもいいでしょ」
葵の意図が読めなかった。友達の家に遊びに行くって、小学生の放課後じゃあるまいし。とはいえ断る理由も見つからないから、ついていくことにした。
校門を出て、いつもはまっすぐ坂を下るところを、今日は右に折れた。寺院や教会が並ぶ通りを抜け、ロープウェイの下をくぐり、神社の参道の坂を下って、路面電車を横切る。
その間、ろくな会話を交わすことはなかった。「新しいカフェだ」と言われれば「カフェだな」と返して、「数学の宿題多いよな」と言えば「多いね」と返ってくる。やはり恋人というにはあまりにも他人行儀だった。
そんな気まずい時間も長くは続かず、もう葵の家の前まで来ていた。これ、と言って葵が指したのは二階建てのアパートだった。きしむ外階段を登って二階に上がると、手前から二番目が葵の部屋だった。葵のうしろに続いて入り、「お邪魔します」と挨拶した。
「誰もいないよ」
「そうか」
どうりで玄関に靴がないはずだ。家族になんて挨拶しようかと悩んでいたので、多少は気が楽になった。
玄関から奥へと伸びる廊下には、右手に扉が二つある。そのうちの手前の扉を葵が指さして「ここがトイレね」と紹介してくれた。廊下の突き当りはリビングにつながっていた。真ん中にダイニングテーブルと二脚の椅子、壁際にはテレビ。右手側には対面式のキッチンがあって、そのさらに奥には洗面所が見える。あの先には風呂があるのだろう。
「適当に座ってね」
勧められるがまま、ダイニングテーブルの椅子に腰掛けた。リビングの椅子はこの二脚だけで、ソファもない。背もたれはゴツゴツとした木の感触で落ち着かなかった。
「晩ごはん食べてく?」
「え? いや、いい」
ごはんを勧められるのは全く想定していなかった。家に連絡を入れるのが面倒なので断ると、葵は「あっそ」と素っ気なく返事をした。
葵がリモコンを手にとってテレビをつけた。アナウンサーの声が響いてくる。いやにテンションが高い。きょう桜の開花が発表されました、だそうだ。
葵はその画面を見るでもなく、スマホをいじり始めている。テレビなんてつけなくてもいいのに。きっと無言の間を埋めたかったのだろうけど。
「ねえ、何時までに帰らないといけないの?」
「そうだな、晩飯までには帰っといたほうがいいから……七時くらいか? バスの時間もあるから、六時くらいには出ないとな」
「ふーん」
また素っ気ない返事をする。やっぱり無理に話しているのだろう。居心地の悪い時間だった。
すると今度はこんなことを言う。
「シャワー入る?」
「え? 入んないけど」
「じゃあわたし、入ってくるね」
そうしてさっさと洗面所の奥へと消えていってしまった。シャワーくらい勝手に入ればいいのに、変な気の使い方をするものだ。しかしよく考えれば、人を家まで呼んでおいて、ひとりでシャワーに行ってしまうとは何事だろう。
不思議に思いつつもテレビを消して、鞄から出した本を読んでいた。人の家というのは落ち着かないもので、文字を読むのも遅くなってしまう。そのせいもあって、十ページも読まないうちに葵はシャワーから上がってきた。
肩からバスタオルを掛けたまま、冷蔵庫から炭酸飲料の大きなペットボトルを取り出して、コップに注いでいる。葵はキッチン越しに、
「飲む?」
と訊いてきた。断ってばかりというのも申し訳ないので、飲むと答えておいた。
テーブルに置かれたグレープ色のジュースを手にとる。普段はあまりこういうものを飲まないから、特別な感じがした。ある種の背徳感のようなものだった。
ジュースを飲み終えると、それを見計らったように葵が立ち上がり、二つのコップをシンクに持っていった。コップを洗って戻ってきたかと思うと、今度は私の目の前まで迫ってきて、こちらを見下ろした。
そろそろ帰るように圧力をかけているのだろうか。それなら、長居をする理由もないし、もう帰ろう。そう思った矢先、大きく息を吸い込んだ葵が、こんなことを言い出す。
「わたしの部屋、行かない?」
拍子抜けした。そんなことを言うために、わざわざ目の前まで来て、こんな物々しい態度を取る必要があるのだろうか。
「うん、行こう」
「いいの?」
「え? そりゃいいだろ、別に」
葵の部屋というのは、廊下に二つあった扉のうちの、トイレではない方だった。
部屋は四畳半の和室だった。隅っこの低いテーブルには、教科書やらノートやらが山積みになっている。それと、ちゃんと押し入れがあるというのに、布団を敷きっぱなしにしている。葵の性格を垣間見たようだった。
「狭い部屋でしょ?」
「そうだな」
「ちょっとは遠慮しろ」
葵が布団に腰を下ろしたので、私は少し離れた畳の上に座った。すると葵は、枕元に手をおいて、
「こっちに座りなよ」
と言ってくる。そういうものかと思って葵の隣に移動する。
気づいたときには、葵の顔が鼻先にあった。私の身体は横倒しだった。
そうだ、葵は恋人だった。彼女、交際相手、ガールフレンド、どんな言葉もしっくりこないけれど、ともかくそういう関係なのだ。てっきり友達の家に遊びに来たような気になっていた。
「だめ?」
葵の表情は、屋上で告白したときに見せたような、あの不安げな表情だった。今にも泣き出しそうな、いや、すでに泣いているような表情だ。
私は、告白に返事をしたときに見た、あの微笑みを思い出した。
「だめ……じゃない、かな」
キスをした。初めてのキスだった。それはあっけないもので、感慨に浸る余裕などなく、ただ葵の瞳の奥を見つめていた。
そのときから、葵の告白が嘘だったなんて考えることは、ただの一度もなくなった。
これで私と葵は、正真正銘、名実ともに恋人になった。……のだろうか。




