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【第17話】甘酸っぱい隠し味

「あっついな……天気良すぎだろ」

 優希は目を覚まし、カーテンを開ける。

 朝の六時だというのに、日差しはすでに容赦ない。室内は扇風機だけでは耐え難いレベルの熱気に満ちていた。優希は首筋に滲んだ汗を拭い、浴室へと向かってシャワーで眠気を流す。

 今日は、約束していたピクニックデートの日だ。……いや、デートと言うべきか、単なるお出かけと言うべきか。

 優奈と二人きりで遠出をするのは、あの水族館での一日以来となる。

 結局、先日の一件については優奈から謝罪があった。こちらが問い詰めたわけでもないのに、彼女は自ら尾行の事実を認め、殊勝に頭を下げてきたのだ。それだけは、どうにも納得がいっていない。間違いなく、勝手についてきた美春が場を掻き回すような立ち回りをしただけだろうし、そんな状況に追い込んでしまった俺の落ち度だと思っていたからだ。


「よし、ヘアセットもして……。これは美春から貰ったやつだけど、まあ、あいつのことだ。着ていかなかったら後で何を言われるか分かったもんじゃないしな」

 姿見の前で、あまり高価ではないが涼しげで清潔感のある服に袖を通し、アクセサリーとカバンを整える。

 そして今回、初めてセンターパートに挑戦した。美春に借りたヘアアイロンを使い、ここ数日密かに練習を重ねてきた成果だ。鏡の中には、我ながら満足のいく綺麗な毛流れが出来上がっている。

 仕上げのヘアスプレーは、固定力が強く、かつ香水の邪魔をしない無香料に近いものをチョイスした。

 そういえば、最近の美春はやけにファッションへの関心が強い。将来は美容系の仕事に就きたいなどと口にしていたが、これだけ熱心なら、たまにはあいつの審美眼を頼ってみるのも悪くない収穫があるものだと、今更ながらに実感していた。


「さて、弁当作るとするか」

 待ち合わせの時間までに、弁当を作り上げることにする。

 母、奈津子はすでに起きていたが、俺が「悪い、少しキッチン使わせて」と言うと、「いいわよ」とだけ声を掛けてすぐに場所を譲ってくれた。


「あら、今日は少し大きい弁当箱なのね」

「ん? ああ、ちょっとピクニックの誘いをもらってね。二人で食べるし、ちょっと多めに作ろうかなって」

「いいわねえ。熱中症だけ気をつけなさいよ? 最近猛暑が続いてるんだし」

「わかってる。それに保存関連も弁えてるから」

「流石〜」

 母の軽い言葉を受け流し、颯爽と準備を始めることにした。

 母からの教えで日々作り続けてきた、俺の十八番。白雪家での家事サポートの際にもお披露目した、煮込みハンバーグ。牛と豚の挽き肉に、飴色になるまで炒めて甘みを最大限に引き出した玉ねぎを加え、赤ワインを贅沢に使った特製デミグラスソースでじっくりと煮込んでいく。肉汁を逃さずしっとりとした食感をキープさせる工夫も忘れない。これは文句なし、自慢の逸品だ。


 さらに、卵焼きといった定番料理はもちろん、夏野菜は彩りと保存性を重視し、冷製コンソメゼリーで固めてテリーヌ風に仕上げた。ナスやパプリカ、ズッキーニは少量の油で焼き色をつけ、冷やした白出汁に漬け込んで「揚げない揚げ浸し」にする。どれも、冷たく冷えた状態でこそ味が完成するように計算し尽くしている。

 しかし、母も見て見ぬ振りはしない。奈津子の料理への探究心は、息子である俺の比ではないのだ。

「暑いから、蜂蜜レモンピールでも入れてきなさい」

「これか。いいの?」

「いいのよ。自家製よ? お母さんの技術全てつめたものなんだから!」

「……ありがたい。助かるよ」

 奈津子が差し出したのは、国産レモンの皮を何度も茹でこぼして苦味を抜き、数種類の蜂蜜で数日間じっくりと漬けた、至高のレモンピールだった。これが入るだけで、弁当全体の格が跳ね上がる。


さらに、俺は最後の仕上げとして、保冷と主食を兼ねた一品を追加することにした。

「……よし、仕上げはこれだな」

 冷凍庫から取り出したのは、昨夜のうちに仕込んでおいた、極小サイズに丸めた「冷製出汁パスタ」のジュレ玉だ。茹で上げたカッペリーニを一口サイズにまとめ、その上に大葉と梅肉のジュレを乗せて凍らせてある。これが弁当箱の中でゆっくりと解けることで、保冷剤の役割を果たしつつ、食べる頃にはひんやりと冷たい、酸味の効いた冷製パスタとして完成する仕組みだ。

 隣で見ていた奈津子が、感心したように目を細めた。

「保冷剤代わりのフローズンパスタなんて、あんたも大概ね」

「あの人は……その、暑さに弱そうだからな。これくらいやっておかないと」

 手際よく重箱に詰め終えると、そこにはスーパーの特売品で作ったとは思えない、技術と愛情が結晶化した芸術品のような光景が広がっていた。


 高級食材は一つもない。

 けれど、奈津子直伝のレモンピールと、俺の計算し尽くした温度管理、そして優奈に「最高」と言わせるための情熱。

 これら全てが詰まったこの重箱は、間違いなく今日という日の命運を握る「最強の武器」になるはずだ。

 今回の弁当は、普段持っていくような手作り弁当の枠を五回りくらい超えた最強のカスタムにしたつもりだった。

 時計を見れば、予定よりも少し早い。

「それじゃ、行ってくる」

「楽しんできなさい。……お母さんのレモンピール、食べさせる時にちゃんと自慢するのよ?」

「わかってるって。お母さんの味に関してはマジで誰にも敵わん」

「お母さんもレモンピール味見してないから、味の感想教えてよ?」

「いや味見してないんかい」

 背後で笑う母を後に、俺は保冷バッグを手に取り、決戦の地へと向かうことにした。

 とはいえ、母の「味見していない」は、勉強ができるやつの「全然勉強してない」くらい信用ならない言葉なので、心配は無用だった。

 彼女は計量カップも味見も必要としない。長年の経験から導き出される絶対的な調合。その精度が狂うことなど、万に一つもあり得ないのだ。


 玄関を出ると、熱せられたアスファルトの匂いが鼻を突く。保冷バッグの中で、自分の努力と技術の弁当が静かに出番を待っている。

 優奈は一体、どんな顔をして俺を迎えてくれるのだろうか。そして、俺はこの重箱を開ける時、彼女にどんな顔を向ければいいのだろうか。

 セミの鳴き声が降り注ぐ中、俺は一歩一歩、待ち合わせ場所へと歩みを進めた。

 

 **


「んぅ……! はぁ……起きれた……」

 私、白雪優奈は目をさます。

 あの出来事があって以来、正直優希くんと話すたびに、あの光景が脳裏に浮かび上がってしまう。

 結局、事の顛末をひよりに話したら、彼女は一瞬フリーズした後「妹だったんかーーーーい!!!!!」と盛大なツッコミを一蹴してきた。けれど、ひよりだって本気で浮気を疑っていたみたいで、最後には安堵の溜息を漏らしていたけれど。

「でも、恥は一瞬、後悔は一生。だから平気」

 この言葉を呪文のように唱えてきたからこそ、今の私はなんとかなっている節がある。

 実際、今日は待ちに待ったピクニックデートなのだ。優希くんと二人きりになれる、特別な日。前の遊園地デートでは、想定外に悠真がついて来ちゃったせいで、結局はあの子の面倒を見ながらの巡回になってしまった。けれど今回は、悠真もしっかり封じ込めてある。


「よし、弁当作ろう!」

 前々から、優希くんに驚いて欲しかったこと。それは、私の手料理についてだ。

 普段は料理なんてほとんどしないし、お母さんが作ってくれたものに甘えてばかりだったけれど……優希くんと一緒に過ごす中で、彼からはたくさんの知識を分けてもらった。

 調味料の選び方、料理に対する心構え、素材の活かし方。

 だから、これを機に自分の力で挑戦してみたくなった。あれからというもの、優希くんがいない間に密かに買い出しを済ませ、今朝もこうして早くからキッチンに立っている。


 不器用だし、決して料理が得意なわけじゃないけれど、優希くんに私の「好き」が詰まった味を届けてみたくて。

「こうして……せーのっ!……あ! ちょっと崩れちゃった……」

 静かなキッチンで、一人失敗を重ねながら料理と格闘する。タコさんウインナーだって、ちゃんと包丁を使って足を作った。卵焼きも、二個ほどは形にならずに終わって、ようやく三回目で納得のいく「黄色」にたどり着いた。


「……っ! いったぁ……! 嘘……ちょっと切っちゃった……!」

 もちろん、全てが上手くいくはずもなくて。包丁だって、彼が使っているのを見ている分には簡単そうに見えたのに、いざ自分が握ってみればそんなことはない。不注意で、指先を少しだけ切ってしまった。

 けれど、ここで凹んでいる時間はない。即座に絆創膏を貼り、慎重に作業を再開する。

 指先の痛みなんて、完成したお弁当を見た優希くんの顔を想像すれば、ちっぽけなものに思えた。


 私は、ボウルに入った鶏肉を見つめた。

「……えっと、優希くん、なんて言ってたっけ。お肉を柔らかくするには……」

 脳内のノートを必死にめくる。そうだ、たしか『ブライン液』。水に対して数パーセントの塩と砂糖を入れるだけで、魔法みたいにジューシーになるんだって、彼がドヤ顔で教えてくれたっけ。

 目分量でやりたい気持ちを抑え、計量スプーンで慎重に測る。彼は「別に適当で大丈夫」なーんて言うけど、しっかりと測る。失敗したくないから。普段の私なら絶対にやらない面倒な作業。でも、今日は「適当」で済ませたくない。


「よし……次は、ひよりが言ってた『彩り』!」

 茶色一色になりがちな重箱に、プチトマトやレタスを差し込む。ただ入れるだけじゃ芸がないから、ヘタを取って代わりにピックを刺してみた。それだけで、なんだか急にお弁当らしく見えてくるから不思議だ。


 そして、最後にして最大の難関。味見だ。

 菜箸で、少しだけ崩れてしまった卵焼きの端っこを口に運ぶ。

「……ん。甘い、かな。あ、でも、あとから出汁の味が……あうっ!?」

 味を確認しようと口を動かした瞬間、また指の傷が調理器具に触れて小さな悲鳴を上げる。

 一人はしゃいで、一人で痛がって、一人で赤面する。

 もし今の私を優希くんが見たら、きっと呆れたように、でも優しく笑って「無理しすぎだろ」って言うんだろうな。

 想像しただけで、顔から火が出そうになる。

 

「……よし。完成!」

 色とりどりの具材が詰まった重箱に、お母さんの真似をしてワックスペーパーを敷き、蓋を閉める。結局2時間近く作るのに苦戦していた。

 不格好なタコさんも、少し焦げた卵焼きも、今の私の全力だ。

 あとは、これを崩さないように持っていくだけ。

 私はキッチンを片付けるのももどかしく、二階の自室へと駆け上がった。

 次は、自分自身の『盛り付け』。

 鏡に映る自分に向かって、思いっきり頬を叩いて気合を入れる。

「……よし、世界一可愛い私で行ってやるんだから!」


 ファンデーションはやりすぎず、素肌の透明感を活かす自然な色味に。アイシャドウは丁寧に、優希くんと目が合った瞬間にドキッとさせるような絶妙なグラデーションを。髪の毛もアイロンを使い、時間をかけて綺麗なカールを作って、夏の風に揺れるふわふわ感を演出した。

 服装は前に選んだ、涼しさと清楚さ、それから…………。

「────少し誘惑的な……服を//」

 鏡の前で自分で言っておいて、あまりの恥ずかしさに顔が火照った。

 そう、今回の挑戦の一つでもある、いわゆる少しだけ肌の露出を加えたコーディネート。自室で着る分には最高に涼しくて快適だけれど、デートという舞台でこれを選ぶのは初めてだ。

 優希くんに、ほんの少しでいいから私のことを「女の子」として……家事サポートのパートナーではなく、一人の異性として意識して欲しかった。

 もしひよりがこの姿を見たら、間違いなく「うわー、出た! 恋する乙女全開じゃん!」なんて煽ってくるんだろう。けれど、それが否定できない事実であることも、今の私は自覚してしまっていた。

 「よし、これで最後」

 ドレッサーの奥から取り出したのは、この日のためにひよりと一緒に吟味して購入した、とっておきの香水──『ミス・リアーヌ』のブルーミング・ティアラ。

 ひより曰く、「清楚系の皮を被った、全男子対応型の狙撃用フレグランス」らしい。香水は普段は周りの目を気にしてつけないけど、今回は本気で選んだ。

 『リアーヌ(Rior)』の香水といえば、世の男性が「女の子」を最も本能的に意識してしまう香りとして、不動の地位を築いているんだとか。


 シュッと一吹きすれば、摘みたてのピオニーと瑞々しい果実の華やかな香りが広がり、後からホワイトムスクの甘さがしっとりと、けれど抗いがたい引力を持って追いかけてくる。

 本来なら手首や耳の後ろにつけるのが一般的だけれど、私はあえて、スカートの裾と……それから、髪の毛の内側に忍ばせた。

 こうしておけば、ピクニックのシートで横に座った時や、風が吹いた瞬間。あるいは「どうしても」距離が近づいてしまったその刹那、彼を包み込むようにふんわりと、逃げ場のない甘さで香るはず。

 すれ違った瞬間に「あ、いい匂い」と思わせるんじゃない。

 隣にいる間中、「……この子のそばから、離れたくない」と脳を麻痺させるための、徹底的な残香戦術。

 自分でも「あざといかな?」なんて次元はとうに通り越している自覚はあるけれど、今日ばかりは「あざとい」は勝つための褒め言葉だと言い聞かせる。

 料理で胃袋を掴み、服で目を奪い、香りで理性を焼き切る。

 完全に「堕としにいく」布陣を整え終えた私は、最後に一度だけ鏡の自分に、少しだけ自信を込めて微笑んでみせた。

 

「……よし、完璧。いってきます」

 保冷バッグと期待を両手に抱え、私は一階で待つお父さんの車へと駆け下りた。


**


「よし、到着」

 俺はようやく約束の時刻に、白雪家の前に辿り着いた。

 昨日から用意していた弁当の入った保冷バッグと、必要最小限の荷物を詰めたリュック。それらを抱えてインターホンを押す間もなく、玄関の扉が勢いよく開いた。

 真っ先に出迎えてくれたのは、もちろん優奈だった。


「おはよ! 優……あれ、髪型変わってる……!」

「あぁ、センターパートに初挑戦してみたんだ。似合ってるかな……?」

「えっ……めっちゃ似合ってるよ! その……すごく……か、かっこいい……」

「てか……優奈も、すごくその服似合ってるよ」

「……ほ、ほんとに!?どうかな……?その……かわいい……?」

「あ、あぁ……すっごく」

 目の前の優奈は、俺の貧弱な想像力を数周先回りで破壊するほどに、眩しかった。

 涼しげな素材の、けれどどこか危ういラインを描いた服装。普段の清楚なイメージを残しつつも、夏の日差しに晒された肌が、否応なしに「彼女は女の子なんだ」という現実を突きつけてくる。

 学園内で一番の美少女。そんな使い古された肩書きが、今さらになって暴力的なまでの説得力を持って俺の理性を殴りつけてきた。

 正直、今の彼女を前にして、平然と目を合わせたままずっと話し続けろと言われるのは、素手で猛獣を鎮めろと言われるより至難の業だ。


「……じゃあ、行こうか。もう車で待ってるんだろ?」

 俺は、熱を帯びそうになる思考を無理やり冷却し、なんとかそれらしい言葉を絞り出す。

 危なかった。一歩間違えれば、開いた口が塞がらないまま固まるという、無様な姿を晒すところだった。

 だが、俺のそんな必死の抵抗を知ってか知らずか、優奈は「うんっ!」と満面の笑みを浮かべて俺の隣に並ぶ。

 ……近い。

 並んで歩き出しただけで、彼女の肩が、腕が、かすかに触れそうになる距離。

 意識しないようにすればするほど、視界の端に映る彼女の横顔や、露わになった鎖骨のラインが、網膜に焼き付いて離れない。

 センターパートの練習だ、服のチョイスだと、自分なりに万全の準備をしてきたつもりだった。けれど、いざ本物を目の当たりにしてみれば、俺の張った防波堤なんて、彼女のたった一言の「かわいい?」で容易く決壊してしまいそうだった。

(……落ち着け。浮ついてる場合じゃないだろ)

 内心で自分に厳しく言い聞かせるが、心臓の鼓動はすでに俺の制御下を離れ、夏の蝉の声に負けないほどの騒がしさで、胸の内側を叩き続けていた。


「おーい! 二人とも! 揃ったか!」

 快活な声が響き、白雪家のガレージのシャッターがゆっくりと、重厚な音を立てて上がっていく。

「あ、雅貴さん。ごめんなさい! わざわざ車まで出していただいて……ってかそのエンブレムって……」

「いいともいいとも! 優希くんにはいつもお世話になってるからな。こんなに暑い日に歩きで行くなんて大変だろう? 梨花は今日は出張だしな」

「パパ……相変わらずテンションが」

 ガレージの奥から姿を現したのは、眩いほどの白を纏った巨大なファミリーカーだった。

 正面に鎮座する『TOYODA』のエンブレムには馴染みがあるが、そのサイズ感といい、醸し出す風格といい、一般人が容易く手を出せるグレードではないことくらい、疎い俺にだって察しがついた。


「すごい大きな車だね……何人乗りなんだろう」

「でしょ? これはママの車なの。本当はパパがふざけて、目立ちすぎる高級車で行こうとするから全力で止めたんだよね……」

「え、そうなの……?」

「うん……こう見えてもパパ、結構な車マニアだからさ」

 優奈が呆れたように指差す車庫の奥には、もう一台、見るからに重厚な四ドアのセダン──おそらく、現実でいうところの『ロリス・ロイス』のような車が控えている。さらにその奥にはカバーがかけられているが、明らかに地を這うような車高の低さを隠しきれていない「猛獣」が眠っているのが見えた。

 シルエットだけで車種を言い当てるほどの知識はないが、やはり世界的企業の社長を父に持つ家のガレージは、そこにある物だけで住む世界の格の違いを無言で突きつけてくる。


「さぁさぁ、乗ってくれ! 後ろにはモニターもあるから二人で座るといいぞ」

「はい、ありがとうございます。失礼します」

 促されるまま乗り込むと、まずは足元の広さと座席の重厚な作りに圧倒された。

 俺の家は父母揃って軽自動車ということもあって、あのコンパクトな空間に慣れきっていた身からすれば、この広さはもはや化け物レベルだ。

 座席も、単なる「車の椅子」という概念を超えている。まるで新幹線のグランクラスを彷彿とさせるような、包み込まれるようなふかふか具合。肘置きも贅沢な幅が確保され、キンキンに冷房が効いた室内は、外の猛暑が嘘のような静寂と快適さに満ちていた。


「あ、このボタンでリクライニングできるよ」

「これか?……おっと……え、レッグレストまで動くのか」

「すごいでしょ? これ、お母さんが車買う時に、一番グレードの高い新型にしたから、すっごく快適なんだよ」

 優奈が隣のシートに腰を下ろす。

 驚くほど広い車内。けれど、スライドドアが閉まった瞬間の密閉された空間は、外で会った時よりも彼女の存在を何倍も近くに感じさせた。

 ふとした瞬間、冷房の風に乗って、彼女の髪から「あの香り」がふわりと鼻腔を掠めた。

 

 (……っ、この匂い)

 清楚な装いとは裏腹に、脳の芯を痺れさせるような、計算され尽くした「甘い毒」を突きつけられた気がした。

 香水だろうか。それとも車内の芳香剤か。だが、この絶妙な距離感で漂うやりすぎない甘さは、隣でリラックスしている彼女自身から放たれているのだと、本能が告げている。

 お互いにリクライニングを倒し、贅沢な静寂に身を任せていると、ステアリングを握る雅貴さんが滑らかに車を発進させた。


 エルファードは市街地を抜け、少しずつ街の外れにある山道へと入り始める。

 車マニアだと優奈は評していたが、雅貴さんの運転はかなりの腕前で、加減速の不快感一つ感じさせない。あのガレージに眠っていた地を這うような猛獣たちの姿から、勝手に「走り屋」のような荒い運転を想像して心配もしていたが、どうやらそれは杞憂だったようだ。


 今回向かうのは、川のせせらぎと大きな池を擁する山頂の公園。

 前回の遊園地デートをプロデュースしてくれた優奈への意返しとして、今回は俺が提案させてもらった場所だ。手入れの行き届いた芝生や季節の花々だけでなく、川のマイナスイオンを浴び、時にはボートに揺られる。スマホの画面ばかり見ている現代人にとって、これ以上のデトックスはないだろう。

 幼い頃、親に連れられて感動したあの景色を、今の俺の隣にいる彼女にも見せたかった。


「さあ、着いたぞ。お疲れ様」

 体感にして四十分ほどだっただろうか。

 隣の優奈と時折目が合って気恥ずかしくなったり、雅貴さんが振ってくれる話題で会話が弾んだり。そんな時間を過ごしているうちに、目的地にはあっけないほどすぐに到着した。


「ありがとうございました。……っしょっと。……うわ、暑いな」

「ありがと、パパ。……っ、日差しがすごいね」

 重厚なスライドドアが開いた瞬間、想像を超えた熱気に包まれる。

 だが、肌を焼くような直射日光とは対照的に、山の隙間を縫って吹き抜ける風は驚くほど涼やかだった。


「思いっきり楽しんでおいで! お父さんは近くの温泉施設のラウンジで待ってるから、終わったら呼んでくれればいい」

「はい! 本当にありがとうございます!」

「いやいや! いいとも。お父さんだって、休みの日くらい羽根を伸ばしたいからね。二人が楽しんでる間、私も私で楽しませてもらうよ!」

 雅貴さんはそう言って、どこから取り出したのか一枚のバスタオルを勇ましく掲げた。

「パパ……最初から温泉入る気満々じゃん」

「何を言うんだ優奈。お父さんだって、連日の残業で心身ともにクタクタなんだよ。たまには命の洗濯も大事だろう?」

「全く……。パパも楽しんできてね」

「もちろんだとも! 忘れ物はないな?」

「はい、大丈夫です!」

「よし、それじゃあ行くとするよ。……じゃあな、二人とも。良い時間を!」

 軽快なエンジン音を残し、白い巨体は山道の先へと消えていった。

 残されたのは、抜けるような青空と、目の前に広がる圧倒的な緑。

 そして──最高に可愛い格好をした、俺の「彼女(仮)」だ。


 二人きりになり、数秒の間、高原を吹き抜ける風だけを無言で感じていた。

「へぇ……こんな場所だったんだね」

「────ああ。この先に、さらに開けた芝生があるんだ」

「優希くんが決めてくれた場所だもんね。すっごく楽しみだったんだよ」

「前回、遊園地での……あのデートを、色々プロデュースしてもらった恩返しみたいなものだから」

「で、デート……か// 今回も、仮の恋人とはいえ……デート、だねっ」

 少し頬を赤くしながら、はにかむように話す優奈は、夏の強い日差しよりも眩しく、そして愛らしかった。

「よし、行こっか」

 俺がそう促すと、彼女は当たり前のように俺の手を握ってきた。

 不意を突かれた俺が少しだけ躊躇うと、彼女は「恋人らしいでしょ?」と言わんばかりの上目遣いでこちらを覗き込んでくる。その瞳には、自分の仕掛けた小さな攻勢への期待と、ほんの少しの照れが混ざり合っていた。


 並んで足を運び、木々のアーチを抜けた先。今回のメインスポットが姿を現した。

 大きく開けた芝生の向こうには、鏡のような水面を湛えた大きな池。太陽光が細かく反射し、まるで水面で無数のダイヤモンドが躍っているような、幻想的な光景が広がっていた。


「うわぁ……! すっごく綺麗……!」

 その光景を目の当たりにした彼女は、子供のように目をキラキラさせて歓声を上げた。

 その一言を聞けただけで、この場所を提案した甲斐があったというものだ。昔、親に連れてきてもらった時と比べ、洒落たテラス付きのカフェや、新設されたボート乗り場などが増えてはいたが、根幹にある自然の美しさは、今も変わらずそこに息づいていた。

「まずは、場所取りだけしよっか。せっかくだし、木陰の涼しい場所がいい」

「うんっ! 時間的にも、まずはお弁当を食べるところからだね!」

「ああ。……って、優奈もお弁当を持ってきたのか?」

「ふふっ……まぁね! あとで中身、見せ合おうよ」

「作ってくれたのか。……嬉しいな。楽しみにしてるよ」

 俺たちは、樹齢百年を優に超えそうな大樹が落とす、深い緑の影を選んだ。

 すぐ側には小さな滝があり、落ちる水の音が心地よいマイナスイオンを運んでくる。

 優奈は嬉しそうに何度も頷くと、重箱を大事そうに傍らへ置き、持ってきたレジャーシートを慣れた手つきで芝生の上に広げた。

 シートの上に腰を下ろすと、先ほどまでの「手繋ぎ」の熱が、まだ掌に残っているような気がした。

 そして、それ以上に気になるのは──隣で少し得意げに微笑む彼女が抱えた、その重箱の中身。

 期待に満ちたその数分が、ずっと長く感じた。


**


「よし、じゃあ早速……」

「せっかくだし、せーので開けよ!」

「お、いいねそれ。じゃあ、保冷剤を外して……準備はいいか? いくよ」

「「────せーの!」」


 二人で声を揃え、普段の弁当箱より一回り大きい重箱を二つ、同時に開いた。

 俺の重箱から顔を出したのは、彩り豊かな野菜を添えた自家製冷製カッペリーニに、断面が宝石のように美しいテリーヌ。

 一方、優奈の重箱には──誰もが知っている定番メニューが並んでいた。愛らしく切り込まれたタコさんウインナー、シャキシャキとした瑞々しいサラダ。そして、不器用ながらも一生懸命に形を整えたであろう、ハート型の卵焼き。

 そこには、彼女の優しさと「家庭的」な温かさが、これでもかと詰め込まれていた。


「おお……! 何これ、美味しそう! これ、パスタ……? あ、待って! えっと、カッペリーニ! そうでしょ!」

「おお、よくわかったね。正解だよ」

「えへへ……だって優希くんって『カッペリーニの人』じゃん」

「カッペリーニの人って……。それだけ聞くと、ただのパスタ変質者みたいじゃないか」

「あはは! 冗談だってば。でも、前に私の家で作ってくれた時、冷たいパスタにはこの細い麺がいいんだよって教えてくれたでしょ? あの日から、私の中で優希くんは『おしゃれな料理色々作れる凄すぎる男子』っていうイメージが定着してるんだもん」

 優奈はそう言って、悪戯っぽく笑いながら俺の顔を覗き込んできた。もちろん「そんなことはない」と謙遜で返す。

 あんなに心を閉ざし、俺を警戒していたはずの彼女が、今ではこんな風に軽口を叩き、無邪気に笑っている。

 その変化がたまらなく嬉しくて、俺は少しだけ照れくささを隠すように、彼女の重箱に視線を戻した。


「優奈の弁当も、すごく美味しそうだよ。この卵焼き、ハート型にするの、結構大変だったろ」

「あ……気づいてくれた? ちょっと形崩れちゃったかなって心配だったんだけど……」

「いや、完璧だよ。…これ、普段料理してないとなかなか難しいんだよ」

 木漏れ日の下、お互いの力作を並べて見つめ合う。

 優奈が指先の絆創膏を隠すように、恥ずかしそうに手を引っ込めるのを、俺は見逃さなかった。

 彼女がこのお弁当に込めた想いの重さを、俺は今、言葉よりも確かな温度として感じていた。


「ねぇ、せっかくだしさ。お互いのお弁当、シェアもしよ!」

「……いいね。というか……俺もその、シェアを想定したサイズにしちゃったしな」

「ん〜? シェア想定……。それって、私に食べさせてくれる前提……って感じ?」

 少し恥じらいを含んだ声で、悪戯っぽく聞いてくる優奈。

「ま、まぁね」

 自分でも驚くほど突拍子もない、けれど正直な返事をしてしまった。

 確かに言われてみれば、最初から優奈に「美味しい」と言ってもらいたい一心だった。普通、弁当におけるシェアはあくまでおまけになりがちだが、俺の重箱は明らかに彼女の分をメインに据えた構成になっていたから。


「じゃあ、私のお弁当から好きなの取っていいよ」

「じゃあ俺も。……この唐揚げをもらおうかな」

「わかった、はい! じゃあ……私はこのカッペリーニもらうね!」

「うん、いいよ」

「じゃあ、食べよっか?」

 「いただきます!」と二人で声を揃えて食前の挨拶を交わし、早速、一口。

 優奈の弁当からもらった唐揚げは、揚げ具合が絶妙だった。運ぶ途中の保冷の関係で冷めているはずなのに、噛んだ瞬間に閉じ込められていた肉汁が口の中でじゅわっと溢れ出す。

 本来、弁当の唐揚げは素人が作るとくどくなったり、パサつきが出たりと意外に難しいものだ。それがこれほどしっかり完成されていることに、俺は素直に感心していた。

「んんっ! 冷たくてさっぱりしてて美味しい……!」

 優奈の方も、一口サイズのカッペリーニを頬張って、驚いたように目を丸くしていた。

「このカッペリーニ、すっごく美味しいよ! その……思ってた数倍ひんやりしてて、火照った体にはこれ! って感じがする」

「酸味を多めにしてる分、口に合うか少し心配だったけど」

「ううん! 梅とか大葉とか大好きだよ。ミートソースとか王道のパスタもいいけど、夏だとちょっとくどいじゃん? だから、こういうさっぱりした味、本当に好きなの!」

「そうか……なら良かった。これ、朝に詰める時はソースを凍らせた状態だったんだ。夏の暑さで運ぶ間にいい感じに溶けてくれるし、それ自体が保冷剤の代わりにもなるからね」

 冷凍したソースをジュレ状にして麺に絡ませるという発想は、普通ならなかなか思い当たらないだろう。そんな、少しマニアックなこだわりを話しても、目の前の彼女は嫌な顔一つせず、「へぇ……!」と感心した様子で楽しそうに聞いてくれる。

 自分のこだわりを誰かに受け入れてもらえることが、これほどまでに救われるものだとは、彼女と出会うまで知らなかった。


「……でも確かに、溶ける前提で作るってすごいね。こっちは……ゼリー?」

「これは夏野菜をコンソメのゼリーで固めた、テリーヌだよ」

「テリーヌ……聞いたことあるかも! すごい、宝石みたいで可愛い……!」

「ただ盛り付けるのもいいけど、今回は少し、彩りにこだわってみたんだ」

 優奈はしばらくの間、宝石箱でも眺めるようなうっとりとした視線をテリーヌに注いでいた。

 その横顔を見ていると、ふと、彼女の細い指先に巻かれた絆創膏が再び目に入る。

 俺の凝った料理に対して、彼女が作ってくれたのは、タコさんウインナーやハートの卵焼きといった、直球の「家庭の味」だ。

 けれど、今の俺には、その一つ一つに込められた彼女の一生懸命さが、どんな高級料理よりも眩しく、価値のあるものに思えてならなかった。


**


すごい……優希くんの料理のレベル、やっぱり高すぎるよ……。

 それに引き換え、私のお弁当はどこにでもあるようなありきたりなメニューばかり。なのに優希くんは、私が作ったおかずを一つ一つ、本当に嬉しそうに、たくさん褒めてくれる。

 そんなことされちゃうと、勝手に口角が上がっちゃうじゃん。もう、隠せないよ……。

 料理に関してはプロ並みの彼だから、もっと躊躇いなく「ここはこうした方がいい」とか、厳しい指摘をされると思って身構えていたのに。私に返ってくる言葉のすべてが、優しくて温かい褒め言葉ばかりだった。

「この卵焼き……甘さもやりすぎていない感じで、すごく美味しい。繊細な味だね。これ、目分量じゃ絶対にできないはずだし、ちゃんと測って作ってくれたよね?」

「う、うん……! きっちり測ったけど……そこまでわかるの?」

「なんとなくね。ほら、俺はズボラだから結果的に目分量になっちゃうし、それだと味のムラが出たり、少し濃くなったりして確実じゃないから。優奈の几帳面さがよく出てるよ」

 彼の一言一言が、私にとっては心地よすぎるご褒美で……。ジリジリと肌を焼く夏の暑さなんて、もうどうでもよくなるくらい、胸の奥がぽかぽかと満たされていく。

「優希くんのつくるハンバーグ……やっぱり美味しすぎるよ……」

「あはは、そう言ってもらえると嬉しいな。俺の得意料理の一つだからね」

「また私の家遊びに来た時に、冷凍でストックしておいてよっ」

「うん。優奈がそう言ってくれるなら、喜んでいくらでも作るよ」

 躊躇いなんて微塵もなく、嬉しそうに即レスしてくれる優希くん。

 その優しさは、本当に夏の太陽以上に温かくて、居心地がよかった。

「優希くんにたくさん美味しいものを料理してもらったから、私も学んでみたいなって思って、今回お弁当を頑張ってみたの」

「……そうだったんだね。俺としては、あの料理のすべては優奈を含めた家族全員へのおもてなしのつもりだったから。それをきっかけに、料理を学ぶ動機にしてくれてるなんて、すごく嬉しいな」

「えへへ……そうかな」

「うん。だって、自炊なんて面倒なのは事実だからさ。今の時代、少し歩けば美味しいお店なんてたくさんあるしね」

 ──ううん、違うの。私にとっては、どんなに高い料理の名店よりも、優希くんの作る料理の方がずっと特別で、価値があるように見えちゃうんだよ。

 彼のスキルと言い、彩りの作り方と言い、本当に勉強のしがいがあるなって心から思える。

 それにしても、並んでいるおかずが全部オシャレすぎる。まるで高級レストランのメニューみたいなものばかり。

 本人は「高級な食材は使っていない」なんて言うけれど、料理について「少しでも勝てる部分があるかな」なんて思った私の甘い幻想を、跡形もなく粉砕していくかのようなレベルだ。

 

(……って、もし優希くんと付き合って……この先も一緒にいれば、あの料理がずっと毎日楽しめる……ってことだよね!?)

 頭の中に浮かんだ未来の光景に、一気に顔が熱くなる。

 いやいや、それじゃあ全部任せっきりな嫌な女みたいじゃん! 私だってちゃんと料理は勉強したいし!

 頭の中で必死に言い訳を並べ立てるけれど、そんな甘い未来を想像して、緩みそうになる口元を止めることがどうしてもできなかった。

「あ、そうだ。デザートにこれも」

「……? なにこれ?」

「自家製のはちみつレモンピール。レモンの皮を使った、おやつみたいな感じだよ。俺のお母さんの手作りなんだ」

 優希くんがバッグの保冷ポケットから取り出したのは、小さな透明の小瓶。中には、ツヤツヤと輝くレモンの皮が入っていた。

 レモンピール……初めて聞いたかも。

 彼のお話によれば、これもお母さんの技術の結晶なんだとか。……あの優希くんに、これほどの料理スキルを叩き込んだお母さん。ってことは、相当な手間暇と仕込みがされているはず。

「後で食べてみてほしいな。お母さんが、優奈さんの感想を聞きたいって言ってたんだ」

「ほんと? 嬉しい、ありがと……じゃあ、後でいただくね」

 レモンの皮って、どうしても苦いイメージが強い。

 だけど、これを蜂蜜に漬けて、こんなお洒落なおやつにしちゃうなんて。やっぱり、優希くんの家庭って……本当にすごいな……そんな事ばかり思っていた。

 朝に一人で料理に無謀にも挑戦して、包丁を使いこなせずに指を切ってしまったことなんて、もうどうでもいいくらいだった。


「そういえば……もう夏休み、終わっちゃうよね」

「確かに。あと一週間と少しくらいかな」

「夏休みが明けたら、本格的にバンド練、再開しないと」

「そうだね。ここ最近、神谷部長や桐島さんのことも含めて、みんなで練習する機会が減っていたもんな」

「そ、それでね……私、次の文化祭に向けて、オリ曲を作ろうかなって思ってるの」

 ……私は、小さくそう呟いた。

 口にしてから、自分でも少し見切り発車だったかな、と胸がドキリと跳ねる。

「オリジナルってことか?」

「そう! 私が歌詞やメロディを考えて、ベースの楽譜も作るの。……あ、一応サンプルの音源は作ってみるつもりだけど、歌詞はまだ、その、考え途中かな」

このオリジナル曲の計画については、まだ神谷先輩にも、琴音にも話していない。今、この木漏れ日の中で、優希くんにだけ初めて打ち明けた。

 というのも……既存の曲を練習してコピーするのも楽しいけれど、私の『本当の思い』を乗せた曲を、誰よりも優希くんに届けたい──その気持ちが、どうしても抑えきれなくなってしまったからだ。

 実を言うと私、インターナショナルスクールの軽音部にいた頃、オリジナル曲を何曲か書いて発表したことがある。DTMの編集ソフトの使い方なんかも含めて、曲作りのノウハウは一通り知っているのだ。

 

 今回の曲でテーマにしたいのは、一つだけ。

 他人の言葉を何一つ信じられなかった私が、優希くんと出会って、彼に救われて、こんな風に変われたんだという、その胸の痛いほどの愛おしさを──たとえ遠回しな歌詞であっても、確かな形にして彼に伝えたかった。

「せっかくバンドメンバーを組めたんだしさ。優希くんにも、ギターのコード表を作るから、それで練習してもらう感じで……どうかな?」

「いいのか? ゼロから一人で作るのって、なかなか大変だろう?」

「ううん、大丈夫。むしろ、優希くんと出会えたこととか、今までの私の過去とかも、全部ひっくるめて一つの歌にしたくて」

「……そうか。自分の思いを歌に乗せて、みんなの前で発表する。……うん、すごく素敵なことだと思うよ」

 真っ直ぐに俺を見つめて、そう優しく微笑んでくれる優希くん。

 パッと思いついた見切り発車の提案だったけれど、彼のその笑顔を見た瞬間、「絶対に形にしてみせる」という強い決意に変わる。

 曲の具体的なインスピレーションが湧くかどうかは、これからの自分次第。

「だから……練習の頻度が増えるかもしれないけど、よろしくねっていうか……」

「ううん、それは全然構わないよ。むしろ……そうやって、優奈と練習する機会が増えるって思えると、こっちとしてもすごく嬉しい」

「……っ……ほんと……?やだな……ちょっと恥ずかしくなるじゃん……」

 優希くんが発したその言葉が、純粋な彼の気持ちだったら嬉しいけど、彼なりな自然な社交辞令でも別にいいと思えた。

 それだけ、彼と一緒に弁当を食べ合いながら過ごす時間が心地よかった。


「じゃあ、最後に……このレモンピール、もらっていい?」

「うん……是非是非。お母さんも感想を楽しみにしてたから」

 彼が差し出してきた、小さな瓶に詰められた蜂蜜レモンピール。

 これは優希くん本人の手によるものではなく、彼のお母様が手がけたものだという。

 前に優希くんは、小さい頃からお母さんが台所に立って料理している様子をずっと見ながら育った、と言っていた。つまり、私がこれまで胃袋を掴まれてきたあの完璧な料理の数々は、すべてこのお母様から受け継がれた血と努力の結晶ということになる。

 そのすべての教え手が作るものなのだから、ハードルをどれだけ上げておいても、それを軽々と超えてくるんだろうな……というのは、食べる前から容易に察しがついた。

私は瓶の口から慎重に、ツヤツヤと黄金色に輝くレモンピールを一枚、箸で取り出す。

「じゃあ……いただきます!」

「俺ももらうか」

 私と優希くん、二人揃ってレモンピールを口へと運んだ。

 ──するとまもなく、この一切れの皮が、到底ただものではないということが本能で理解できた。

 レモンの皮と聞いて誰もが想像する、あの舌の奥を刺すような嫌な苦味が、文字通り『一切』ないのだ。

「っ……!」

 噛み締めるたびに、上品で角のない蜂蜜の甘みと、奥深い柑橘の爽やかな旨味だけが、緻密に計算された完璧なバランスで口いっぱいに溶け合っていく。

 気がつけば、飲み込んで胃に落としてしまうのがどこか惜しいとすら思えるくらいに、私はその贅沢な余韻にどっぷりと浸っていた。

「うーわ……うんま」

 隣から聞こえてきたのは、いつもの冷静で大人びた彼からは想像もつかないような、完全に素に戻った感嘆の声だった。

「レモンの皮って……こんなに美味しくできるの……? 信じられない……」

「配分が天才的なんだよな、これ。アク抜きの手間と温度管理がプロすぎる……」

「そうだよね……!? これ、本当にすごすぎるよ。本当に手作りなの? なんかさ、デパ地下の特設催事場とか、海外の高級オーガニックショップで桐箱に入れられて売られててもおかしくないレベルだよ……。っていうか、私なら普通にこれ、万単位のお金払ってでも定期購入したいもん」

 感動のあまり、身を乗り出して一気にまくしたてた私に対して、返ってきた優希くんのリアクションは少し意外なものだった。

 いつもなら、私がどんなに彼の料理を絶賛しても「いやいや、そんな大したことないよ」とか「レシピ通りにやっただけだから」なんて、少し照れくさそうに謙遜する彼が、この時ばかりは一切引く様子を見せなかった。

 それどころか、我が事のように誇らしげに、そして深く深く、心からの同意を示すように頷いたのだ。

「俺も、自分の料理の腕にはそれなりの自負はあるし、大抵のものは再現できるつもりだけど……お母さんのこのレモンピールだけは、絶対に超えられないって昔から思ってる……」

「優希くんが……超えられない?」

「うん。何度も真似して作ってみたんだけど、どうしてもこの絶妙な食感と、苦味の消し去り方が再現できなくてさ。自慢とかじゃなくて、純粋に一人の料理人として、うちのお母さんには一生勝てる気がしないっていうか……本当に尊敬の対象なんだよね」

 そう語る優希くんの横顔は、いつもの「完璧で頼れる男の子」の顔ではなく、偉大な背中を追いかけ続ける一人の少年のような、純粋なリスペクトに満ち溢れていた。

 その真っ直ぐな瞳が、なんだか私の胸を激しく締め付けて、言葉にできないくらいの愛おしさが込み上げてくる。

 優希くんのあの、誰に対しても分け隔てなく向けられる底なしの優しさや、人を幸せにする料理スキルの源流には、この温かくて偉大な、職人のようなお母様がいるんだ。

 こんな素敵な家庭で、素敵な愛情をたくさん注がれて育ったからこそ、彼はこんなにも眩しくて、誰よりも誠実な男の子になったんだな……。

(……そんなお母様が、私の感想を、楽しみに待っててくれてるんだ)

そう考えた瞬間、まだ見ぬ彼のご家族の輪の中に、ほんの少しだけ自分の存在を認めてもらえたような、くすぐったくて不思議な嬉しさが胸いっぱいに広がっていく。

 それと同時に、これだけ圧倒的なお義母さん──って、頭の中に自然と浮かんだフレーズに、私自身の顔が途端に猛烈な熱を帯びていくのがわかった。

「……っ」

 いやいや、何を勝手にそこまで想像飛躍させてるの、私!

 まだ私たちは『仮の恋人』なんだよ!?

 頭の中で必死に赤面を誤魔化しながらも、だけど、心臓のバックバクという高鳴りはどうしても止められそうになかった。

 でも、もし、本当に……この先もずっと彼と一緒にいて、本当の恋人になって、その先の未来まで手を繋いでいられたら。

 こんなに温かい優希くんの家庭の一員に、私もなれるのかな……。

 そんな、夏の青空よりも広く、果てしないほどに甘い未来の想像が、私の口角をどこまでも緩ませていく。

「優希くん。お母さんに、これまでの人生で食べたどんなお菓子よりも、世界一美味しかったですって、絶対にそのまま伝えてね。……私も、いつかこんな素敵な味が作れるようになりたいな」

「うん、ありがとう。優奈にそう言ってもらえたら、お母さん、嬉しくて明日から瓶詰めの量増やしちゃうかもな。……優奈なら、きっとすぐにこれより美味しいもの作れるようになるよ。俺が保証する」

 そう言って、彼は悪戯っぽく、だけど絶対的な信頼を込めて私に笑いかけてくれた。

 最後の一片をお互いのお箸で半分こするようにして口に含み、私たちは大満足の息を漏らしながら、重箱の蓋をパタン、と閉めた。

 手作りの温かい唐揚げに、ひんやりと冷たいカッペリーニ。そして、二人の未来を優しく肯定してくれるような蜂蜜レモンピール。

 お腹も胸の奥も、これ以上ないくらいに幸福なエネルギーで満たされて、レジャーシートの上に二人で並んで座り直すと、近くを流れる小さな滝のせせらぎが、一段と心地よく耳に届いた。

 日差しは強いけれど、山頂の木陰を吹き抜ける風は驚くほどに涼しい。

 私のオフショルの服から露出した肩の肌を、その風が優しく撫でて通り過ぎていく。

 夏休みが終われば、いよいよ文化祭に向けた怒涛の日々が始まる。

 神谷先輩や琴音にはまだ内緒の、私と優希くんだけの『約束のオリジナル曲』。

 まだ私の頭の中に、いくつかのコードと、メロディの断片がぽつぽつと浮かんでいるだけだけれど。だけど、彼の隣でこの涼しい風を浴びて、同じ美味しさを共有している今なら──。

 世界で一番優しくて、世界で一番切なくて、そして、世界で一番甘い『本当の告白』の歌が作れる。

 そんな確信めいた熱い衝動が、私の胸の奥で、静かに、だけど確かに脈打ち始めていた。


**


「ごちそうさまでした」

 二人で声を合わせ、手をあわせる。

 気がつけば、弁当を食べ始めてから一時間以上は経っていた。夏の太陽が容赦なく照りつける中、大きな大木の下に広がる木陰は、その暑さのかけらも感じられないくらいに穏やかで涼しい空間だった。二人の間に流れる空気そのものが、周囲の熱気を遠ざけているかのようでもあった。

「この後、どうする?」

 優奈が水筒を片付けながら、上目遣いでそう声をかける。

「この公園を少し探索して、写真撮ったり、ベンチとかで休んだりしてみる?」

「あ、いいね! カメラ持ってきたんだよ!」

 そう言うと、彼女は嬉しそうにカバンから水色の手のひらサイズのカメラを取り出した。夏の青空をそのまま切り取ったような鮮やかな色彩が、彼女の白い手によく映えている。

 この公園でできることは、まだまだたくさんあった。何よりこのピクニックは、誰からの邪魔も入らない、正真正銘の二人だけの時間だ。

俺はあらかじめ用意してきた、公園の全体像が見渡せるマップ入りのパンフレットを一枚彼女に手渡した。

 大きな池もあれば、今いるマイナスイオンが浴びれる滝のスポット、池の鯉に餌をあげられる場所から、軽く体を動かせる広大な芝生の広場まで。半日もあれば十分に堪能できる広さがある。遊園地のような派手なレジャー施設も確かに楽しいが、こうして自然というものに全振りしたロケーションも、決して捨てたものではない。

「まずは……あ、川を跨いでいるあの大きな吊り橋に行ってみようよ!」

 優奈がパンフレットの一点を指差して、目を輝かせる。

「これか。確かに、ここなら遮るものがないから風も気持ちよさそうだし、写真映えもしそうだね」

 最初の目的地は、吊り橋を渡ったその先にある森の中のベンチに決まった。

 今は夏休みということもあって、周囲を見渡すと元気いっぱいに走り回る子供たちや、それに振り回されながらも笑顔を見せる親、木陰のベンチでのんびりとリラックスしている老人など、多くの人々で賑わっている。

 レジャーシートを畳んで立ち上がると、俺たちは早速その吊り橋に向けて足を運ぶことにした。

「そうだ、優奈」

「ん? なに?」

「……はい」

 歩き出し際、俺は極めて自然を装いながら、彼女に向けてそっと右手を差し伸べた。

 いや、これは決して下心なんかじゃない。あくまで『恋人の練習』として、これくらいのスキンシップは……当然含まれるべきだろうと、脳内で自分に対する言い訳を高速で並べ立てる。

「……優希……。ん……わかった」

 優奈は一瞬だけ驚いたように丸い目を見開いたが、すぐにその意図を察したのか、どこか愛おしそうな笑みを唇に浮かべた。

「一応、迷子になられたら大変だからな」

 差し伸べた手の言い訳として、俺はさらにそんな言葉を付け足してしまう。

「でも、さっきパンフレットくれたじゃん……。もしかして優希くん、私のこと方向音痴だって思ってる?」

「いやいや、そうじゃないけど……」

 図星を突かれたわけではないのに、彼女のどこか楽しげな追及に、俺は思わず視線を泳がせてしまう。その様子をじっと観察していた優奈は、「んふふ」と小さく悪戯っぽくいうと、差し出された俺の手を、下から包み込むようにそっと、けれど確実にぎゅっと握りしめてきた。

 柔らかくて、少しひんやりとした心地いい体温が、手のひらを通じてダイレクトに伝わってくる。

「冗談だよ。……ありがと、優希」

 そう言って、一歩前を歩き出す彼女の耳元が、ほんのりと赤く染まっているのを、俺は見逃さなかった。

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