鴎は黄金の鳥籠に囚われるⅡ
妊娠中のエリーザベトの更なる苦痛と娘の誕生の喜び悲しみ
私は山から下りてきた
陶酔し茫然となりながら
私はある考えに至る
神がいかにその言葉を書かれているのかを
鋭く切り立った岩角から
聖なる書物の声が聞こえてくる
それは氷の中に閉じ込められ
雪に閉ざされていたのに
バートイシュルの夕暮れにて
悲しい詩しか浮かばない。
つわりの症状が良くなったり、悪くなったりを繰り返し体調も芳しくないので、バートイシュル滞在中にようやく実家の家族が来てくれることになった。
「シュパッツとガケルを連れて到着
ミーミより」
隣の駅に到着した母と妹と弟の到着を知らせた電報だった。
けれどホテルの従業員は勘違いして鳥籠と両手に抱えて駅に来ていたらしいの。
ドイツ語でシュパッツはスズメ、ガケルはガチョウという意味だから。
私達のあだ名が通じなかったみたいなの。
ミーミはママの愛称だった。
今もクスッ゙と笑うエピソードだったわね。
皆が来てくれて気は楽になったのだったけど、吐き気が酷い時にあってそういう時は落ち込んだ。
しかもバートイシュルでも市民に妊娠している姿を見せるのは皇后の義務だと強要してくる。
もう妊婦姿は見苦しいと思ってるのになんて意地悪でしょう。
本当にこの当時は辛かった。
でも義母が外出する時には皆寛いだ。
夏が終わり、ウイーンに帰りママと妹弟は帰っていった。
悲しい……。
秋が来て冬になって。
出産とその後の事が私の意見なしで決められた。
子供部屋の手配、乳母、召使全てが私は蚊帳の外だった。
この時はまだ知らなかったわね。
体調が落ち着いて夏の保養もおわり、順調にお腹の子は育っていった。
ラクセンブルグ宮殿に戻った。
お腹は臨月に近づく事に目だっていった。
いつもの庭園散歩は皇后の務めだと言って許してくれない。
「臨月の姿を見せるなんていや」
フランツに訴えても困った顔しかしない。
そしてごまかしのキスをした。
そして言う。
「母上も悪気はないんだ。
君を理想の皇后にしようとしているんだよ。
どうか我慢しておくれ」って。
フランツがマザコン。
私は大きく傷ついたのを。
彼は知らない。
1855年3月5日私の陣痛が始まった。
フランツも義母も産婆と共に来てくれた。
寝台で苦痛が徐々に来たり去ったりを繰り返す。
夫はなすすべなく私の手を握り時々額にキスしてくれる。
義母は私の頭を押さえ、侍女が膝を、助産婦がその後ろを支えた。
私の強烈な痛みの後、医師が子供を取り上げて産声が部屋中に木霊した。
「とても苦しかったけれどそんな事はどうでもいい」
愛しい娘の顔を見て微笑んだを覚えている。
フランツは私に口ずけをかわし、2人で抱きしめてくれた。
「とても満足よ」
義母はそう答えた。
でもきっとその時思ったはず。
次は男の子を。世継ぎをと……。
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名前はゾフィーと決められた。
勿論私は知らない。
しばらくは私と一緒にいられた2週間。
「私は子供というのがどれほど幸福という意味するか初めて知りました。
子供を愛し手元に置く勇気を持つ事が出来ました」
「赤ちゃんは本当に可愛くて皇帝も私も嬉しくてたまりません。
天気の良い日は翌散歩に連れていってもらっていますが、それ以外は一日中私の傍に寝かしています」
嬉しくて両親に手紙で知らせたわね。
本当にあの子は可愛らしかった。
でもその後は突然義母の隣に出来たという子供部屋へ移されて引き離された。
勝手に…生まれたばかりの私の子を…。
何故?何故?何故?
後から気付いたけれど、女の子だったから早く世継ぎを生みなさいって事だと…。
まるで子供製造機ね。
皇后なんて名前だけ……。
皇后なんてどうでもいい。私の子供私はあの子の母だけでよかったわ。
「子供を取り上げられてめったに会う事が出来なくなりました。
子供部屋に行くと必ずあの方がいて、私のする事をずっと監視していました。
それで私はめったに訪れる事がなくなりました」
何故監視されてしか我が子に会えないのでしょうか?って。
常に監視され、義母は何でも知っていました。
毎日が息の詰まる思いで悲しくて泣き暮らした。
フランツに訴えても困った顔をするだけ。
「母上に任せていればかわいくて優しい子になるよ」
フランツ!マザコン。
でも心は寂しい。
愛しい子に会えない。
私の……子供なのに。
そんな時に政治的にいや宗教的に私の行いが波紋を呼んだ事もあった。
カトリックの世界で、わずかにいる帝国内のプロテスタントに寄付をしたの。
帝国はカトリック教だから問題視したわ。
でも両者共同じキリスト教徒よ。
信仰は自由だわ。
また意地の悪い宮廷人はあれこれ騒ぎたてた。
浅はかな皇后と。
宮廷ではあいかわらず義母の干渉は続き、重い辛い息が出来ない。
我が子とも自由に会えず、日々義母の干渉と忠告が入る。
もう限界だったわ。
馬にまたがりウイーンの森を疾走する。
プラター公園を散歩する。
街中のカフェでくつろぎ、買い物をする。
反逆者の様に義母に逆らった。
するとウイーン市民から私の賛辞を浴びる。
オーストリア皇后は一段と美しいと。
すると帝室の人気も更に上がった。
夫はウイーンをしばらく留守にする事になって、私は実家へ里帰りの提案を受けて久しぶりにポッシー館を訪問した。
自由な実家、シュタンゲルグ湖からの風を受けて乗馬をして家族と寛ぐ。
私があまりにしゃべるのでママは開いた口がふさがらなかったわね。
義母には告げ口されるでしょうがかまわないわ。
自由私は今だけは自由!
ようやくフランツが戻り、バートイシュルでゆっくり二人で楽しんだ。
そして第2子の懐妊がわかる。
ゾフィーを出産してそんなに時が経っていない。
フランツの溺愛がわかって恥ずかしかった。
私は不安だ。
また子供を取り上げられる。
私の子供なのにと辛かった。
そして1856年7月15日に自侍女ギーゼラを出産する。
可愛い我が子は私とゾフィーと同じように2週間で離された。
さすがに堪忍袋の緒が切れた。
2人が結婚した時期は1853年から1856年にかけロシア帝国対オスマン帝国・フランス・イギリス・サルデーニャの連合軍のクルミア戦争の真っただ中でした。
大戦結果はかろうじて連合軍が勝利したものの。ロシアの南下を阻止しただけでたいした成果はなかったた。
ロシアの軍事力と内政に影響が出、オーストリアは戦争には参戦しなかったものの外交能力を発揮出来ずまたサルディニア王国のイタリア統一戦争に伴うフランス帝国との接近を招いた。
これがオーストリア帝国のトラウマである民族主義の軋轢を生んで、後のイタリア戦線、普墺戦争、第一次世界大戦と負け遂に帝国はヨーロッパから姿を消すことになる。




