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【第16話】浮気疑惑!?

「んっ……優しい味。こんな贅沢して……優希くんの作る料理、美味しすぎるよ……」

 私───白雪優奈は、翌朝、優希くんが作り置きしてくれたおかずやスープを並べて、ゆっくりと朝ごはんを味わっていた。

 昨日は、なかなか早く寝付けなかった。

 優希くんが来てくれると、どうしても嬉しくなってしまうし……恋人の練習なんて理由をつけながら、もっと彼に近づきたいって思ってしまう。

 その余韻のまま、次のバンド練習までに覚えなければいけない曲を思い出して、深夜まで防音室でギターを弾きながら歌っていた。

 そのせいで、深夜3時に寝て、起きたのは9時頃。

 夏休みだし、それくらいは問題ない……とは思うけど、一度崩れた生活リズムを戻すのは案外難しい。


「今日はバンド練習もないし……優希くんもバイトないから、うちには来ないし……。何しよっかな」

 広々としたリビングのカウンターに腰掛けながら、ぽつりと独り言をこぼす。

 昨日は、本当に色々あった。

 カードゲームをして、私が勝って───その結果、優希くんに膝枕をしてあげた。

 あの時の、少し困ったような顔とか、でもどこか安心してくれていた様子とか……思い出すだけで胸の奥が温かくなる。

 その後、自然な流れでピクニックデートの口実も作れた。

 いつになるかは分からないけど、約束はできた。


「あっ、そうだ!」

 思いついた瞬間、思わず声が弾む。

「ピクニックデートの時に着ていく服、買いに行こう!」

 完全なオフの日に、何もしないのは少しもったいない気がした。

 最近は家にこもるよりも、外に出てショッピングをする時間が好きになってきているし……なにより。

(新しい服、見せたいな……)

 目新しい服を着て会った時、きっと優希くんは「可愛い」って言ってくれる。

 周りの男子と違って、あの人に言ってもらえる「可愛い」は、特別だ。

 好きな人に可愛いって言ってもらって、嬉しくない女の子なんていない。


「よし。ごちそうさまでしたっと……」

 食器を片付けながら、小さく気合を入れる。

 洗い物を済ませて立ち上がると、自然と足取りも軽くなった。

 ひよりのアドバイスは大事だ。

 ここまで来て、優希くんに離れてほしくないからこそ───もう一歩、踏み出したい。

 誘惑、なんて言葉にすると少し大胆すぎるけど。


(……私を、女の子として見てほしいから)

 恋人の練習、なんて建前じゃなくて。

 白雪優奈という、一人の女の子として。

「……着替えよっかな」

 そう呟いて、私は自分の部屋へと向かった。


 ママと悠真に軽く行き先を伝えてから、私は颯爽と街へ飛び出した。時計を見ると、まだ十一時を少し過ぎたくらい。

 夏の太陽はすでに本気を出し始めている。

 麦わら帽子に、風通しのいいワンピース。しっかり対策したつもりだったけど、それでも肌にまとわりつく熱気はなかなか手強い。


「……暑いけど、優希くんに喜んでもらうためには……これくらい全然っ」

 小さく自分に言い聞かせながら、隣町───私たちが通う学園のある街へ向かう電車に乗り込む。

 夏休みの影響か、車内はそこそこ混んでいた。

 とはいえ満員というほどではなく、なんとか座席を確保できてひと安心する。

 ───正直、慣れてきたとはいえ。

 見知らぬ人からの視線。

 特に、男性から向けられるものは、どうしても気になってしまう。

 嫌な気持ちになるのは変わらない。

 ……本当は、そんな目を向けてもいいのは。


(優希くんなら……まだ許せるけど……)

 ───って。

(な、何考えてるの私……!それって……もっと見てほしいって思ってるみたいじゃん……ダメダメ、暴走しちゃダメ……!)

 頬が少し熱くなるのを感じながら、そんな思考を振り払う。相変らず、油断したらすぐ妄想にふけってしまって頬が上がるのは何とか辞めたい…

 だって…!

 いきなり見知らぬ人が急にニヤニヤしだしたら誰だって怖がるもん───!


 電車は揺れながら、目的地へと近づいていく。

 今日行く店は、すでに決めてあった。

 確かに私の家は、いわゆる裕福な方ではあるけれど……私はお小遣いのほとんどを貯金に回している。

 だから実際に自由に使える金額は、ごく普通の学生レベル。

 本当は高いブランドの服にも憧れるけど───。

(今日は、可愛くて……でも無理しすぎない服)

 そんな一着を選びたい。

 優希くんに「可愛い」って思ってもらえるような。

 やろうと思えば、高級ブランド品で揃えたりすることだってできるけど、それじゃあ優希くんが見苦しくなっちゃうし。

 私だって嫌だもん。大切な人とデートの約束して、その相手がめっちゃブランドもの身につけてて、私は普通の服とか。だからこそ、ハードルはもちろん、優希くんが落ち着けるくらいの服装がいい。


「よし、着いた着いた」

 電車を降りて少し歩き、有名なファッションセンターへと到着する。

 ガラス張りの入り口を抜けると、涼しい空気が一気に身体を包み込んだ。

「いらっしゃいませ〜」

 明るい声でスタッフさんに迎えられながら、私は店内へと足を踏み入れていった。


**


 ───状況が一変したのは、それからほんの数分後のことだった。

 私は、ほとんど反射的に近くのラックの陰へと身を潜めていた。

「えっ……?あれ……?」

 ついさっきまで、私は店内を歩き回りながら服とにらめっこしていた。どんな服なら彼の心を動かせるのか。可愛いと言ってもらえるのか。

 頑張りすぎていないけど、清楚で、でもちゃんと“女の子”として見てもらえるような。そんな一着を探して、候補を見つけては悩み、また別のラックへと移動して───。

 その途中だった。

 聞き覚えのある声が、ふと耳に届いたのは。

 思わず足を止め、そっと視線を巡らせる。


「これはどうなんだろう?」

「えー?でもさ、これだとナチュラル過ぎない?もーっとビシッと!」

「どういうことだよ……ナチュラルすぎって悪いのか?」

「悪いの!ほら、こっちの方が似合うんじゃない?ほらほら!これとか!」

 ───その声の主を見つけた瞬間。

「……優希……くん……?」

 心臓が、どくんと跳ねた。

 間違いない。あの声も、横顔も、少し困ったような表情も、私の仮の彼氏───篠宮優希くんだった。

 運命のいたずらなのか、またまたオフの日に同じ場所で遭遇した……それ自体は、嬉しいし、問題あることではない。なんなら、オフの日に優希くんと出会えたなら、今の私は迷わず声をかけていただろう。

 でも……。

(待って……誰……あの子……?)

 優希くんの隣には、もう一人女の子がいた。身長は低めで、華奢な体つき。

 長い茶色の髪が肩にかかっていて、年齢は……距離が離れていることもあってか、ぱっと見では分からない。

(……同い年、くらい……?)

 そう思ってしまうくらいには、自然に隣に立っていた。

 いや……問題は、そこじゃない。───距離が、近すぎる。

 服を手に取って見せ合いながら、笑い合って。

 時折、肩が触れそうになるほどの距離で話している。

 その仕草は、まるで───。

(ヤダ…信じたくないよ……)

 胸の奥が、じわりとざわついた。

 本当なら、今すぐ駆け寄って声をかけたいはずなのに。

 足は、動かない。

 代わりに、私は物陰に身を潜めたまま、二人の様子から目を逸らせなくなっていた。

 私は店を出ると、少し離れた物陰に身を潜め、そのまま力が抜けたように座り込んだ。


 まだ、彼に問いただしたわけじゃない。見間違いかもしれないし、ただの知り合いという可能性だってある。それでも、胸の奥に残った違和感だけはどうしても拭えなかった。さっき見た光景が頭の中で何度も繰り返される。隣に立つ距離、自然すぎる会話、並んで服を選ぶその空気感――どれもが、あまりにも“近かった”。


 まるで、そこにいるのが当たり前みたいな距離感。

 その瞬間、胸の奥に沈めていたはずの記憶が、無理やり引きずり出される。

 私が男性を信じられなくなった理由。告白という言葉そのものを疑うようになった理由。それは、あの嘘の告白のせいだった。純粋に、好きな人と好きな場所へ行って、笑い合って、悩みを分かち合って、一緒に前を向いて進んでいきたい――そんな普通の恋をしたかっただけなのに、あの出来事はそのすべてを踏みにじった。


 忘れたつもりでいたはずなのに、今、目の前の光景がそれを再び呼び起こそうとしている。

 信じたいのに、信じきれない。疑いたくないのに、疑いが浮かんでしまう。その矛盾が胸の中で膨らみ、思考がぐらりと揺れた。視界が少しだけ歪んだ気がして、私は思わず額を押さえる。


「ど、どうすれば……」

 一人で抱え込むには、あまりにも怖すぎた。こんなときに頼れる人なんて、ひとりしかいない。

 震える手でスマホを取り出し、連絡先を開く。迷う余裕もなく、通話ボタンを押した。


「今、服を買いに行こうと思ってお店に入ったんだけど……たまたま彼と遭遇してさ。……そしたら、知らない女の子が彼のそばにいたの」

『……優希くんと出会ったんだね〜よかっ────知らない女の子!?』

 一瞬、ひよりの声のトーンが跳ね上がる。眠気が一気に吹き飛んだのが、電話越しでもはっきり分かった。


『……ちょっと待って優奈。それ、ガチ?』

「ガチ……。ちょっとさっき撮った写真、送っていい?」

 こんなことをするのは本当は気が引けた。でも、言葉だけでは伝わらない状況だと思った私は、さっき物陰から撮ってしまった写真を、ひよりとのトーク画面に送信した。

 数秒の沈黙。

『うわぁ〜……これ、判断むず……。なんか……距離近くない?』

「……だ、だよね……?もしかして……私はただの“練習相手”で……本命は、あっち───」

 言葉にした瞬間、胸の奥が冷たくなる。

『いやいやいや!落ち着いて優奈!!さすがにあの優希くんだよ!?それは……ない……と思うけど……』

「ほんと……?」

 否定しきれない言い方に、不安が消えきらない。

『でもこれは……うーん……ちょっとビデオ通話にしてもらえる?』

「び、ビデオ通話?」

『うん。位置と状況、リアルタイムで見たい。……これ、尾行案件かもしれない』

「びっ、尾行!?」

 思わず声が裏返る。

 恋人の練習をしているはずの相手を、まさか尾行する日が来るなんて思ってもいなかった。

『でも、私、けっこう本気で言ってるからね……。これは状況によっては、優奈の動きがめちゃくちゃ大事になる。もし本当に向こうが本命とかだったら、優奈がちゃんと動かないとまずいかもしれないし……。まずは、あの二人の動きを追いかけた方がいいと思う』


「……で、でも……どうやって……?」

『身を隠して、優奈。あんた、この街じゃ有名な白雪家の顔でしょ?身元がバレないためのグッズくらい持ち歩いてるんじゃないの?』

「……そういうことなの……?まぁ、あるにはあるけど……」

 ───身バレ対策、というほど仰々しいものではない。

 でも、白雪家の名前は思っている以上に広く知られていて、この街を歩くだけで声をかけられることも珍しくない。中には、少し距離感を間違えた人もいる。そういう時のために、最低限顔を隠せるものは持ち歩くようにしていた。

 だから、バッグの中には、サングラスとマスクが入っている。

 ……まさか、こんな用途で使う日が来るなんて思ってもいなかったけれど。

『やっぱり持ってるじゃん。じゃあ一旦、そのサングラスとマスク、ちゃんとつけて』

「……うぅ……あんまり、こういう姿、ひよりに見られたくないんだけど……」

『気にしてる場合じゃないって!今回は私も本気なんだからね!?』

 ひよりの声色が、少しだけ強くなる。

『だってさ……ここまで頑張って、“本当の幸せ”を掴もうとしてる優奈が、また裏切られるとか……そんなバッドエンド、私、絶対に見たくないし』


 その言葉に、胸の奥がきゅっと締め付けられる。まるで、過去に感じたあの嫌な予感が、ゆっくりと形を持っていくみたいだった。


「じゃ、じゃあ……次はどうすればいい?」

『とりあえず……店を出てきたのが確認できたら、バレないように追いかけるしかないね……。バスとか電車とか、もし何かに乗ったら、すぐ後を追って同じのに乗った方がいいかも……』

「わ、分かった……」

『いやぁ……さすがに浮気疑惑はやばいよ……。でも、優希くんがそんな簡単に裏切るとは思えないんだけどなぁ……』

「仮染めかもだけど……恋人だし……私たち」

 自分で口にしたその言葉に、少しだけ現実味が増す。たとえ“仮”でも、そういう関係を選んだ以上、そこには信じたい気持ちが確かにあった。


『確かに……。仮の恋人になろうって言って、それを承諾するくらいなんだし、裏切らないと思うけどなぁ……。私はその方向で信じたいけど……』

「あっ……店、出てきた」

 ──少しして、優希くんと、あの女の子が店の外に姿を現した。

 自然に並んで歩き出す二人。その距離は近くて、どこか慣れているようにも見える。何より……楽しそうだった。

 音楽に触れている身として、耳はいい方だと自負している。聞き取れるかどうかギリギリの距離を保ちながら、周囲に紛れるようにしてそっと近づき、会話に意識を集中させる。


「え〜昼ごはん、お寿司がいいんだけど!ほら、えっと、回らないお寿司ってやつ!」

「ダメだ。お前と行くと財布の金がすっ飛ぶし、回らないお寿司とか、学生の金銭状況で行けるもんじゃないだろ」

「大丈夫!そんな食べないから!」

「そう言って、毎回俺に奢らせてるじゃないか」


 ──昼ごはん?

 ……え、このままランチなの?

 胸のざわつきを抑えきれないまま、聞こえた会話をひよりに共有する。


「昼ご飯、食べに行くみたい……それに、“毎回俺に奢らせてる”って……」

『えぇ……それ、どっちなんだろ……。毎回って怖くない……?つまり、今日が初めてじゃないってことじゃん?』

「うぅ……やっぱり、ついて行った方がいいよね……」

『うんうん……ただ、普通に歩いて追いかけるだけだとストーカーっぽくなっちゃうし、なるべく隠れて、視界から消えないようにね』

「ひより……尾行経験者なの……?」

『え?いや、尾行されることの方が私は多いよ?』

「される側って……。なんか、アドバイスがプロみたいなんだもん」

『いやいやいや!尾行のプロって、なんも誇れるもんじゃないからね!?』


 ───ひよりは、冗談めかした口調の裏で、確かに真剣だった。

 普段は軽口ばかり叩く彼女が、ここまで強く言ってくれるのは珍しい。

 たしかに、ひよりは可愛いし魅力的だ。尾行……というより、ストーカーに目をつけられたことの方が多いらしい。とはいえ本人は、「優奈よりはマシ」と笑っていたけれど。

『深呼吸して、優奈。もうこれで、仮に優希くんが本当に浮気してたら……私が表に出て往復ビンタしてやるから!!』

「さ、流石にやりすぎ!ダメだよ、その正義感強すぎて浮くタイプのやつ……!」

『いーや!私だって、優奈の本気の恋愛をここまで応援してきた人なんだよ!』

「ひより……全くもう」

 思わず、小さく笑みがこぼれる。

 張り詰めていた胸の奥が、ほんの少しだけ軽くなった気がした。

 ───でも。

 だからこそ、ここで逃げるわけにはいかない。

 もし、ただの誤解なら、それでいい。

 笑い話にすればいい。

 けどもし───本当に、私の知らない関係がそこにあるのなら。

 知っておきたい。知らないまま、また信じてしまうのだけは……怖いから。


「……やるよ、尾行」

 自分でも驚くくらい、小さな声だった。

 でも、それは確かに決意だった。

『よし、その意気!まずは距離を取りつつ視界に入れておくこと。目立たないようにね』

 普段は“声をかけられないため”の防御用。けれど、今日は違う。

 ───隠れるための装備。サングラスとマスクをすれば、たしかに別人になれる。

 店のガラス越しに、ゆっくりと歩いていく二人の背中を捉える。

 並んで歩く姿は、やっぱり自然で、距離も近くて、胸の奥が、じわりとざわつく。

『優奈、見失わないでね』

「……うん」

 小さく頷きながら、私は一歩踏み出した。

 ───こうして、私の人生で初めての“尾行”が始まった。


**


「え〜優希にぃに、これはセンスないよ?」

「おいお前……問答無用でダメ出しするじゃねぇか」

 俺──篠宮優希は、隣町の服屋に来ていた。目的はシンプルで、先日話に出た“ピクニック”に向けて、それらしい服を新調しておこうと思ったからだ。

 そして今日の同行者は、妹の美晴。

 昨日、バイト帰りにこいつから鬼のような質問攻めを受けた末、うっかりピクニックの約束を打ち明けてしまったのが運の尽きだった。それを聞いた途端、なぜか妙に乗り気になり、「服選びは私が見てあげる!」と半ば強引に連れ出された形である。

 ……正直、余計なお世話ではある。

「これはどうなんだろう?」

 手に取ったシャツを軽く広げて見せる。

「えー?でもさ、これだとナチュラル過ぎない?もーっとビシッと!」

「どういうことだよ……ナチュラルすぎて悪いのか?」

「悪いの!だってさ、ピクニックなんでしょ?だったら、もうちょっとこう……“意識してます感”出さないと!」


 言っていることがふわっとしすぎていて、基準がまるで分からない。俺の選んだ服を手に取っては、「優希にぃにらしくない」とか「飾りすぎ」とか、好き放題に講評を重ねてくるくせに、明確な正解は示さないのだから困ったものだ。

 そもそも、らしさと言われても──。


(優奈と並んだ時に、浮かない格好……くらいしか考えてないんだけどな)

 口には出さないが、頭の中で基準になっているのはそこだった。自然体で、でも少しだけちゃんとしてる。そんなバランスが取れたものがいいと思っていたのだが、美晴の求めている方向性とはどうも違うらしい。


「あ、これ良さそう!ねね、これ試着しよ!」

「お、おう……」

 そう言って、今度は美晴が勝手にラックから服を引き抜き、ぐいっと俺に押し付けてくる。

「……お前さ、さっきまでナチュラルすぎはダメって言ってなかったか?」

「これは違うの!これは「計算された」ナチュラル!」

「なんだそれ……」

 意味が分からない。

 だが、こうして横からあれこれ言われるのも、悪い気はしなかった。少なくとも、美晴なりに真剣なのは伝わってくるし──何より。

「いいじゃん〜その優奈ちゃん、だっけ?あの美少女と一緒にデートとか、気合い入れて言った方がいいし!」

 試着室へ向かおうとした瞬間、不意にそんな言葉を投げられる。


「……っ」

 一瞬、足が止まった。

 以前、スマホを勝手に覗かれてツーショットを見られて以来、美晴は優奈の顔だけは知っている。直接会ったことはないが、「可愛すぎない!?」と大騒ぎしていたのを思い出した。

「……まぁ、そうだけど」

 小さく答えると、美晴はにやっと笑う。

「でしょー?だったらなおさら!ちゃんと似合うの選ばないとダメじゃん!」

 その言葉に、ほんの少しだけ、胸の奥がくすぐったくなる。


(似合うかどうか……か)


 俺が選ぼうとしているのは、単なる服じゃない。ただの私服選びなんて、普段なら適当で済ませていたはずなのに、今回は妙に手が止まる。

 優奈と並んで歩く未来を、少しでも自然な形で迎えるための準備───そんな、大袈裟とも言える理由が頭のどこかに居座っていたからだ。


「ほらほら、試着してきて!そのままだと絶対地味だから!」

 急かされるまま、俺は渋々試着室へと向かう。


「あ、せっかく付き添ってあげてるんだし、昼ごはん奢って!」

「……はぁ……ったく、まぁ、特別だぞ」

「えへへ〜やったー!」

 面倒なやつだが、こういうことで甘やかしてしまうのは、きっと兄としての性なのだろう。口では呆れながらも、悪い気はしていなかった。


 試着を終え、買い出しも済ませると、店員に軽く会釈をして店の外へ出る。

 外に出た瞬間、夏の熱気がまとわりつくように押し寄せてきた。


「うわ、暑っ……」

「ほらほら、早く次行こ!お腹すいた!」

 相変わらず元気な声に急かされながら、俺たちは並んで歩き出す。しかし───。

「え〜昼ごはん、お寿司がいいんだけど!ほら、えっと、回らないお寿司ってやつ!」

「ダメだ。お前と行くと財布の金がすっ飛ぶし、回らないお寿司とか、学生の金銭状況で行けるもんじゃないだろ」

「大丈夫!そんな食べないから!」

「そう言って、毎回俺に奢らせてるじゃないか」

 ───また始まった。

 美春に飯を奢る流れになると、こいつは絶対に遠慮をしない。結果、後になって「甘やかすべきではなかった」と後悔するのが常だ。

 しかし、ここで断ると絶対に機嫌を損ねるから…仕方なしに、近くの店を探ることにした。

 ───この時、俺は気づいていなかった。

 少し離れた場所から、こちらの様子を窺う視線があったことに───。


**


 あれからというもの、私は優希くんのことをひたすらに追いかけ続けていた。

 あの後、服屋を出た優希くんはバスに乗り込んでどこかへ向かおうとしていた。行き先も分からないまま、私は無言で同じバスに乗る。降りる停留所なんて決めていない。ただ、見失いたくない。その一心だけだった。

 真夏の太陽が容赦なく照りつける。額に浮かぶ汗が鬱陶しいのに、それすら拭う余裕がなかった。こんな自分、少しおかしいと分かっているのに……止まれなかった。


「……この店に入ったみたい、ひより」

『ここって……よくあるファミレスチェーンだよね?高級店とかではない……と』

 ガラス張りの外観。大きなロゴ。家族連れや学生が出入りしている、どこにでもある店。

 優希くんは、迷いなくその扉を押した。

 私たちは少し離れた場所で立ち止まり、外から中の様子を窺う。

 正直、尾行のことばかり考えていると、店内に入って食事をする気にはなれなかった。もし目を離した瞬間に、二人で店を出てしまったら? もし、知らないうちにどこかへ消えてしまったら?


「うぅ……ここまで追いかけて来たはいいけど……この後、本当にあの子が本命とか言ったら……」

『だとしたら幻滅にも程があるでしょ……だって、仮の恋人とかに賛同してくれた人だよ?……でも、怖いね』

 怖い。

 その言葉が、胸の奥で重く沈む。

 窓越しに見える二人は、向かい合って座っていた。

 相手の女の子は元気いっぱいで、身振り手振りも大きい。前のめりになって、笑いながら何かを話している。

 その距離が、近い。あまりにも、近すぎる。


「……」

『優奈……』

 優希くんは冷静に相槌を打っているように見える。けれど、時折口元が緩む。その笑顔が、私に向けるものと同じなのか、違うのか……ガラス越しでは分からない。

 女の子が、身を乗り出す。

 テーブル越しとはいえ、距離がさらに縮まる。

 優希くんは少し身を引いたように見えた。でも、完全には離れない。

 胸がざわつく。


「……これで裏切られたら、いよいよ本当に信じられないよ……?」

『気持ちはわかる。でもね、優奈。あの人は、そんなことする人に見える?』

「……見えない。見えない、けど……」

 見えない…それは、あり得ないとは違う。

 私はそれを、もう知っている。

 女の子がスマホを取り出し、二人で画面を覗き込む。肩が、触れそうなほど近い。心臓が、嫌な音を立てる。


『あれは……写真でも見せてるんじゃない?』

「でも、あんなに近づかなくても……」

 自分でも、無理やり疑っているのは分かる。それでも、止まらない。

 女の子が笑いながら、優希くんの腕に軽く触れた。

 一瞬だけ。本当に一瞬だけ。

 優希くんは、驚いたように目を見開き、すぐにその手をそっと外した。

 ───外した。ちゃんと、外した。

 なのに。胸の奥の黒いものは、消えない。


『ほら、ちゃんと距離取ったじゃん』

「……うん。でも……でもね、ひより」

 視線が離せない。

 疑いたくないのに、疑う材料ばかり拾ってしまう自分が嫌になる。


「私、信じたいのに……あれはさすがに…信じるのが、怖い」

 声が少し震えた。あの時もそうだった。本気だよって言われて、笑われて。信じた瞬間に、足元を崩された。


『優奈』

 ひよりが、そっと私の名前を呼ぶ。

『あの人は違う。少なくとも、私はそう思う。優奈のことをあんな目で見る人が、裏で笑うような人には見えない』

「……あんな目って?」

『大事にしたいって目』

 言葉が、少しだけ胸に染みる。

 そのとき、店内で店員が料理を運んできた。

 女の子は嬉しそうに身を乗り出し、優希くんの皿を覗き込む。何かを言って、スプーンを差し出す。

 ───まさか。

 優希くんは困ったように笑い、首を横に振る。けれど女の子は引かない。冗談めかして、さらに距離を詰める。


「……ねぇ、ひより」

『うん』

「もし、もしだよ? あれが本命で……私はただの“仮”だったら……」

 視界が、少し滲む。

『その時は、私が一生そばにいる』

「ひより…それは重い……」

 小さく笑おうとしたけれど、うまくいかなかった。

 ガラス越しに見える優希くんは、真剣な顔で何かを話している。女の子は一瞬だけ、驚いたように目を丸くした。

 ───今の表情は、何?

 笑顔じゃない。軽いノリでもない。どこか、真面目な……線を引くような顔。

 でも、音は聞こえない。分からない。本当にどうしよう……あの人は何を話しているのか。本当はどういう関係なのか。

 分からないからこそ、疑いは膨らんでいく。


「……お願いだから」

 誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。

「お願いだから、裏切らないで……」

 信じたい。信じたいのに。

 その信じたいが、こんなにも苦しいなんて。


 彼の動向は、どこを切り取っても、どこか少しだけ淀んで見える。

 決定的な証拠なんて何ひとつないのに、それでもどうしても───怪しく思えてしまう自分がいる。ここまで信じてきた彼が、裏切るような人じゃないことくらい、本当は分かっているはずなのに……その信頼の奥底を、過去に打ち砕かれた記憶が何度も揺さぶってきて、視界の端がじわじわと滲んでいくような感覚に襲われた。

 頭の奥が、くらりと重たくなる。

『優奈……私、そっち行こうか?電話越しだと、やっぱり限界あるでしょ?』

 ひよりの声は、さっきまでよりも少しだけ真剣で、心配が滲んでいた。

「……ううん、大丈夫。これは……私の問題だから。心配しないで」

『でも……!……うーん……分かった。でも、無理しないでよ?近くにコンビニとかあったら、飲み物でも買って一回落ち着きな』

「……」

 親友にここまで気を遣わせている自分が、少しだけ情けなく感じる。だけど───だからといって、ここで目を逸らすことは出来ないとも思った。信じると決めた以上。好きだと、自覚してしまった以上。

 もちろん、この疑念がただの思い過ごしで、何も問題がないと分かれば、それでいい。それが一番いいに決まっている。

 でも……もし、これが真実だったなら。

 私は、彼の目には映らなかったということになるのだろうか。選ばれなかった側だったと、そう突きつけられるのだろうか。

 胸の奥に沈みかけた思考を振り払うように、小さく息を吐く。

「……ちょっと、さすがに私も何か買ってくるね」

『うん……そうしな。気持ちは分かるけど、今外すごく暑いでしょ?私はそっちの方が心配なんだから』

「……ありがとう。ちょっと、あのコンビニ行ってくる」

 通話を繋げたまま、私は視線を上げる。少し離れた場所に見える、白い看板の灯り。逃げるためじゃない。ただ、立て直すために。

 ───そうして私は、近くのコンビニへと足を運ぶことにしたのだった。

 

**


 少し暗い雰囲気になりかけていたのは、ほんの数秒のことだった。

 ───コンビニに向かう途中、思いがけず「あの子」と遭遇する。


「あれ!?優奈じゃーん!!」

「……えっ?」

 不意にかけられた明るい声に、思わず足が止まる。電話を繋ぎっぱなしにしている以上、ひよりにも聞こえているはずだけど、今はそれを気にしている余裕すらなかった。


「あれ……めずらしいね、オフで会うなんて」

「たしかに!わたし、今からアイス買いに行こーって思ってさ、このコンビニ目指してたの!ほら、あのスタジオ見える?めっちゃ近いでしょ!」

「……あぁ、あそこの」

 声の主───桐島琴音ちゃん。エネルギッシュで、私たちのバンドのムードメーカーでありながら、時々トラブルメーカーでもある女の子。最初は距離感に戸惑ったけど、練習を重ねるうちに少しずつ打ち解けてきた相手でもある。

『ねぇ優奈、その子は?知り合い?』

「あ、この子は桐島琴音ちゃん。知ってる?」

『あー!琴音!?知ってる知ってる!私、同じ委員会だもん!』

「あ、そうなの?」

 私が電話していることも知らない彼女の前で、ひよりは容赦なく会話に割り込んできた。でも、お互い顔見知りだったらしく、その声に琴音もすぐに反応する。


「あれ?ひより?電話してたんだ?やっほー!元気?」

『琴音〜!助かった〜!今ちょっと激重空気だったから、ひかり属性ありがたいわ〜!』

「あはは!なにそれ、気になるじゃん!」

 軽快なテンポに、さっきまで胸の奥を締め付けていた重さが、ほんの少しだけ和らいでいく。


『ねぇ優奈、せっかくだし話してみない?今の優希くん尾行計画!』

「……あっ!ちょっと……!それは言わない約束……!」

「……へ?優希くんを尾行!?なにそれ!?どしたの!?彼、なんか悪いことしたの!?」

「……うぅ……えっと……」

 勢いに押されて言葉に詰まる私を、琴音はじっと見つめて───ふっと目を細めた。


「てかさ、サングラスにマスクって……それ、身バレ防止的なヤツでしょ?」

「……えっ?わ、分かるの?」

「いやいや〜さすがに分かるって!その背格好と雰囲気で隠してても、逆に“優奈です”って言ってるようなもんだし!」

「そ、そんな……」

『バレバレじゃん優奈……』

 電話越しのひよりのツッコミに、思わず肩を落とす。

 そんな私を見て、琴音は少しだけ真面目な表情になった。


「ん〜…とにかく話したいことあるなら全然ウェルカムだよ〜。ちょうど暇してたし、話聞くよ。大丈夫、茶化したりしないからさ」

 その言葉は、さっきまで張り詰めていた心を、ほんの少しだけ軽くしてくれるものだった。


 ───あれからというもの、私はひよりだけでなく、琴音にも状況を一通り話した。

 優希くんに対して抱いている想いのこと。たまたま街で遭遇したとき、彼の隣に見知らぬ女の子がいたこと。そして、その距離感がどうしても気になってしまったこと。


 もちろん、全部をさらけ出したわけじゃない。優希くんが家に来ていることや、仮の恋人関係であることは、これまで通りひよりだけの共有事項に留めた。琴音ちゃんは彼氏持ちだし、恋愛観もわりと現実的だからこそ、余計な情報まで伝えるのは違う気がしたのだ。

 それでも、好きだという気持ちを隠さず話した瞬間、「え〜!ここまでの美少女ちゃんに好かれる優希くん羨ましっ」なんて、結局茶化されてしまい、思わず顔が熱くなる。

 

「え〜面白そうじゃん!で?その問題のレストランがあれなんだ?」

「そうそう……で、さっきからずっと尾行してたの」

『元は私が言い出したんだけどね……。でも、完全に黒ってわけでもないし、グレーなら確認するべきじゃない?って思って』

「なるほどね〜。まだ告白前なんだよね?だったら、そりゃ気になるかも。……うーん、でも確かに知らない顔かも。誰だろう、あの子」

 琴音はそう言いながら、レストランの窓際に植えられた茂みの影に身を屈め、店内の様子を覗き込む。その姿は、どう見ても不審者一歩手前なのに、妙に手慣れていて、むしろ“任務中”みたいな落ち着きすら感じた。


「……琴音ちゃん、慣れてる?」

「え?いや別に?ただ、こういうのって勢い大事じゃん?」

 勢いでどうにかしていい問題なのだろうか───そんな疑問を抱きつつも、私もその隣にしゃがみ込む。

 こうして、ひよりの通話越しのサポートに加え、琴音という現地戦力を得た私たちは、再び“問題のレストラン”へと戻るのだった。


**


「どうだ?満足か」

「ん〜!めっちゃ美味しかった!やっぱり人のお金で食べるハンバーグさいっこー!」

 俺は買い物を終えてから、バスで少し移動した先にあるハンバーグが美味しいファミレスチェーンに足を運んだ。外の暑さから乖離されたこの空間で、目の前に来たハンバーグステーキを口にする。

 ───正直、もちろん美味しいが、やはり俺のお母さんが作る特性ハンバーグに勝るものではないと思ってしまう。


「お前なぁ……人の金で食べるって、言い方他にあるだろうが」

「え〜?奢ってくれるって言うなら容赦なく私は贅沢させていただくもん!」

「ほんと、気の使えないやつだよ……」

「はぁ!?気の使えないだなんて失礼なー!」

 相変わらず、こいつといると必ずプロレスになる。

 もう慣れたことではあるのだが。

 正直、何度も言うがこいつのブラコンぶりは伊達じゃない。これが単に、兄として信頼してくれていると言うだけのものならいい。

 だが、スキンシップを至極当然のようにやってくるとなると話が別だ。正直同じ家族のひとりがダル絡みしているこのシチュで疲れない方が異常だ。

 ───ましてや自分のハンバーグをフォークにとって食べさせようとしてくる。


「ったく、要らねぇよ」

「えー!なんで!ほら、あーんして!あれじゃない?優奈ちゃんとのイチャイチャ練習的な?」

「……だるいだるい。お前さぁ……嫌われたいのかよ」

「むぅ……こっちは善意なんだよ?」

「善意だ?んなわけあるか」

 ある意味「冷笑」とも言う表情で、俺はこの目の前の化け物を対処する。

 ───恋人でも親友同士でもなく、単なる家族で妹なのに、あーんさせてくるやつはだいぶイカれてるとしか思えなかった。

 ふと、美晴がクスッと笑顔を浮かべる。


「結局さ、優奈ちゃんのこと好きなの?」

「……っ。なんだよ急に」

「えっ?いやいや、言葉のまんまの意味。だって、ピクニック行くことになって……私が服屋連れていく形にしたけど、ちゃんと真剣に服選んでたでしょ?面倒くさそうには見えなかったよ?」

 ───実際、美晴は妹であるだけに、こういうところを見抜くのは妙に鋭い。

 普段は面倒なやつだし、適当にあしらってボケてやることも多い。兄妹の軽口で済ませてしまえる関係だ。けれど、“俺の本音”に関してだけは、どういうわけか誤魔化しが効かない。


「……それはまぁ……そうかもしれないけど」

「まだ告ってないんでしょ?」

「当たり前だろ」

「……ふーん。でも、告らないと……冷めちゃうかもだよ?」

「告白しないと冷めるってどういうことだ?」

 そう問い返しながらも、その意味を理解できていないわけではなかった。


「今の関係を詳しく詮索する気はないよ?けどさ〜、なんて言うか……モタモタしてたら、他の人に取られても知らないよ?って話」

「……」

 美晴は、俺と優奈が“仮の恋人”であることを知らない。

 だからこそ、言葉はただの一般論として投げられているはずなのに───妙に胸に引っかかる。


「だんまりしちゃって。別に認めればいいのにって思うけど?」

「認めるっていうか……」

 言いかけて、言葉が続かない。

 好きだと口にするのは、簡単なはずなのに。

 でも、それを誰かに打ち明けるという行為そのものに、どこか躊躇いがあった。軽々しく外に出してしまえば、形が変わってしまいそうで。まだ曖昧なこの関係を、言葉で固定してしまうのが怖いのかもしれない。

 優奈に対して抱いている感情は、確かにある。

 けれどそれは、誰かに相談して整理するようなものでも、励ましてもらうことで前に進むようなものでもなくて───。

 自分の中で、静かに確かめていくべきものだと、どこかで思っていた。


「ま、認めようが認めまいが、私の目はごまかせないけどっ」

「……ったく」

 軽口に戻った美晴に対して、そう返しながらも。

 俺は、自分の気持ちを誰かに打ち明ける未来を、まだ想像できずにいた。


「でも、何となくだけどさ。……今のままだと、良くない気がするよ?」

 手元のアップルジュースをくるくると回しながら、美晴がぽつりと呟いた。

「正直……優希兄ちゃんは、絶対どこかで行動起こさないといけないと思う」

 ───行動を起こすべき。

 その言葉が、妙に胸の奥に引っかかった。

 今の俺と優奈の関係は、どうなんだろうか。

 形だけとはいえ恋人で、傍から見れば十分すぎるほど仲も良い。笑い合って、出かけて、距離だって近い。

 ……だけど。

 本当に俺は、“何か”をしてきただろうか。

 ピクニックも、膝枕も、距離を縮めるきっかけになったあの時間も───思い返してみれば、全部優奈の側から差し出されたものだった。

 俺は、それを受け取っていただけなんじゃないか。

 仮の恋人関係。

 それを理由に、どこかで甘えていたのかもしれない。

 踏み込まなくても、この心地よさは続いていくと、無意識に思っていたのかもしれない。

 でも───それで、優奈は俺を信じられるのだろうか。

 彼女はまだ、自分の過去を俺に話していない。

 それでも隣にいてくれるのは、信じようとしてくれているからだ。

 なのに俺は、その裏側に触れようともせず、“今のまま”に留まっている。それは、優しさじゃない。

 ただの逃げだ。

「行動……か」

「何となくだよ?でもさ、話聞く感じだとずっと平行線じゃん?」

 美晴はストローを咥えたまま、じっとこちらを見る。

「大切にしたいならさ。お兄も、何かひとつやふたつ……ちゃんと自分からしてあげないとだよ」

「……」

「まぁ、詳しくは私も知らないけど。でも、考えてみてもいいかもね」

「……そうか」

 短く返事をしながら、胸の奥に残る違和感を噛み締める。

 俺は───優奈のことが、好きだ。

 だからこそ。

 “受け取るだけ”じゃ、きっと足りない。


「ピクニックデートだってそうでしょ。そのお誘い、相手からでしょ?」

「……」

 その通りだった。

 大切にする、守る。この答えは、この関係を留めること……なのだろうか?

 俺にとって優奈はどんな存在なのだろうか。

 単に仲良しで、仮の恋人?いや、そんな関係ではないと思えていた。だから、気軽に「好き」という気持ちを外に出すべきではないのは、正解ではある。

 愛しているつもりなだけの「好き」は、意味を成さない。これは事実だ。


 でも……。

 愛していると言うことは、どういうことなのだろう。

 相手を大切にしたいのなら、何をしてあげないといけないのだろう。初めて、美晴の言葉にここまで悩まされることとなった。


「さ、そろそろ出よ!次の店あるんだ!」

「……あぁ、行くか」

「この話は、優希兄ちゃんの宿題ってことで!」

 美晴はそんな俺の様子をあまり深堀せず、切り替えてお店を後にしていく。俺もその後を続くことにした。


**


 ───数時間。気が付けば、かなりの時間が経っていた。

  優希くんの姿をひたすらに追いかけ……時には見失いかけながら、それでも必死に視線を探し続ける。結局のところ、こんな行動は「嫌われていたら怖い」という、ただのエゴなのだと思う。それでも、確認したいという気持ちだけが先行してしまう。

  あの後、優希くんは例の女の子と、二、三軒ほど店を回っていた。正直、追いかけているだけでも疲れる。でも───その距離感を見ているだけで、胸の奥が締め付けられる。


「……」

  ちなみに、ここまでひよりと琴音にも同行してもらっている。私が無理に引っ張ってきたわけではなく、ただ一緒に来てくれているだけ。ありがたくはあるけど……同時に、申し訳なさもあった。

「あちゃ〜……これ、結構距離近いっていうか……相手の女の子、なかなか強気タイプ?」

「……どうなんだろう。でも、正直かなり親しそうにしてるし……ボディタッチも多いし……」

『……これ、グレーより黒寄りじゃない?え〜……でも、私も信じたくないなぁ。優希くんがそんなに簡単に気持ち変えるタイプとは思えないんだけど』

  ひよりは状況を冷静に分析してくれて、琴音は結果そのものよりも、どこか客観的に眺めているような反応をしている。実況役……というのが一番近いかもしれない。まぁ、それも無理はない。琴音は、ひよりほど私と優希くんの関係を知っているわけではないのだから。


「どうしよう……正直、突撃したい気持ちはある」

「……ありじゃない?ここで『私が彼女でーす』って見せつけてやってもいいんじゃない?」

「……うっ……そ、それは違うじゃん……?そもそも付き合ってる訳じゃないし…」

  確かに、優希くんには仮の彼氏になってもらっている。ナンパ防止という名目ではあるけれど……そう主張する権利が、全くないわけじゃない。

  でも───それを、琴音の前で“そういう形”にしてしまうのは、何かが違う気がした。


『わたしは…行くべきな気がするよ』

「ウチも同意見」

「……」

 ふたりがそういうなら───突撃しよう。

 けど、どうやって?優希くんになんて言えばいいのかな…?それに、相手の女の子は私のことを多分知らない…だって、同級生だとしたら顔で大体わかるけど、見覚えのない顔だから。

 じゃあ、私が仮に、「優希くんの彼女だから離れて」みたいに言うことがあったとしたら……。相手はそんなつもりじゃなかったら…ううん、ダメダメ。これはなし。

 でも・・・落ち着いていかないと正直変な人に思われそうでそれもできるかわからない。

 そんな中、アドバイスしてくれたのはひよりだった。

『こういう時でも、優奈の気持ちを叫ぶつもりでいいと思う。冷静にいけなんて、多分難しいと思うし』

「私の気持ちを・・・?」

『そうそう。まぁ本音で語るんじゃなくて、ストップというか、ずっと見てたことを真っ先に伝えないと!』

 その意見に隣の琴音も頷いた。

「確かにね〜まぁ、付き合ってないんだし、彼女だから!って凸るのも違うもんね〜。だから、その場の勢い任せってわけ!」

「勢いか・・・」

 優希くんはまだ買い物をしている最中。仕掛けるなら、買い物から出てきてからだろう。

 時間も限りがあるし、そのまま見失っちゃうともう追いかける体力もない。でも、ここで事実関係をはっきりさせておかないと、正直不安で仕方がない。

 だって・・・これまで私が、優希くんが好きだからこそやってきたアプローチの数々。なのに、全て空振りで終わるなんてそんなの絶対に嫌だ。だったらせめて、ここではっきり白黒をつけたい。

 その結果が、単なる勘違いで終わるのか、それとも、本当に大切な人だったとしても。

 まあ、もし後者なら私はしばらく立ち直れないけど。120%凹むと思う。


「私、行ってくる」

 その言葉を発した時、私は時すでに歩み始めていた。

 その姿を見てひよりと琴音は、「わかった」と言わんばかりに見送ってくれた。琴音は、「絶対あとで聞かせてよ!」と返し、ひよりは「これで優希くんが裏切ってました展開なら私から殴りかかりにいくから!」と言わんばかりの目をしていた。

 正直、結果が知りたいだけなのに、アドレナリンが溢れていて止まれなかった。

 なんて話しかけるかなんて考えてないけど。

 これ以上、ただ観察してるのは正直辛かった。


**


「疲れたぁ……。マジで歩き回ったね、優希兄ちゃん」

「どっちかと言えば、お前に連れ回されていただけなんだがな」

「連れ回したぁ? 人聞き悪いなぁ! 華麗なる妹として、お兄ちゃんの『最高のデート』に向けたコーディネートを整えてあげただけですよっ!」

「……その『華麗なる妹』って設定、マジで意味がわからん」

「ちょっと、ガチトーンで引くのやめてよね!?」

 ショッピングモールの出口。夕景の風が、少し火照った肌に心地いい。

 結局、美春の厳しい審美眼によって、服数点にスニーカー、アクセサリーまで買い揃えることになった。学生の財布事情ゆえ高価なブランド物ではないが、どれも俺の好みを理解した上での「外さない」チョイスだ。

 隣の美春は、満足げにぐーっと背伸びをしている。なんだかんだ世話になったのは事実だし、以前から欲しがっていたものを「報酬」として渡すことにした。

「ほら。今日のお礼だ」

「えっ、何これ。開けていいの?」

「ああ。タダで付き合わせたわけじゃないしな。意外と参考になったから、せめてもの礼だ」

「えっ!? 待って、これ前に欲しいって言ってたやつじゃん!」

 包みを開けた美春の目が、パッと輝いた。

 数ヶ月前にしれっと呟いていたのをたまたま覚えていただけだが、これほど喜ばれると悪い気はしない。

「え〜、めっちゃいい匂い! ありがとー! さすが優希兄ちゃん、もてもてな理由が分かりますな〜」

「……なんでそうなる」

「だってさぁ、こういう気遣いが自然にできて、しかも何気ない一言を覚えてるってマジで神なんだよ。そりゃ女子は放っておきませんわ」

「別に、今回はたまたま覚え──」

 

 言いかけた矢先。背後に、切羽詰まったような激しい足音を感じて、俺は振り返った。

「優希くん……! ちょっと、その女の子……誰なの!?」

「うおっ!? 誰……って、優奈!?」

「はえっ!? 誰っ!?」

 突然の銀髪の襲来に、俺と美春は揃ってフリーズする。

 そこにいたのは、明らかに動揺し、肩で息をする優奈だった。

「誰……って、えっと。紹介するよ、美春。俺の妹だ」

「────え?」

「妹。……ああ、そうか。顔を合わせるのは初めてだったな」

「……」

「ん? いやちょっと待って!? え、まさか……優希兄ちゃんが言ってた、あの白雪さん!?」

「えっ!? // ゆうきにいちゃ……? あ、そう、白雪優奈っていうの。えっと……」

 優奈の様子が明らかにおかしい。

 なぜ、このタイミングで彼女がここにいる? ここは彼女の家からも遠く、住宅街の一角だ。偶然にしては出来過ぎているし、何より第一声が「誰なの!?」というのは──。

 ……まさか、俺の後にくっついてきていたのか?

 嫌な予感が頭をよぎる。だが、それを直接問うのはあまりに無粋だろう。俺は言葉を選びながら、静かに問いかけた。

「……優奈、どうしてここに?」

「えっ!? え、えっと、その……たまたま、見かけた時に、知らない女の子と楽しそうだったから、その、誰なんだろうなーって……」

「……もしかして、美春が怪しく見えた、とか?」

「うぅ……」

 優奈は指先を落ち着かなげに絡め、視線を泳がせている。

 答えは明白だった。俺の隣に女子がいるのを見て、いても立ってもいられなくなったのだろう。

 だが、事態をややこしくしたのは、隣で「私、何もしてません」とばかりに上目遣いをしている『距離感ゼロ』の妹だ。

「……事情はわかった。優奈、勘違いさせてごめん。この子は美春っていう俺の妹だ。他意も、恋愛感情もありえない。……それで、美春? お前なぁ」

「いやいやいや!? これ私が悪い展開!? せっかくデートの服選んであげたのに!」

「お前がベタベタくっついてくるから、誤解を招いたんだろ。少しは自重しろ」

「ええっ!? ……だとしてもさぁ! っていうか、優奈さん、美人すぎて萎えるんだけど。お兄ちゃん、贅沢すぎない?」

「話を逸らすな」

「ううぅ……ごめんなさい。……って、謝るの私なの!?」

 散々妹を説教してから、俺は改めて優奈に向き直った。

 彼女は自分の過失──尾行までしてしまったことに、ひどく打ちのめされているように見えた。

「優希くん……本当に、ごめん。私の勘違いで、こんな……」

「優奈が謝ることじゃないよ。こればっかりは、無駄に紛らわしい動きをしてた俺と美春の責任だ。……それにな」

「え?」

「『あんな話(仮の恋人)』を承諾した以上、俺が裏切るような真似は絶対にしない。俺は、嘘をつく人間にはなりたくないんだ」

「────っ。……う、うぅ……よかったぁ……」

 優奈の目から、張り詰めていた緊張が涙と共に零れそうになる。

 

「あの〜、私、そんなに紛らわしかったかなぁ……?」

 空気を読まない美春の問いに、「紛らわしいだろ」と内心でツッコミを入れた。


**


(待って……恥ずかしすぎる!! 尾行までして突撃して、結局、実の妹さんだなんて……!!)

 名前は聞いていたけれど、まさかこんなに可愛い妹さんだとは思わなかったし、あんなに距離が近いなんて……。

 

(でも、優希くん……優しすぎない……?)

 普通なら、隠れて後をつけていたなんてバレたら、気味悪がられて嫌われてもおかしくない。なのに、彼は私を責めるどころか、自分の責任だと言って、真っ直ぐな瞳で「裏切らない」と誓ってくれた。


(……これ、ひよりたちになんて報告しろって言うのよ……!?)

 今日一日の自分の行動をリプレイして、頭を抱えたくなった。

 元を正せば、ただの買い出しに出かけた先で、偶然優希くんを見つけたのが始まり。それだけなら良かった。なのに、隣に見知らぬ美少女がいたものだから、心臓が爆発しそうになって──気づけばひよりに鬼電していた。

 

 ひよりはひよりで、「尾行した方がいい」と焚きつけてくるし、途中で合流した琴音にまで相談しちゃって。三人で散々あーだこーだ言い合った末の、あの決死の突撃だったのに。

「俺の妹だよ、美春。──初めましてだよね?」

 ……って、いや、恥ずかしすぎて死ぬ!!!

 何そのベタな勘違い! 疑って勝手に絶望して、ストーカー紛いのことまでした私が完全に悪役じゃない……!!

 結局、あの後は優希くんと美晴ちゃんを交えて軽く話をしたけれど、正直生きた心地がしなかった。ひたすら平謝りしてその場を切り抜けたものの、最後まで顔が熱くてまともに目も合わせられなかったし。

 

 これ、どうやってあの二人に報告すればいいの……?

 でも……。

(優希くん、裏切ってなくて……本当に、本当によかった……)

 胸の奥に灯った安堵の熱が、恥ずかしさを少しだけ上書きしてくれたような気がした。

 琴音にはその場で「付き合ってる人じゃなかったみたい」とだけ伝えたら、「ほんと? 良かったじゃん!」と快活に笑って、それ以上深く追求してこなかったのが唯一の救い。

 けれど、ひよりには……正直に言うしかない……よね?

 私のトラウマを知りながら、ずっと親身に恋愛相談に乗ってきてくれた大親友にだけは、嘘をつくなんて絶対にできないから。


 『後悔は一生、恥は一瞬』という言葉がある。

 この言葉を自分に言い聞かせれば……私の行動も、結果論なら「正解」だったってことだよね……?

 だって、もし本当に裏切られていたとして、それを一生知らないまま騙されているくらいなら、当たって砕けて真実を知った方がマシだし。……いや、そもそも裏切ってなかったんだから万々歳じゃん!!

 そうだよね!? 私、間違ってないよね……!?

(……ううぅ、やっぱり無理。恥ずかしすぎて死ねる……っ!)

 心の中のポジティブ優奈とネガティブ優奈が激しく取っ組み合いを繰り広げる。

 その場に居合わせた琴音に「じゃあ、また今度ね……!」と、今にも消え入りそうな声で挨拶を済ませ、私は逃げるように駅への道を急いだ。

 駅へ向かうアスファルトの上、先程の優希くんの声が何度も、何度も脳内でリフレインする。

 困惑したような眉の下げ方、妹を窘める時の少し呆れたようなトーン。そして何より──。

『一度約束した以上、絶対に裏切らない』

 真っ直ぐに私を射抜いた、あの瞳。

 思い出すだけで、夕暮れの涼しい風すら生温く感じるほど顔が熱くなる。

 

 彼にとっては、ただ誠実であろうとしただけの言葉だったのかもしれない。

 けれど、嘘と打算にまみれた「告白」で一度死んだ私の心にとって、それはあまりに眩しすぎる光だった。

(優希くんはどんだけ私を魅了したら気が済むの……)

 駅のホーム。滑り込んできた電車の窓に映る自分の顔は、自分でも見たことがないくらい、だらしなく緩みきっていた。

 

 恥ずかしさは一瞬。でも、彼がくれた安心感は、きっと一生忘れない。

 ……ピクニックデート。

 もう、疑うための準備はいらない。

 今の私に似合うのは、きっと偵察用の地味な格好じゃなくて、彼が「可愛い」って言ってくれるような……最高の私だ。

「……お弁当、私からも作ってみよっかな」

 独り言が、電車のドアが開く音にかき消される。

 優希くんは料理上手だけど、私だって真似したい。あんなに料理上手なんだし学ばせてもらったんだし。

 私は、昨日までの自分とは少し違う足取りで、明日へ続く一歩を踏み出した。


 恥ずかしさの裏で、私の心を満たしていたのは、頑張って良かったと思った自分と、裏切られていなかったという安心感だった。

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