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光輝く鴎が陸に降臨する

宮廷生活で馴染めずに病に陥った私。

これからどう生きるのか?


いくにちかの航海の後マデイラ島に到着。


潮風が心地よくおおらかな海の匂い。

私の傷ついた心に温かい血潮となって身体中を癒してくれる。


穏やかな気候、火山の山々が連なる。亜熱帯の植物が生き生きと生い茂る。

ブーゲンビリアの花、オレンジの香り、潮の香、白い屋根の可愛いお家。

鳥の声と葉の揺れる音。

全てが静養に適した環境で私には必要なものばかりに感じてほっとしたわね。


用意された館はクィンタ・ヴィニャ宮殿。


宮殿の名を持つけれど保養用の為に造られた建物だから格式ばった内装ではないのがリラックス出来て嬉しい。

招待は全てお断りした。


行うのは保養だけ。

まずは心を癒さないと思った。

もう上辺だけのお付き合いは嫌だった。

本心なの無礼だと思われてももいいわとね。


気の知れた侍女達と庭を歩き、その次は散歩、乗馬、フニャディ伯爵のハンガリー語授業、手まわしオルガンで音楽鑑賞、動物とのふれあい、マンドリン演奏、歌、読書、トランプ遊びを楽しんだ。

時にはロシア将官達をディナーに招待してダンスをしたりと楽しんだわね。



宮廷では物静かな女官達もここでは朗らかで私に尽くしてくれる。


ネネ(ヘレーネ)も心配してきてくれた。


優しいお姉様ネネ!大好き。

お姉様が結婚するはずだったフランツ。

私が選ばれた事でお姉様は傷付いて心の病になったの。


ネネの婚期も遅れたわ。

でも郵便事業で巨万の富を持つバイエルンのトゥルン・ウント・タクシス侯爵家の侯子と結婚して子供も出来て家庭的な生活を送っている。


「貴方にも幸せになってほしい」と遠くまで来てくれた。

お姉様大好き。


絶え間なくウイーンの家族からポッシー館から手紙が運ばれてくる。


特に夫の手紙は重い。

今はそっとしてほしい。

ごめんなさい。


でもギーゼラにはこう書いたわ。


「大きな鳥籠に綺麗な鳥をいっぱい入れてそれと小さなギターお土産を持って帰りますね」


ギーゼラは小さな弟の面倒を見てくれているって。

お姉さんになっているのね。


あっという間に症状はなくなり、段々と少女時代の私に戻るのがわかった。


出来ればここにずっといたい。

いえ子供達も愛おしい…。


いえ。


ここではないずっと船でどこか遠くへ行きたい。

留まるのではなくてどこか違う場所へ。

そうグリュネン伯爵に書いて届けた。



いえ駄目いえ…。


ウイーン宮廷は嫌い。


私をジロジロ見世物の様に群がる群衆も。

私を縄で縛る。

宮廷行事、儀礼、嫉妬や憎悪と陰口全てが嫌い。


私が静養している間も世界は動いている。

まだグリュンネ伯爵を信頼していた頃だったからウイーンの情勢を手紙に書いて教えてもらっていたわ。



身体の症状は楽になったけど、心の方はまだまだ不安定。

特に食事もあまりほしいと思わない。


マリアの事も心配で。


ガエータの城壁で抵抗していたナポリ軍が反乱軍に制圧されマリア達がローマに逃げたと情報が入ったの。


可哀そうな妹、私がフランツと結婚したばかりに不幸な身になって!!


そう思うだけで暗くなって鬱な気分でなかなか気持ちが前向きにならないけれど。


3月にはマデイラを離れようかと思ったの。

子供達に会いたいし、でもまだウイーンに帰る気持ちにはならない。


そしてここマデイラを離れた。




子供達、馬に乗りたい。

でも私の居場所はあそこにない。

耐え難いご義母との家庭内の争い。

考えるだけで辛い。


そして旅立つ、カディス、セビリア、マジョルカ、マルタ、コルフ島へ。


コルフ島は素晴らしい光景が広がっていた。まだいたいけれどもフランツが迎えに来た。


1861年5月18日私はついにトリエステに到着した。


再会の場所はミラマーレ城だ。

城の船着き場で久しぶりに再会した嬉しそうな夫の顔。

本当に嬉しそう。

私は?……。

まだ愛しているのはわからない。

義母に頭が上がらない、浮気をして逃げた。

愛しているかわからない私は……。

だったかしら?


この城は義弟のマクシミリアン大公の隠棲の城で、全ての設計や内装は彼好みだった。


彼はロンバルディアの提督としてこの地に就任したのに、権力欲の強い老害にその行動と言動を皇帝に逐一報告した。


その地はイタリアであるがハプスブルグ帝国領だ。

統一イタリアを望むイタリア人達へ理解を示し共存の策を講じていたのが、夫には許せなかったようですぐに解任された今は自分の城で暮らしている。


マクシミリアンと私は話がよくあったのでそれも気にくわない妻のシャルロッテと私は犬猿の仲。


彼女は義母のお気に入り、しかもとてつもなくプライドが高くて公女の私に高慢な態度で接してきた。


滞在中に事件が起こる。

私の犬ヴィクトリア女王から頂いたシャドーが彼女のプードルを噛み殺したの。

主人の嫌いなのは伝線するみたい。

シャルロッテはひどく怒ったけど。


「私は小さな犬は嫌いなの……」


そう言って話題にするのを避けた。


しばらく滞在した後、ウイーンに帰る列車に乗る。

気分は沈み、口数も少なくなる。


嫌だ。

でも子供達にも会いたい。


愛おしい。


王宮に戻ると子供達の成長が著しかった。


ギーゼラは字が読めるようになっていたし。

弟の面倒をよく見ていた。

優しい子。


ルドルフも可愛らしい、利発さを感じた。

抱いた重さがずっしりと腕に伝わる。


でも4.5日すると王宮の雰囲気は変わらず私は息が詰まる。


耐えられない。

涙が止まらない。

眠れない。

食欲もわかない。

不安になる。

咳が止まらない。

腹痛がおさまらない。

馬にも乗れない。


耐えられない。


ナポリのトラニー伯爵に嫁ぐ妹マチルダの結婚式にも出席できない。


あの子はマリアの義弟と結婚する。

絶対に不幸になる。

可哀そうな妹達。

私のせいそうせめたわ。


「私は打ちのめされました。

 皇帝や子供達の重荷になり、彼らの役に立つことが出来ずもうすぐ死ぬのではないか。

 皇帝は再婚を考えるべきだわ。

 私はとるにたらない人物でいまにも死にそう。

 とても皇帝を幸せにする事などできはしない」


悲痛な気持ちを母に手紙で送った。

咳が再び続き、熱も出てきた。

再びの症状だった。


1861年6月21日医者の薦めで再び静養の旅に出る。


こんどはイギリス領のコルフ島へ。


今度の別れは切実に命の危機を感じさせる別れだった。

あの義母が泣いていたの。


「哀れなシシッとの悲しい別離、もしかしたら永遠の別れになるかもしれません。

 シシッは涙を流し感極まった様子で「もし自分が貴方から見てそうあるべきという人間でなかったならどうか許してください。」といった。


 私は胸の痛みをどう言葉で表現していいかわからず、その痛みは私を引き裂いた。」


と日記に書いたのですって。


私もこの時ばかりは死を意識していたの。


そして涙ながらに乳母に子供達を託した。


「皇帝陛下に残してあげられるのはこの子達だけです」と。




*******************************************




今回の船旅にはマクシミリアン大公と侍従と女官を連れて出発した。

英国領事館の邸が滞在場所に選ばれた。


症状は途端によくなり、コルフでは船遊び、川で水泳、犬と散歩やりたい事をして過ごしたわね。

温かい気候と宮廷を離れた安心感が私を癒してくれた。


当のフランツは私の事が心配過ぎて、グリュンネ伯爵をコルフに派遣するという。


ウイーンに帰ってくるように進言してきた。

怒りが爆発して追い返した。


この事件でまたも体調が悪化して眠れない、食べれない、咳が止まらなくなった。


後年私はマリーヴァレリーに言ったの。


「あの方の私になさった事は臨終の床でも許す事が出来ないでしょう」とね。

そう。

「皇后様。

 ご注意ください。

 貴方の望まれる事はなんでもなさっていいですが、一言たりと手書き残してはいけません。

 書かれた言葉より悪い物はないのですから」



すると夫は姉に面倒をしてほしいと懇願して、ヘレーネをコルフに招いてくれた。

姉と話し合った。


「私は常に監視され、少しでも違う事、私のしたい事をしようとするとたちまち大公妃は叱責される。

 夫は義母に弱くて守ってくれない。

 私は孤独、気持ちを許せる者もいない。

いても排除される。

 強要され、自分を否定され。

 子供達から離されて、自分も否定され、全てを奪われる。もういや!!」


ウイーンの生活、義母との確執、夫の理解のなさ、子供達との距離感。


泣きながら全てを吐き出した。

「離婚したい!!か死にたい!!」と叫んだ。


姉はじっと聞いて私を抱きしめてくれる。


「シシッ!

 私の大切な妹。

 私にまかせて!

 食事をしなさい。

 散歩をしなさい。

 ここでは好きな事をしなさい。

 フランツには私が仲立ちするわ。

 安心しなさい。」


ネネの胸に抱きついてこの数年分の本当の心からの涙を流して声をあげて泣いた。

その私を強く抱きしめてくれた。


泣き疲れたらようやく精神的にも安定してお腹がすいた。


その様子を母に手紙で書き送った。


「肉を沢山食べて、ビールをよく飲み、常に陽気で、咳も少なく、気温もよくネネと二人でよくハイキングしています」


「ウイーンでは皇后は肺の病でなく、神経だと噂が出ています。

 こんなうわさは心が痛いです。

 あの子の不注意からこんなうわさが出るのが本当に辛いです。

 自分からそうなるように招いている気がしてなりません」


愚痴も言ってたのねママ。



一方ラクセンブルグ宮殿でヘレーネからの報告を受け取った夫は覚悟を決めたみたい。



「10月初旬愛するシシッの元に駆け付けたいとおもいます。

 長い事別れてくらしているので、早く会いたい気持ちでいっぱいです」


私にはわからない何故こんなにも私を愛しているのか?


夫は再お姉様と話をした内容というと。

お姉様は皇帝としてでなはく大切な妹の旦那様として、しっかりと諭す様にお話してくれたそう。




「失礼ながら陛下。

 今はただの可愛い妹の旦那様としてお話いたします。

 お気に召さねばどうぞこの後私をお好きになさってください」


「………えぇ…」


「確かにシシッは若くいたらない子ですが、実の子供達にも制限付きでしか会わせてもらえず、始終大公妃の監視を続く宮廷。自分を殺しながら生きていかなくてはいけないのですか?

 あの子の素晴らしさはあの子の長所を受け入れてあげてください。

 きっと心から慈悲深い皇后であるでしょう。

 貴方の伴侶として相応しい。

 あの子の事を考えてください」


「………」


「陛下はあのバートイシュルの出会いの際にシシッを望んで結婚されました。

 おそれながら私に少しの詫びをお持ちならば。

 どうかシシッのウイーンでの生活の改善をお約束ください」


「……」


「陛下。

 誠にこの件はどっちつかずでは絶対に終わりません。

 シシッは望まれて輿入れいたしたのですよね。

 陛下にはあの子の望みを叶える義務がございます。

 その義務をはたせないとおっしゃるのでしたら。

 シシッはこのまま私が。ウント・トゥルン・タクシス侯爵家があの子を後見し連れて帰ります。

 すなわち離婚!

 それしか終わらせる方法はございません」


「り…離婚なん……そっ…んな…

 私はシシッを愛しているんだ。

 わかった…。

 彼女のいない人生なんて不毛の荒野に一人きりにされたも同然だ。

 母も説得しよう。

 約束しよう……

 私もシシッを愛している…んだ」


そして夫が来た後にいままでにないくらい話し合った。


義母の事。


「大公妃殿下が私をいたらないとおっしゃるのはわかります。

 でも私なりに皇后の務めと考える行動と何より自分でいたいの。」


彼の不倫の事。


「私が皇后としていたらないのはわかります。

 でも…だからといって他の方に……」


「私は子供達を愛しています。

 っっでもいつも大公妃殿下があの子達と溝をつくってしまって私は産んだだけ?母親です!

 違うというの?

 ハプスブルクの為の子供製造器とでもいうの?」


「私は虐げられた者、不幸な者、困っている者に直接手助けしたいのです。

 でも権威や利権を虚栄心を望む者にではなく」



「私の全てを受け入れてほしい」


夫は後悔と慈愛を籠めた表情で私を見つめて項垂れる様に頷いた。


「……分ったよ。

 すまなかったシシッ。

 私を許してくれ。

 でも君を愛しているんだ。

 どうか私と子供達の為に。

 君がいないと生きる気力がわかないんだぁ」


そしてウイーンに帰る条件として。


「女官長のエステルハージ侯爵夫人の解任」

と一旦

「ヴェネチアに逗留する」

事を受け入れくれた。


夫は子供達をヴェネチアに連れてくる事も提案してくれた。


私は子供達に会いたい。


「私を忘れないでほしい」と沢山沢山手紙を書いた。


私の可愛い愛しい子供達に会いたい。


夫もひと段落した後、この島を気に入っていたようで、普段着のままイギリス海軍の演習を見にいったりしていたの。



私の勝利。


********************************



彼は安心したように10月26日ウイーンへ帰っていった。


そして私もコルフ島を離れて、船でヴェネチアに向かった。

海風が本当に心地よかったわ。


そしてフランツも子供達を連れて来てくれた。


ヴェネチアに揃った。

一つ問題があるとしたらその場にエステルハージ侯爵夫人が同行していたという事。


でも夫はその場でエステルハージ・リヒテンシュタイン侯爵夫人に長年の労に感謝し、また身体をおもんばかっての女官長の退任を告げた。


そして新たな女官長にはベルガルト伯爵夫人を任命してくれた。


けれどこの人事がまた話題に上った。

伯爵夫人では不相応だというのよ。


ヴェネチアに落ち着いた後、母とカールテオドールが来てくれた。

ある程度元気だけれど足の腫れが酷くて、一人で立てない時もあったの。

実は栄養失調からくるふくれらしいわ。

食べない=精神状態の不安定ね。



美しいヴェネチアで水路を船で家族と景色を楽しんだ。

子供達は珍しい景色に目を丸くしていたわね。


夫はご満悦でまるで新婚当時のようだと臣下に言われていたわ。


夫はウイーンとヴェネチアの往復をしばらく続けていた。


でも私はここの湿気がよくないのかあまり身体が本調子ではないの。


何もする事がないので、美人写真コレクションを始めたルードまるで祖父のルードヴィヒ1世の美人肖像画コレクションを真似しているみたいにね。


遺伝て怖いわね。


そそうちヨーロッパの職種、身分にかかわらず美人の写真を集めた。



夫は再びやってきて私の体調の悪さを辛そうに寂しそうにしてウイーンへ帰っていったわ。



貧血や水腫、腫れが悪化するの。

母がお見舞いにきてくれてしばらくいてくれることになった。


でも病は好転せずに医師の勧めでニーダーエスターライヒ、そしてバートキッシンゲンに保養に行く事になったの。


なんと温泉療法が聞いて体調はよくなったのよ。

パパ来てくれて、散歩したのよ。


この後、1862年7月ポッセンフォーヘン城に滞在したわ。


夫はウイーンに帰ってくると思っていたから残念だっていたわ。


久しぶりの実家で、嫁いだ妹達も城に集まった楽しいわ。


マリアとマチルダ!


でもマリアはお腹がぽっこり膨らんで妊婦の様な姿だった。

私は不思議に思ってマリアに聞いたの。何故って?

母からもマリアが妊娠したと報告がなかったから。

マリアは涙ぐみながら夫と夫婦生活はなくて不仲、ベルギー人の恋人が出来て、その間の子供だと明かしたの。

勿論夫には病気で実家で静養すると言って出て来たそうよ。

マリア~!私達は抱きしめ合った。


不幸な結婚から逃げられずに右往左往する姉妹。

マリアはイタリアの離宮で子供を産んだ後、その子を相手に預けたそうよ。

実母だと言わずに何度か会って、その子の葬式にも参列したって。



夫とはその後不倫を告白してなんとか夫婦仲はとりもてて長女にも恵まれたわ。

3カ月しか生きられなかったけど。


ポッシー館でも滞在は別れはあるもの。


パパが姉妹のおしゃべりとママの愚痴に堪忍袋が切れて私達を追い出したの!

夫にも説得されてウイーンに帰ったわ。

でもカールテオドールを連れてね。

不安だもの。


1862年8月14日の到着の時はとてもぎこちなかったわ。

なれていないもの。

初めてここに来た日の様だった。



ウイーンは私の病気併願を祝って祝賀パレードを開催してくれた。


私は感激のあまりウイーンでも精一杯元気な姿を見せる様に努力した。

王宮でもシェーンブルグ宮殿でも祝いは続き、そして夫との仲は修復していった。

2人で散歩、乗馬、好きな様に過ごした。

夫もご満悦の様子。


「シシッがまた傍にいてくれて、やっと長い不自由な生活が終わって家庭の幸福うぃもてるのは私にとってどんなに幸せなことでしょう。

 これほど良い雰囲気は久しくありませんでした。」


義母のバートイシュルにいて私の不安の元はないけれど。

子供達がライヒェナウだし、しばらくは夫と落ち着いた夫婦生活らしく穏やかに過ごしたわ。


そして一人で馬に乗って出かけても尾行する秘密警察にフランツを経由して止める様に命令してもらったわね。


そのうち夫も安心して義母のイシュルに行ったり、ウイーンではヘレーネが来てくれて私もライヒェナウ、パッサウ、バートキッシンゲンと絶え間なく出歩いた。


1864年2月オーストリア軍はプロイセンの口車に乗せられてデンマークの北ドイツ領に進軍していたの。

その負傷兵を見舞うという慰問を行う事になったの。

私は一人一人話を聞いて、出来るだけ真摯に向き合った。

彼らは無謀で貪欲なプロイセンに食い物にされて傷ついた者達。



私のウイーンでの様子を女官達は安心していたみたい。


「皇后は大変お顔色がよく、まったく別人の様で頬は薔薇色、お元気です。

 良く召し上がりますし、よくお休みになり、コルセットもきつく締める様になさいません。

 ちょっとよく歩かれます。」


「皇后は2年苦しみあげかれて今はお元気」としばらくの和合が私達家族に吹いた。


しばらくの間は公務を優先したわ。

ドイツの皇太子と皇太子妃の訪問の晩餐会にも出席したわ。


私ね。相手が私に好意的かそうでないかすぐにわかるのよ。

彼女は後者ね。だから積極的に社交する気もなかったの。

それに何か言っても批判されるから、どちらにしても批判されるなら口にしないのが一番。



宴会や舞踏会この時期は積極的に参加したわ。

体調が許す限りね。

そして宮廷儀礼には逆らったわ。

私が私でいる為の生活よ!


食事にビール!

バイエルン愛よ!


バートイシュル滞在中、突然それは私の耳に届いたの。


なんとルドルフの教育係が彼を虐待しているのだと!


私がそれを聞いたのはバートイシュルでの滞在だった。


彼は突然寝ているルドルフの耳元で銃を撃ち、森に一人置いてけぼりをして、冷たい水を彼にかけ、暴走する馬に彼を乗せ全速力で走らせたそうよ。

まだまだ書き足らないわ。


私はフランツに手紙を書いたわ。


「ゴルドングールが出て行くか私が出て行くか2つに1つです


…子供達の一切の事柄無制限に代理権が私に留保されている事…

一言でいうなら一切を子供達が成人するまで私が単独で決定する権利を持つ事を希望します

さらに私自身の事にも……自分一人で決定する権利が留保されている事を希望いたします」


バートイシュルにて

1865年8月27日



そして皇帝からその権利を勝ち取ったの。


新任の教育係はラトゥール大佐。


自由主義のリベラルな温和な人物利発な彼にはぴったりよ。

私の勝利。彼は成人後もルドルフだけでなくギーゼラの支えもしてくれた。


私が逝去した後も交流があったのよ。

ありがとうラトゥール。


そして私は強くなる。美しく。誰もが望む様に。



私はこの後に自由にウイーンを離れた。

条件は1つ定期的にと、祝典や家族行事には必ずウイーンに帰ってくること。


夫から義母からの勝利!


そしてキッシンゲンの保養。

かの地ではかいがいしく奉仕したわ。

盲目のメクレンブルグ侯爵と散歩したり、半身不随のイギリス紳士をお見舞いしたりしたわ。

でも時々精神的に疲れたのか?

また食べたくなくなってビールだけを飲んだりもしたわ。



時々晩餐会を持病の理由で欠席するけれど大切な時には臨席するわ。


デンマーク戦の勝利祝勝会がウイーンで行われた時はシェーンブルグ宮殿にドイツ皇帝が訪問していたの。

ちゃんと歓迎したわ。

でも途中でお腹が痛くなったの。

医師が言うには冷水風呂の後遺症、すぐにキツイコルセットと共にやめなさいって。

駄目よ止められないの。

美容はもう強迫観念になってしまったの。




その後ミュンヘンに行ってウイーンに帰り、1865年5月1日の環状通りの開通式に出席したわ。

7月の夏はバートイシュルに滞在して日帰りにザルクガンマーグートを観光したわ。







環境の変化でエリーザベト皇后は心身症に陥る。

現在は欝病や躁鬱病などの神経系の病気は精神科に分類されるが、19世紀当時はまだフロイトも登場せず、どちらかというと病気という概念はなかったに等しかった。

その事でエリーザベトはウイーン宮廷で誤解さえ非難された。


コルフ島に静養したエリーザベトは自信に満ちた自立した女性へと変貌した。

フランツヨーゼフ1世はロンバルディアを失い、僅かなイタリア内の領土の治安の安定化が急務となった。

その緩衝材としてエリーザベトをヴェネチアに送り子供達を迎える事で帝室の家庭的なイメージを固定化しようと考えたと思われる。

事実美しい皇后と幼い子供達は好意を持ってヴェネチア市民は受け入れられた。

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