鴎は黄金の鳥籠で抗う
宮廷に義母の大公妃に抵抗する皇后エリーザベト彼女はどうやって子供を取り戻したのか?
フランツに訴えかけたわ。
「私の子供なのにどうして?
こんな事が続くなら!
私は貴方との子供を作る事はしない!
今日から寝室は別よ!!」
帝室の跡継ぎ問題は最重要課題だったわ。
しかも皇后以外の子に皇位継承権はない。
「……」
さすがのフランツも真っ青になってもう観念したように決断してくれた。
義母に手紙を書いたのだった。
ようやくクルミア戦争の終結に伴い、お預けの新婚旅行に出発する直前に。
ようは顔を合わせても説得されるのを避けたのだ。
私達の出発と同時にゾフィー大公妃の元に届いた。
「子供部屋をシシッの部屋に近い場所に移す。
日当たりが悪い。
ゾフィーの具合が悪い。
シシッが子供に会いに行く距離が長い」
直接は出来なかったわね貴方。
まあいいわ。
私の勝利があるならと思ったのよ。
1856年9月に新婚旅行に行ったわ。
行先はザルツブルグの北部ケルテン東、西に東チロルの広がる山岳地帯。
自然好き、山好きの2人に相応しい場所でした。
シュタイヤーマルクに二人到着した時、義母から返事が。
「あなたの要求は認められない。
私は王宮を去ります!」
フランツは手にした手紙を震えながらもその手紙を机においたまま無視をする。
真面目に答えたらもっと面倒なのはわかっていたみたいだった。
それより新婚旅行を楽しい記憶を残す様に努力したわ。
そして今回奥の手を考え実行していた私。
私の要求が受け入れられないならもう同衾しないと言った。
この新婚旅行中も実行したわ。
でもお昼はとても優しく接したし、フランツもそれがとても嬉しそう。
だから尚さら夜は寂しかったでしょうね。
グルスグロックナー山脈を登山する。
2人とも登山好きなのでベストなコースだったわ。
美しい山々、緑、小動物、鳥の鳴き声、綺麗な高山植物と緑の香り!
気持ちは浮かれ、2人の心は一つになった。
優しく手をとりながら、花々を摘んでは私に捧げてくれた。
優しい夫、婚約時代に戻ったようだった。
ここで私はある気持ちを切り出す。
再び勝利を掴むため。
私は母だ。
その気持ちが強かったのを今も覚えている。
更に
「シシッは確かに執着心の強い母親だけれど献身的な妻であり母であります。
母上あまり厳しく批判せずにねがいます」
とやんわりいさめた。
***************************************
家族間の争うは一旦収束した。
しかしフランツの政治の方は常に流動的だったよう。
イタリア統一運動は盛んでいつハプスブルグ帝国に反旗を挙げるがわからない。
フランツはついに北イタリアのハプスブルグ帝国領内を訪問する事を決定した。
勿論私皇后を同伴して幸せな家族の姿を見せて人民の不満を解消しようとしたようだった。
1856年11月17日二人で長女ゾフィーを伴いヴェネチア・ミラノを訪問した。
娘を同伴するのは民衆に親近感をもってもらうため、もう可愛い盛り。
おしゃべりも沢山出来るようになったし笑顔が可愛い。
「ママママ…」
「パパ…パパ」
今にも思い出して涙が流れてくる。
スロヴェニアのラインライバッハを聖ウルスラ修道院を慰問して声をあげて笑って楽しんだ。
22日にトリエステに到着する。
美しい海、美しい街並み、美しい全てが。
市庁舎の前で火の手が上がったの。
理由は不明だった。嫌な出来事だったわ。
娘の手を握り緊張した面持ちで行動したわ。
総督府で行われた舞踏会。
参加者には市民が罵倒を浴びせた。
「祖国の裏切り者」と。
そして歓迎のオペラ公演に臨席してもガラガラだったし拍手もなかった。
私は真っ青になったはこれはいけない。
オーストリア帝国はイタリア人達の反乱鎮圧に投獄や財産をはく奪、年金停止といった抑圧で押さえようとしたの。
12月3日
私は抑圧には寛大な許しの心が雪解けになるとフランツに進言した。
「迫害された者に寛大な姿勢を見せればオーストリア帝国に対しても寛大になるでしょう。
大いなる温和で寛大な姿勢こそ信頼の証です」
ここで再度反乱や独立運動でも起きたら、財政が悪い帝国はさらに弱体化してしまう。
フランツはすぐに恩赦の勅令を出して赦免、財産返還などの寛大さを現した。
ただそれだけの事で次の祝賀は円満に行われ、市民の態度は温和になった。
「シシッが出てくるだけで歓喜の声があがる」
フランツもほっとしてイタリア貴族達も温和に接してくれたのが嬉しかったようだった。
ただフランツのロンバルニアの保守派の重鎮達は猛抗議し、私を邪魔な存在と思った。
また敵が増えたわね。
そんな時、ある元将校がフランツに年金の受け取りを願う嘆願に前に出てきた。
「宮殿の事務所にくるように」
フランツは彼に言ったの。
「とてもいけません。
追いだされるのが関の山です」
悲痛な彼に。
「貴方。貴方の手袋を渡して」
私は囁いた。
フランツは微笑みながら片方の手袋を彼に手渡した。
彼は無事に年金を受け取ったそうよ。
この話のせいかどうか?
ヴェネチアの市民に受け入れられた。
ウイーンで非難否定された私は抑圧された者には「天使のよう」と言われた。
嬉しかった。私を受け入れられて。
ロンバルディア、ヴェローナはフランツにとっては冷たい雰囲気だったけれど、私とゾフィーには比較的穏やかな顔を見せてくれる。
問題はミラノだった。
氷山の様に氷ついたミラノを私は雪解け出来なかった。
でも恩赦と好意を見せた。
あからさまに歓迎はなかったけれど。
フランツは危機的状況を把握したようで弟で自由主義の穏和派の弟マクシミリアンにロンバルディア総督を就任させた。
この公務で夫は私の存在価値、政治的な意味、そしてオーストリアにプラスになると確信したようだった。
ウイーンに帰らないといけない子供に会いたい。
寄り道しながらギーゼラのいる宮殿に帰る。
帰って来た私はまた出発前の私。
自信に満ちて積極的に慈善活動に参加して表に出た。
そして遂に運命のハンガリー訪問が決定する。
***************************************
結婚後に訪問してほしいとハンガリー貴族との約束がある。
何かと問題の多い地域がけに私の訪問がイタリアと同じ様に緩衝材になるとフランツは思っていたようだった。
私は有頂天になった。
マイラート伯爵の授業は興味深いものだったしハンガリー語も楽しい。
今回の訪問には二人の子供を伴う希望を出した。
当然義母はまだ幼子を度に出すのは大反対だった。
私は子供達とまた離されるのではないかと恐れ、強く同行を夫に迫った。
ゾフィーはてくてく歩く姿が可愛らしい。
少し身体が弱いのが心配だが病弱とまではいいかない。
フランツも家族の様子をハンガリー人民に見せるのもよい印象を持たせるだろうと同意してくれたのだったわ。
1857年5月3日ドナウ川を蒸気船で、ブレスブルグそしてオッフェン宮が滞在場所だった。
ブタの王宮までフランツは馬上から私は馬車で向かった。
私はハンガリー伝統衣装を参考に作られたドレスを着て民衆の歓迎に答えた。
ハンガリー人達は始めて見る王妃の姿に感動して、大きな歓声を上げたのだったわ。
王妃がウイーンで受けている陰口と大公妃との確執、そして美しいと言ってくれる。
魅了させたみたいで嬉しくなったわ。
けれどハンガリー貴族達は酷く冷淡で接した。
常に独立を望むマジャール人の多くの犠牲と追放と財産没収、年金廃止。
多くの隔たりが両者にあった。
そのためには多くの慰問と訪問を行い、両者の和合も必要だった。
私達は馬の生産地で有名なブスタ地方を訪問した。
乗馬は趣味だったのでこの訪問はとても素晴らしかったのを覚えている。
でもオッフェン宮に残してきたギーゼラが吐き気と下痢で弱っているというので急遽私だけ戻った。
確かに具合が悪くてずっと看病していたわ。
ギーゼラは辛そうだったけど、なんとか体調を持ち直した。
私はほっとして、再び南部へ発った。
ドブレチン、ソルマール、ヤシュペルミ―、どの町も雰囲気がバイエルンに似た、そして市民も純朴で素直で何より開放的だった。
そしてウイーンで誹謗中傷されている。
私は有頂天になっていたかもしれない。後から思うと。
28日オッフェン宮から医師から緊急電報が入った。
ゾフィーが危篤だという。
急遽予定を中止し、オッフェン宮に戻る。
娘は蒼白で汗がとまらず、生気も意識もない。
私のゾフィー!!
私は抱きしめ、半狂乱になった事しか覚えていない。
フランツも深く悲しんでいる。
狂いそうだった。
食べ物を口にしていないのに吐いて。
酷い下痢、油汗が酷くて必死に寝ずに看病した。
ゾフィーは泣きさけび、ほとんど寝ずに苦しそうでただ傍で泣きじゃくり抱きしめるしかすべはない。
医師も匙を投げる始末…そして…
でも………でも……私の腕の中でいってしまった。
神の元へ。
「私達の娘は天使になってしまいました落胆の極です」
夫が義母に電報を打った。
ゾフィーは赤痢だった。
医師の診断ミスが処置を遅らせた。
でもでも連れて来たのは私…………。
長女ゾフィーの死はその後の子供の養育に大きな影を落とした。
次女と長男の養育は後年主導できたが、時すでに遅く成人後も両者との交流にはどこか他人行儀だったという。
エリーザベトは長女の髪をガラスの容器に入れて生涯大切に保管していた。
次女ギーゼラや長男ルドルフを愛してはいただろうが、幼い頃長く接してこれなかったトラウマがその愛情表現を屈折させたと思われる。




