パリ・一華
窓の外を見ながら、ふとパリにいたころを思い出した。ルイとの出会いを。
パリに来て最初の一年は、ほとんど「溶けて消えるか」「固まって残るか」の瀬戸際だった。
アトリエ付きの学生寮は石造りで天井が高く、冬は底冷えする。窓の外には灰色の空と濡れた石畳。日本で「そこそこ上手い」と言われていた私の技術は、この街では何の意味も持たなかった。
「あなたの作品は“綺麗すぎる”」
最初にそう言ったのは、指導教官のバティストだった。
「……綺麗、ですか?」
「そう。安全な距離から“死”を見ている。君は死体の匂いを嗅いだことがあるね?」
心臓が、嫌な跳ね方をした。
「その匂いを作品から感じない。君は何かを持っているのに、それを彫刻刀の手前で止めている」
図星だった。あの風呂場、あの骨と肉の手触り。全部「経験」として沈殿しているのに、それをそのまま作品に流し込むことを、私はどこかでブレーキしていた。
「……じゃあ、どうすればいいんですか」
「生きた人間をやりなさい」
バティストはあっさりと言った。
「生きた肉。動く血管。壊れる前の骨格。それを知らないまま“死”をやっても、ただの戯画にしかならない」
それからの数ヶ月、私は石膏像ではなく、人間ばかり描き、粘土で起こした。
クラスメイト、街を行く人々、カフェでカップを持つ手。スケッチブックは、人の肢体で埋まっていった。
だが、まだ足りなかった。人間の「表皮」だけをなぞっているような、薄っぺらさ。もっと内側の、「崩れかける瞬間」を見たいという渇きだけが増していった。
ルイと出会ったのは、そんなときだ。
冬の夕方。セーヌ川沿いの橋の下でスケッチブックを開いていたとき、視界の端に、石の欄干にもたれる男が入った。薄いコート一枚、頬はこけ、目だけが異様にギラギラしている。指先には安いワインの瓶。
「あんた、寒くないの?」
思わず日本語で呟くと、彼がこちらを向いた。空っぽなのに、やたらと光を反射する目をしていた。
「……パルレ・フランセ?」
拙いフランス語で聞くと、彼は少し笑った。
「アン・プー。少しだけ」
西洋と東洋が混じったような中性的な顔立ち。パリでは珍しくない種類の美しさだ。
「君、彫刻家?」
「学生です」
スケッチブックを覗き込んだ彼は、妙に真剣な顔になった。
「君の描く手は、酒を持つのが上手そうだ」
意味の分からないことを言って笑う。ワインの匂いが、冷たい空気の中に濃く漂っていた。
「君、モデルにならない?」
気づくと、私はそう口にしていた。
「お金はないよ。ただ座っていてくれればいい。立っていても、寝ていても」
「裸でも?」
「その方が骨が見える」
自分でも驚くほど、淡々と答えていた。彼は声をあげて笑った。
「面白い日本人だね。……いいよ。どうせ行くところもないし」
アトリエに連れて帰ると、服を脱いだ彼の体は驚くほど「空っぽ」だった。鍛えられても、太ってもいない。食事を抜きながら、どうにか形を保っている人間の体。
「じっとしていられる?」
「死人みたいに?」
「死人より、少しだけ生きていて」
私の言葉に、ルイはまた笑った。
最初の一週間は、ひたすらスケッチと簡単な粘土像だけだった。彼は冗談やくだらない昔話をし、ときどきふっと黙り込む。
その沈黙のときの輪郭が、とても描きやすかった。
ある夜、私はとうとう、その体に触れた。肩甲骨の出っ張り、肋骨のカーブ、膝の下の皮膚の薄さ。
触れるほどに、「この入れ物はいずれ壊れる」という確信が深くなっていく。
「君、死ぬのが怖い?」
粘土をこねながら聞くと、ルイは少し考えてから答えた。
「もう一度、ちゃんと死ねるなら、怖くないかもね」
「もう一度?」
「一回、ほとんど死んだから」
アルコールと薬で。彼はそれ以上、詳しくは語らなかった。
その夜、ルイの背骨をなぞりながら、私は考えた。この肉体が完全に壊れたあとでも、私はこの形を持っていたい。骨だけになっても、削り、砕き、作品に混ぜ込めば、彼の「痕跡」は私の手の中に残り続ける。
そう思った瞬間、胸の奥が焼けるように熱くなった。
「ねえ」
「ん?」
「もし、私があなたを“作品”にしたいと言ったら、どう思う?」
一瞬きょとんとしたあと、彼は酔ったように笑った。
「君が作るなら、悪くない終わりかもね」
そのとき私は確信した。彼は私の道具にも、素材にもなれる男だと。
それから、私の才能は完全に開花した。一切の妥協も躊躇も、無くなった。




