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【第18話】この距離は、ただの練習?

 少し移動した先、目的の吊り橋が目の前に現れた。

 それは頑丈なワイヤーと、年季の入った分厚い木板だけで組まれた、いわゆる昔ながらの本格的な吊り橋だった。一人が通るのがやっとで、向こう岸から人が来たらすれ違いの難易度が跳ね上がりそうな、なかなかにスリリングな佇まいをしている。

「ここだね、到着したよ」

「へぇ……すごいね、思っていたよりもずっと高いかも」

「確かに……。……っ、風が結構あるな」

 周囲を深い緑に囲まれたその場所は、足元を覗き込むと息を呑むほどに美しいエメラルドグリーンの川が流れていた。渓谷を吹き抜けていく遮るもののない川風はとても涼しく、ついさっきまで俺たちの体力を奪っていたあの夏の蒸し暑さを、一瞬で忘れさせてくれる。

 一歩踏み出すたびにギシ、と小さな音を立てる木板の感触を確かめながら、俺たちはそのままゆっくりと吊り橋の奥へと足を踏み入れた。

「優希、こっち見て!」

「ん?」

 不意に前を歩いていた優奈が振り返り、手元の水色のカメラをこちらに向けてくる。

「はい、チーズ!」

「え、いや、いきなりは───」

 ────カシャ。

 俺が制止の声を上げるよりも早く、軽快なシャッター音が渓谷のせせらぎに溶けていった。

「んふふ、良い笑顔。今日の記念、一枚目ゲットだね」

 レンズの向こう側で、優奈が満足そうに目を細めていた。こうして不意に写真を撮られたり、お互いの仕草に一喜一憂したり。

 周囲にたくさんの観光客はいるはずなのに、いま手を繋いでいるこの空間だけは、まるで他人の介入を一切許さない二人だけの密室であるかのように思えてしまう。そのせいで、自分の胸の奥がみょうに早いテンポで拍動を繰り返しているのが分かった。

 足元のスリルによるものか、それとも彼女が近すぎるせいなのか。

 これもまた、いわゆる『吊り橋効果』というやつなのだろうかと、俺は顔に出そうな熱を誤魔化すように、心の中でそんな言い訳を呟いていた。


橋を渡り終えた先、雨風に晒されて少し黒ずんだ木の看板に、白いペンキで「結びの木陰」と書かれているのを発見した。

 あたり一面は生い茂る木々の青葉に覆われ、涼やかな濃い日陰が広がっている。その奥には、年季の入った看板とは対照的に、しっかりと手入れが行き届いていることが窺える綺麗な木製ベンチがいくつか並んでいた。川を背景にした写真スポットや、飲み物、ちょっとした公園のグッズを扱う小さな売店も遠目に見える。

「結びの木陰……なんだか、ちょっとロマンチックな名前だね」

 手元のパンフレットに目を落としながら、優奈がどこか楽しげにそう呟く。

「そうだね。今は……他に二組くらいしか人がいないな。思ったより空いてて良かったよ」

「うん……あ、ねえ、あのベンチに座らない?」

「いいよ。あそこなら遮るものもないし、川も見えて景色が良さそうだ」

 俺たちは流れるままに、一番奥にある一つのベンチへと向かい、並んで腰を下ろした。

「んぅ〜〜っ……! はぁ……ここ、本当に涼しいね……」

 ベンチに深く背中を預け、優奈が両腕を上に伸ばして気持ちよさそうに身体をほぐす。その拍子に、いつもは綺麗な髪に隠されている彼女のうなじが、無防備にさらけ出された。

 木漏れ日を反射して透き通るように白い肌と、そこから背中へと続く華奢なライン。汗ばんだ細い後れ毛が数本、柔らかな肌に張り付いているのが妙に艶っぽくて、俺は網膜に焼き付きそうになるその視覚情報を慌てて脳内からシャットアウトするように、わざとらしく視線を正面の渓谷へと逸らした。

「……っ、ああ、夏とは思えないくらい快適だな」

「だよね ……ねえ、優希」

「ん、何かな」

「最近、ベースの練習ってしてる?」

「ベースか。……まあ、マイペースにだけど。一日数十分くらいは触るようにしてるよ」

「本当? 偉いね〜……実はね、私、最近ピアノの曲にすごくハマっちゃっててさ」

「ピアノ曲か。いいね、ピアノの音って、聴いているだけで不思議と癒やされるし」

「そうなの! それでね、ちょっと優希にも聴いてほしいお気に入りの曲があって……じゃーん! イヤホン持ってきたんだ!」

 そう言って優奈がカバンから取り出したのは、白く繊細にきらめくイヤホン──いや、イヤモニだった。確か以前、同じバンドの桐島さんがそれを見て「プロ仕様の特注品じゃん!」と文字通り飛び上がって驚いていた、あのとんでもなく高価な代物だ。その唯一無二の洗練されたデザインで、一瞬で察しがついた。

 しかし……イヤホン、か。

 この静かで二人きりに近い空間なら、スマホのスピーカーでそのまま流しても十分に聴こえるはずだ。わざわざイヤホンを引っ張り出してきた彼女の意図が掴めず、俺は少し首を傾げながら、その理由を尋ねてみることにした。


「イヤホンか……スピーカーじゃなくて、イヤホンなんだな」

「そうそう。このピアノ曲ね、イヤホンで聴くと音の広がりが全然違って、すごく癒やされるからさ! はい、優希も片耳着けて!」

「えっ? いいのか……?」

「……うん! っていうか、これもほら……恋人の練習、でしょ?」

「……うっ……そ、そうだな」

「あ、いまちょっと嫌そうな顔した!なに、私のイヤモニじゃ不満ってこと?」

「あぁいやいや! 滅相もない、そんなんじゃないんだ! ───ただ……」

「……?」

 混乱する俺の反応を見て、優奈は不満げに頬を小さく膨らませる。そのムスッとしたリアルなリアクションは文句なしに可愛らしくて、普段ならそれだけで見惚れてしまうところだが、今の俺にはそれを呑気に鑑賞している心の余裕など一ミリもなかった。

 しかし、渡された片耳のイヤモニを見て俺は脳内に、疑問符が5つくらい浮かび上がると同時に、エクスクラメーションマークが10個ほど浮かび上がった。

 脳内のシステムが、今まで経験したことのない深刻なエラーを検知して警報を鳴らし始めている。

 問題は、優奈から手渡されたイヤホンの形状だ。人間工学に基づいて耳の形にフィットするよう作られたそのカスタムイヤモニは、どう見ても『左耳用』だった。

 そして現在、ベンチの左側に俺、右側に優奈が座っている。

 

 一般的にベンチに並んでイヤホンをシェアする場合、この位置関係なら俺が『右耳』に、優奈が『左耳』に着けるのが、物理的にも構造的にも最もスマートなはずだ。

 しかし、俺の手元にあるのは左耳用。つまり、これを俺が左耳に装着するとなると、必然的に俺の顔は右側───優奈の座っている方向へと大きく傾くことになる。それだけならまだしも、コードの長さを考えれば、お互いの肩や頭が完全に触れ合うレベルまで、限界突破して距離を詰めなければ絶対に長さが足りなくなる。

 ちょっと待て。いくら恋人の練習期間中とはいえ、これはさすがにハードルが高すぎないか? 物理的な距離感がバグるなんてもんじゃないぞ。

「何をそんなに躊躇ってるの? いいから、早く着けてつけて! 私の特別なお気に入りのイヤモニなんだからね? ……優希にしか、こんなのシェアしてあげないんだから」

 上目遣いでそう急かしてくる優奈は、心底純粋に『お気に入りの音楽を共有したい』という煌めいた表情をしている───いやおい、嘘だろ。これは……もしかして、本気で気づいていないのか!?

 どっちだ? 俺を動揺させるための高度な策略なのか……? いや、でも、この混じり気のない真っ直ぐな瞳を見る限り、本当に何も計算していないようにしか見えない。

 つまり、完全な天然??普通、ちょっと考えれば物理的にどうなるか分かりそうなものなのに、彼女はそこまで頭が回っていないのだ。

 もしこれが確信犯で狙ってるのだとしたら、こちらも「おいおい、確信犯か?」と冗談めかしてツッコミを入れられた。だが、本人が一ミリの下心もなく、純粋無垢な善意と信頼だけでこの無自覚な罠を仕掛けてきているのだとしたら、男の俺側から「いや、これだと距離が近くなりすぎるからさ……」なんて指摘するのは、自意識過剰な変質者みたいで、指摘しづらい。

 ここで空回りした時のリスクがデカすぎる。

 俺は心の中で必死にそう念じながら、今までにないレベルで迷走し始めた思考を立て直そうと、冷や汗交じりの呼吸をそっと繰り返した。


「私もつけるね…。…んしょっと……。流していい?」

「……う、うん…」

「てか、これ距離…近いね…?」

「あぁ……確かに」

 彼女が顔を近づける。

 その懐か、どこからか、甘くて爽やかな香りが鼻をかすめる。香水だ。香水の銘柄自体に興味はないために、どんな香りなのか、どんな植物かは分からない。しかし、彼女から、そのような女性らしい香水の匂いがゼロ距離になったことでより明白になってしまう。

 いや、ここまで来たら確信犯であってくれた方がいいまであるが。

 必死になって理性を保ち、耳元から流れる音楽に耳を済ませることにした。


**


 え、待って、ちょっと待って……距離近くない!?

 あれ……ってか、嘘!? そうじゃん! 私が左耳用のやつを着ければ、優希くんに右耳用のを渡して位置関係ぴったりだったんじゃん!! なんで渡す前に気づかなかったの私の上脳!?

「……いい曲……でしょ?」

「うん……とても。なんだか、こう……すごくリラックスできるっていうか」

 今の私は、もう完全に取り返しのつかない手遅れな段階で、自分の致命的なシステムエラーに気づいてしまった。

 私が何も考えずに左耳用を押し付けたせいで、今、ベンチの上で優希くんと肩が完全にぴったりと触れ合い、なんならちょっと頭が傾けば顔もくっつくレベルの超至近距離になっている。

 リラックスできる曲のはずなのに、頭の中が真っ白になって語彙力が一気に消失していく。一気に心臓がうるさくなって、恥ずかしさのあまり自分の顔がみるみる火照っていくのが分かった。

 っていうか私、「いい曲でしょ?」とか澄ました顔して聞いてる暇ないからね!?!?

 正直、耳元で流れているお淑やかで綺麗なピアノのBGMのせいもあって、余計に「ものすごくいい雰囲気の二人」みたいに演出されてしまっているので、混乱に拍車がかかる。

 ───あれ? 優希くん、香水つけてる……?

 ふわりと鼻先をかすめた、どこか落ち着いた香りに気づいて心臓が跳ねる。……この匂い、好きかも。ていうか、もしかして、意外と心地いい……?

 って、ダメダメダメ!!! ちょっと待って!! これどうやって終わればいいの!?

 優希くん??? いや、お願いだから何か喋って??? むしろいつもの冷静さでツッコミ入れて???

 これ、シンプルに私の大やらかし、完全なシステムエラーなの!!!

「……」

「……」

 いや、気まずいし、死ぬほど恥ずかしい!!!

 どうしよ……絶対これ、私の心臓の音聞こえてるよね……? 私が優希くんをドキドキさせて誘惑したい側のはずなのに、なんで私だけが勝手に自爆して大ダメージ受けてるの……!

 これ……音楽が終わるまで、あと2分間は耐えないとダメ……だよね……?

 二人の間に、ただただ無言の時間だけが流れていく。

 ────この静寂は、単に私も優希くんも、お互いに気まずさからフリーズしているからなのか。それとも、私だけが勝手に頭を抱えて自爆しているだけで、優希くんはイヤモニから流れてくるピアノの名曲を無心で堪能しているのか……。

 優希くんなら、おそらく間違いなく後者だろう。多分、彼はまだ私のことに、これっぽっちも堕ちてない。

 私は本気で優希くんのことが好きだけど、優希くんが私のことをどう思っているのかは、まだ全然わからない。

『だったら、堕とせばいいじゃん』って、ひよりはそう簡単に言ったけれど。

 でも、彼は私の外見だけじゃなくて、私の内面を何より大切に扱ってくれる人だから。私からあからさまにアプローチしすぎるのは、なんだか違う気がするし、彼を困らせたくない。そのあたりの引き算というか、裁量は本当に難しいものだと思う。

 しかしながら、今この状況ばっかりは、作戦でもアプローチでもなんでもなく、私のポンコツのせいで本当に無意識に引き起こされた罠だった。

「……あ、曲終わったね」

 不意に左耳の音が途切れ、優希くんの声が響く。

「……いい曲だったね。なんだか、夜寝る時とかに聴くと、すごくぐっすり眠れそうな感じがする」

「そ、そうでしょ? その……なんというか……夜一人の時に、こういう静かなのを聴くと、悩み事とか全部忘れられちゃうっていうか……」

「優奈だったら、もっとアグレッシブな曲が好きだと思ってたから、少し意外だったな」

「あ、アグレッシブ!? そんな陽キャみたいな感じする? 私」

「ううん、ほら、バンド練習の時もハイテンポな歌をよく練習したいって言ってたし」

 結局、優希くんは何事もなかったかのようにそっとイヤホンを耳から外し、私に返してくれた。

 でも、アグレッシブは……いや、むしろこの心臓が破裂しそうな気まずい雰囲気を完璧に打開してくれる、最高のナイスツッコミすぎる!!

 よく分からない誤解はされたけど、助かった! ありがとう優希くん!!!


 頭の中で謎に一人でお礼して、二人でベンチを立ち上がる。

 結局、あれから数分は、他愛のない会話で終わったんだけど、、、。イヤモニのあのシェアのエラーについて、優希くんからツッコミが入らなった。

 彼なりの気遣いだろうけど、もしそうだとしたら私がど天然な人って思われてるってことじゃん!?

 ヤダヤダ!絶対これから挽回しないと……あの、勉強ができる優希くんが、ど天然な女の子好きかどうか……いや……案外ギャップ……でも私って頭良くないからギャップ関係ない?もしかして。

 そんなことを脳内独り言で補完していると、隣の彼が、次の場所へ行こうと提案してくれた。

 恥ずかしすぎて頷くことしかできなかったけど、優しい笑みで手を差し出してくれた。

 もう、躊躇いなく私は、彼の大きな手を握りしめた。


**


 あの出来事があってから、結局、優奈のあれが天然だったのか、それとも狙ってやったのかは聞き出せなかった。

 しかしながら、彼女が顔を真っ赤に染めていたのは見逃せなかったので、やっぱり天然のやらかしだったのかなとなんだかんだ察して、俺たちは次の目的地へと足を勧めることにした。

 先ほどの「結びの木陰」の景色が綺麗なエリアでツーショット写真を収め、再び例の吊り橋を渡り戻って、開けた池のある場所まで歩く。

 時計の針は昼の二時を回り、夏の太陽もいよいよ本気を出し始めた頃、俺たちは池の近くに建つログハウス風の建物へと向かった。

「あったあった。これだよ」

「へぇ〜……手漕ぎのボート体験!」

「昔からある定番のやつなんだ。鯉の餌もここで買えるから、ボートの上から餌やりとかもできるんだよ」

「面白そう! これって二人乗り?」

「そうそう」

 次に案内した場所、それは手漕ぎボートの体験乗り場だ。

 この広大な池を、時間制で自由に巡って楽しめるアクティビティ。

 実はここ、今回のデートの行き先を決める際、ある種の決め手になった場所でもあった。優奈と『仮の恋人』という関係である以上、恋人らしく振る舞う練習を強いられているわけだ。普通、恋人同士といえば、こういう二人きりの時間を大切にするものだろう。だからこそ、外的な要因が介入できないシチュエーションを選んだわけだ。

 ────まぁ、全部美春が熱弁していた受け売りなんだけど。

 ログハウスへ足を運ぶと、早速店番をしていた愛想のいいおじちゃんと目が合う。

「二人かい? 何分コースにする?」

「……どうする? とりあえず、一番短い十五分にしておいて、過ぎたら延長料金を払う感じで行く?」

「うん、それがいいね。じゃあ、二人で十五分でお願いします」

「あいよ〜。料金は後払いだからね。時間を過ぎたら自動で延長料金が加算されるから、そこだけ気をつけて。それじゃあ楽しんでおいで、あっちの桟橋から乗れるよ〜」

「ありがとうございます」

 手早く手続きを済ませ、俺たちはライフジャケットの貸出所へと向かう。

 今回乗るボートは、左右に固定されたオールが一本ずつついていて、お互いに向かい合って座るタイプのものだった。 あの出来事があってから、結局、優奈のあれが天然だったのか、それとも狙ってやったのかは聞き出せなかった。

 しかしながら、彼女が顔を真っ赤に染めていたのは見逃せなかったので、やっぱり天然のやらかしだったのかなとなんだかんだ察して、俺たちは次の目的地へと足を勧めることにした。

 先ほどの「結びの木陰」の景色が綺麗なエリアでツーショット写真を収め、再び例の吊り橋を渡り戻って、開けた池のある場所まで歩く。

 時計の針は昼の二時を回り、夏の太陽もいよいよ本気を出し始めた頃、俺たちは池の近くに建つログハウス風の建物へと向かった。

「あったあった。これだよ」

「へぇ〜……手漕ぎのボート体験!」

「昔からある定番のやつなんだ。鯉の餌もここで買えるから、ボートの上から餌やりとかもできるんだよ」

「面白そう! これって二人乗り?」

「そうそう」

 次に案内した場所、それは手漕ぎボートの体験乗り場だ。

 この広大な池を、時間制で自由に巡って楽しめるアクティビティ。

 実はここ、今回のデートの行き先を決める際、ある種の決め手になった場所でもあった。優奈と『仮の恋人』という関係である以上、恋人らしく振る舞う練習を強いられているわけだ。普通、恋人同士といえば、こういう二人きりの時間を大切にするものだろう。だからこそ、外的な要因が介入できないシチュエーションを選んだわけだ。

 ────まぁ、全部美春が熱弁していた受け売りなんだけど。

 ログハウスへ足を運ぶと、早速店番をしていた愛想のいいおじちゃんと目が合う。

「二人かい? 何分コースにする?」

「……どうする? とりあえず、一番短い十五分にしておいて、過ぎたら延長料金を払う感じで行く?」

「うん、それがいいね。じゃあ、二人で十五分でお願いします」

「あいよ〜。料金は後払いだからね。時間を過ぎたら自動で延長料金が加算されるから、そこだけ気をつけて。それじゃあ楽しんでおいで、あっちの桟橋から乗れるよ〜」

「ありがとうございます」

 手早く手続きを済ませ、俺たちは早速向かうことにする。

 今回乗るボートは、左右に固定されたオールが一本ずつついていて、お互いに向かい合って座るタイプのものだった。いわば、ローイングボートというもので、1人が二つのオールを持って漕ぐタイプのもの。

 

「屋根がついてないタイプだから、直射日光に気をつけないとね」

「そうだね。お水もしっかり持っておこっと」

「あとは、日焼け止めも足して塗っておこう。念のためにね」

 首元や腕のあたりに手早く日焼け止めを塗り直し、準備は万全だ。俺たちは桟橋にいる係員のおじさんからサポートを受け、水面にぷかぷかと揺れる黄色いボートへと乗り込むことにした。

「どっちが先にオールを漕ぐ?」

 お互いに席へ腰を下ろしながら、優奈が尋ねてくる。

 ちなみに、俺は幼い頃にこの公園へ家族と来たことがあるため、ボートの漕ぎ方は一通り心得ている方だった。

 どうエスコートするべきか一瞬考えたが……こういうのは、あえて最初に手本を見せないで、直感と感覚で泥臭くやってもらう方が絶対に楽しい。そんなちょっとした悪戯心が働き、俺は優奈をオールのついている側───つまり、進行方向に背を向ける席へと促した。

「先に、優奈に漕いでもらおっかな。俺は一応、やり方知ってるから」

「えっ、私が先!? ちょっと、優希が知ってるなら最初にお手本見せてよぉ」

「ダメダメ、あえて何も知らない状態で手探りでやってみる方が、案外アトラクション感があって楽しいから」

「え〜……私、腕力あんまりないよ?」

「大丈夫、別にレースをするわけじゃないし。自分のペースでゆっくり動かせばいいから」

「うう……分かった、頑張るっ」

 観念したようにそう言うと、優奈はどこか緊張した面持ちで、左右に固定された木製のオールを小さな両手でしっかりと握りしめた。

 

係員さんに軽くボートを押してもらい、いよいよ広大な池の方へと惰性で進み出す。

 早速、優奈が手探りでオールを動かし始めた。

「えっと……こう動かしたいから、こうして……こう!」

「お、進んでる進んでる。いいね、上手だよ」

「ほんと?……ん、意外と……っ……力いるかもこれ。……って、優希、何笑ってんの〜?」

「いやいや、笑ってないって。一生懸命で可愛いなって思って」

「もう……女の子には結構きついんだよ? これでも必死なんだから」

 彼女は足元の出っ張りに足をピンと伸ばし、全身の反動を使ってオールを漕ぐ。ボートのスピードは少しずつ、快調に加速していった。

「優希……前どうなってる? このままスイレンだらけの場所に突っ込んだりしないよね……?」

「大丈夫。遮るものは何もないから、まだまだこのままで平気だよ」

「このボート、運転する側が前見えないから変な感じ」

「まあ構造上、背中で進むしかないからね。俺がしっかりナビゲートするから」

「頼むよ? これで変な場所に突っ込んだら、全部優希くんのせいにするからね」

「ふっ……善処します。そんなイジワルなガイドはしないから安心して」

 そんな軽口を交わしながら数分が経つ。

 ボートは広大な池のちょうど中央あたりへと差し掛かっていた。周りに他のボートはちらほら見えるものの、十分に距離は離れている。まさしく、誰の邪魔も入らない2人だけの空間。

 ――そして自然と、視線が見つめ合う形になった。

「な、なにかな……そんなにじっと見つめられちゃうと、ちょっとドキドキするね……っ」

「あ、ごめん……そんなつもりじゃ……」

「あ、いやいや! いいの、いいんだけど。なんか……こうやってドキドキするのって、恋人らしいしさ」

「……確かに。ここなら本当に、2人きりの空間だね」

「……っ……優希くん……その言い方……ちょっとずるくない?」

 目の前の彼女は、ふいっと頬を赤らめて少し俯いた。

「なんていうのかな。こう、ドキドキさせるような言い方をさ……躊躇なくしてくるじゃん。確信犯?」

「確信犯……それは違う……と思いたいかな」

「違うと思いたい? じゃあ言わせてもらうけど、無自覚にそういうことを言ってくる優希くんは、有罪だよっ」

「有罪……?」

「私に『2人きり』ってことを意識させる言葉を、無意識に使った罪ってこと!」

「いやまぁ……恋人らしい感じを意識したのは本当だし、罪って言われてもな」

「もう、優希くんったら。これだけ2人きりなんだから、もうちょっと……ね? 私に甘えてくれてもいいんじゃないの?」

「ううん、気持ちとして持っていたとしても、それであなたに少しでも不快な感覚を味わせたくないからさ。少なくともこのままで」

 本音を言うなら、目の前で微笑む白雪優奈は、暴力的と言っていいほどに可愛らしく、愛らしい。

 しかし、その感情を抱いた瞬間にそのままぶつけてしまうのは、彼女の見た目だけを消費して適当な告白で玉砕していった有象無象の男たちと同義だ、と俺は思っていた。

 だからこそ、仮の恋人という関係性において、彼女の意思を最優先に尊重したい。嫌だと思われそうな境界線には絶対に触れないのが鉄則──そう自分に課している。

 そんな理性的な制約を抱えながらも、自分の言葉が彼女を少しでも動揺させているのだと自覚した瞬間、罪悪感の裏側で、奇妙な達成感がじわりと胸を焦がした。


「そろそろ、交代しない? 私、疲れちゃった」

「ん、構わないよ。ただ、ここで転覆したら大変だから、移動は気をつけて」

「あ、ありがと……手、握るね」

「はい」

 お世辞にも広いとは言えないボートの上で、少しよろめきながらも、重心を意識して無事に位置を交代する。

 池の真ん中。そろそろ折り返して、元の桟橋へと戻ろう。

 そのあとは、雅貴(まさたか)さんが迎えに来るまでの時間、売店などで買い物をしたり食べ歩きをすれば、いい具合に時間は潰せるはずだ。俺は手慣れた動作でオールを操り、ボートを旋回させる。

「ふふ、さすが。私にアドバイスしてただけあって、本当に手慣れてるね」

「まあ、小さい頃この公園には何度も来てたからね」

「でも……私のやってた時より、体感速度が二倍くらい速いじゃん」

「その辺りは、まあ、男子だから。単純に筋力の差だよ」

「ふふ、かっこいいなぁ」

「なっ……かっこいい……か?」

「えへへ、からかっちゃった。動揺してるの可愛い」

「かっこいいのか可愛いのか、結局どっちなんだ。というか……可愛いに関しては、男として褒め言葉になっているのか?」

「ん? めちゃくちゃ褒めてるよ。私的には、男の子ってかっこいいだけじゃなくて、意外なところにギャップがあった方がいいんだよね」

「ギャップ……」

「そう、ギャップ。優希はさ、完璧で優しくて、家事もできる……そんな非の打ち所がないイメージだけど、ちょっとかっこいいとか可愛いとか言われたら、すぐそうやって動揺して……必死に取り繕うとするでしょ? その、からかいへの耐性のなさが、私にとって最高のギャップ」

 目の前の彼女は、形の良い唇に少し意地悪な笑みを浮かべつつ、それでいて自身の照れを隠すように視線を揺らしていた。

 その仕草は、まさしく他者の動揺から極上の栄養を得ている小悪魔そのもので。完全に翻弄されている自分をごまかすように、俺は小さく咳払いをした。

 単なる二文字の形容詞────『かっこいい』『可愛い』。それだけの言葉で、人間の思考回路をここまで機能不全に陥らせるのだから、日本語の持つ情報量というものは恐ろしい。

 

「……でも、言われっぱなしのままなのは、少し癪(しゃく)だからな」

「ふふ、優希も私を褒めてくれるの?」

「ああ。優奈は……人に対して躊躇なく真っ直ぐな褒め言葉を届けてあげられる。それって、すごく素敵な才能だと思うよ。それに、出会った頃の印象とは違って、目の前の『一人』をちゃんと大切にできる人なんだなって、ここ最近で強く実感してるんだ」

「優希……」

 オールを漕ぎながら、ふと口から溢れた言葉は、濁りのない本音だった。

 実際、初めて出会った時にたまたま目撃した、見境のないナンパ精神で突っ込んできた男子────心の中で『名無しの勇者』と名付けた彼を、「あなたには興味がない」の一言で文字通りオーバーキルしていたあの冷徹な優奈を知っているからこそ、現在の彼女の柔らかさが信じられないほどだった。

 俺には、大切な姉が持病で亡くなるところを見たことがある。

 そんな経験があってか、人の心の機微や、そこに潜む影には聡(さと)いつもりだ。

 事情は違えど、優奈にも絶対に、他者と明確な距離を置くようになった決定的なきっかけがある。それを、確信していた。

 無理に聞き出すつもりは毛頭ない。けれど、もしもいつか、優奈の側から「話したい」と思える日が来たなら、その時は彼女の過去ごと喜んで受け入れてあげたい────そう思えるほどには、俺の心は傾いている。

 そして同時に、そんな肥大していく感情を抱えながらも、『仮の恋人』という防壁のような制約に縛られている現状に、ひどくもどかしい足枷を感じてしまっていた。


 ボートがゆっくりと桟橋に近づき、微かな衝撃とともに対岸へと到着した。

 約三十分ほど、まったりと池の上で二人きりの時間を過ごしたことになる。

 手慣れた動作でオールを片付けながらも、俺は今のこの歪な関係性に、小さな疑問を抱くことをやめられずにいた。

 俺は、優奈を守りたい。その気持ちに嘘偽りはない。

 なら、この『仮の恋人』という防壁のような関係性は、一体俺たちにどんな意味合いをもたらしているのだろうか。

 彼女は、見境なく言い寄ってくるナンパ男たちから守られたがっていた。だからあの日、俺が口走った「彼女だから」という言葉を見逃さず、この契約を結んだ。

 確かに、一緒にいて楽しい。それだけは、絶対に間違いのない事実だ。

 だが――楽しい、という単一の感情だけでは到底抑えきれないほどに、彼女を大切にしたいという独占欲に似た気持ちが、胸の奥から次々と増えては溢れてくるのだ。

「ふ〜、到着〜っ」

「意外とあっという間だった気がしたけど、案外きっちり三十分くらい乗ってたんだな」

「うん、もっと乗っていたかったけど、ちょっと日差しが強くなってきたもんね……」

「そうだね。思った以上に暑くなってきた」

 強く照りつける太陽の下、ボートから桟橋へと足を踏み出す際、今度は優奈が自然な動作で俺の手を取ってくれた。

 その時に向けられた微笑みがあまりにも愛おしくて、逆に目を合わせるのが気恥ずかしいとさえ思ってしまう。

「この後どうする? 何か計画ある? もうだいぶいい時間になっちゃったけど」

「そうだね。あと一時間と少しくらいたてば、雅貴さんが迎えに来てくれるはずだから。その時間まで、あそこのエリアで買い物をしよう」

「買い物……! いいね! 私も、ここに来られた記念にいろいろ買ってみたいかも!」

「ちょうど喉も渇いたし、まずはあの売店でラムネでも買おうか。あそこのラムネ、この公園限定の瓶タイプのやつがあるんだよ」

「ラムネいいね! 私、ラムネ大好きだよ〜。ふふ、私のラムネへの評価は相当厳しいよ?」

「ふっ……大丈夫。この暑さだし、何より瓶に入った冷え冷えのラムネで外れるわけがないからね。優奈も、きっと気に入ると思う」

 俺たちはボート乗り場を後にし、少し歩いた先にある、出店や小さな売店が軒を連ねるエリアへと足を向けた。

 ピクニックの締めくくりとして、この場所に来られた思い出になるような、お互いに気に入ったものを買って終わる――それが、俺の考えていたささやかなプランだった。

 優奈の歩幅に合わせてゆっくりと歩く。

 もはや何の手続きも、許可すらも取らずに、当然のように俺の手をぎゅっと握りしめてくる目の前の少女。その曇りのない笑顔を見ているだけで、彼女が今、この瞬間を心から楽しんでくれているのだと痛いほどに伝わってきた。


「わぁ、この店すっごく涼しい〜」

「外気温30度超えの中、池の上でボートに晒されてた身としては、この涼しさは完全に『整う』ね」

「まさに、サウナから出た後に水風呂に入った時みたい!」

「確かに。言い得て妙だな」

 涼しいエアコンの風に救われながら、早速お目当ての売店へと入る。

 のぼりに踊るソフトクリームの文字も捨てがたかったが、今回の目的はあくまでラムネだ。

 ここの売店で直売されている「涼風(すずかぜ)」というブランドの「藍玉(アクアマリン)ラムネ」は、大量の氷水にどっぷりと浸かった状態で冷やされており、この公園の名物とも言える一品だった。

 ちなみに、ファンの間では愛称として『アクアマリンラムネ』と呼ばれているものの、肝心の「藍玉」の読みが「あいぎょく」なのか「アクアマリン」なのかは公式があえて明言していない。そのため、ネット上では密かに二大派閥ができて小競り合いをしていたりもする。

 また、このラムネが名物たる所以は、冷やしているのがただの氷水ではないという点にある。

 氷水に塩を大量に溶かすことで凝固点降下を起こし、ボトルの中の液体はマイナスに達しながらも凍らない『過冷却』の状態に保たれているのだ。

 ビンを開けてビー玉を中に落とした瞬間、その衝撃をきっかけに一気に結晶化が始まり、液体がシャリシャリのシャーベット状へと変化する。夏場にはひんやりとしたアイス感覚で極上の水分補給ができる、まさしく夏限定の最強ドリンクだった。

「あ、これこれ。まだ残ってた」

「へぇ〜! これが優希の言ってたラムネ? えーっと……すずかぜ……あい……これ、なんて読むの?」

「これね、こう書いて『アクアマリン』って読むんだよ」

「え、アクアマリン!? すごい……なんかあれじゃん、J-POPの歌詞のタイアップとかでありそうなやつじゃん!」

「あ〜、それこそ『奇跡』と書いて『ダイヤモンド』と読ませるタイプのやつね」

「そうそう、それ! ってか、優希よくその例えパッと出てきたね! 理解早いの助かるなぁ」

「そんなことないよ。ちなみに、このラムネはよくある市販のラムネとは違うんだよ」

「え、そうなの?」

「うん。氷水に大量の塩が溶かされているから、凝固点が降下して、液体の温度がマイナスになっても凍らない、過冷却状態になっているんだ」

「過冷却……あ、聞いたことあるかも!ほら、コーラとかで作れるやつだっけ?」

「知ってる? そう、あれのラムネバージョンが楽しめるんだよ」

「へぇ〜! 絶対美味しいじゃん! 早速買お!」

「もちろん。これは絶対に飲みたかったからね。これを二つ……。どうする? 先に飲んで、さっぱりしてからそれぞれ他の買い物とかにしてもいいし」

「う〜ん……優希と一緒に歩きたいから、先にラムネのも!」

「ふふ……一緒に歩きたい、か」

「えへ……いいでしょ?」

「ん、もちろんだよ」

 上目遣いで「いいでしょ?」と微笑む優奈の破壊力は、外の猛暑よりも確実に俺の体温を狂わせていた。

 もちろん、まだ他にも見たい店や買いたいものは山々あったが、まずはラムネで乾杯することになった。

 サクッと会計を済ませると、店外にある日除けのテント付きフリーテラス席へと彼女を案内した。

「じゃあ、一緒にビー玉落とそ!」

「いいよ。なんだかいいね、このキャップのビニールを剥がす時のパリパリした音も、本当に夏って感じで」

「わかる〜! ほんと、こんな暑さとシチュエーションの中で飲むラムネとか、美味しいに決まってるもんね!」

「そうだね」

「優希も準備できた? じゃあ、行くよ! 一緒にね。せ〜の!」

 ────プシュ! カラン……。

 小気味いい破裂音と、ガラスの涼やかな音が二つ同時に響き渡る。

 直後、青みのかかった透明なビンの内側で、劇的な変化が始まった。ビー玉が落ちた衝撃を中心点として、一瞬で白い結晶が網の目のように広がり、液体がみるみるうちに淡いブルーのシャーベット状へと姿を変えていく。まさしく、一瞬の科学マジックだ。

「わぁ……! みてみて! 本当に凍ったよ!」

「ふふ、そうだね。大成功だ」

 子供のように目を輝かせてビンを覗き込む優奈の横顔が、あまりにも眩しい。

 その無邪気なリアクションは、どこか弟の悠真くんの面影と重なって、やっぱり姉弟なんだなと心の中で実感する。なんだか愛おしさが倍増して、自然と口元が緩んでしまう。

「早くのも! これはスピードが大事だから! えへへ、じゃあ〜……」

 優奈は結露した冷たい瓶を両手で包むように持ち上げると、いたずらっぽく俺の顔を覗き込んできた。少し上気した頬と、夏の光を反射してきらきらと輝く瞳が、至近距離で真っ直ぐに俺を捉える。

「この照りつける夏の太陽と────優希君の優しさに、かんぱーい!」

 嬉しそうにそう宣言するなり、優奈は「んふふ」と笑って、勢いよくビンの飲み口に唇を寄せた。シャリシャリと音を立てるフローズンラムネを、喉を鳴らして美味しそうに吸い込み始める。

 その無防備で、あまりにも可愛い姿を見つめながら、俺の胸の奥から悪戯心が、いや、それ以上に抑えきれない愛おしさが形を成して溢れ出た。

 トン、と。彼女の持つビンの側面に、自分のビンを軽く触れ合わせる。

「全く。じゃあ俺も、優奈のその笑顔に、乾杯」

「────っ!?……ん、んぐっ!?」

 冷たいラムネが喉を通り抜けるまさにその瞬間、鼓膜にダイレクトに叩きつけられた俺の言葉に、優奈の動きが完全に静止した。

 あろうことか、口の中にラムネを激しく含んだ状態で、目をご開帳させて大動揺している。むせ返りそうになるのを必死に堪え、ごくんと力技で飲み込んだ彼女の顔は、一瞬にして茹で上がったように真っ赤に染まっていった。

「な……っ!優希……!何その言い方、バカ……!!」

 ビンの結露で濡れた手で自分の口元を覆いながら、優奈が涙目で俺を睨みつけてくる。

 完全に形勢逆転だ。

「いやいや、恥ずかしくなるような乾杯の音頭を取ったのはそっちだろ。こっちだって、少しくらいお返しをしないとね」

 言いながら、今度は俺の方が照れ隠しをする番だった。

 動揺を隠すように、冷えたビンの口からシャーベット状のラムネを口内へと滑り込ませる。

 これでもかと冷やされたそれは、まさしく上質な「かき氷」のようで、パチパチと弾ける爽快な炭酸と混ざり合い、熱くなった身体に極上のハーモニーをもたらしてくれた。

「も、もう……! 急に変なこと言うから、全然味わかんなかったじゃん! もう一回飲む!」

「あはは、全くもう。ゆっくり飲みなよ」

 少し不服そうな彼女の表情の中で、少しあしらってあげると、それでも少し笑みを思い浮かべてくれた。

 恥ずかしくなるような言葉、という言い方をしたものの、こういう気持ちになるのは悪くはない。大切にしたい人から、少しでも心を開いてもらえているような気がして。

 ゴクゴクと喉を通る涼やかな音と、口の中に残ったシャーベット状の氷をサクサクと噛む音が、夏のテラス席に心地よく響く。

「ぷはぁ……! 何これ、すっごく美味しい〜っ! 本当にひんやりしてて、まさにかき氷を飲んでるみたい!」

「そうそう、それがこのラムネの一番の売りポイントだからね」

「なんだか……懐かしいな。こうやってラムネの瓶を持ったのも久しぶり。このパチパチする炭酸も、すっごくいい役目を引いてるね」

「そうだね。単なるかき氷と違って、しっかり炭酸のキレが生きているから、喉越しも抜群にいいよね」

「うんうん……それに……普通に誰かと一緒に飲んでいるってだけで、美味しさも倍だよね……」

「少なくとも、俺とこうしている時間が、優奈にとって楽しいものであるなら、それだけですごく嬉しいよ」

「優希……。うん、すっごく楽しいよ」

 その言葉だけでも、今回ピクニックをプランニングして良かったと思える。

 理由なんてなんだっていい。

 単純に、誰かと自然に触れながら、好きなものを買ったり、写真を撮ったりする────

 そんな単純な作業だけでも、ここまでに人の心を揺さぶれる。

 ラムネを飲み終えると同時、優奈が言葉を紡ぐ。


「優希」

「うん」

「あのね……前に、私が優希くんの過去について知った時に、私にも色々あったって話したの、覚えてる?」

「ああ、もちろん。覚えているよ」

「いつか、ちゃんとした形で、優希くんには全部打ち明けたいって思ってるんだ」

 ────その言葉を発するのに、彼女がどれほど大きな勇気を振り絞ったか。

 伏せられた睫毛の微かな震えを見ただけで、一瞬で理解できた。

「でも……俺は、無理してまで打ち明けてほしいわけじゃないし、こっちから促すつもりもないよ」

「優希……。ううん、違うの。優希は優しいから、きっとそんなことしないんだろうなって分かってる。でもね、こうして優希くんといろんな時間を過ごす中で、私の考え方も、少しずつ変わってきた気がするんだ」

「……」

「もちろん、私にとってすごく重要な意味を持つことだから、話すのにはまだ、ちょっと時間がかかっちゃうかもだけど……。それでも、待っててくれる?」

 期待と、それ以上に、拒絶されることを恐れるような寂しさと不安が入り混じった声色。

 そんな声を出す彼女への答えなんて、最初から決まっている。

 向こうから話したい、信じて預けたいと思ってくれるその日まで、俺はずっと待ち続けるだけだ。

「ああ、いくらでも待つよ」

 そう答えると、優奈は張り詰めていた糸が切れたように愛らしく微笑み、「ありがとう」と小さく呟いて、結露したラムネの瓶を傾けて一気に飲み干した。

「本当に、優希って、出会う人すべてを大切にできるいい人だなって思うよ」

「姉の他界を知ってから、ずっとそうしようと決めて生きてきたからね。……俺は、優奈のことを信じたいって思っているよ」

「……っ。信じる……か」

「俺は、優奈の過去を知らない。でも、無理に詮索するつもりなんて微塵もないよ。誰にだって、他人に触れられたくない傷や、隠しておきたい過去なんて数多にあるものだから」

「……でも……私は……」

 何かを言いかけ、言葉に詰まる優奈。彼女は結局、あいまいに視線を彷徨わせた後、「ううん、やっぱりなんでもない」と、その本心を再び心の奥底へと隠してしまった。

 彼女が怯えている理由は、まだ分からない。

 けれど、世間にありふれている、彼女の『外見』という記号しか見ずに群がる有象無象の男たちと、自分が決定的に違うことだけは行動で証明したかった。

 俺にとって白雪優奈は、ただ一人の、かけがえのない人間だから。

 だからこそ、俺が彼女を大切にする理由なんて、それだけで十分だった。それに、どこか心の深い部分で、俺たちは似たもの同士な気もしているのだ。

 でも・・・。

 ラムネの空き瓶を見つめながら、俺は胸の内で、自嘲気味に冷めた思考を巡らせる。

 俺は、出会う人すべてを大切にできるいい人、か。

 優奈は俺を買い被っている。そして、俺自身も、ずっとそんな綺麗事を免罪符にして生きてきた。

 だけど、いくら全員を平等に扱おうとしたところで、現実はそんなに甘くない。

 この世界に生きるすべての人を、全員同じように救い、全員を幸せにしていくなんて、凡人の俺には到底不可能なんだ。

 何より────隣で、少し安心したように息をつく彼女の横顔を見つめる。

 すべての人を大切にする? そんな生ぬるい博愛主義は、もう今の俺には適用できない。

 世界の誰を敵に回そうが、誰を切り捨てようが構わない。俺は、俺の隣で手を握ってくれているこの少女だけを、他の誰よりも、何よりも特別にえこひいきして、生涯をかけて守り抜きたいと────そう願ってしまっているのだから。


 この件については、俺の中では整理しきれないものがある。

 こんな経験に対して、第三者的な視点はあるべきだろうと思えた。家に帰った時でもいいし、黒川にでもいい。少し話してみるのもありだろう。

 片手にシャーベットが少し残った結露している瓶を握りながら、そう考えていた。


**


 ────信じたい、って言えなかった。

 さっき、優希くんが「優奈のことを信じたい」と言ってくれた時。

 私の口からも、同じ言葉を出そうとした。もう、彼への気持ちが溢れて止まらなくて、胸の奥に抑えきれなくなっていたから。

 それなのに、どうしても言葉が喉に詰まってしまった。

 自分で言い出した『仮の恋人』という制約。これって……本当に幸せなのかな。

 脳裏を過るのは、ひよりが言っていた『仮の恋人はサブスクの無料体験期間』という冷徹な言葉。

 もし、今のこの時間を本当の幸せと呼びたいのなら、私はこの防壁を壊して、ちゃんと付き合うべきだし、自分から告白だってしたいと思っている。

 でも、どうしても、ずっと怖い。

 この目の前にいる大切な人が、私が発するたった一言のせいで、壊れて離れていってしまうんじゃないかって思えて。

(もう……私まで、とんでもないヘタレじゃん……)

 少し太陽の光が落ち着き始めた夏の昼下がり。

 賑やかな売店の喧騒から切り離されたような、テラス席の静寂の中で、私はずっと自問自答を繰り返していた。

 なんで私は、告白という一歩を踏み出すことができないんだろう。

 そんな焦燥感ばかりが先走る。

 優希くんに見せているこの笑顔だって、本当の弱くて情けない自分を隠すための仮面だ。

 「いつか過去を打ち明けたい」なんて、さも強がって、怖がっていない風な言い方を選んでしまったけれど、本心は今だって震えるほど怖いまま。

 もし、すべてが私の自惚れだったら?

 この気持ちがただの私の勘違いで、優希くんが私のドロドロした過去を知ったら幻滅して、そのまま離れていってしまったら――?

 その『もしも』の世界だけが、どうしても恐怖で仕方がないのだ。

 人によっては、振られたくらいで落ち込むなと笑ってアドバイスするのかもしれない。

 でも、私にとっての優希くんは違う。本当に優しくて、ハイスペックで、誰よりも私を気遣ってくれる、世界で一番大切で、大好きな人。

 これからの長い人生で、こんな人に出会える確率なんて、きっと滅多にない。

 だからこそ――ここで彼に振られて、完全に失うことだけは、絶対に嫌だ。

 その恐怖の裏返しで、告白をせずに『仮の恋人』に留まっている今の生殺しの時間すら、私にとっては甘やかで、幸せに感じられてしまう。

(最悪だよね、私……)

 ドクドクと不快な音を立てる胸の奥で、激しい自己嫌悪に陥る。

 優希くんの心をからかって、揺さぶって、イチャついていながら、自分は本当の恋人関係になるためのリスクを何一つ背負おうとせず、彼の優しさに泥泥と甘えている。

 そのズルい感覚が、今になって一気に蘇ってしまった。

 だからこそ、胸に突き刺さるのだ。

 ────この仮初めの恋人関係に、一体何の意味があるの?

「優奈、どうした? 一気飲みしすぎで、頭痛くなったのか?」

 不意に、すぐ隣から優希くんの声が降ってきた。

 はっと現実へ引き戻される。

「ん? あはは、ごめん! ちょっと、本当に一気飲みしすぎちゃったみたい」

 一瞬で心のシャッターを閉め、身体に染みついた「完璧な美少女」の仮面を被り直す。

 思い返せば、今日だって優希くんに対して、いきなり写真を撮ったり、少し気恥ずかしい言葉を投げかけたりして、彼をドギマギさせてばかりだった。

 でも、それだって全部『仮の恋人』という大義名分があるからできたこと。そんな免罪符がなければ、私は恥ずかしくて彼の目すら見られないのに。

 なのに、私は――もう、言い訳ができないくらい、優希くんが好きなんだ。

 彼のことを、信じていいのかな。

 また、ひよりの言葉がリフレインする。

 『ナンパされている優奈の前で、咄嗟に「俺の彼女なのでやめてください」って言葉が出ている時点で、それが答えじゃん』

 ひよりの言う通り、もったいないところで立ち止まっているのは私の方だ。もし私が覚悟を決めて、この殻を破って告白したら、優希くんはきっと、真っ直ぐに答えてくれる。

 その、たった一歩の踏み出しさえ、できればいいのに。

 冷たくなったラムネの空き瓶をきゅっと握りしめながら、私はまだ、その一歩を踏み出すための心の準備が、どうしてもできずにいた。


「どんな形であれ、俺は優奈を見捨てる真似はしないよ」

 ────ふと、彼がそう話してくれた気がした。

「え?今なんて────」

「ううん。なんでもない。独り言」

「……優希、このまま、買い物行こ!」

「ああ。いいよ」

 でも、そう言ってくれた気がして少しモヤが晴れた気がした。

 私だって、純粋で、素敵な恋がしたい。

 他人の遊びに使われる恋なんてしたくない。

 だからこそ今は猫を被り続けるけど……いつか絶対にここから抜け出さないといけないとなと、強く実感した。


(私が文化祭で披露する、オリジナル曲……)

 ふと、自分で蒔いたはずのあの言葉が脳裏を過る。

 もし、彼へと本当の想いを伝える日が来るのなら。それは言葉だけじゃなくて、私の大好きな、私の本当の居場所でもある『音楽』に乗せて届けたい。

 絶対に、彼を失望させたくなんてない。だからこそ、今この胸を焦がしている切ない痛みのすべてを、歌詞のインスピレーションとして必死に頭の中に浮かべていく。

 ――その後に行った買い出しでは、正直に言って、色々と頭を使いすぎてしまったせいかかなりの体力を消耗してしまった。

 けれど、それでもやっぱり、彼の隣を並んで歩ける時間そのものは、心の底から楽しかったのだ。

 離れたくない。もっとこのままでいたい。

 楽しくなればなるほど泥沼のように嵌まっていく、『仮の恋人』というシステムの恐ろしさを、私は身を以て実感していた。

**

「おお! おかえり、二人とも!」

「はい、ただいま戻りました。すごく楽しめましたよ」

「ただいま、パパ……。ん〜、車の中涼しい……」

「ははは、暑かっただろう? ほら、後ろに積んである小さい車載冷蔵庫に冷たい飲み物が入ってるから、好きに飲んでいいぞ!」

 売店を後にした俺たちは、予定通り買い出しを済ませ、あらかじめ約束していた場所で雅貴さんと合流した。

 かなりの距離を歩き回ったことや、道中で見知らぬ巨大な虫に優奈が襲われて大パニックを起こしたり、逆に俺はというと、なぜか広場でサッカーをしていた小学生の集団に目をつけられて試合に巻き込まれかけたりと、買い物を終えた後もすんなりとは帰れず、まさに波瀾万丈のピクニックだった。

 さすがに優奈は、精神的にも肉体的にもかなりお疲れの模様だった。

 ちなみに、小学生たちからの熱烈なスポーツの誘いは断りづらいものがあったが、流石にこの猛暑の中で混ざったら命の危険を感じたので、そこは冷静に大人の判断で辞退させてもらった。

「雅貴さん、わざわざ送迎までしていただいて、本当にありがとうございます」

「いやいや、いいともいいとも! 優希くんにはいつも優奈がお世話になってるからね。今日くらいはいくらでも頼ってくれて構わないさ」

 運転席でハンドルを握る雅貴さんも、俺たちの買い物待ちの時間をかなり有意義に満喫していたらしく、道中にその話を聞かせてもらえた。

 近くの温泉コテージに足を伸ばしてサウナに入ったり、見つけた喫茶店になだれ込んでまさかの仕事を数時間連続で片付けたり……。

 大手ベンチャーの社長という肩書きに違わぬ、『休日とは一体なんなのか』とツッコミを入れたくなるようなバイタリティ溢れるエピソードに、俺はただただ圧倒されるばかりだった。

「二人とも、歩き回って疲れただろう。ゆっくり運転して帰るから、後ろで遠慮なく寝てくれて構わないからね」

「そうだね〜……。優希、私、本当に眠たくなっちゃったから先に寝ちゃうかもだけど、気にしないでね……?」

「うん、わかったよ。お疲れ様」

「家に着いたらちゃんと起こすからね。多分、今の時間帯だと下道も高速もそれなりに混みそうだからね。寝ちゃった方がタイムスリップできてお得だと思うよ」

「ありがとうございます。俺は……そうですね、多分このまま起きていると思います」

「そうかそうか。まあ、その辺は好きにしてくれ」

 静かなロードノイズを響かせながら、雅貴さんの運転する車がゆっくりと滑り出す。

 エアコンの心地よい冷気が満ちる車内。隣のシートを見れば、安心しきった顔で早くも意識を手放しかけている優奈の横顔があった。

 窓の外を流れていく夕方の景色を眺めながら、俺は、この後の車内で待ち受けている『時間』の静けさを、じっと肌で感じていた――。

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