三年生の四月・第二週
校舎の裏にりっぱな栗の木が一本あった。ここは薄暗くジメッとした場所で、一日のうちのわずかな時間しか陽が入らない。誰も寄り付かないような場所なのに、木の根元の傍らには、木製のベンチがしつらえてある。そういうわけだから、放課後の時間つぶしには丁度よい。
学校が終わるとたいてい私はここに来た。あまり気分の良い場所ではないが、家に帰るよりはマシだった。このころの私は、門限いっぱいまで帰らないのが常だった。
ともあれ、これは初春のころ、日陰はまだ肌寒い日のことだった。私は例のベンチに座って、いつもどおりに文庫本を開いていた。校舎の壁際には雪が消え残り、木製のベンチは冬の湿り気を残したように冷たい。それでも日向では、フキノトウが競うように芽を伸ばしている。雪解けと芽吹きがともに進む、足の早い春の景色だった。
威勢のよい部活動の掛け声が聞こえてくる。野球部だろうか、はたまた陸上部だろうか。ここはグラウンドから近い場所ではあるけれども、ちょうど校舎の死角になっているから、誰かに見られる心配はない。
部活に入れば放課後の暇が紛れるだろうか、と思ったことも、もちろんある。けれども、運動部に入るつもりは初めからなかったし、文化部にも興味の湧くものはなかった。私としては、静かな部室の隅っこで、下校時間まで本を読んで過ごすことができればいいのだが、当然、そんな都合のよい部活があるはずもない。
部活の声も静かになってきた日暮れ、そろそろ帰らないといけない頃合いだというのに、読んでいた本の区切りがなかなかつかなかった。それでも、門限に一分でも遅れれば大目玉を食らうこと間違いなしなので、やはり半端なままでも栞を挟んで帰ろうと思った。
物語の世界から戻ってきて、ちょっと空を仰ぐ。栗の木の梢がぼんやりと滲んで見える。このところ近眼が進んでいるせいだ。そろそろ眼鏡を作らないといけない。
それからふと帰りの方向を見たとき、一人の生徒が立っていた。いや、立っていたのではなく今しがたやって来たという様子で、私の姿に少しビクッとして足を止めた。一方の私はといえば、それ以上に驚いて、
「うおわっ」
というような間の抜けた声を上げてしまった。それもそのはず、この場所に誰かが来たことなど、ただの一度もない。だから自分だけの空間だと思って安心しきっていた。誰でも、トイレの個室に人が入ってきたらびっくりするだろう。それと同じことだ。
その生徒は右手に縄を握っていた。しっかりとした麻縄だった。綱引きに使うにしては細く、持ち手がないから大縄跳びでもない。しかし麻縄の使い道なんていくらでもあるのだから、そんなに気に留めるほどのことでもないはずだった。
こんな場所になんの用事だろうかと思っていると、彼女は踵を返して立ち去ろうとした。なんとなく不審に思って、
「なあ、ちょっと」
と声をかけると、彼女は肩をピクリとさせてから足を止めた。それで回れ右をしてこちらを向いたのは良いものの、私は続ける言葉を見失ってしまった。別に目的があって呼び止めたわけではないから、訊くことも話すこともない。
だから「なんでもない、もう行っていい」と言おうとしたのに、彼女はずんずん近づいてきて、私の隣に腰を下ろしてしまった。
どうしたものか。そうだ、初対面の人とはまず自己紹介。とは言うものの、いきなり名前を訊くのも変かと思って、手始めに学年を尋ねてみることにした。
「何年生?」
「二年」
「へぇ。ちなみに私は三年」
「ふーん」
相手が先輩だとわかっても、態度や言葉遣いを改めるつもりはないらしい。それがむしろ清々《すがすが》しく感じた。
「……今日は部活?」
「んーん」
「なんか部活入ってんの?」
「いや」
どんな質問にも最小限のことしか答えない、という気概が感じられる。かくいう私も、普段は似たようなものなのだが。
「名前は?」
「茜谷宙」
「じゃあソラって呼んでいい?」
「ん」
「私は青山怜奈。レイナって呼んで」
「レイナ」
「そう」
私が質問して、ソラが答えるだけ、という会話が続いた。これでは会話というより面接のようだ。そもそも、私も口下手なものだから、うまく会話を運ぶことができなかった。
ソラは無言の時間が流れるのも気に留めず、ただ足をぷらぷらと揺り動かしては、いたずらに地面を削っている。
適当なところでお暇してもよかったのだけれど、必死に会話のネタを考え続けた。季節、天気、勉強、部活、……当たり障りのない会話のお題が次々と浮かんでは消えていく。
やはり、私にできるのは本の話くらいしかなかった。初対面の人と話すことの定番といえば、趣味の話だろう。私には、趣味と呼べるようなものは本しかない。
「本とか読んだりする?」
「いや」
「そっか」
会話は五秒で終わってしまった。
そういうわけで、本の話はまったく盛り上がりそうになかった。しかし、この絶望的な状況の中で易々《やすやす》と引き下がらなかったのは、我ながらよくやったものだと思う。
「じゃあこれ、読んでみな」
そう言って、さっきまで読んでいた文庫本から布のカバーを外した。ソラはこれといって返事もしなかったが、私は押し付けるように本を渡した。
「ん、ありがと……」
あまり有り難くない様子だったけれども、気にしないことにした。無理やりにでも貸してしまえば、きっともう一度会えるだろうと思った。
「放課後はここにいるから、読んだら返してな」
「うん」
ソラは表紙をまじまじと見つめたあと、中身をめくってあからさまに顔をしかめた。それから「じゃあね」と短く挨拶だけして去っていった。
ソラが帰ったあと、ベンチの上には縄が残されていた。それを鞄にしまってから、私も家路についた。門限には五分遅れた。




