【第19話】肩を預けたその先で
車は滑らかに進み、山道を下り切ると、いくつものコンクリートの壁が並ぶ街中の大通りへと繰り出していった。
赤信号で止まっては進み、止まってはまた進みと、お世辞にも空いているとは言えない、夕方の混雑した道。
そんな心地よい微振動の中、隣に座る優奈は気持ちよさそうに小さな寝息を立てながら、不意に俺の肩へともたれかかってきた。
「……ん……っ」
あまりの無防備さと、すぐ耳元で聞こえる吐息の熱さに、心臓が跳ね上がる。
けれど、ここで動揺して身を引き、彼女を起こしてしまうのは違う。俺は自然と肩の力を抜き、彼女の頭を優しく受け止めるように、そっと寄り添い直した。
ふと、信号で車が停止したタイミング。バックミラー越しにチラリと後ろの様子を確認した雅貴さんが、どこか目元を細めて話し始めた。
「いやはや。本当にこの子は、優希くんに対しては警戒心ってものがないね」
その言葉は、いつものように娘をからかっているようでもあり、同時に、心の底から愛おしそうでもあった。
「いえ、雅貴さんの運転技術のおかげですよ。乗り心地がすごくいいので、安心して眠ってしまったんだと思います」
もちろんここで、自慢げに「俺を信頼してくれてるからです」なんて話すのは違う。まずはいつものように、謙遜から入る。
「そうかそうか。お迎え運転手としてそんなお褒めの言葉をいただけるなら鼻が高いもんだね。……でもね、優希くん」
「はい」
「あの子がこうして、君にここまで心を開いてくれているのを見て、お父さんとしては、本当に……本当に嬉しいんだ。彼女はね、中学生時代に経験した『ある出来事』のせいで、ずっと他人に心を閉ざしてしまっていたから」
「ある出来事……ですか」
「ああ。もちろん、この子にとっては触れられたくない傷だと分かっているから、実の父である俺も、いくら君を信頼しているとはいえ、詳しく話すのは控えさせてもらうけどな」
「それは……全然構いません。詮索するつもりはありませんから」
「だがね、こんなふうに、親を除いた他の誰かに、文字通り肩を預けて眠るなんて……あの子が高校生になってから、本当に、ただの一度も見たことがなくてだね」
「……」
「だから、この子の親として、優希くんには感謝しているよ。ずっと隣にいてくれることが、すごくありがたい。きっと、優奈も心から喜んでいるはずだよ」
雅貴さんの静かで重みのある声が、エアコンの効いた車内に響く。
その瞬間。俺の右肩に頭を預けている彼女の身体が、かすかに、本当に微かに震えたような気がした。
寝返りを打っただけかもしれない。けれど、その微かな強張りが、俺にはどうしてもただの寝息のようには思えなかった。
何度も言うように、俺は白雪優奈の具体的な過去を知らない。予想をすることはできても、正確に言い当てることなんてできない。
けれど、目の前でステアリングを握る雅貴さんは、親としてその過去の苦しみをすべて特等席で見届けてきた人だ。その人がこれほど真摯に話すのであれば、どれほど重く、残酷な出来事が彼女の心を縛りつけているのか、想像を絶する。
誰かに信頼を寄せることが、怖くて難しくなってしまった世界。
そんなふうに人間を追い詰める要因なんて、この理不尽な現実にはいくらでも転がっているから。
「雅貴さん」
「ん? なんだい」
前を見据えたまま耳を傾ける父親の背中に向かって、俺は、自分の胸の中に満ちていた『えこひいきな覚悟』を、静かに、けれど明確な言葉にして紡ぎ出した。
「俺は、優奈さんの過去を全て知っているわけではありません。でも……こうして今、俺に肩を預けてくれているその答えが、もし俺への『信頼』の表れなのだとしたら」
息を吸い、隣で震える愛おしい存在をもう一度だけ見つめる。
「俺は、その信頼に、きっちりと命を懸けて答えてあげたいんです。それだけは、絶対に裏切りません」
彼女にとっての、信じること。
優奈が今、テラス席のラムネの前で抱えていた不安の正体は、きっとその辺りにあるのだろう。
けれど、具体的な過去なんて、今の俺にはどうだっていい。彼女が話したくなるその日まで、ただ、この肩にかかる愛おしい重みのすべてを、ひたすら全肯定して受け入れてあげるだけだ。
バックミラー越しに、雅貴さんが小さく目を見開いたのが見えた。
直後、彼は本当に満足そうに、どこか誇らしげに口元を綻ばせる。
「……そうか。うん、頼んだよ、優希くん」
その力強い言葉と同時に、俺の肩にもたれかかる優奈の力が、ほんの少しだけ強くなった。
まるで、俺の言葉を、すべてその小さな耳で聞き届けていたかのように────。
照らされる夕陽を感じながら、大きなファミリーカーは街の喧騒を駆け抜けていく。
結局この後も、俺は眠らずに起きていたが……定期的に雅貴さんが様子を見ては少し話してくれて、単なる移動の時間だと思っても、ずっとずっと快適な時間だった。そして、消えることのない彼女のつける香水が鼻を通るたび、心が浮くような感覚に陥った。
**
「着いたぞ、優奈」
「優奈、着いたから起きよっか」
それからオレンジ色の夕日を追いかけるように車に揺られること、数時間。
下道の混雑を抜け、無事に身に覚えのある見慣れた豪邸の前に、滑り込むように車が停車した。
俺の右肩の上でまだ微睡んでいる彼女の肩を、優しくポンポンと叩いて声をかける。すると、優奈は小さく身じろぎし、眠そうに目を擦りながらゆっくりと瞼を持ち上げた。
「ん……、ふぁ……。もう着いちゃったの……?」
「うん。気がつけばもうすっかり夕日も沈んで、少し涼しくなったね」
窓の外を見遣れば、あれほど俺たちを苦しめた夏の太陽は世界の端へと隠れ、空は綺麗な群青色と茜色のグラデーションに染まっていた。
「うん……。なんだか、もう一日が終わっちゃうんだね」
「ああ。まあ────名残惜しいのは、俺も同じだけどね」
ポツリと溢れた本音を誤魔化すようにシートベルトを外すと、優奈も小さく息を吐いて後部座席のドアを開けた。
「パパも、お迎えありがとう」
「いいともいいとも。お二人とも、本当にお疲れ様。楽しい休日になったようで何よりだよ」
車外へ一歩踏み出すと、アスファルトからはまだ夏特有の熱気が微かに立ち上っていた。けれど、直射日光が消え去った夜の始まりの風は、汗ばんだ肌に驚くほど優しく、快適な涼しさをもたらしてくれていた。
「優希くん」
雅貴さんにお礼を言い、車から少し離れた静かな住宅街の片隅。
優奈が不意に足を止め、俺のシャツの裾をちょこんと指先で摘んで振り返った。
「うん、どうした?」
「今日は本当に……いつもの倍以上、楽しかった。ありがとね」
「そうか。優奈にそう思ってもらえたなら、俺も今日一日頑張って計画を立てた甲斐があったよ」
「ふふ、合格!……あ、それじゃあ、次に会うのはバンドの合同練習の時かな?」
「そうだね、多分。もうすぐ夏休みも終わっちゃうし、お互い新学期の準備もあるから」
「そっかぁ。学校が始まっちゃうと、いくら家事サポートのバイトとはいえ、私の家にお手伝いに行ける時間は、少し減っちゃうかもだよね……」
「まぁ、そうかもしれないね」
「まぁでも、学業は優先だもんね。学生のやるべきことだろうし」
優奈が一歩、俺のパーソナルスペースを容易く踏み越えて詰め寄ってくる。
ふわりと舞い上がった彼女の甘い香りに意識が眩んだ瞬間、耳元に、鼓膜が震えるほどに甘く、密やかな声が滑り込んできた。
「……でも、あなたは私の『仮の恋人』なんだから。サポートのシフトが入ってないオフの時でも、寂しくなったら容赦なく呼び出すけど、いいでしょ?」
悪戯っぽく、けれどどこか縋るような熱を孕んだ声音。
一瞬で心臓を鷲掴みにされたような衝撃に、胸の奥がドクンと激しく脈打つ。
本当の恋人なら、そんな大義名分がなくたっていつだって会えるのに───そんなもどかしい切なさが喉元まで出かかったが、俺はそれをグッと理性で押し殺した。そして、彼女の小悪魔な『命令』に、これ以上ないほど優しい笑みを返す。
「うん。その時は、喜んで駆けつけるよ」
「っ……ふふ。そう言ってくれると思った!」
俺の答えに満足したのか、優奈はパッと弾けるような笑顔を咲かせた。けれど、すぐに思い出したように、少しだけ決まずそうに視線を彷徨わせる。
「……あの、ごめんね? 途中の売店のテラス席でさ、私が色々と難しく考えすぎちゃって……ちょっと空気重くしちゃったでしょ? だから実は、車の中でずっと不安だったの」
寝たふりをしながら、ずっとそんなことを考えていたのか。
本当に、どこまでも愛おしくて、不器用な少女。
「ううん、全然。嫌だなんて思うわけないだろ。むしろ、俺にとっても優奈の気持ちに触れて、色々と大切なことを考える良い機会になったからさ。だから、お互い様だよ」
「……そっか。それなら、よかった……っ」
胸のつかえが取れたように、優奈は心の底から安堵した息を漏らした。
「時間が惜しいけど、そろそろだね」
「ああ、また会う時まで。今日はゆっくり休んでね」
「優希くんこそ。本当にありがと!」
「うん。じゃあね」
「うん! バイバイ!」
名残惜しさを残したまま最後のやり取りを終え、俺はそのまま自分のアパートへの帰路に就いた。
夕闇が迫る街灯の下、お互いを見つめ合う二人の間に、昼間のピクニックとは違う、けれど確かに深まった『何か』が静かに満ちていく。
こうして、俺たちの少し特別な夏のワンシーンは、涼やかな夜風に溶けるようにして、静かに幕を閉じていった。
**
静まり返った自室へと戻り、一息ついた俺は、バッグの奥から『とあるもの』を取り出した。
それは、あの売店で買った「涼風」の「藍玉ラムネ」の、空になったガラス容器。
子供の頃に誰もが一度は試したように、プラスチックのキャップを力任せにひねり、中からコロンと小さなビー玉を取り出す。近くの水道で冷たい水に晒し、結露とべたつきを綺麗に洗い流してから、勉強机の木目の上にカランと落としてみた。
窓の外から聞こえる微かな蝉時雨の中、アクアマリンを彷彿とさせる、透き通った鮮やかな水色のガラス球を見つめる。
ただの安価な玩具のはずなのに、机の電気スタンドの光を浴びてきらきらと輝くその球体は、まるで今日のあの眩しい夏の太陽をそのまま閉じ込めたかのように綺麗だった。
ビー玉の奥に吸い込まれていくような錯覚を覚えながら、今日一日の出来事を、静かに脳内で反芻する。
弁当を見せ合って、シェアしあったこと。
吊り橋を渡った先で、イヤホンを通して距離が近づいたこと。
池の上で、二人きりでボートを漕いだこと。
お互いに許可も取らずに、自然と手を握り合って歩いたこと。
シャーベット状に凍るラムネに、お互いの笑顔を乗せて乾杯したこと。
そして────車の後部座席で、俺の肩にかかっていた、あの愛おしくて、少しだけ震えていた確かな重みのこと。
彼女が隠している過去の全容は、未だに霧の向こうだ。
けれど、あのテラス席で優奈が見せた微かな拒絶の恐怖も、車内で雅貴さんが教えてくれた他人に心を閉ざしていたという事実も、すべてが繋がった今、俺の中で一つの明確な答えへと昇華されていく。
俺は、彼女の『仮の恋人』だ。
けれど、そんな名前なんてどうでもいい。
あの子が再び誰かを信じるための場所が、もし俺の隣なのだとしたら、俺はどんな現実からも彼女の手を離さない。歪んだ執着からも、過去の悪意からも、俺のすべてを懸けて白雪優奈を守り抜く。
────この感情は……「愛」……だろうか。
この件については、まだ俺一人の中だけでは言語化しきれない部分もある。
独りよがりの博愛主義を捨てて、一人の女の子をえこひいきするというこの感情に、第三者的な視点からアドバイスが欲しいとも思った。
それこそ、あの冷静な黒川あたりにでも、近いうちに少し話を聴いてもらうのも悪くないだろう。
けれど、胸の奥にあるこの熱い決意だけは、誰に何を言われようが変わらない。
「……優奈、必ずいつか、俺からも答えを出すよ」
ぽつりと、誰に届くでもない言葉を部屋の静寂に落とす。
指先で軽く触れると、水色のビー玉は机の上を小さく転がり、コト、と参考書の端に当たって止まった。
まるで、いつか彼女自身の手でこの『仮』の境界線を踏み越えてくる、その未来の瞬間を静かに待つように。
俺たちの、短くて長かった特別な夏休みが、静かに更けていく────。
この先に訪れる、見知らぬ未来に期待と不安を寄せながら、俺はベットに寄りかかり、そのまま目を閉じた。




