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ふたつのふたりの金曜日  作者: 枯木


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1年生の4月・第2週

 少し冷たい風がのりの効いたスカートを揺らしていった。彼方かなたの山の稜線りょうせんが黄色くかすんでいる。足から遠く離れた地面に、フキノトウの若緑が群れを成している。


 芽吹いた生命いのちを哀れに思った。この世は悲しみに満ちている。人間が泣きながら生まれてくるのは、きっと前世の悲しみをおぼえているからだろう。


 来世があるなら草木に生まれたい。悲しみに泣くこともできず、誰かに会いに行くことも決してかなわない。そんな命がわたしには似合っている。


 部活のない放課後の校庭は人の気配がなかった。あの校庭に飛び込むのだ。そうだ必ず飛び込む。


 頭の中ではもう幾度となくシミュレーションをしていた。塀の上に座っている身体からだを前にずらして、腰の後ろでつかんだ塀の角を手放す。その動きを何度くり返しただろうか。


 ひょっとすると、もう落ちているのかもしれない。私は地縛霊になってここに座り続けているのかもしれない。今に肝試しの学生がやってくる。そうしたら目一杯に怖がらせてやろう。


 ようやく恐怖が薄れてきた。草木に生まれ変わろうが、地縛霊として学校の七不思議になろうが構わない。手を放せばすっかり前に倒れる位置だった。それに気付いた途端、手を放した。


 私の身体は、後ろに倒れた。


 黄色みがかった花曇りの空が視界の一杯に広がっている。刹那、全身に痛みを錯覚して気が遠のいた。しかし、すぐに気がつく。私は落ちていない。


 背中には柔らかな感触がある。土とも芝生しばふとも違う、水のように沈み込んで、ばねのように支えられる感触。均質ではなく、ゴツゴツとした部分もある。そして若干のぬくもり。


 助けられた。そう理解するまでに時間は掛からなかった。でも本当の意味で救われたわけではない。救ってほしいと願った覚えもない。この苦しみにようやく終わりが見えた矢先、再び暗闇の中へと迷い込んでしまった気分だ。しかしなぜだろう、しばらくぶりに人心地ひとごこちがついたようだった。


「ねえ」


 耳にまとわりつくような甘い声だった。一人の人間が背中にいて、いま確かに身を預けている。それを実感して身体をこわばらせた。


 いったい何を言われるだろう。ありそうな言葉が一瞬のうちに次々と浮かんでくる。


『危ないよ』

『どうしてそんなことするの』

『命は大事にしないと駄目だよ』

『なんでも話聞くよ』


 耳を塞ぎたい。できれば逃げ出したい。そのままもう一度、あの塀を乗り越えたい。けれども身体はぴったりと抱きすくめられて、身じろぎ一つできなかった。


 そんな苦悶くもんの最中に、左耳に吹き込む春風のような、柔らかな声が流れ込んできた。


「いいにおいだね」


 聞き間違いか? この場所がいい匂いだと言っているのか? 妙に湿った空気をまとったこの屋上が。お世辞にもいい匂いではない。カビっぽい匂いを好むという特殊な感性の持ち主か、あるいは。


「いい匂いって、なにが」

「からだ」


 今度こそ逃げ出そうと思った。手足を力いっぱいにばたつかせる。右へ左へと身体を揺り動かす。


「放せ!」

「やだ」

「ああっ、放せよ!」

「痛い!」

「じゃあ放せ!」


 すねにかかとを落としても、横っ腹をつねってみても、全く緩む気配がない。むしろ一層きつく締め付けられる。ひとしきり暴れると疲れが来て、身体に力が入らなくなってきた。体育とか部活とか、運動というものから逃れ続けてきた自分を呪った。


 変わらない色の空を眺めつつ一息つく。全身を脱力してすべての体重を預けてみた。相手が油断した隙に逃げようという作戦だった。みぞおちの前に結ばれた両手は、全くほどける気配がない。それが緩む隙を逃すまいと集中していると、


「話、聞いてくれたら放してあげる」


ささやかれた。


「なんの話だ?」

「それを今から言うの」

「聞くだけでいいのか?」

「返事もして」


 面倒な話だった。が、話を聞いて答えるだけでこの時間が終わるならば、いとうほどのことでもない。ありそうな質問については、すでに想像を尽くしている。どんな質問に遭おうが、適当に答えればいい。


「わかった。言えよ」


 耳元でスーッと深く息を吸い込む音がした。


「わたしと付き合って」


 言葉の意味を理解するのに時間はかからなかった。わたし「と」付き合って。これが仮に「ちょっとわたし『に』付き合って」とかだったら簡単な話だった。お断りして立ち去ればいい。しかし助詞がひとつ異なるだけで、言葉は重大な意味を帯びる。返事も同じだ。イエスもノーも、軽々しく口にすることはできない。


「それはどういう……」


 聞き違いではないかと、言葉の意味を問い直す。どうか間違いであってほしいと願った。


「好き。教室で見てね、一目惚ひとめぼれしたの」

「…………」

「だからお願い、付き合って」


 ひどく混乱してしまった。ポカンと開けた口はすっかり乾いてしまった。


 一体どういうつもりだろう。言葉の意味を素直に受け取ることができなかった。私をからかっているのだろうか。それとも、狂人を演じることで、かえって私に平静を取り戻させようとしているのだろうか。後者だとしたら、なかなかの策士だ。確かに、私はある意味で冷静になってきている。もっとも、また別の混乱が生じただけなのだけれど。


「それで、返事をしないといけないんだっけ?」

「うん」

「……本当か?」

「本気だよ」


 目と口を同時に閉じて、考える。答えはすぐに出た。ノーだ。当然だ。今の私には、恋愛にふけることなど許されるはずがない。どう考えても恋愛をする権利なんてない。


 そもそも相手は同性だ。同性と付き合うという選択肢は、私の中にはない。ないはずだ。


 首を左に捻って、ようやく相手の顔を視界の端に捉える。顔も見ずに返事をするのは失礼だと思ったから。そしてお断りの返事をする。


「いいよ」


 ん?


「……ありがと」


 私は断ったはず。


 返事をする直前、目の前にあったのは、不安に満ちた表情だった。何か大事なものが零れ落ちそうな表情。その表情が今は柔らかなものに変わっている。まるでモナリザの微笑ほほえみのようだった。


 取り返しのつかない過ちを犯してしまった。しかし、あの表情の移りようを見て、今の返事は間違いだから、と取り消すことができるだろうか。


 私を拘束していた腕がするりとほどける。


 しばらくの間、動くことができなかった。後ろから背中を押し上げられ、さらに腕を引かれてようやく立ち上がる。そうして対面した。名前も知らぬ恋人に。


青山あおやま怜奈れいな、だよね」

「ああ、そうだけど……」


 私の名前を知っているのか。そりゃ知ってるよな。だってクラス全員で自己紹介をしたのだから。しかし、クラスメイトの名前はもとより、自分がどうやって自己紹介したのかすら覚えていないけれど。


 ここ最近、私の心はどこか別の場所にあった。入学式も、新しいクラスでのあれこれも、まったく現実のようではなかった。自分の体すら、自分のものではなかった。


「あーっと……」

「わたしは宇美うみあおいっていうんだけど」

「あーそうそう」


 思い出したようなふりをしたが、本当は初めて耳にする名前だった。


「どっちも『あお』でおそろいだね」

「ん、そうだな」

「だからわたしのことは『あおい』って呼んで。そんでわたしは『あおやま』って呼ぶから」


 こっちは下の名前で呼ぶのに、向こうは名字で呼ぶらしい。なんとも不釣り合いではないか。せっかくなら私だって下の名前で呼んでほしい。レイナ。自分の名前ながら、割といい響きだと思っている。少なくとも名字よりは。


「なんでだよ。名前で呼べよ」

「えぇーいいじゃん」


 どういうわけか、葵は頑固だった。呼び方なんて実際のところどうでもよかったけれど、私の方も引くに引けない気持ちになった。どうしてそんなにこだわるのかといても、「あお」がお揃いなのがいい、の一点張り。


「だったら私も名字で呼ぶぞ。宇美、ってな」

「だからぁーそれじゃ意味ないんだって」


 こんな具合の禅問答を繰り広げているうちに、いつの間にか階段を下っていた。静まり返った校舎に、ふたつの足音だけが響いていた。


 生徒玄関まで降りてきて、下駄箱から取り出した靴をタイルの上に落とした。ペタンと虚しいその音で、ふと我に返る。私は何をしているんだ。


「ほら、早く」

「…………」

「早く靴はいて、行こ」

「……ああ」


 かされるがまま、まるで恋人のように手をつなぎながら玄関をあとにした。いや恋人なんだけど。……いや恋人なのか? 確かに言葉の上ではそういうことになったけれど、今の二人の関係が、果たして恋人と言えるだろうか。むしろ他人と言うほうが近い。友達か恋人かという葛藤はよくあるものだが、他人か恋人かというのは奇妙な二択だ。


「なんか恋人みたいだな」

「恋人だもん」


 そう言って葵が指を絡ませてきたので、ますますぎょっとした。


 若緑のフキノトウが春の訪れを告げている。あれを上から眺めたことが、もう遠い記憶となっていた。

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