第十三話
「やっぱり、字を教えて貰うかなぁ……」
順当に考えれば、それが正しいような気がした。
何しろ、字が分かれば、図書館に入り浸れるし、字を覚えることそれ自体が暇潰しに繋がるし。
「文字、か……」
ミーナが私の言葉を繰り返す。
私の癇癪で、折角用意してもらった画材を片付けさせてしまった彼女だけど、それでもそんな私に気を遣ってくれているのか、今はまたお茶を淹れている。そんなところも、私の気分を滅入らせるのだけど。
「文字なら、レヴィラト様に教えてもらった方が良いかも」
「……え?」
まさかの名前をミーナが口にして、驚いてしまった。
そちらを見れば、ミーナがゆったり微笑んでいる。
「レヴィラト様の教え方、丁寧でしょ? 魔族とかについて教えてもらいながら、そのついでに字も教えてもらったら良いんじゃないかな」
「………………」
そうだ、確かに、レヴィラトは教えるのが上手い。丁寧だし、分かりやすいし、その提案はとても魅力的だ。
でも、ミーナがそれを言うというのが、信じられなかった。
……いや、違う。
ミーナがそういうのは、そう、彼女とキツネがそういう関係なら、自然なのだろう。良く知った仲だから、教えてもらうなら彼の方が良いのでは、と。或いは、ひょっとするとあまり時間を共にできないレヴィラトと、一緒にいられる時間が増えるのでは、と。
信じられないんじゃなくて、複雑な気分になったんだ。
もやもやとした思いが、胸の内に広がる。
その提案は、例えミーナの意志がどこに有るにせよ、私にとっては願ったりかなったりだ。
けれどそれは、彼女の提案によるもので。
……もう、どうして私はこうなのだろう、下らないことで意地になって、本当に馬鹿みたいだ。
それが良い、と彼女に答えてしまえば良い。例え彼女とレヴィラトとの時間が増えるにせよ、それは私にとっても、同じことなのだし。
けれど、開いた口からは別の言葉が飛び出す。
「……レヴィラト様、忙しいでしょ」
望んだ言葉では無いけれど、口にした後は随分としっくり来る言葉だった。
そもそもにして、彼は魔王の側近だ。その上参謀役を兼任しているものだから、魔王ルートでは出会う機会が多くとも、他のルートでは、最後の裏切りシーンの周辺くらいでしか姿を見かけないというくらい、忙しい人物。
私に会いに来てくれる時は忙しそうになんて振る舞わないけど、それは彼の優しさだと思っている。
けれどミーナは首を振った。
「ううん、今はそうでもないよ。去年から勇者が現れてはいるけど、そのお蔭で魔族の心は魔王城に集まってるし、竜族とか他の勢力も、勇者を刺激したくなくて様子見してるから。だから、勇者の情報が入って来ない間は仕事が無いみたい」
どう? と淹れたてのお茶を差し出しながら、尋ねる彼女。
詳しいんだね、と思わず言いそうになった。
一拍遅れて「そっか、じゃあお願いしたいな」と言った私に、ミーナは不審に思った様子も無く、「うん!」と嬉しそうに頷いた。
この一週間を過ごした限りは、レヴィラトが部屋を訪ねてくるのは、日が暮れて2、3時間経ってからだった。多分いつも同じくらいの時間に来ているのだとは思うけれど、部屋に時計が無いせいで詳しい時間が分からない。
しかし、今日は日が沈んだ後、いつもの半分程の時間で部屋に現れた。ノックの有った扉をミーナが素早い動作で開けて、中にレヴィラトを招き入れる。
ベッドではなくソファで待っていた私と、開いた扉から入ったレヴィラトの目が合う。私を認めて、すぐに微笑みながら小さく頭を下げた彼に、緊張で背筋がぴんと伸びた。
明るい光の下で見る彼の青い服は、どうにもこの魔王城の紋章が刺繍された、一種の制服のような物らしかった。それも誰しもに支給される物ではなく、魔王様の側仕えというのと、そして参謀としての働きを鑑みられた、言わばレヴィラト専用の服。見る度見る度思っているのだけど、やっぱりこの時も、似合ってる、とそんな月並みな感想が浮かんだ。
柔らかな銀髪に覆われた穏やかな顔は、今日も今日とて嘘みたいな笑顔を貼り付けている。そして今日はいつもと違い、筆記具と一冊の本をその手に抱えていた。
ミーナが筆記具と本を預かり、それから私の向かいに座った彼は、しばらく体調に変化が無いかとか、気になることが無かったかとか、いつもの質問をした。いつも通りに上擦り気味の声でそれに答え終わると、レヴィラトは満足そうににっこり笑ってから、それから合図を出し、応えたミーナが荷物を机に並べた。
「字を習いたいそうですね」
一枚の紙が私の前に置かれ、その横に細くも確かな重さを持つ、先が針のように鋭いペンが並べて置かれた。
レヴィラトは本を広げてみせる。表のようにずらっと並んだ文字が見開きのページに、そしてそれ以降のページには、やや大きめの文字でどうにも解説らしい何かが書かれていた。
もう一度初めの見開きのページに戻ったレヴィラトは、その表の一番初めの文字を指差した。それから最後の文字までゆっくりと指でなぞっていく。
「我々が使っている文字は、人間が使っている物と、形や文法が少し異なります。とはいえ人間が使っている文字の方も習ったことが無いでしょうし、それは支障ないですよね?」
「……はい。多分、ちゃんと文字を見るのも初めてです」
綺麗に並んだ、記号たち。私達が前世で見た、或いは使っていた文字とは何だか雰囲気が異なっており、一文字一文字がどこか絵のように見える。この文字の上の方はあの文字の下と繋がりそうだし、こっちの文字はあっちの文字と重ねたらきっと素敵だな、と表を見ているだけでも楽しかった。キツネは文字を一つ一つ指し示しながら、言葉を続ける。
「初めてでしたら、少し多く感じてしまうかもしれませんね。我々が使う文字は、ここにあるように、全部で37文字です。それぞれが似ていたり複雑に見えるかも知れませんが、一つ一つ、ゆっくり覚えていきましょうね」
そう言って、最後の文字から指を放して、にっこりと微笑んだレヴィラト。ぶっちゃけ元日本語使用者としては、37文字をそこまで多くは感じないけれど、しかし一文字一文字が複雑に見えるのは確かだ。あ、でも似てるとは思わないですよ、それは大丈夫。ともかくも、眩しい笑顔に当てられながら、おずおずと頷く。
レヴィラトの教え方は、やっぱり丁寧だった。
この世界の文字は、どうにも表音文字らしい。まぁ、使う文字数を見るにそうだろうとは思っていたけど、けれどアルファベットのように文字同士の組み合わせで発音が決まる、ということは無いそうだ。一文字一文字がどう発音するのかきちんと決まっていて、ただ厄介なのが、一文字に複数の発音があり、それを文字の向きで判断する場合があるというところ。一文字目を左右反対に書くのですらとんでもない難易度でしたよええ。ただ幸いにして、全ての文字が複数の発音パターンを持っているわけじゃなく、何だったか……えっと、魔力的な云々で、文字にそれぞれ役割が有って、それでどの発音を当て嵌めるかが決まるそうだ。だから半分くらいの文字は一文字で一つの発音しかなくて、そしてたった三文字だけだけど、一文字で八つの発音を持つ文字も存在する。
まぁ発音の方は分かってるから、後はそれを文字に当て嵌めていくだけなのだけど。それでも、向きという大きな壁がある以上、先は長そうだった。まずは、表の初めの一行に書かれた四つの文字と、それから自分の名前に使われている文字を覚えることになる。
「そう、あ、そこが伸びすぎるとあまり良く有りません。隣にもう一度書いてみて下さい」
実際に書いてみると、驚くほど文字への注文が多かった。ただ形をそれの通りに書くだけでは駄目なようだ。横線が何本でここが丸まって、とかいう情報だけじゃなくて、どのくらいの長さで、どの辺に、どういった向きで伸びるとか、そういうのが大事らしい。何でこんなに厳しいんだ、これじゃまるで絵を描いてるみたいじゃないか。
どうにも納得できないでいると、レヴィラトが苦笑しながら表のページを離れて、とあるページの絵を見せてきた。
いや、絵じゃなくて、魔法陣か。何だか複雑な模様が描かれていて、でもどうして今これを見せるのだろうかと不思議に思い、首を捻る。
「あの、これは……?」
「よく見てみて下さい、ほら、こことか」
す、と魔法陣を彩る模様の片隅を指す。そこも矢張り模様の一部だ、けれどどうしてか、見覚え、が…………って!?
「う、嘘っ、これ全部が!?」
それは、つい今しがた私が書き取っていた文字だった。そしてそれは周り中に有るらしい他の文字と繋がっていて、気を付けなければ模様の一部にしか見えない。驚いて思わず本を手に取り、魔法陣の模様をもっとじっくり見る。
「はい」
レヴィラトの穏やかな相槌が聞こえたのと同時に、さっきから繰り返し書いていた文字をもう一つ見つけた。他にも、こっちは向きが変わっているけど一度で綺麗に書けた文字だし、こっちは私の名前の最後に使われる文字だ。
そうか、そうだ。
私があの文字の表を眺めて思ったこと、そのままだ。
文字を繋げて、重ねて、絵のように。
だからこそ、魔力的な意味も重要だし、そしてだからこそ、細かい形が大事になってくる。
「…………っすごい!」
とてもワクワクする。だって、そう、この並んだ美しい文字が描く一枚の魔法陣には、意味が有って、魔法が使えるのだ。それを、その文字を、私だって書けるのだ。
目を輝かせる私に微笑みを浮かべたレヴィラトは、穏やかな口調で私の書いた文字を指差した。こうして見ると、私の書いた文字は魔法陣のそれとは似ても似つかない。
「形を気にせずに書いてしまうと、こうやって並べた時に、どんどんずれていってしまいます。ですから、初めから完璧に書けるようにしてしまいましょう」
「はい!」
楽しい、思っていたより、考えていたよりもずっと楽しそうだ!
その後、私は随分と集中して文字を書いていった。
表と睨めっこをしながら、一つ一つの線の長さ、角度、丸の形を正しくなぞれるように。
繰り返し文字を書いていると、想像していたよりも案外あっさりと正しい長さで書けるようになる。勿論、レヴィラトの指摘が正しくて丁寧だというのが、とても大きいけれど。
今世で一番時間を短く感じたかもしれない。
今日習った文字を全て正しく書けるようになると、レヴィラトが私の名前を表す四文字を示してきた。
「これを繋げて、1つの絵のようにしてください。完成した形はどんな物でも構いません、それぞれの字の大きさも、感じたままに書いてください」
「並べる……」
あの魔法陣のように。胸の高揚と別に、少し気になって首を傾げた。
「えっと……字の大きさって?」
どう並べよう、と四つの文字を眺めながらそう尋ね返すと、レヴィラトは再びさっきの魔法陣のページを開く。
「ほら、こことここは同じ文字ですが、大きさが違うでしょう? 繋げて書くために、それぞれの文字の大きさを変えることもできるのです。完成した魔法陣に影響が何一つ無いとは言いませんが、それでも僅かなので、大きさが違っても問題が無いのです」
なるほど、絵として繋げるために、文字の大きさを微調整するのか。
四つの文字をしばらく眺めて、あちら、こちらと繋げはしたけど、実を言えば言われた時から「ここがこうで、あっちがこうで」と頭に浮かんでいた思いが有った。他にびびっと来るものが有れば、とも思ったのだけど、どうにも最初に浮かんだこれが一番しっくり来るようだ。
「決まりましたか?」
「……はい」
頷いて、緊張しながらも、白紙の真ん中に丁寧に書いて行く。
一つ目の文字を書いて、二つ目をそれと重ねるように、そして三つ目と四つ目をその斜め下へ、大きさを小さくして繋げていく。
「…………ほう」
「……綺麗」
僅かにもずれなかったかと言えば、勿論そんなことはなくて。けれど、ちゃんと繋がりあったその四文字は、想像していたよりもずっと絵になっていて。
感心したような声を出したレヴィラトと、静かに見守っていただけだったミーナが思わずといった風に洩らした声で、私の頬に一気に血が集まる。元々赤い頬だから、気付かれていないと良いけれど。しかし、その、自分でも綺麗だと思ってしまう物に、こういう反応を貰えると嬉しいもので。
リュリス、の文字で綴った、一輪の花。
すごく綺麗に見えて、すごく誇らしかった。




