【第15話】甘い時間は彼女の膝の上で
「んんぅ…!!朝かぁ……」
夏らしい日差しがカーテンの隙間から差し込み、少し蒸し暑さを感じる頃、優奈は目を覚ました。
手足を思い切り伸ばし、カーテンを開ける。普段なら目覚ましがないと起きられない私だけど、今日の朝は自然に6時ぴったりに目が覚めた。
「はぁ〜…優希くんに会いたい…あ、いや、それより…」
昨日の夜やり残したことを思い出す。ひよりに遊園地デートの結果を報告していなかったのだ。義務ではないけれど、これまでたくさんアドバイスをもらってきたし、ちゃんと伝えないと。
「あ…ひよりからLINE来てる…。えっと、『遊園地の件、暇な時教えてー』……今なら起きてるかな?」
夏休みのこの時期、ひよりがまだ寝ているかもしれないと思いつつ、私は電話をかける。信頼し合ってる仲だから、これくらいなら大丈夫。ひよりの性格も、昔からよく分かっている。
「もしもし?」
『んっ……ぁい……?おは……にょ……』
「ちょっと…寝起きすぎでしょ」
『アラームかと思ったら……優奈じゃん……』
「何?私と優希くんの遊園地デートの報告、聞きたくなかったの?」
『ふぇ……?あ、遊園地!?聞きますっ!』
「あはは…めっちゃ食いつくじゃん……」
電話越しでも、ひよりの目がキラキラしてるのが分かる気がした。
『ちょっと待って…!顔洗ってくる!親友の恋愛報告なんて…こんな寝起きブサ顔で聞いちゃダメっ!!』
「あはは…顔見えてないんだからいいじゃん。それともビデオ通話のつもりだった?」
『そりゃそうだよー!優奈のお顔はね、マジで超可愛い天使ちゃんなんだから!朝からそのご尊顔を拝めるのは親友の特権!』
「やだもう…恥ずかしいんだけど…」
スマホ越しに、ドタドタと走り回る足音が聞こえる。この子はほんと、私の恋愛事情になると行動が早すぎる。
でもそういうところ、昔からずっと変わらない。
それに、どこか“恋愛に焦らない強さ”みたいなのも持ってる。「私は魅力あるし、いつでも彼氏作ろ〜っと」みたいな、妙な余裕。
私からすれば、まさに恋愛マスターだ。
数分後、ひよりがビデオ通話に切り替えて戻ってきた。
「あ、ビデオになった」
『私が変えた〜!いや〜相変わらず今日も可愛いねー!寝起きなのにその破壊力どうなってんの!?』
「ひより…そのテンション、朝から全開なんだけど」
『え〜いいじゃん別に!だって遊園地の件、ずっと気になってたんだから!』
「……わかった、話せる範囲で話すね」
『いやいや、もはや“範囲”とかいらないから!ぜーんぶ話してよ!どうせめっちゃイチャついてたんでしょ!?』
「うぅ……それは……//」
スマホ越しに、ひよりの顔がどんどんニヤけていくのが分かった。ほんとこの子、どんなときも私の恋を全力で応援してくれる。
からかわれてるのに、なんか少し嬉しいのは……親友だから、なんだろうな。
「えっとね……とりあえず順番に話すね……」
───一通り、遊園地での出来事を話した。
ジェットコースターで優希くんが怖がってる隙に、思い切って手を繋いだこと。
あまりの恐怖で気絶しちゃったのに、目を覚ました瞬間に理系トークを始めて、思わずぽかんとしちゃったこと。
お化け屋敷では、私が怖すぎて優希くんの腕にしがみついちゃったこと。
そして──観覧車で、あの沈黙と鼓動の時間を共有したこと。
最後には、深夜まで余韻のまま通話して……気づいたら日付が変わってた。
「いったん……ここまで、かな」
『あらぁ〜!最高じゃないっすかそれぇ〜!深夜に通話とか青春ど真ん中じゃん!!』
「ちょっと…そのテンション近所のおばさんなの?朝から濃いよ…」
『だってさぁ、手ぇ繋いで、腕に抱きついて、観覧車とかさ?優奈さん、それ“恋してます”って全身で叫んでるようなもんだよ!?』
「うぅ……やっぱり、そう見える?」
『見えるどころか、見せつけてるレベル!しかもさ、腕に抱きついたってことは──』
「ま、待ってその先言わないで!」
『お胸、当たってたよね〜?絶対!』
「ちょ、ちょっとひよりっ!?//」
『え〜?なになに〜?図星?それとも〜、まさか狙って──』
「ば、ばかぁっ!そんなわけないってばっ!!」
スマホ越しに、ひよりの笑い声が弾ける。
こっちは顔が真っ赤。
でも……確かに言われてみれば、あのときの距離感、かなり近かったかも。
優希くん、あれ……平気だったのかな。
私……意図せず、刺激強すぎることしちゃったかも……。
みんなから言われるけど、私……胸、あるし……。正直、大抵の人は目が胸元に行きがちだし。
「……あぁ、もう……思い出しただけで恥ずかしい……」
『優奈がそうやって照れてるときが、一番可愛いんだよね〜』
「ひより、もう黙って……//」
『やだー!だってさ、私と同い年なのに、なんでそんなにおっぱい大きさ違うの!マジ意味わかんないんだもん!』
「そ、それは関係ないってば!」
『関係ある!私、元彼にずっと貧乳いじりされてきたんだもん。羨ましいんだよぉ〜』
「そ、そう言われても……」
ひよりはすぐ話を逸らして面白おかしくするのが得意だ。こういうデリケートな話題でも、笑いに変えるから、こっちは困る反面、なんか微妙に安心してしまう。
「と、とりあえず話戻すね……!」
『はーい。しょうがないなぁ』
「えっと……どこまで話したっけ?」
『お化け屋敷で腕に抱きついちゃったところだね』
「あーそれだ。でね……実はまだ全部じゃないの……」
『え、まだ何かイベントあったの!?』
「……うん」
言葉を濁しながら、私は指先を無意識にいじっていた。
心臓の鼓動が、喉元までせり上がってくる。
これを話すか話さないかで、きっと何かが変わってしまう気がしていた。
でも、黙っていることの方が苦しかった。ひよりには、全部聞いてほしい。
──あの日、私と優希くんの間に生まれた“仮の関係”のことを。
「えっと……その……」
『なになに?言いづらい的なやつ?』
「う、うん……。なんと言うか……」
『えっ……まさか告ったとかじゃないよね?!』
「そ、それは違うけど……!近い……というか」
『近い……?え、気になる!』
「……」
ひよりの軽いノリに、少しだけ救われる。
けれど、言葉を口にする瞬間が近づくほど、胸の奥がきゅっと締めつけられた。
自分でも、この関係をどう説明していいのかわからない。
でも、言わなきゃ──。
「優希くんと、仮の恋人関係になった」
『おぉー!!おめでt───ん…???』
「あ、えっと…実は色々あってさ……。その、遊園地歩いてる時にナンパしてきた人がいて、その人に対して優希くんが、『彼女だからやめてください』って守ってくれたの。それで────」
『あー……ね?えっとぉ…ちょっと理解する時間をくれる?』
「……うん」
ひよりの反応は想像通りだった。驚き、そして少しの沈黙。
けれど、その静けさの中で私は焦っていた。
やっぱり変だったかな、こんなの。冗談でも「恋人」なんて名乗るなんて。
けれどあの瞬間、優希くんの声が確かに響いた。
──「彼女だから」って。
その一言が、何よりも嬉しかったのに。
『要するに?優奈のナンパ防止策として優希くんに仮彼氏になってもらってると、これが表向きな理由?』
「う、うん……」
『けど……今の私のリアクションで、結構不安になってそうだったけど……何かしら後悔的なものあるんだ?』
「まぁ……そうかも。よくわかるね…」
ひよりの声は柔らかくて、どこか見透かされた気がした。
そう、私は後悔していた。
もっと素直に気持ちを伝えるチャンスはあったのに、それを“仮”でごまかしてしまった。
その一歩が怖かった。壊れるのが怖くて、曖昧にした。
『まぁ、表情見りゃね。けど……。いや〜流石にもったいないことしたんじゃない?私が思うに、優奈がそんなこと言い出すって、まさに信頼の現れじゃん?それを優希くんが受け止める方針にしてるなら……ねぇ?』
「ほ、ほんとに……?やっぱり間違えたのかな……?」
『えっ?いやいや、間違えではないよ。まだ何とかなる!』
「……」
『結局、告白しとけばOKしてくれたかもしれなくてタイミング逃しちゃったかもしれないってことでしょ?まぁでも……これも考え方次第でいい意味に変えられるよ。パラダイムシフトってやつ!』
「ひより……私はどうしたらいい……?ちょっと、優希くんに引かれたくないから助けて……」
声が少し震えた。
あの発現以来、優希くんの優しさが、前よりもずっと近く感じられる。
でもそれが、仮のものだと思うと、どうしても怖くなる。
終わりが来るのがわかっている関係なんて、残酷だ。
『まぁまぁ落ち着いて。状況はわかったよ。じゃあ、順を追って結論を話すよ。まずは、これがあくまで仮の恋人関係って事に着目すると……これはすぐ終わりを迎える。この意味はわかる?』
「う、うん……」
『仮ってことはお試し期間みたいな意味だよ、仮の関係は意外とすぐ終わりが来ると思う……きっとね。それまでに優希くんの気持ちを動かす必要がある』
「……やっぱり優希くんの気持ちを動かさないとダメ?」
『そりゃもちろん。この流れだと、私はもう近いうちに優奈と優希くん繋がる未来見えるもん』
「ほ、ほんとに!?私……優希くんと……!」
『ちょっとー、これは優奈が行動できるかで変わるよ。一旦落ち着こね』
「……うぅ……はい……」
“行動する”──その言葉が胸に残った。
受け身でいるだけじゃ、何も変わらない。
あの仮の関係を、本物にしたいなら、自分から動くしかない。
そんな当たり前のことを、今やっと理解した気がした。
『えっとね。例えばね?よくあるサブスクで、最初の1ヶ月無料のお試しをしたとするじゃん?んで、そのお試しでやってみた結果、めっちゃいい!ってなると契約して本格的に使い始める……。今の優奈達の関係は、このお試し期間と同じ』
「……なるほど……めっちゃ分かりやすい…」
『つまり。この期間のうちに、優希くんが優奈に夢中になるようにアプローチしないと危ないってこと。仮の関係じゃ満足できない!付き合いたい!って思わせないと……振り向いてくれない』
「……仮の関係じゃ満足できない……か」
『今から優奈はセールスマンになれってこと!自分の魅力をアピールするの!』
「……なるほどね…」
『私が思うにね?今まで以上に誘惑して、揺さぶってあげるのがいいと思う。ボディタッチとまでは行かないけど……優奈の思う恋人らしいことを全力でアプローチしてあげれば……かなり可能性高いね!』
ひよりの言葉は、どこか現実的で、でも優しさに満ちていた。
私の中でくすぶっていた迷いに、光を差すような言葉。
「仮の恋人関係」なんて、ただの言い訳。
本当は、最初から本気だった。
──だったら、もう迷う理由なんてない。
「アプローチかぁ……何がいいかな……?」
『まぁ、それは私が指摘するまでもなくない?優奈が思う、キュンてするシチュエーションを考えよ!』
「えぇ……」
正直、中学生の頃のあの恋愛はトラウマのせいでもうほぼ覚えてない。どんなことをしてくれたかとかも込で。
なのに、一番肝心とも言えるアプローチの仕方について、ひよりは言及してくれないみたい。これはまるで、ここまで来たら自分で考えろと言われてるみたいだった。
『別に考えなくていいんだよ!優奈の寄せる想いを、優希くんにぶつければいいの!ちょっとくらい刺激あげた方が揺れるからっ』
「うーん……やってみるけど、暴走しそうじゃない?私」
『いや、いきなりキスとかしなければ大丈夫!』
「き、き、き、キス!?それは流石に……!」
『あーでも……いつか、キスを迫ってもいいと思うよ……?優希くんが「堕ちた」と思ったタイミングでさ!』
「はゎわぁ……!キスはやばい……っ!」
『あはは!少女漫画の読みすぎだぞー優奈。あ、優奈の場合は小説か』
「だ、だって……!じゃ、じゃあ……」
ひよりが止めないなら、大胆にいっちゃっていいんだよね……?えっと……やっぱり何すればいいの!?
『いいね〜青春してんね〜。優奈ったら、ほんといい男の子見つけたじゃん』
「ぜ、絶対盗らないでよね!」
『あはは、取らないって!ここまで相談に乗っておいて最後取るとか終わりすぎだし!』
「だって……ひよりこそ、魅力的だし……!」
『え〜そんな事を学園1の美少女と名高いあなたから言われても困るってば〜』
「か、からかわないでよ……!だいたいそういうの、変に噂されてるの大抵変な男子たちのせいだし……っ」
『まぁね〜。でもさ、優希くんから「学園一かわいい」って言われたら?』
「……っ!」
想像する。
優希くんはたしかに、私のことを可愛いと言ってくれる。けど、あの人はいつも控えめで、具体的な言葉はくれない。
でも、もしその優希くんが「学園一かわいい」なんて言い出したら……?
脳内で再生されたのは、優希くんの低くて優しい声。少しだけ近づいた距離、逃げられない壁際。
『優奈、君は学園一……いや、世界一可愛いよ』
───かぁぁぁぁ!!破壊力やばいって絶対!!
「や、や、やっぱりこの話やめない!?//」
『ほら〜妄想しちゃって〜。仮の関係が本物になれば、そんな妄想が現実になるんだぞー?』
「……うぅ……この妄想が現実に……」
『しかもさ!今この時期って、めっっちゃチャンスなんだよ。だって“恋人練習”って言い訳すれば、どんなアプローチでも許されるんだもん!やりたい放題じゃん!』
「そ、そうかなぁ……」
でも、ひよりのその言葉が、胸の奥に小さな火を灯す。
そうだ。今の私なら、この妄想を――現実にできるかもしれない。
もう、怖がってばかりじゃダメだ。
私は本気で、優希くんの何もかもに惹かれてる。
恋愛なんて信じない。告白なんて信じない。そう誓ったはずなのに───それでも彼は、そんな私にもう一度“信じたい”と思わせてくれている。
「……もう、弱音吐いてばっかじゃダメだよね」
『そうそう!恋愛は行動が全て!早い者勝ち!優奈は家事代行バイトで優希くんが夏休みに来てくれるっていう、最強のチャンス持ってるんだから!夏休み終わるまでに彼氏にしちゃいな!』
「……うん。えっと……色々アピールしてみる」
『そうこなくっちゃ!それでこそ優奈だよ!私、もう優奈が恋で傷つくのは見たくないもん。……あんな可哀想な目にあった優奈には、絶対幸せになってほしい』
「ひより……かっこいいじゃん」
『ほんと?こほん……俺でよければ、優奈を幸せな人生に導いてあげるよ……』
突然のイケボ(?)の不意打ちに、思わず吹き出してしまう。
「……ふふっ、全く。私は優希くんがいいの!」
『えぇー!振られたぁ!?悲しい〜!うぇぇぇん!』
「ひよりが言ったら違和感すごいんだもん。てか、嘘泣き下手すぎるでしょ」
『いやそこは“ひよりちゃんこそ一番!”って言うところでしょ!?』
「ふーんだ!私は優希くんしか推さないもんっ」
『えーやだぁー!親友枠として絶対見捨てないでよねっ!』
「……もう、冗談じゃんっ」
不安とか、緊張とか、ワクワクとか。いろんな感情が胸の中でぐるぐる渦巻く。
そんな中で、ひよりのふざけた声がそれを少しずつ溶かしていく。
彼女はいつだって、私の心の硬さをやわらかくしてくれる。
だから私は、笑っていられる。前を向いて、恋をする勇気を持てるんだ。
電話を切ったあと、静けさの中に残ったのは──胸の奥でふつふつと燃える決意。
「……あんまり順を追わなくてもいいなら……大胆でもいいよね?」
ひよりの言葉がきっかけで、1つ名案を思いついた。
何かしらゲームをして、勝った方が負けた方に“命令”する──そんなルールで、恋人らしいことを提案する形式。
例えば、勝った方が負けた方に頭を撫でてあげる、とか。
命令だから、相手は逆らえない。……そういう、ちょっとした駆け引きのドキドキも味わえる。
小さい頃、私はボードゲームにハマっていた。
オセロやチェス、ボードゲーム以外にトランプも好き。今でも自室には、その頃のグッズが残っている。
きっと優希くんも、そういう頭を使う遊びは得意なはず。
頭脳明晰な優希くんに勝てる気なんてしないけど──それでもいい。
もし負けたとしても、優希くんの「命令」なら、私はきっと喜んで従っちゃう。
「……って、さすがに変な命令はしないよね?いや、優希くんなら……大丈夫。きっと」
ちょっとだけ不安。でもそれ以上に、心が弾む。
今日の家事代行では、彼に“勉強を教えてもらう”という名目で、1時間早く来てもらうようお願いした。
ママにはそう説明してあるけど……本当の目的は、もちろん別。
彼が来るまで、私は自室でひたすらに待ち続けた。
時計の針の音が、やけに大きく聞こえる。
この時間が、永遠みたいに長く感じた。
**
「今日は普段よりも1時間早く行かないとだったな……」
まだまだ続く焼き付くような太陽に照らされる町を歩く。今日も家事代行で白雪家にお邪魔することになっているが、1時間早く向かうことになった。
先日の夜、優奈から1時間早く来て欲しいと言われ、何も考えずに承諾したが何をされるのかは未知数。少しばかりの緊張に、それを上回る程のワクワク感が勝る。
「よし、着いた」
白雪邸に到着したタイミングでインターホンを鳴らす。
いつ見てもセレブすぎる豪邸も、気がついたら見慣れた光景になってきた。
インターホン越しに出てくれたのは優奈だった。
『あ、ゆ、優希くんだね!えっと……今開けに行くから!』
「あはは…緊張しなくても。ゆっくりで大丈夫」
『う、うん!』
インターホン越しでも、優奈は緊張してるみたいだ。
しかし、気持ちも否定できない。何しろ、仮の恋人という関係だ。どっちにしても、緊張するには仕方が無い事だろう。無論俺も、気持ちは同じだった。
門を開けた優奈は、白のフリルの着いたシャツにスカートを纏っていて、相変わらずその美貌の暴力に息を飲み込んだ。
「お待たせ。約束通り1時間前に来たよ」
「うん……ありがと。……じゃあ、早速入る?」
「あぁ」
促されるように家に案内される。
早速入ってみると、優奈の母親の梨花さんがリモートワークをしていた。
「あら、いらっしゃい優希くん。今日は優奈のお勉強のお手伝いよろしくね」
「えっ?あ、はい……もちろん」
「この後のやることについては…その時に言うから、ゆっくりしてらっしゃい」
「はい。いつもご丁寧にありがとうございます」
「じゃ、優希。私が案内するね」
「えぇ、よろしくお願いします」
「ふふっ、仕事モードの敬語使う優希くん、久しぶりな感じする……」
なるほど、優奈は俺が1時間早く来たことを、勉強の手伝いという名目にしてくれているらしい。
状況をすぐ飲み込んで把握できた自分に拍手してやりたいところだったが、まだそれは別の話だ。今はとにかく…この先の起こる出来事を想像してしまって落ち着きを保つのに必死だった。
「はい、ここが私の部屋。入って」
「……う、うん」
案内されたのは優奈の部屋。
当然、動揺する。なにせ、同級生の女子のプライベート空間だ。何があるかなどは嫌でも気にしてしまうレベルだ。目に飛び込むのは本棚にいっぱいの恋愛小説だ。
水色を基調としていて、とても整理整頓されている。まさに真面目で几帳面な彼女の性格を体現した場所とも言える。
「気になるものとかある?」
「えっ?い、いや、それはなんというか……聞くのも失礼じゃない?」
「ううん?全然失礼じゃないよ、私も答えられるものなら答えるよ」
「……。いや、やっぱり詮索はしないよ。プライベートな物を無闇に聞き出すのは俺が嫌だな」
「優希……わかった」
優奈のプライベートを無為に探るのはあまりにも失礼だろう。むしろ、初めてこの部屋に入ったというのに最初にすることがもしそれなら……かなりの終わってる人間だ。
とはいえ、恋人の練習をやるということは知っていたので…何とか話を切り出そうとすると、幸いにも優奈が話しかけてくれた。
「今日は……恋人の練習でしょ……?うーんと…考えてたんだけどね」
「うん、聞くよ」
「とりあえず……軽くゲームしよ!ほら見て!ボードゲーム系!」
優奈がそう言うと、近くの引き出しからいくつかボードを取り出す。ゲームを一緒の部屋でする……たしかに、恋人の練習初日しにしては悪くないかもしれない。
オフの時に、こういうゲームをするのはまさに「親しい仲」がやるようなもの。それに、まだこれは異性を意識しない範囲の遊びだからかなり安堵した。
「ボードゲーム?あ、チェスに……これはオセロ……。優奈って、こういうの好きなの?」
「昔好きでさ、よくママと対戦したりしてたよ。最近は悠真もハマって私と勝負したりしてる」
「へぇ……本格的だな」
「結構使い回してるんだよ。このオセロボードとか10年くらい前に買ったやつずっと使ってる」
少しホコリが見えるオセロボードは、見慣れた形をしていてかなり使い回したあとがあった。
ちょうどいいだろう。
これなら、軽く頭を動かしながら距離を詰められる。初めの練習と聞いて身構えていたものがあったがかなり安心しt……
「あ!これで勝った方は負けた方に恋人らしいことをするよう命令ね!」
「…………………………えっ?」
「えっ?いや、言った通りだよ。ただ遊ぶだけだとあれだもん。ゲームの後は恋人らしいことをするんだけど、勝った方が負けた方に命令する流れで!」
「……」
あれ……?
俺はてっきり、この「ゲームをすること」こそが恋人の練習だと思っていた。しかし優奈は、あくまでもゲームは前座で、勝ってからがメインみたいな言い回しをしている。
「ん?何かおかしいこと言ったかな?」
「……えっ!?い、いや……!えっと……今からやるゲームこそが、恋人の練習ってやつなんじゃ……?」
「え?」
優奈は一瞬きょとんとしたあと、ぱっと目を見開いた。
「いやいや……それはさ、距離感的にも普通すぎない?もっと恋人らしいこと、練習しないとでしょ!」
「……」
「それにね、勝てば命令できるんだよ?だから、今からやるゲームで勝てばいいの!」
「……なる、ほど?」
「つまり、勝った人が負けた人に命令できるってこと!王様ゲームみたいな感じかな?」
――ようやく、話が繋がった。
言わんとしていることは理解できる。できるが……問題はその“命令”の内容だ。
もし俺が負けた場合、どんな指示が飛んでくるのかは完全に未知数である。
以前、図書館で優奈がラブコメ小説を読んでいたのを思い出す。ああいうジャンルは、だいたい作者の妄想が全力で詰め込まれているものだ。
となると――いきなり距離感のおかしい要求をされる可能性も、正直ゼロではない。
……とはいえ。
ここまで乗り気な彼女の気持ちを、真正面から否定できるほど、俺は器用じゃなかった。
「まぁ……わかったよ。とりあえず、勝てばいいんだね?」
「うん。命令したいなら、勝てばいいってこと」
そう言ってから、優奈は一瞬だけ言葉を区切り、
「……まぁ、その……//」
少し視線を逸らしながら、続けた。
「───私に命令されたいなら……負けてくれても、いいよ?//」
「……っ……どういう意味だよ……」
その言い方は、あまりにも反則だ。
頬を赤く染めながら、ほんの少しだけ上目遣いで。
図星を突かれたわけじゃない。……はずなのに。
どんな命令が飛んでくるのか、気になってしまっている自分がいるのも、また事実だった。
話し合った結果、勝負はオセロに決まった。
白と黒のコマを使い、自分の色をより多く盤面に残した方が勝ちという、誰もが知っている定番のゲーム。
必勝法やセオリーがあることは知っているが、正直そこまで詳しくはない。角を取れれば有利になる、というくらいの知識しか持ち合わせていなかった。
「じゃあ、私が白ね」
「うん。じゃあ俺が黒」
シンプルだけど、意外と奥が深い。
……ただ今回は、単なるゲームじゃない。
これはあくまで“恋人の練習”で、その前哨戦みたいなものだ。
───この勝負の先に、何が待っているのか。
それを考えないようにするのは、もう無理だった。
床にオセロ盤を置き、二人で向かい合って座る。
優奈は自然な流れで、膝を揃えて横に流すような座り方になった。いわゆる女の子らしい座り方で、本人も特に意識していない様子だ。
夏らしい軽やかな服装も相まって、どこか無防備に見える。……見える、というか、近い。
オセロ盤は二人のちょうど間にあって、距離感としてはかなり近めだ。
「じゃ、先手は白の私ね」
優奈はそう言って、迷いなく中央にコマを置いた。
その仕草が妙に慣れていて、さっき言っていた“昔よくやっていた”という言葉を思い出す。
「……じゃあ、俺も」
黒を返す。
盤面はまだ静かで、序盤特有の探り合いが続く。
――はずだった。
視線を盤面に集中させようとするたび、どうしても優奈の存在が視界の端に入る。
コマを取るたびに、身を乗り出すような動き。
少し考える時に、無意識に膝の位置を直す仕草。
それら全部が、オセロ盤のすぐそばで起きている。
近い。
とにかく、近い。
「……次、どこ置くの?」
優奈が首をかしげてこちらを覗き込む。
盤面を確認しているだけなのに、その距離に心臓が一瞬跳ねた。
「……え、あ、ここ」
咄嗟に置いた一手は、正直そこまで良い手じゃなかった。
自分でも分かる。角を意識する余裕が、完全に削られている。
「ふーん……じゃあ、ここ」
ぱちり、と軽い音を立ててコマが裏返る。
一気に白が増えた。
「……っ」
まずい。
完全に流れを持っていかれている。次の手、その次の手も、優奈は迷わない。
対して俺は、考える時間が長くなるばかりで、その間にも集中はどんどん削られていく。
「優希くん、さっきから手止まってない?」
「……いや、考えてる」
「ふふ、真剣だね」
その一言が、妙にくすぐったい。
真剣なのは事実だが、理由はオセロだけじゃない。
気づけば盤面の白が、明らかに優勢になっていた。
「あ、ここも返るよ?」
優奈が指差す。
言われてから気づく自分が、情けない。
「……やば」
「もしかして、苦手?」
「いや……」
本当は、そこまで苦手じゃない……はずだ。それなりにいい勝負はできたはず。ただ今日は、環境が悪すぎる。
終盤になればなるほど、優奈から角を取られ、選択肢はどんどん減っていく。
「これで……終わり、かな」
最後の一手を置いた優奈が、盤面を見下ろして小さく息を吐いた。
数えるまでもない。
白が、圧倒的だった。
「……俺の負けだな」
そう言うと、優奈は一瞬だけ黙り込んでから、にこっと笑った。
「えへへ、やった。ねぇ…命令しちゃって…いいんだよね?」
その言葉に、心臓がどくんと鳴る。
さっきまでただのボードゲームだったはずなのに、空気が一気に変わった気がした。
「……何、するつもりだよ」
「ふふ……それはね」
優奈は少しだけ視線を逸らし、それから意を決したようにこちらを見る。
「……膝、使ってあげるから。ちょっと、横になって?膝枕…してあげるから」
――その一言で、理解した。
これはもう、オセロの続きじゃない。恋人の練習、その本番だ。
**
……膝枕。
その口実が、ちゃんと成立してしまった。
胸の奥で、小さくガッツポーズをする。
ドキドキと、嬉しさと、ほんの少しの罪悪感が混ざり合って、気を抜くと口角が上がってしまいそうだった。
……優希くんが、明らかに困っているのが分かる。
それが、少しだけ可愛くて――なんだか、愛おしい。
正直に言えば、オセロの最中、私の方を意識してる視線があったのには気づいてた。
でも……今日は、私もちょっとだけ意地悪だった自覚がある。
だから、そこはお互い様ってことで……。普段女の子をそういう目で見てない優希くんだからこそ、許せること。
(勇気を出して、ほんの少しだけ距離を縮めたんだから。……不可抗力、だよね)
それに――
優希くんが、ちゃんと男の子なんだって分かったこと。
それが、少しだけ……安心した。
……なのに。
その安心が、胸の奥で別の感情に変わり始めているのを、私ははっきり自覚してしまう。
なんでだろう。
ただ一緒にいるだけでよかったはずなのに。
触れなくても、近くにいるだけで満足だったはずなのに。
――もっと、ドキドキしてほしい、なんて。
そんなことを考えてしまう自分に、少し戸惑ってしまう。
「ねぇ、ここ……座って」
「う、うん……」
はっきり分かるくらい、優希くんの頬が赤い。
……やばい。可愛い。
私はベッドの端に女の子座りで腰掛ける。
優希くんは一瞬ためらって、「さすがに同級生の女の子の部屋でベッドは……」なんて言っていたけど、私は気にしなかった。
……他の男子なら、きっと私も気にしてた。
でも、優希くんには――
私を、少しだけ特別に近く感じてほしかった。
ひよりが言っていた。
これは、誘惑作戦。
仮の恋人を、本物の恋人へ変えるための。
優希くんの心を、少しだけ揺らすための作戦。
「……ど、どうかな……?」
躊躇いながらも、優希くんがそっと私の膝の上に頭を預けてくる。
その仕草が、いちいち丁寧で――髪の毛が膝に触れてくすぐったくなる。……ノーセットだと思うのに…すごくサラサラな髪…。
気遣いが滲み出ていて、胸がぎゅっとなる。
(……ほんとに、この人優しすぎる)
普段は、イケメンで。
勉強もできて、気遣いもできて、家事も運動もそつなくこなして。
そんな優希くんが、今はこんなにも緊張していて。
そのギャップが、どうしようもなく可愛い。
「えっと……その……」
少し間を置いて、蚊の鳴くような声で。
「……こ、心地いい……です……」
「……ほんと?」
そう聞くと、私は少しだけ肩の力を抜いた。
「……良かった」
……優希くんは、横向きに頭を預けたまま、外側を見てじっと固まっているみたい。
でも、私としては……もっと距離を感じてほしいのも事実。
だから、ちょっと意地悪してみたくなる。
「優希……」
「……あ、うん」
小さく応える声が、耳に心地よく響く。
その声だけで、心臓がちょっと早くなるのが分かる。
「……せっかくだからさ、仰向けで膝枕、どう?」
「……えっ?そ、それは……っ…。は、恥ずかしいというか……」
やっぱり照れてる。可愛い……っ
でも、無理に押しつける必要はない。だから、ちょっとだけ優しく背中をさするようにして誘導する。
「ふーん?命令は……絶対じゃない?」
「……うっ…わ、わかった……」
ようやく承諾したその声も、少し震えてる。
くすぐったいくらい可愛くて、笑いをこらえるのが大変だった。
「ふふっ、大丈夫……その……目のやり場に困るのかもだけど、別にそこまで気にしてないよ。多少目に入るのも、不可抗力だし……それくらいわかってるから」
優希くんは無意識に、自分がそういう目で私を見ないようにって抵抗してるみたい。
でも、仮の恋人なんだから……そんな遠慮はいらない。
友達ならまだしも、今は恋人の練習中。距離は近い方が、絶対いい。
視線が合うと、少し崩れた髪と横になった体勢が混ざって、自然と色気を感じる。
彼はまだ戸惑ってるのに、見てるだけで心臓がぎゅっとなる。
「……その……俺、変な顔してない……よね?」
「……うん。可愛いよ、優希」
小さな声で返すと、耳まで赤くなるのが分かる。
「……っ…!?なんですかそれ……」
「ふふっ、敬語に戻っちゃったじゃん」
ちょっと意地悪に言ったつもりが、優希くんはさらに照れちゃったみたい。
膝枕の柔らかさと、距離の近さ……全部、今しかできない練習。
少しドキドキしながら、私はこの時間を思い切り楽しむことにした。
「恋人らしい……かな?」
「……すごい距離の近さだけど……確かに、いいかもしれない」
「……ん?本音、漏れてない?」
「……あっ、今のは違くて!……その……」
「ふふっ、いいんだよ、全然。今は私たち、恋人の練習をしている人たちなんだから。……これくらいで十分だと思うし」
そう言って、私は優希くんの髪にそっと触れた。
指先が、毛流れに沿って自然に動く。
サラサラで、少しだけ暖かい。
……正直、幸せすぎた。
このままでいいんじゃないかって思ってしまうくらい。
私はあくまでも「仮の彼女」なのに、心だけはもう、そう割り切れなくなっている。
ひよりは、勿体無いって言っていた。今ならこの意味がわかる気がしている。だって、気を遣って、距離を測って、それでもこんなふうに心が満たされるなら………この関係を終わらせるのが怖くなる。
優希くんに気づいてほしい。でも、気づいてもらった瞬間に、この時間が壊れてしまう気もして。
本当の恋人になって欲しいって、今すぐにでも叫びたいって心では思うのに・・・喉の奥でその言葉は引っかかったままだった。
「こうしていると、ドキドキするね……なかなか斬新だし……」
「流石に……恋人の練習だとして、長くないかな……?」
「ん……?こうされるの、いや?」
「えっと……それは違う江戸……なんというか」
「なんというか……?」
「……人に甘えるなんて、何年振りだったかなって思って。……懐かしいというか」
優希くんは小さく息を吐く。
私の太ももに頭を預けたその姿が、いつもの「完璧な彼」とは違って見える。
かっこいいのに、どこか脆いようなものを感じさせている。
その時私の心の中には、自然と「守ってあげたいな」と思った。そして、その直後だった。
「……亡くなった姉のことを、少し思い出してしまっただけです」
**
しまった。言うつもりなんてなかったのに。
────あれからオセロで惨敗した俺は、優奈の膝の上に頭を預け、横になったまま髪を撫でられている。状況が状況なだけに、どうしても落ち着かない。
形式的なものだと、頭ではわかっている。
それでも、こうして誰かに……甘える経験なんて、数年振りだった。
亡くなった姉も同じだった。
昔の俺は、勉強が得意だったわけでもない。マイペースで、計画性なんて皆無。スポーツも、体を動かすのは好きだったが、筋トレや基礎練習みたいな面倒なことからは逃げていた。
それでも、そんな俺をずっと見守って、毛とめ、甘えさせてくれた存在がいた。
それが姉だった。
姉は生きていてくれる。
そんなの当たり前だと思ったのに。
────難病で、あっさりと奪われた。
妹の美春も、姉に甘えてばかりだった。
もちろん俺も。
そんな大切な存在を失った時、どれだけ涙を流したのかはわからない。現実だなんて、すぐには受け入れられなかった。
「────亡くなった姉のことを、少し思い出してしまっただけです。」
姉を失ってから、俺は必死だった。
自分を磨いて、誰からも頼られる存在になって、誰も失わせないような人間になるために。……そうやって努力はしてきたつもりだ。
でも、その過程で、弱さを置き去りにし、心に留めることしかできていなかった。大切な存在も、亡くなれば戻ってくるわけない。そんなこと、わかっていたのに。
こうした状況の中、俺はふと思った。
もしこれから先、自分が壊れそうになった時が来たとして……この人なら、その辛さを分かち合えるのではないのかって。
根拠はない。
だが、無意識的にそう思った。
それゆえに────恋人の練習……仮染の恋人という関係そのものが、重く胸に残っていた。
「……優希」
「……ごめん。今のは、忘れて欲しい。変なこと言っちゃったよね」
「……ううん、謝って欲しいわけではないよ。私は逃げたり拒絶しないから、本音を聞きたいな。その……膝枕、もう少し続ける?」
「……」
優しく問いかけてくれた優奈に対し、俺の答えは一つしかなかった。
「うん……もう少しだけ……いいかな」
「……ん、わかった」
俺は数日前、図書館で優奈にたまたま会った時に、この話をした。
正直言って、姉のことを悔いていないと言ったら大嘘だ。だからこそ、弱みでもあって、打ち明けることもできずで。
家族の中でもこの話題は、ある意味禁止ワードのような扱いになっていた。
誰かに話しても、リアクションが取りづらいものだろう。それだけじゃない。身内が亡くなった過去、と言うもの自体、重い話だからこそ、話す相手は選ぶべきだと思っていた。
そこで打ち明けることができたのが優奈だった。
墓まで持っていくつもりだったこの話を、自然に打ち明けれたと言う事実が、胸に少し残っていた。
勘違いかもしれないけど、ある意味で、信頼を得られていたのかと考えてしまった。
数分後、俺は立ち上がった。
膝枕の心地よさにどれくらい浸っていたのか、正直覚えていない。瞼が重くなるのを必死でこらえながらも、あの柔らかさと温かさの余韻はまだ身体に残っていた。
認めたくない……というか。
命令で「膝枕してあげるから横になって」と言われた状況自体が、あまりにも卑怯だった。……ま、そういうことにしておこう。
「そろそろ家事代行の時間だね」
「……あれ?もうそんな時間…。あ、起き上がれる?」
「うん、大丈夫…」
優奈が手を差し伸べ、そっと支えてくれる。彼女の動作は、元気というよりも柔らかい安心感に満ちていて、俺はつい頼ってしまう。
「よいしょっ……。ん、おしまい♪」
「認めたくはないけども……心地よかった……です」
「な、何それ!認めたくないって要らなくない?」
「えっと……語弊が出ちゃうな……ごめん、俺のボキャブラリーが」
「あ、認めたくないって……認めざるを得ないってこと?」
「あはは……なんと言うか、ここまでしていいのかって気分だった」
その言葉に、優奈はふっと微笑む。
柔らかく、安心できる笑顔。眩しすぎず、だけどちゃんと俺の心を照らしてくれるような。
「私がしたくて、膝枕したんだよ。私が嫌がってないなら……それが答えだと思うし」
「そうかもしれないな…。その、ありがとう?」
「ん?ふふっ、どういたしまして!」
優奈の声は、ちょっと弾むようでいて穏やかだった。
元気だけど、騒がしくない。包み込むような優しさで、自然に俺の気持ちを前向きにしてくれる力がある。
「ねぇ、優希。大丈夫、大丈夫。もう切り替えよ?今からやることに集中すれば、気分も落ち着くよ」
そう言いながら、優奈は俺の肩に軽く手を置き、目を合わせて微笑む。その視線には、安心感と信頼が混ざっていて、思わず俺は小さく頷いた。
「うん……わかった」
膝枕で受けた余韻はまだ残っているけど、今は優奈の言葉と存在が心の支えになる。
その瞬間、俺はふと気づく。
俺の心の中に、優奈の力が染み込んでいくようだ。落ち着き、そして少し前向きな気持ちにしてくれる。
───こうして、俺たちはまた一歩、互いの存在を信頼し合う瞬間を重ねていくのかもしれない……そう思えた。
家事代行の作業に戻り、キッチンに立つと、自然と身体が切り替わった。さっきまでの膝枕の感触が、まだ感覚として残っている気がして、少しだけ落ち着かない。けれど、それを悟られないように、いつも通りの手順で準備を進める。
「さてと……作り置きしていた冷凍ストックも、そろそろ少なくなってきてますね。せっかくですから、冷凍で簡単に作れるレシピもいくつか仕込んでおきましょうか」
「あら、助かるわ。優希くんが来てくれない日でも、悠真や優奈が気に入ってよく食べるものだから」
その一言に、背後で明らかに空気が揺れた。
「えっ……!?ま、ママ!そ、それは言わない約束だって……!」
「ん?恥ずかしがることないじゃない。将来、優希くんの立派なお嫁さんになるんでしょ?」
「お、お嫁さんって!!ばか!!何言ってるの!!デタラメ言わないでってば!!」
耳まで真っ赤にして抗議する優奈と、どこか楽しそうに微笑む梨花さん。その温度差に、思わず苦笑が漏れそうになる。
「あはは……まぁ、気に入ってもらえてるなら、作りがいはありますからね」
そう返しつつも、内心は少しだけ複雑だった。
俺たちは恋人の“練習”をしているだけで、正式に付き合っているわけじゃない。なのに、こうして家族の輪の中に自然に溶け込んでいる感覚が、妙に居心地がよくて……だからこそ、どこか怖くもあった。
ちゃかし半分、冗談半分。それでも、リビングの空気は終始柔らかくて、笑い声が絶えなかった。
「お姉ちゃん!遊び行きた……あれ?優希兄ちゃんも来てたんだね!」
タイミングを見計らったかのように、悠真くんが顔を出す。
「ちょうどいいところだね。今、作り置き作ってるところだよ」
「なにそれ!」
「冷凍うどんのアレンジだよ。後で楽できるやつ」
今の状況はというと、冷凍うどんを使ったストック用のカルボうどんを仕込んでいるところ。
作業台の横には優奈が立ち、足元には悠真くん。完全に見学会だ。包丁を動かしながら、二人に説明を添えていく。
「私、前に作ってくれたカルボうどん、大好きで……」
「シンプルですけどね。ベーコンとほうれん草、チーズ、マヨネーズ、黒胡椒を目分量で入れて冷凍して、食べるときに卵黄を落とすと……だいぶ反則級です」
「僕はカレーうどんがいい!」
「悠真くんはカレー派か。了解、そっちも多めに作っておこう」
冷凍うどんのライフハックは、やっぱり優秀だ。
一食あたり150円前後で、満足感のある一品になる。将来一人暮らしをするなら、間違いなく多用する技だろう。
豚キムチ風も候補にはあったけれど、二人とも辛いものはそこまで得意じゃないらしい。今日はこの二種類で十分だ。
「こんなに簡単に作れるんだね。私でも全然できそう」
「できますよ。もう手順、だいたい覚えてるんじゃないですか?」
「うん……なんというか、こんなにシンプルなのに、本当に美味しかったから。意外だったくらい」
「それは光栄です」
そう言って微笑むと、優奈は少し照れたように視線を逸らした。
さっきまでの甘い時間とは違う、でも確かに繋がっているこの距離感。
守られる側でも、甘える側でもなく、同じ場所に立っている感じがして……胸の奥が、静かに温かくなった。
**
「ごちそうさまでした!」
食卓を囲んだまま、四人で手を合わせる。綺麗に平らげられた皿を見て、自然と肩の力が抜けた。
あれから、夕食をいつものようにご一緒させてもらい、後片付けもひと段落したところで、俺は帰宅の準備を進めていた。
悠真くんは梨花さんに呼ばれ、そのままリビングを出ていく。
気づけば、部屋には俺と優奈の二人きりの時間が残された。
さっきまでの賑やかさが嘘のように、静かな空気が広がる。
「いつも本当にお疲れ様」
柔らかい声が、隣から届いた。
「ううん、これもバイトの一環だからね」
そう返すと、優奈は少しだけ視線を落としてから、小さく続ける。
「きっと疲れてたと思うから……私の膝枕で、少しでも元気出たかな……?」
「……それは……もちろんです」
不意に掘り起こされ、思わず視線を逸らす。
恥ずかしさはないと言ったら嘘になる。だが、あの時間が、確かに心を軽くしてくれたのも事実だった。
優奈はそれ以上深くは触れず、ただ安心したように微笑む。
「ねぇ、優希」
「うん」
少しだけ間を置いて、彼女は口を開いた。
「今度さ、もしまた時間があったらでいいから……二人で、どこか行かない?」
それは、いつもの“お願い”に見えて。
どこか、少しだけ勇気を込めた響きがあった。
「うん、調整できればいつでも。どこがいい?」
そう返すと、優奈は少し考えるように視線を泳がせてから言う。
「えっとね……ピクニックとかどうかな」
「ピクニックか」
思わず、口元が緩む。
弁当を持ち歩いて、行きたい場所に赴くピクニック。自然に触れることができるだけじゃない。自然の空気に触れることでデジタルデトックスにもなる最高のイベントのようなものだ。
「いいね。お弁当とか持って、自然を楽しみながらっていうのは……疲れも癒やされそうだな」
「うん」
優奈は頷いてから、少しだけ真面目な顔になる。
「仮の恋人だってことがバレないように、こういう機会も増やしていかないとね」
「……。まぁ……そうだね」
“練習”のため。あくまで、そういう名目だと優奈は割り切っているようだ。
でも───その言葉の奥に、ほんの少しの期待が混じっているような気がしてしまった。
自然の中で過ごす時間。並んで歩く距離。同じ景色を見て、同じものを食べる───それはきっと、今までよりも少しだけ、恋人らしい時間になる。
「じゃあ、また日程決めようか」
「うん!」
「またLINEとかで後々連絡入れるね」
「ありがと!……優希なら、受理してくれると思ってた」
その返事は、どこか楽しそうだった。
やがて、帰り支度も整い、玄関へ向かう。
「今日はありがとう……いや、今日も、ありがとうね」
「こちらこそ」
ドアの前で、少しだけ足が止まる。
「気をつけてね。今度会うのは…部活でかな?」
「そっか。確か明後日にまたバンド練習あったもんね」
「じゃあ……すぐ会えるね」
「そうだね」
「ふふっ、じゃあまたその時に会お!その時も、恋人の練習忘れないようにね?」
「あはは、分かったよ。優奈もゆっくり休んでね」
「…うん!じゃあまたね」
「うん。また来週」
そう言って外へ出ると、夜の空気が頬に触れた。
振り返ると、優奈はまだ玄関に立っている。
「……ピクニック、楽しみにしてるね」
「……俺も」
静かに扉が閉まる。
その音を背に歩き出しながら、ふと胸の奥に残る温もりを感じていた。仮の恋人。そう呼んでいるはずの関係が少しずつ形を持ち始めている。
次に起こる出来事を楽しみにしながら、夜の帳の降りた街を歩み進めていった。




