傷付いた鴎は南の島に飛翔する
愛する長女を亡くした私は悲嘆にくれる。
でも更に追い打ちをかけるように続続と問題が津波の様に押し寄せる。
1857年5月29日娘が死んでしまった。
愛しいゾフィー私の長女。
やっと取り戻した娘だったのに……奈落の底に落とされた感覚は私から生きる希望を奪っていった。
可憐な野薔薇が天へ召されて私は立ち直る事が出来なかい。
いまも亡くなった子供達の事を思い出すと涙が止まらない。
私が義母の反対を押し切って子供達を連れて来た。
肉体的にも精神的にも皆が私のせいでと咎められているようで。
でも誰も…義母さえも私を責めたりしない。
だからこそ余計私が悪い様に思ってしまう。
夫はギーゼラに気持ちを向けるようにしたかったけれど、私の気持ちは沈んだまま。
ギーゼラの病気の責任も私にあるようで会うのが辛かった。
子供の世話はおのずから義母に渡る。
夫は途方に暮れたようだった。
そして義母に相談したようだった。
義母はさすがに追い打ちをかける様な言動はしばらく控えていたけどかえってそれも恐怖だったの。
もう被害妄想のいきに達していたのね。
私が後悔と自責の念の地獄に陥っているのを知っているように。
息子にいったそうよ。
「ベネディクト派修道院の戴冠の聖母像の前で祈っては?」
2人7月1日修道院で祈りを捧げたわ。
あの子があの世で神の身元で幸せでさすらかに過ごせるように。
ずっとフランツと二人で祈り続けた。
そしてフランツは私を力なく自分で立てないその腕に引きずる様に修道院を去った。
私は深く傷ついた事を知ったプロイセン王夫妻がウイーンに来てくれて私を慰めてくれた。
私の伯母に当たる方よ。
しばらくしてラクセンブルグ宮殿を離れ王宮に移る事になった。
ゾフィーの思い出が多すぎるから。
茫然自失の中、まるで小川が流れる様にこの後の記憶はない。
なんだか魂が抜けてしまって何をする気にもならない。
ギーゼラの顔を見るのも辛い。
結局義母の元へ戻す事になってしまった。
2人でゾフィーの死を悼んだけれど、まだ私は男の子を生んでいない。
夫や大公妃は私には言葉ではそのことを言わなかったけれど、考えずにはいられなかった。
まだ皇太子は生まれていないと誰も言っていないのに………。
私の体調が戻った後、フランツとの夜の生活も…再会された。
1年後妊娠の兆候が出て。
ほっとした後にも次も女の子だったら…又……。
不安と期待、そしてお腹の子への愛、そして今は亡きゾフィーの思い出が私を気欝にした。
出産を控えて私だけラクセンブルグ宮殿に移った。
皇太子は必ずここで出産しなくてはいけないというのか?
ただ王宮は首都なので静かに出産を行えないという配慮もあるのかもしれない。
でもこの宮殿は嫌い。王宮も嫌い。
1858年8月21日初めての男の子が誕生した。
そうルドルフが。
ムチムチした可愛らしい子だった。
でもその手に抱こうとしても身体が重くて頭痛が酷くとても姿勢を変えられない。
義母も産婆も侍女も慌てた様にバタバタし出している。
私はその後意識を手放して起き上がれない。
101発の礼砲が発射された。
市民に皇太子誕生の知らせで一気に祝賀ムードになる。
一方私は高熱が出てしばらく寝台から出られない。
だからか義母は息子を安易に手に入れて自分の王宮の部屋の近くに子供部屋を作って連れ去った。
私は抵抗できない。
義母は表向き私の健康の為というけれど。本当かしら?
ついつい義母の心使いは全て悪意に満ちた様に感じる。
未来の皇帝の養育に未熟な嫁、反抗的な嫁に任せられない。
私は皇帝フランツ・ヨーゼフ1世を育てたのよと……。
また自分の過ちのせいで息子を帝国の光を失うかもしれないという疑心暗鬼が私を支配していた。
そして諦めた。
私はルドルフの出産時の体調の悪化を理由に夫が寝室に入るのを拒否した。すでに随分前に寝室は別にしているし。彼との続く部屋には鍵をかけ、時にバリケードも設置した。
夫は私を愛しているというので、強硬突破はしてこない。
産熟熱も落ち着いた頃、1858年8月ついに姉ヘレーネがトゥルン・ゥルン・タクシス侯爵家の侯子と結婚し1859年1月、次にマリアがナポリ王太子と結婚する。
ミュンヘンの式の前にウイーンにくるの。
楽しみ!
マリアと二人久しぶりにいろんな話をした。
ゾフィーの事、宮中の事、夫の事、義母の事。
「お姉様。
ナポリに行くのは不安です。
会った事もない夫と不安定なナポリ王国の現状」
「マリア!
夫にナポリを助けてくれるように言うわ。
本当に私達は列強国に振り回されるわね。
私のせいね。」
「お姉様。
でも私は未来の王妃としてナポリに捧げるわ」
「マリア!!
貴方を守るわ」
「お姉様!」
マリアはナポリという異国に行く不安、会った事もない夫への不安、イタリア情勢の不安。
そう二人には不安という言葉に頭を支配されていたの。
さすがにマリア歓迎の祝賀舞踏会を欠席するのは出来ないわ。
その夜ゾフィーをなくして初めて夜会に出た。
2人で同じ衣装と同じ髪型で。
私は別れがつらくて彼女が出航するトリエステまでついて行ったわ。
ナポリ王国の手配した船がマリアを乗せて出航した。
別れ一生会えないかもしてない。涙が頬を伝う。
この頃夫は政治的、外交的に危機を迎えていた。
そのイタリアでオーストリア軍と開戦するかもしれないくらい外交が悪化していた。
イタリアのサルディニア国は統一イタリア国を目指していて、オーストリア帝国が統治するロンバルディア州を併合する為に軍備強化を行ってさらにフランスのナポレオン3世おも味方につけて背後を固めていた。
夫に「イタリアに温厚なサルディニア国とフランスが手を組んだからあまり刺激しない様に」と手紙を出した弟マクシミリアン大公を手ぬるいと解任してしまった。
開戦強硬派のギウレイ将軍に全権を預けてしまった。
抑圧されている者は武力で支配しようとするとかえって悪化させるのをわからないみたい。
しかもオーストリア軍は軍備が旧式で兵士は多くても民族紛争を国内にかかえているから志気が低い。
フランツは軍人としては才能が残念だけどなかったわね。
悪い方向しか向かないように思う。
そして1859年5月に開戦。
マジェンタの戦いで大敗してミラノを失った。
すると今度は自分が前線に出ると言い出してたの。
私は反対したわ。
そして行くなら同行するまで伝えたの。
でも彼は行ってしまった。
私は教会で祈り無事を願った。本当に彼の事が心配だった。
そしてラクセンブルグ宮殿の中に病院を開業して、傷付いた兵士の治療にあたらせた。
6月24日ソルフェリーノの戦いは始まり、フランス・サルディニア軍対オーストリア軍の戦いは熾烈を極めた。
私は居住しているラクセンブルグ宮殿に臨時救護所を造る様にしたわ。
そして夫にはしきりに和平に向けて交渉する様にお願いしたわ。
始めは子供扱いして話もとりあってくれなかった夫だったけど、流石に戦況が思わしくなくオーストリア軍が破れて続けて最後には講和に同意したんだったわ。
その結果オーストリアはかろうじてヴェネチアは守ったけれど、11月10日ヴェネトをロンバルディア州を失った。
しかもイタリア戦線の敗北で責任を取らせて大臣達を更迭しないといけない。
国内は荒れた。
戦争の代償は大きい。
夫も限界だったのね。
夫が帰ってきて安心はしたけれど、私の姿を見てぞっとしたそうよ。
断食や小食が過ぎてやせ細って、しかも生気がなかったというわ。
私はそんなふうに思わなかったけど。
義母ともずっと反目していたし喫煙も覚えた。
だって子供達も取り上げられて貴方はいない。
私には彼らが思い通りの皇后になる様に強要する。
私にここにいる居場所はない。
精神的にもダイエットのし過ぎで肉体的にももう限界だった。
咳が止まらない。
眠れない。
でも反抗した普段は舞踏会など開催しないのに、しかも母親を招待しない若い貴族だけの舞踏会。
監視のない舞踏会は女性を自由に魅惑的に男性に解放感を味合わせた。
しかし待っていたのは皇后の私への非難。
なじられても……止めない。
一人でウイーン中を乗馬したわ。
ケンペル男爵が言ったの。
「皇后の美しさは普通なら訪れもない人も宮廷に引きつけた」と。
****************************************
しかしここで新たな問題が家族間で引きおこる。
しかも私の身内の不幸が続く。
サルディニア国はヴェネトだけでは満足しなかったの。
魔の手がマリア達に向いていた。
私の妹マリアの嫁ぎ先ナポリで反乱軍が北上して内戦状態に陥ちいった。
マリアが危ない。
私は夫に援軍してくれるように直訴したわ。
でも夫は。
「イタリア戦ですでに我が軍は消耗している。新たな戦いは我が国の国力を消耗してしまう。
辛いけど。
耐えてほしい。
マリアは大丈夫さ。
反乱軍も国王一家を殺さないと言っている」
「そんなのわからないわ。
貴方の先祖の一人マリア・アントニア王妃も最後は処刑されたじゃない。
マリアがそうならないと誰が言えるの?」
夫は無言で去っていった。
私の兄ルードヴィヒとカールテオドールもウイーンに来て夫とマリアの話に来たわ。
結局命だけはという話しか確約出来なかったみたい。
重い空気が私達を包んだ。
夫との仲もぎくしゃくしていた。
夫は私を腫物の様に扱った。
そして出来るだけ長く接触しない様になっていたわ。
そんな私にフランツの不貞の噂話が入る。
「皇后が皇帝にやさしくないから皇帝が他の女性に癒してもらっている」のだと。
その相手は結婚前に関係のあったポトツキ伯爵夫人だという。
ハンガリー人の夫を持つ、ロシア系の貴族女性で大変な美人だという。
官能的な容姿をしているそうよ。
ショックだった。
パパの不倫や他の王室での不貞はよく聞いていたし。
でもあんなに私を愛していると言っていたフランツまで不貞を行うなんて!!
私の精神の糸がまた一つ切れた瞬間だった。
私はもう限界だった。
ウイーンはいたくない。
夫に渡しは必要ないの!!
何も考えずに疲れて果てて、ギーゼラ手を引いてポッシー館へ逃亡したわ。
実家でゆっくりしてもマリアの問題は好転しないから、私は鬱気味のままだったわ。
夫の誕生日にはいないといけないと言ってくるし。
夫の「戻ってほしい」という懇願書が何度も届いて帰るしかなかった。
1人帰るのはいやだからマチルダと末弟のマッペルに付いてきてもらったの。
翌月心配していたナポリが反乱軍によって陥落、妹達はがエータの城壁に移り抵抗していたという。
マリアごめんなさい。
頼りにならない駄目な姉………。
その頃から体調が悪くなって発熱し命の危機を感じた。
咳も止まらない。
涙も止まらない。
もう何もかも嫌になった。
そしてとうとう医師は「結核」という誤診を出したの。
誤診というよりも。
多分結核ではないけれどそういうのが一番療養に効果的だと判断したんでしょうね。
何せレントゲンも血液検査もない時代よ。
精神症状は全て神経系というカテゴリーに一緒にされたの。
要は狂気しか精神病として認められなかった。
もうどこか遠くへ行ってしまいたい。
誰もしらない私をしらないどこか遠くの南の島に。
そう考えるだけで少し気分は楽になった。
早くここから出たい。
1860年11月17日夫と共にミュンヘン行きの特別列車に乗ってウイーンを出発した。
ウイーン宮廷で義母との戦いは皇后としての義務と子供達の親権を。
そして夫は浮気で心身はボロボロになった。
そんな私は静養地に向う途中でミュンヘンでママに会った。
「シシッはまた痩せたようでした。
具合が悪いとまではいえないけれど、去年の夏ほど血色がよくない。
それ以上に咳がとまらないようだった。
あまりにひどいので温かい気候の所は身体にいいだろうと思っている」
と私の様子を述べている。
バンベルグ経由マインツでイギリス女王の好意によで借りたヴィクトリア・アルバート号の蒸気船に乗り込んだ。
この随行員にはエステルハージ・リヒテンシュタイン侯爵夫人は同行しない。
この病の原因の1つなのだから。
ゾフィー大公妃の抗議もまったく受け付けない。
随行員に男性はフランツの別の意図があったのか。
外交に明るい人物が選定されて、同行する女官は気の知れた若い者達だけ連れて行ったわね。
ポルトガルの西の果てにあるマデイラ島を目指した。
不思議な事に船に乗り込むと症状は幾分和らいで甲板で海の景色を眺めていた。
そしてバンベルグで夫と別れ、ベルギー経由でヴィクトリア女王手配の蒸気船に乗りマデイラを目指した。
私の心は安息をひたすら願いだけ。
海は青かった。
空も……。
イタリア統一を望むサルディニア王国が積極的に軍事行動により成し遂げようと試み始めるとこれに危機感を持つナポリ王はオーストリア帝国の後ろ盾を得る為に皇后の実妹マリアを王太子妃に迎えた。
マリアは困難なナポリに売られるようにして嫁いだ。
到着後、ナポリ王は崩御すぐに夫が国王となりマリアは王妃となった。
サルディニア王国はオーストリアの後ろ盾を無にするためにフランス帝国と図り共同戦線をはり、オーストリア軍と戦争になったが、志気の低く戦術も武器も旧式のオーストリア軍は大敗しイタリアの支配圏を一部を残し譲渡しないといけなくなった。
エリーザベトは今でいう適応障害の症状だったと思われる。
なので環境を変えると症状が好転するのは今の治療方法では当然な事であるのにも関わらず、我儘病だと理解されない。




