第9話 10,000個への暴走
《淫獄》に初めて夜が来た。
天井の光が少しずつ赤みを帯び、やがて消えた。
完全な暗闇にはならない。壁と床が淡く光り、歩くのに困らない程度の明るさを残している。
俺たちは新しく作った寝室へ分かれた。
目を閉じても、すぐには眠れなかった。
次の召喚には10,000個必要だ。
所持数は3,600個。残りは6,400個。
数字を思い浮かべるたび、遠さではなく、誰が現れるのかという期待が膨らんだ。
◇
柔らかな光が、壁の上から差し込んできた。
朝だ。
窓も太陽もないのに、身体は朝が来たと分かっている。
共用区画へ出ると、エルネはすでに栽培床の前へしゃがみ込んでいた。
「朝から熱心だな」
「静かにしてください」
振り返りもしない。
昨日、土から顔を出したばかりの豆は、俺の膝近くまで伸びていた。細い茎には葉が開き、その隣では薬草も本葉を広げている。
「もうこんなに育ったのか」
「喜ぶのは、実がついてからです」
エルネは葉の裏を確認し、土を指で掘って湿り気を確かめる。
「根は腐っていません。葉の色も悪くない。ですが、この速さが正常なはずはありません」
エルネは伸びた茎を指先で支えた。手を離すと、細い茎が自分の重さでわずかに傾く。
「このまま伸びれば、自重で倒れます。今日中に支柱が必要です。それに、土の養分が成長へ追いつかなければ、見た目だけ大きくなって実をつけません」
「ここでは正常なんじゃないか?」
「異常が毎日続いたからといって、正常になるわけではありません」
相変わらず厳しい。
だが、芽が枯れずに育っているのは確かだ。
ミラも起きてきて、伸びた豆を見つけた。
「これ、食べられるようになるのかい?」
「順調なら。ただし、まだ花も咲いていません」
「肉がなくなる前に頼むよ」
ミラが袖で額を拭う。昨日の土と汗が染みついた服は、そのままだ。
俺も自分の服の匂いが気になっていた。
「先に、身体を洗えるようにしよう」
「やっと浴室ね」
後ろから来たリディアが、待っていたように木板を広げた。
◇
リディアが描いた浴室は、俺の想像よりずっと複雑だった。
脱衣区画、洗い場、浴槽、給水路、排水路、換気口。入口には扉があり、内側から閉められるようになっている。
「湯をためる箱だけじゃないのか?」
「少なくとも6人の女が毎日使うのよ。あんたも使うなら、なおさらでしょう。汚れた水を流せなければ、すぐ使えなくなる。服を脱ぐ場所も、湯気を逃がす場所も必要よ」
「これを、そのまま作ればいい」
図面を見ながら、完成した浴室を思い描く。
「《淫獄》。ここに浴室を作ってくれ」
何も起きなかった。
「でしょうね」
リディアがため息をつく。
「分かってたなら止めてくれ」
「自分で試さないと納得しないでしょう?」
そのとおりだった。
一度に全部は作れない。
畑を作ったときと同じように、今できることへ分ければいい。
「まず壁だ。身体を洗っているところが外から見えない部屋を作る」
灰色の床から壁が伸びた。
天井までは届かない。だが、人の背丈を十分に超え、外から中は見えなくなった。
「次は浴槽。水をためられる大きなくぼみ」
床の一部が沈み、長方形の浅い浴槽になる。
「その深さなら、肩までつかるには寝転がる必要があるわ」
「今の限界なんだろ。洗うだけなら使える」
「排水が先です」
アクアリアが浴槽の底へ少量の水を落とした。
水は流れず、そのままたまる。
「汚れた水だけを、外へ流してくれ」
反応はない。
まだ求め方が大きい。
「栓を抜いたときだけ、この浴槽の水を消してくれ」
底に丸い窪みが現れた。
リディアが拾った木片を当てると、水が消えなくなる。木片を外せば、渦を巻いて減っていった。
「どこへ消えたの?」
「分からない」
俺が答えると、エルネが浴槽の底をにらんだ。
「畑へ流れていないでしょうね」
全員で栽培床を確認したが、土の水分は変わっていなかった。
「少なくとも、ここには来てない」
「なら、ひとまず使えます」
次は脱衣区画を壁で分ける。入口には、内側から動かせる板を作った。
ファステが板を押し、外から開かないことを何度も確かめる。
「これなら、勝手に入れない?」
「俺にも開けられない」
「朝斗が命令しても?」
俺は扉へ手を当てた。
「開け」
動かない。
もう一度強く望んでも、内側から閉じられた板は動かなかった。
「大丈夫だ」
ファステの肩から力が抜ける。
彼女が安心できる扉を作りたいという俺の欲望に、《淫獄》は応えた。
俺の命令より、内側から閉じた住民の意思が優先される。
それも、俺が望んだとおりだった。
◇
アクアリアが浴槽へ水を満たした。
問題は、冷たいことだ。
「これだけの水を温め続けるとなると、相応の魔力が必要です」
「厨房の火で温めたらどうだい?」
ミラが木桶を指す。
「何度も運ぶのは大変よ。薪も使うし、火を浴室へ入れれば換気も必要になる」
リディアが却下した。
水はアクアリアが作れる。火はミラが扱える。
だが、毎日6人分の湯を用意すれば、食事や治療へ使う力が減る。
《淫獄》に湯を作らせるのは、今の限界を超えているかもしれない。
「熱くしなくていい」
浴槽へ手を入れる。
「最初に温めた水が、冷めないようにしてくれ」
何も表示されない。
ミラが厨房で小さな桶の水を温め、浴槽へ注いだ。
アクアリアが水を混ぜる。
しばらくしてから、もう一度手を入れた。
温かい。
さらに時間を置いても、温度は変わらなかった。
「できた」
「まだです」
アクアリアが水へ指を浸す。
「長時間このままなら、雑菌が増える可能性があります。使用するたびに水を入れ替えます」
「分かった」
「それと、男性は最後です」
「どうして?」
「女性が6人いるからです」
反論できなかった。
◇
最初に浴室へ入ったのはファステだった。
内側から板が閉じる音がする。
俺は共用区画で、栽培床の豆を見ていた。
見張る必要はない。入口は閉じているし、俺にも開けられない。
それでも、水の流れる音は壁を越えて届いた。
「温かい……」
小さな声まで聞こえる。
怪我をして、森を逃げ、灰色の床で眠っていたファステが、今は安全な場所で湯につかっている。
助けられたという満足と、壁の向こうにいる成人女性を意識する気持ちが混ざる。
俺は栽培床へ視線を固定した。
やがてファステが出てきた。
赤い髪は濡れ、頬は湯で赤くなっている。汚れた服を着直していたが、表情は今までより柔らかかった。
「ありがとう、朝斗」
「俺だけで作ったわけじゃない」
「でも、ここを作ろうと思ったのは朝斗でしょう?」
その言葉で、抑えていた欲望が強くなる。
アクアリア、ミラ、リディア、セリア、エルネも順番に浴室へ入った。
水音。湯気。浴室から出てくるたびに変わる髪の色と表情。
覗いてはいない。
全員が安心して使えるようにした。
だから、これは制御できている。
『《淫獄石》を1,800個獲得しました』
『所持《淫獄石》:5,400個』
「一気に増えたな」
思わず口にすると、セリアが濡れた短髪を布で拭きながら俺を見る。
「何が増えた?」
「《淫獄石》。今ので5,400個になった」
「今ので、というのが気になるが」
「必要数までは、あと4,600個だ」
「聞かなかったことにしておく」
◇
浴室ができれば問題は解決すると思っていた。
実際には、身体を洗った全員が昨日と同じ服を着ていた。
「服も洗わないと駄目だね」
ミラが自分の袖を嗅ぎ、顔をしかめる。
「洗っている間、何を着るの?」
ファステの一言で、全員が黙った。
替えの服はない。
炭焼き小屋から持ち帰った古い布と、荷物を包んでいた大きな布が数枚あるだけだ。
「順番に洗えばいい。待ってる間は、その布を巻く」
俺が提案すると、6人分の視線が集まった。
「朝斗は向こうを向いてな」
ミラに共用区画の反対側を指される。
「まだ何もしてないだろ」
「する前に言ってるんだよ」
リディアは浴室の隣へ、新しい線を引いた。
「ここを洗濯場にする。水をためる桶と、洗った服を干す場所が必要ね」
「灰があれば洗浄液を作れるよ。ただ、肌につくものだから、何でもいいわけじゃない」
ミラが言うと、エルネが保管していた灰を調べる。
「この木の灰なら使えます。濃くしすぎないでください」
アクアリアが水を出し、リディアが洗濯場の位置を決める。
俺は床へ手を向けた。
「洗った水をためて、栓を抜けば消える窪みを作ってくれ」
浴槽より小さな洗い場が形成された。
「次は乾かす場所だ」
「風を強くすれば、土が乾きすぎます」
エルネが栽培床をかばうように立つ。
「畑には当てない。昼の光と、今ある空気の流れを、ここだけに集めてくれ」
天井から差す光の一部が、物干し場へ傾いた。
細い布が揺れる。
煙を外へ逃がしていた空気の流れが、乾燥区画を通るようになったらしい。
「これなら乾かせる」
リディアがうなずいた。
それから俺は、共用区画の壁を見続けることになった。
背後では、衣服を水へ入れる音がする。
アクアリアが洗い、ミラが灰汁の量を調整し、エルネが布を傷めないよう注意する。セリアとファステが絞り、リディアが物干しへ掛けていく。
「絶対に振り返るなよ」
セリアから念を押された。
「分かってる」
見てはいけないと思うほど、背後を意識する。
全員が大きな布を身体へ巻いている。
直接見ていなくても、衣擦れや声だけで想像できてしまう。
6人分の衣服が並び、昼の光を受けて揺れている。
ここで一緒に暮らしているという事実が、急に形を持った気がした。
浴室を作った。
洗濯場も作った。
次の住民が来ても、汚れたまま過ごさせずに済む。
『《淫獄石》を2,100個獲得しました』
『所持《淫獄石》:7,500個』
「あと2,500個」
「朝斗。本当に壁を見ていた?」
ファステの声が近くで聞こえた。
「見てた」
「何か増えたみたいな顔をしてる」
「増えたけど、見てない」
「何が増えたの?」
「説明しにくい」
背後で、ミラが吹き出した。
◇
服が乾くまでの間、リディアは木板を壁へ掛けた。
「人数が増えたから、誰が何をするか決めたほうがいいわ」
炭で名前と仕事を書いていく。
アクアリアは水、浄化、治療。
ミラは調理と保存食。
リディアは設計と修繕。
セリアは偵察と警戒。
エルネは栽培と薬草。
俺は入口の管理、《淫獄》の拡張、召喚。
そこで炭を持つ手が止まった。
「ファステは?」
ファステが自分から尋ねた。
「怪我が治るまでは休む。それでいいでしょう」
リディアの言葉に、ファステはうつむいた。
「私だけ、何もできない」
「そんなことはない」
否定したが、続く言葉が出てこない。
ファステは戦えない。魔法も使えない。料理や設計、農業の専門家でもない。
「お前は、この辺りの言葉を知っている」
セリアが言った。
「町の習慣も、道も、追手の印も知っている。私は森を歩けるが、外の人間すべてを見分けられるわけではない」
「でも、外へ出たら迷惑をかけるかもしれない」
「だから私と行けばいい。戦うのは私の仕事だ。お前は知っていることを話せ」
ファステは胸元へ手を置いた。
「朝斗。外のことを調べるとき、私も手伝いたい」
「追手がいる」
「分かってる。1人では行かない。セリアと一緒に行く。それに、知っていることを今のうちに書き残したい」
「書くものも、まだない」
「炭と木の板ならある」
ファステは壁の役割表を見る。
「隠れて待っているだけでは、ここに残るか外へ出るかも選べない。だから、私は外のことを知る役がしたい」
外との接続地点を増やしたときに聞いた言葉と同じだった。
安全な《淫獄》にいればいいと言いたかった。
だが、俺は住民が自分で選べる場所を作りたかったはずだ。
「必ずセリアと一緒に行く。危険だと思ったら、すぐ戻る。それならいい」
「分かった」
ファステが笑った。
リディアが役割表へ書き足す。
ファステ――外界知識、記録、案内。
「これで全員ね」
壁へ並んだ7人分の名前を見る。
誰にも同じ役割はない。
水を作る者がいる。食事を作る者がいる。部屋を設計する者、外を調べる者、作物を育てる者、外界の知識を残す者がいる。
そして俺は、その全員が暮らす場所を広げ、新しい住民を呼べる。
召喚するたびに、できることが増えた。
次の1人が来れば、この役割表へ新しい仕事が加わる。
鍛冶師なら道具が作れる。裁縫師なら着替えを用意できる。治療師ならアクアリアの負担を減らせる。交渉のできる者なら、外の町ともつながれる。
誰が来ても、その力を使える場所がここにはある。
乾燥区画では、6人分の服が揺れている。
湯上がりの女性たちは布をまとい、それぞれの仕事について話している。
その輪の中へ、まだ姿の見えない次の住民が加わる光景を想像した。
次に来るのも、独立した意思を持つ成人女性だ。
どんな姿で、どんな声で、俺の前へ現れるのか。
湯上がりの6人が囲む輪へ、まだ知らない女性が加わる。
その瞬間を、早く見たかった。
欲しい。
次の1人が欲しい。
もっと役割を増やしたい。
もっと大きな王国にしたい。
胸の奥で膨らんだ欲望へ、《淫獄》が触れた。
もともと俺の中にあった熱が、ほんの少しだけ強くなる。
まだ見ぬ女性への興味と、召喚したいという衝動が、王国を広げたいという欲望へ絡みついた。
『《淫獄石》を2,500個獲得しました』
『所持《淫獄石》:10,000個』
表示を見たまま、しばらく動けなかった。
「貯まった」
「何が?」
リディアが聞く。
「10,000個。次の召喚に必要な分が、全部」
共用区画が静かになった。
「昨日、3,600個だったはずです」
アクアリアが確かめる。
「浴室で1,800個。洗濯で2,100個。今ので2,500個。合わせて10,000個だ」
「計算の話をしているのではありません」
「分かってる。でも、俺が何を望んだときに増えたのかは把握してる」
浴室を一度に作ろうとしたとき、《淫獄》は動かなかった。
床を沈め、排水を作り、水の温度を保つよう、順番に求めた。
洗濯場も乾燥区画も同じだ。
できないことを無理にさせたわけではない。
今ある限界を確かめ、俺が使い方を選んだ。
「速すぎる」
セリアが低い声で言う。
「速いけど、暴走してるわけじゃない」
「なぜ、そう言い切れる?」
「俺が止めようと思えば、召喚しなければいい」
召喚画面を開く。
『6回目通常《住民召喚》』
『必要《淫獄石》:10,000個』
『所持《淫獄石》:10,000個』
『実行可能』
止めることはできる。
実行するかどうかを決めるのは俺だ。
だから、制御できている。
10,000個は、昨日までなら途方もない数字だった。
今は、使える石だ。
「必要数が増えただけで、今までと何も変わらない」
俺は、6回目の召喚へ手を伸ばした。




