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収穫祭 「私の心臓を掴むあなたの手が冷たくも温かい」  作者: 秦江湖


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オフェーリア・千尋

夕食の食卓で、私は明さんに今度美術館へ行くことを話した。


「君が美術館へ? そういうの、興味あったの?」


「最初は付き合いだったんだけど、だんだん面白くなってきて。それに、一華が自分の個展に生徒の作品も出すっていうから。ちゃんとしたものを作りたいなって」


「凄いな。小川さんの個展、二人で一緒に行こう。君の作品、楽しみにしてるよ」


「ありがとう、明さん」


私は、そこに「村重先生と行く」という情報だけは添えなかった。それは、私の心に芽生えた、小さな秘密の種だった。





美術館に行く当日。待ち合わせは正面玄関前だったが、私は十分も遅刻してしまった。


少し遅れるとはLINEで送ってあるものの、胸のざわめきは収まらない。美術館に来るのは、中学のとき一華の作品を見に来て以来、二度目だった。


ガラス張りの壁面が陽を反射し、建物全体がきらめいて見える。


幾何学模様の玄関、その周囲の緑。都会の喧騒から切り離されたような静けさの中、入口脇に村重先生の姿を認めた私は、小走りに駆け寄った。



「ごめんなさい、遅くなりました!」


「いいんですよ。僕も今さっき来たところですから」


待たせてしまったことに変わりはない。それでも彼は笑って言った。


「今日はスクールじゃないですし、“先生”も敬語も、なしにしませんか?」


「えっ……でも」


「僕も、その方が気が楽なんです」


そう言って向けられた笑顔に、何かが弾けたような感覚がした。日常という檻から、少しだけ外に出たような。


「じゃあ……浩平君、でいい?」


「はい。千尋さん」


互いの呼び方が決まると、私たちは館内へと足を踏み入れた。


「こうして観ていると、私でも見覚えのある絵があるのね」


「有名な絵は教科書や雑誌にも載りますからね」


「あっ、“種まき”」


足が止まる。キャンバスの中で、土を踏みしめながら種をまく男の姿。



「素敵な絵。前に本で見て以来、気に入ってて……なんていうか、生きる力強さを感じるの」


「ジャン・フランソワ・ミレーの『種をまく人』です。千尋さん、ミレーが好きなんですか?」


「というより、この絵が好きなの。私も種をまいて育てるのが好きだから……家庭菜園だけどね」


「家庭菜園、されてるんですか?」


「ええ。中学の頃から。没頭できて、余計なものを遮断できる時間なの」


浩平君は、少し羨ましそうに絵を見上げた。


「僕は、雑念ばかりですよ。描きながら、ふと些細なことが気になったり」


「そう……」



創作の悩みは、私にはどうにもできない。


ただ、そういう彼を「きれいだ」と感じてしまう自分がいた。


気づくと、私たちは自然に見つめ合っていて、浩平君が慌てて視線を逸らす。その様子が可笑しくて、思わず笑みがこぼれた。



一通り見て回ると、館内の喫茶室で休憩した。


窓際に座り、紅茶を飲みながら絵の話をする。といっても、ほとんどは私の質問に浩平君が丁寧に答える形だった。



「そうだ。ミレーでもう一つ思い出しました。一華先生も、ミレーが好きだって言ってました」


「一華が? 私と同じ?」


「千尋さんのは“ジャン・フランソワ”の方ですけどね。一華先生が好きなのは、“ジョン・エヴァレット・ミレー”の『オフィーリア』です」



スマホの画面を見せてもらう。水に浮かぶ女性の静かな顔。その周囲を彩る花々の、目が痛いほどの色彩。


「とっても美しくて、儚くて、悲しい絵……一華らしい」


ため息まじりにそう呟き、私はスマホを返した。





美術館を出ると、まだ日は高かった。


駅までの道を歩きながら、浩平君がふいに口を開いた。


「この近くに、小さな公園があるんです。少しだけ寄ってもいいですか?」



案内された公園は、池とベンチがいくつかあるだけの静かな場所だった。水面を滑る水鳥を眺めながら、私たちは並んで腰掛けた。


「こういう景色を見ていると、時間が止まってしまえばいいのにって思うこと、ないですか?」


「あるかもね」


私は、水面に映る自分たちの影を見つめた。



「俺は、たまに思うんです。このまま同じ時間が続いていくだけで、何も変わらないんじゃないかって。気づいたら取り返しのつかない歳になってて、何も残ってないんじゃないかって」


「将来なんて、そんなものかもしれないわ。私だって、時々そう思うもの」


浩平君が、意外そうな顔をした。


「千尋さんでも?」


「ええ。結婚して家庭に入って、今の生活に特別な不満はない。でも、この完璧に管理された日常の“空白”を、どう埋めればいいのか分からないときがあるの」


「……俺は、絵をやめる勇気も、続けていく覚悟も、どっちも足りないんだと思います」


自嘲気味に笑う横顔を見ながら、私はふと口をついた。


「似てるのかもね、私たち」


「そう……ですか?」


「浩平君は、“これから”に怖さを感じている。私は、“このまま”に退屈している。どっちも、今を変えたいってことには変わりないでしょう?」


彼はしばらく黙ってから、ぽつりと言った。


「橋本さんは、どんな映画が好きですか?」


「唐突ね」


「すみません。ただ、もしよかったら……」


少し照れたように笑って、彼は続けた。


「俺、アクション映画が好きで。今ちょうど面白そうなのがやってるんです。……良かったら、今度一緒に行きませんか?」


胸が、ほんの少しだけ跳ねた。


「えっ、私と?」


「はい。迷惑でなければですけど」


「迷惑なんて……。迷惑ではないけれど」


スクールの講師と生徒。家に帰れば夫がいる。頭の中でいくつもの「条件」が瞬時に並び、それでも私はすぐには答えを出せなかった。



「予定を見てみないと分からないから……後でLINEするわ。それでもいい?」


「もちろん。待ってます」



公園を出て駅へ向かう道すがら、私は自分でも驚くほど軽い足取りで歩いていた。


浩平君はいい人だし、一緒にいて苦にならない。それは今日、はっきりとわかった。



けれど、この先をどうするかは、まだ決められない。


スクールで顔を合わせる相手と、曖昧な関係になるのは危うい。


誰かに相談したくても、果歩は愛の件でそれどころではないし、スクールの友人たちに話すのも憚られる。



――そうだ。一華になら。



浩平と私を知っていて、スクールの責任者でもある彼女なら、この「種」をどう扱うべきか、きっと何か答えをくれるだろう。





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